マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争
アルシーノフ
(注)、アルシーノフの訳書は2つある。(1)『マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争』(鹿砦社、1973年、原著1923年、絶版)と、(2)『マフノ運動史、1918〜1921、ウクライナの反乱・革命の死と希望』(社会評論社、2003年)である。このファイルは、絶版になった著書から、下記〔目次〕を抜粋した。
全体は、13章・330頁からなる。そこから、〔目次〕にあるヴォーリン序の一部抜粋と3つの章の全文抜粋をした。抜粋の基準は、マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係に関するテーマにした。ボリシェヴィキ政権側からの3回の攻撃よりも以前の情勢・問題については、ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』にかなり載せた。よって、アルシーノフ著書からの転載は、3回の攻撃のみにする。省略した章の題名は、それらの間に記入した。マフノ運動の性質と位置づけは、〔資料編〕に載せた。ただ、各章が長く、さまざまなテーマを含んでいる。インターネット画面では読みづらい。絶版なので、私(宮地)の判断により、各章に小見出し・各色太字・(番号)を付けた。
〔目次〕
ヴォーリン序−アルシーノフの経歴 (一部抜粋)
6、マフノ叛乱軍−その2−ボリシェヴィキ、グリャイ=ポーレを襲う (全文)
8、叛乱軍の誤算−ボリシェヴィキ再び解放区を襲う (全文)
9、反ウランゲリ統一戦線とその後−ボリシェヴィキの3度目攻撃、叛乱軍潰滅 (全文)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕
第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始
ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年
梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇
20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文
ウィキペディア『ウクライナの歴史』
大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
ヴォーリン序−アルシーノフの経歴 (抜粋)
ところで、マフノ運動史の最初の記録者としての任務がひとりの労働者に与えられたことは意味深いことである。これは単なる偶然ではない。この運動は、その全過程に於いて、理念上も組織的な点でも、労働者農民が直接に意見を反映させ得るこういう勢力にしっかりと支えられていた。いわゆる知的な、理論的に訓練された分子はこの運動には欠けていた。労働者農民は全ての時期にわたって己れの自由意志で運動を運営していた。そうしながら彼らは、自分たちのただ中から、運動を論理的に意味立て、検討する最初の歴史家を生み出した。
著者ピョートル・アンドレーヴィチ・アルシーノフは、エカチェリノスラフ県出身の工場労働者の息子であり、自身も労働者で本職は金具工だが、鉄のような勤勉さで確かな教養を身につけてもいた。一九〇四年、彼は十七才で革命運動に加わり、一九〇五年には中央アジアのキージル=アルヴァートで鉄道工場の金具工をして働きながら、ボリシェヴィキの地区組織の一員となった。間もなく、彼は組織の中で積極的に頭角をあらわし、指導者の一人としてまた非合法の革命的な労働者の機関誌「モーロト」(鉄槌)編集者の一員として活躍するようになった。このパンフレットは中央アジアの鉄道沿線を舞台にして、鉄道労働者の革命の動向に大きな意味をもっていた。やがてアルシーノフは地区警察に追われ、一九〇六年に中央アジアを去って、ウクライナのエカチェリノスラフに帰り、ここでアナーキストのグループに加わって、以後エカチェリノスラフの労働者の中で(主にショドゥアルの諸工場に於いて)アナーキストとしての革命の仕事を継続する。
マフノの方はアルシーノフの南部での活躍について既に聞き及んでいた。獄中での共同生活に於ける彼らの間柄は同志愛に満ちたものだった。そして二人は、一九一七年三月はじめ、革命の勃発によって釈放された。
マフノは革命の仕事のためにウクライナの郷里グリャイ=ポーレに向かい、アルシーノフはモスクワに留まって、アナーキスト・グループのモスクワ地区連合の活動にエネルギッシュに参画した。一九一八年の夏、ドイツ・オーストリア軍のウクライナ占領後、事態を同志たちと協議するためにマフノが暫くの間、モスクワを訪れた際、彼はアルシーノフのもとに逗留した。この時彼らはますます親しく打ち解け合い、革命のことどもについて、あるいはアナーキズムの問題について活発に論じ合った。やがて三、四週間ののちマフノがウクライナへ取って返す時に、彼はアルシーノフと絶えず互に連絡を保つことを申し合わせた。
