第三回
  
2001年12月7日(金)午後7:30時開演
abc会館ホール
二人会へ拍手
青木鈴慕
 今を去ること33年前、グループ”遠音”の公演の賛助をさせてもらった時に、芦垣さん(旧姓
田島さん)と「残月」を、お筝とサシで吹かせていただきました。調弦のきれいさ、そして歌
のスケールの大きさ、すばらしい声量に感服しながら、秘かに消防自動車と渾名しつつも、
それほどの声量に感服しておりました。その後も、瞬時もたゆみなく努力精進を続けられ、
ひとつの境地を作り上げられました。
 柳井さんのお師匠さんである小橋幹子先生は、私のこよなく尊敬する大事な先生です。
半世紀近く前、私が18才位の頃に、古典の中から生えて来た尺八の者達が集って、新曲研究
会をやっておりました。それに関連して、小橋先生のお芸に接することが出来たことは、私
にとってすばらしい幸運でありました。爾来、小橋先生を師と仰いで尺八を吹いてまいり
ました。その小橋大明神が目の中に入れても痛くない愛弟子が柳井さんです。小橋流の
筝曲仕込みの”清流一途”の芸です。楽しみにしています。    (尺八演奏家 人間国宝)
ごあいさつ
                        ににんかい
 本日は、御多忙の中、「二人会」にお運びいただき誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
皆様の温かい御支援の御陰をもちまして、「二人会」も第三回を迎える事ができました。
 私は近頃、古典というのの偉大さを今更のように強く感じております。弾いていても弾
いても飽きないばかりか、毎日何かしら啓示を受けます。その内容は、人生であったり、
音楽であったり、文学であったりします。私の心の中で、古典は間違いなく、おもしろいも
のであり、格好のよいものなのですが、それを皆様にお伝え出来るのは並大抵のことでは
叶いません。毎日の練習で、そのことに一歩でもチ近づくべく、懸命に努力してまいりました。
 どうぞ、皆様の厳しい御指導、御鞭撻をお願い申し上げます。
曲 目
黒 髪
(作曲 湖出市十郎 /作詞 不詳) 三絃 柳井 美加奈
秋風の曲
(作曲 光崎検校 /作詞 蒔田雲所 芦垣 美穂
七小町 柳井 美加奈
(作曲 光崎検校 筝手付八重検校 /作詞 船坂三枝) 三絃 芦垣 美穂
曲目解説
黒 髪
黒髪の、むすばれたる思いをば(合)とけてねた夜の枕こそ、ひとり寝る夜のあだまくら(合)
袖はかたしく、つまじゃと云うて(合)愚痴な女子の心としらで、しんと更けたる鐘の声(合)
ゆうべの夢の今調さめて、ゆかし懐かしやるせなや、積ると知らで積る白雪。

 十八世紀中頃からは、芝居の流行とともに、芝居歌や、はやり歌などとして、現在の地唄端唄ものが形
作られていきました。湖出市十郎は、江戸の長唄の唄方の名手として、独吟を得意としていました。
1779年大阪に出向き、1784年には「黒髪」を作曲、初演し、上方の劇場音楽に江戸長唄の影響をおとしまし
た。この後、大阪では文人の作詞活動が盛んになるとともに、峰崎勾当らの名作曲家が出て、端唄物の芸
術性は高められていったのです。
 私の三絃における思いの原点がここにあります。黒髪は、地唄の入門曲として扱われてはいますが、
三絃の素朴な旋律と、感情の盛り上がりを堪える歌は、音楽の最も基本的な部分を捉らえていて、私も幾
度と無く演奏してまいりました。昔、地域やジャンルを越えて作り上げられた「黒髪」は、今、過去と現在
を通り抜けて生きつづけていく名曲の一つであると思います。               (柳井美加奈)

秋風の曲
 一 もとむれど 得がたきは 色になむありける さりとては 楊家の女こそ 妙なるものぞかし
 ニ 雲のびんずら 花の顔 げに海棠の眠りとや 大君のはなれもやらで 眺めあかしぬ
 三 翠の華の 行きつもどりつ いかにせむ 今日九重にひきかえて 旅寝の空の秋風
 四 霓裳羽衣の仙楽も 馬嵬の夕べに 蹄の塵を吹く 風の音のみのこる悲しさ
 五 西の宮 南の苑は 秋草の露しげく おつる木の葉のきざはしに つもれど誰か掃はむ
 六 鴛鴦の瓦は 霜の花にほふらし 翡翠の衾独り着て などか夢を結ばむ

 歌詞の内容は、唐の玄宗皇帝の御代、安禄山の反乱の為に、馬嵬に於いて楊貴妃が自害させられ、皇帝が
 悲嘆に暮れるという悲劇を詠った、白楽天の「長恨歌」の自由訳です。この曲は、筝のルネッサンスと稱さ
 れる光崎検校の筝曲復古主義に基づき作曲されました。
この復古主義の精神は以降、名古屋の吉沢検校
 に引き継がれていったという、画期的な曲と申せましょう。構成は、六段になる段物形式の前弾に続き、
 六歌の、いわゆる組歌の形式による、歌の部分とで出来ています。
  この曲の思い出は、私が芸大の四年の時、さあ卒業演奏に何を弾こうかという時、只単に好きな曲とい
 うことで「水の変態」か尾上の松」にしたいと、宮城喜代子先生に申し上げた所、”あなたがそんな曲を弾
 いても仕方がない、あなたには組が似合う”という一言。その時は、先生の深いお考えに思いが至らず、
 私の手が下手なのかと思い込んで居ました。それでも一年間「秋風の曲」に取り組んでいく内、私の中
 に古典への情熱が息づいていることに目覚めさせられたのです。時は現代邦楽全盛期、誰も彼も現邦の世界
 に進む中、古典への道をこれからも歩んで行こうと決意を固められたのも、この「秋風の曲」のお蔭でした。
 また、そんな本質を見抜き、この曲に出会わせて下さった、先生の心眼に只々畏敬の念を深くし、その思い
 と共に今日まで大事にして参った曲です。                              
(芦垣美穂)
七小町
 蒔かなくに何を種とて浮き草の、波のうねうね生いしげるらん(合)草紙ひも名にしおふ、その深草の
 少将が百夜通ひもことわりや、日の本なればてりもせめ、さりとてはまた雨が下とは、下ゆく水のあふ
 さかの庵へ心関寺の、うちも卒塔婆も袖褄を、引く手あまたの昔は小野(合)今は恥し市原野(合)古蹟も
 清き(合)清水の、大悲の誓ひ(合)かがやきて(手事)くもりなき世に雲の上ありし(合)昔にかはらねど、
 見し玉だれの内やゆかしき、うちぞゆかしき。

平安時代に、紫式部、清祥納言など世界史的にも稀といえる女流文学を開花させた天才達に先立って、
小野小町(承和・貞観834-877の頃活躍)は歌人としてその天分を発揮した。残された和歌は、諸勅撰集に
66首、小町集には、110余首を収めているが、他人の作も混入しているとみられ、また、絶世の美女といわれ
ているが、その生没年は不詳であり、綾の名前も諸説あるという、まさに霧に包まれた存在である。古今
集仮名序には、「あはれなるやうにて、強からず、いはば女の悩めるところにあるに似たり」と評された
彼女を、後世、五百年、千年を経て降り返ったとき、小町に彫れ込んだ人達の小町に対する思いはいかであ
ろうか。室町時代の十四世紀〜十五世紀にかけて、観阿弥、世阿弥等が現れると、小町の不幸な生涯を終え
た、という憶測から様々な伝説が付会され、いくつもの能が作られた。それらは、清涼殿の歌合せの陰謀
と和解(草紙洗小町)、小町のもとへ百夜通って恋を成就しようとする少将の苦行と果たせずに悶死した
後の妄執のすさまじさ(通小町)、この霊を解き払う話(関寺小町、卒塔婆小町)、老いて零落の身の、帝との
歌のやり取り(鸚鵡小町)等であるが、いづれも、渋さの内に清らかな悟りがあり、老女の舞が昔を今にし
のばせている。江戸末期、十九世紀になってから、船坂三枝が、この謡曲から
草紙洗、通、雨乞、関寺、卒塔
婆、清水、鸚鵡、という順で七つの小町を取り上げ、短く綴り合わせ、和歌も挿入して歌詞としている。
これが、七小町と言われるゆえんである。光崎検校は、筝曲の復興者として有名だが、このような京流手
事物の大曲も多くある。                                        
(守山偕子)

プロフィール
芦垣 美穂
1947年 愛知県一宮市に生る。3歳より筝の手ほどきを受ける。
1957年 田村味智歌に師事三弦を始める。
1959年 全国邦楽コンクール三曲児童部第1位入賞。
1965年 東京芸術大学入学。宮城喜代子・小橋幹子・上木康江に師事。
      在学中NHKオーディション合格。宮城賞、安宅賞受賞

1969年 東京芸術大学卒業同大学院入学。皇帝内桃華楽堂にて御前演奏。
1970年 筝ぐるーふ《遠音》を結成、いらい回の演奏会を開催。
1971年 東京芸術大学大学院卒業。宮城会コンクール第1位入賞。
1974年 第1回リサイタル(以後16回開催)。
1975年 移動音楽鑑賞教室活動会誌5年迄に300余校巡演。
1979年 パンムジークフェスティヴァルに於てJML賞受賞。
1980年〜東京芸術大学講師を勤める。
1998年 東京都の助成によりネパールにて公演を行う。
      スウェーデン国営放送の紹聘により公開録音並びに演奏会を開催。
1999年 国際交流基金により、シンガポール、ミャンマー、マレーシア3カ国公演に参加。
2000年 旧東ドイツ、スイス(チューリッヒ・ジュネーヴ)にて公演。
      芸歴50周年記念筝三絃リサイタルを東京・名古屋にて開催。

宮城会直門大師範 森の会会員 東京芸術大学講師 一穂会主宰
現在、「NHK邦楽百番」「邦楽のひととき」等放送・レコード録音多数。
全古典教材ライブラリー収録発表中。この間、人間国宝菊原初子師に師事。
筝組歌・三味線組歌全81曲を習得、両巻を賜る。
《芦垣美穂筝曲研究所》
〒164-0001 中野区中野5ー43−6
柳井 美加奈
Profile(芸歴) を参照