マフノはまた、モスクワを忘れないことを、そして時宜に応じた運動資金の援助を約束し、更に彼らは機関誌発行の必要性についても話し合った。……マフノは約束を守った。彼はモスクワへ資金を送り(それはアルシーノフの手には届かなかったが)そして繰り返し手紙を書いてウクライナへ来るように勧めた。マフノは、アルシーノフを待っていたが、アルシーノフがいっこうに来ようとしないことに憤慨したりもした。暫くして、突如マフノの名は、堂々たるパルチザンの指揮者として新聞という新聞に書き立てられた。
やがて、一九一九年四月、まさにマフノ運動の端緒に、アルシーノフはグリャイ=ポーレに駆けつける。そして彼はそれ以来、一九二一年の解放区の潰滅に至るまで、ほとんどずっとマフノ運動区に留まることになる。彼は解放区で主に人民に対する啓蒙活動を行ない、組織内の様々な仕事にも携わった。
マフノ運動解放区の中心地グリャイ=ポーレは、ドニエプル河の
東で、地図のサボリジジャとベルジャンスクの中間に位置する
その間、彼は文化及び情宣部門の指導者であり、また叛乱軍報「プーチ・ク・スヴォボーヂェ」(自由への道)等の編集者でもあった。一九二〇年の夏、ようやく運動の凋落にあたって彼は解放区を離れたが、この時刊行に備えて貯えられていた運動史の草稿が失われた。暫くしてのち、やっとの思いで全ての敵に(白軍にも赤軍にも)包囲された解放区へ戻った彼は、それから一九二一年のはじめまでここに留まる。
一九二一年のはじめ、ソヴェート政府が第三回目の、マフノの運動に対する恐るべき殲滅戦を挑んできた時、アルシーノフはある重大な任務を帯びて遂にこの地域を去った。そしていうまでもなくその任務とは、マフノ運動の歴史を書き上げることにほかならなかったのだが、彼はそれを信じ難いほど困難な生活条件のもとで、一部は既にウクライナ時代に、また一部はモスクワで続行し、幸運にも今回こそ果たすことができた。
このようなわけで、本書の著者こそマフノ運動について語るにはもっともふさわしい人物である。彼はネストル・マフノを運動がはじまるはるか以前から知っていて、運動のさ中にも彼を最も近くから、しかも非常に幾通りもの場面で観察することができた。その上この運動に加わった他のすぐれたメンバーたちとも軒並みに知友なのである。アルシーノフは自ら積極的に運動に関与し、自らその栄光と悲惨を生き抜いた。それゆえマフノ主義の運動に於ける内奥の本質と、理念的組織的な目論見、その固有の願望が、ほかの誰にも増して彼には瞭然としていた。彼は、運動をあらゆる側面から包囲している幾多の敵との巨大な闘争をつぶさに目撃した。
1、人民とボリシェヴィキ (省略)
2、大ロシアとウクライナの十月 (省略)
3、蜂起するウクライナマフノ (省略)
4、ヘトマその没落−ペトリューラ党、ボリシェヴィキ (省略)
5、マフノ叛乱軍−その1 (省略)
省略した4、5の内容については、ヴォーリン著書にある。
ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年
6、マフノ叛乱軍−その2−ボリシェヴィキ、グリャイ=ポーレを襲う (全文)
〔小目次〕
9、ヂェニキン軍総攻撃による赤軍のウクライナ撤収→マフノ復帰
1、グリゴーリエフ反乱をめぐる赤軍指令とマフノ軍の見解
一九一九年五月十二日、グリャイ=ポーレの叛乱軍=「第三旅団(ウクライナ革命叛乱軍)」司令部は次のような電報を受け取った。
グリャイ=ポーレ、バチコ・マフノ宛て。
叛徒グリゴーリエフは味方の戦線を裏切った。彼は軍令を遵守せず、われわれに銃口を向けた。いまこそ決断の時である。戦うか、あるいは敵に組みして前線を解くか。択一のほか方途はない。即刻部隊を移動せしめ、グリゴーリエフに宣戦せよ。而してハリコフ宛て本官に通報されたい。返答なき時は貴下がわが軍に宣戦されたものと見なす。本官は貴下をはじめアルシーノフ、ヴェレチェリニコフ等各位の革命的信義に信頼する。
カーメネフ No.二七七
革命軍事監督官 ロビエ
ただちに地方革命軍事評議会代表者会議は右の電報とこの事件そのものを審議し、以下のような見解に達した。砕いていえばこうである−
グリゴーリエフは、かつてのツァーリの士官であり、ヘトマン傀儡政権の潰滅直前にペトリューラ軍に走って叛乱農民の大部隊を率いた。だがペトリューラ政府がプロレタリアートに守られたブルジョア「自由主義」という階級的矛盾によって解体し始めると、グリゴーリエフは折しも大ロシアから進出してきたボリシェヴィキに、部隊ごとそっくり乗り換えてペトリューラ軍に敵対した。その際、彼と彼の部隊は、ボリシェヴィキに対して、一定程度の自律性と行動の自由を保持し得ていた。やがてヘルソン県でのペトリューラ軍の武装解除にあたって、グリゴーリエフは重要な役割を果たし、オデッサを占領した。以後彼はこんにちまでベッサラビア方面の前線を担当してきた。
グリゴーリエフの叛乱軍は、組織の上でも、また殊に思想的にも、マフノ叛乱軍に較べて著しく未熟である。その上この部隊はどんどん発展してゆくというのではなくて、ずっと最初のままの状態を保っていようとしてきた。ウクライナが総叛乱の様相を望し始めてからようやくここにも革命の精神が吹き込まれたが、それでも隊内や隊の母体である農民の中には、マフノ軍に見られるような創造的な歴史的課題やスローガンは何ひとつなかった。巨大な革命的高揚に直面しながら、残念にも彼らは社会に対する確固たる展望をもち得ず、それゆえにまず(1)ペトリューラの、次いで(2)グリゴーリエフの、そしてやがて(3)ボリシェヴィキの影響下に無原則になだれ込んでいったと考えられる。
グリゴーリエフ自身は革命家でも何でもない。ペトリューラのもとにあった時も、またのちに赤軍の戦列に連なってからも、彼のあり方はむしろ投機家のそれといっていい。グリゴーリエフは基本的には一介の武人であり、ロシア革命はまずもってそのようなタイプの人間に何らかの役割を果たす場を提供していた。彼の精神の位相は複雑多岐である。たしかに彼には、屈従にあえいできた農民階級にはげしい共感をたぎらせる側面も見出されたが、そうかと思えば貪欲な権力欲もあり無法な略奪者の側面もあった。彼はまたナショナリストであって反ユダヤ主義を信奉してもいた。
ところで、何がグリゴーリエフをしてボリシェヴィキに弓を引かせたかといえば(これはマフノ叛乱軍としての正式見解ではないが)、党に従属しきらない彼の部隊を解体するために、ボリシェヴィキの側から彼を挑発したのだというのがまずまず妥当なところだろう。なるほど、グリゴーリエフの率いるパルチザンは、マフノ叛乱軍のように独自の革命を目指すものではないが、それでもその形態と内容は、ボリシェヴィキの理念に沿うものではなかったはずである。ともあれ、この時点に於けるグリゴーリエフのボリシェヴィキに対する背反は、けっして革命的なものではなく、単なる軍事的政治的な対応としか考えられない。
これはマフノ主義者のもっとも嫌悪するところである。そしてこのことは、人民のあいだに民族的な不和しかもたらさないような類いの「総括」をグリゴーリエフが発表したことによってなによりも明らかとなった。ただ、マフノ主義者として斟酌すべき唯一の点は、グリゴーリエフの傘下にも欺かれて政治的な冒険に走った数知れない蜂起の人民が存在しているということである――
2、マフノ叛乱軍司令部の指令とカーメネフにたいする返信
以上のような内容の見解にのっとって、マフノ叛乱軍司令部はただちに前線に指令を飛ばした。
マリウポリ・マフノ叛乱軍野戦司令部発、各分遣隊指揮官宛て。ハリコフ、国防会議臨時全権代表カーメネフ宛て、写し。
前線の更なる強化と死守が求められている。いかなる場合にも革命軍の前線を手薄にすることは許されない。われわれは、革命の栄誉と尊厳に於いて革命と人民に忠実であらねばならず、権力をめぐるグリゴーリエフとボリシェヴィキの抗争にかまけて戦線を緩和してはならない。白軍は防衛線の弱点をついて侵攻を企て、再び人民に隷属を強いるだろう。白色ドン地方からする敵の浸透を撃退し、闘い取った自由を真に保証するまで、われわれは断固前線に留まり、権力や政略のためにではなく、ひたすら人民の自由の名に於いて奮戦せねばならない。
旅団司令官 バチコ・マフノ
司令部幕僚一同 (署名)
同時にマフノ叛乱軍司令部は、カーメネフに返信を打った。
マリウポリ・マフノ軍野戦司令部写し、ハリコフ・国防会議臨時全権代表ユリ・カーメネフ殿。
貴下及びローシチンのグリゴーリエフについての通達に接して、本官はただちに事態を検討し結論に達した。前線は忠実に維持されねばならない。解放区は、ヂェニキンら反革命の徒に一歩たりとも譲り渡されてはならず、ロシアと全世界の人民に対する革命の任務は堅持されねばならない。よって当方は貴下に、われわれが労働者農民の革命にこそ変わらぬ忠誠を誓うものであり、人民に専横をもって臨む貴下の人民委員会やチェーカーに従うものではないことを表明せねばならない。もしグリゴーリエフが戦線から脱落し、権力を掌中にするために撤収したのだとすれば、それは犯罪的な暴挙であり革命に対する裏切りである。このことについては、わが軍各部隊に能う限り広汎に通告するつもりである。だが現在、本官はグリゴーリエフとその部隊に関する詳細な資料を入手していない。
彼が何を企て、どういう目標をもって行動しているかを、本官は未だ察知し得ない。よって当方は、更に詳しい情報を得るまで彼に宣戦することを差し控えようと思う。われわれは、革命を志すアナーキストとして、グリゴーリエフであれ誰であれ権力をほしいままにしようと図る者を支持することはない旨、いま一度確言しておかねばならない。以前同様現在も、本官は蜂起せる同志人民とともに、ヂェニキン反革命軍の脅威を追い、全権を掌握している労働者農民の連帯をもって解放区を防衛せんとするものである。それゆえ、党の独裁的圧力をもって、アナーキストの同盟とプロパガンダに敵対する貴下の人民委員会の如き強制機関は、必定われわれの頑強な抵抗に遭遇するであろう。
旅団司令官 バチコ・マフノ
司令部幕僚一同 (署名)
情宣局長 アルシーノフ
時を移さず、マフノ叛乱軍司令部と地方革命軍事評議会の代表者から成る臨時委員会が、グリゴーリエフの作戦地区に派遣された。任務は、叛乱農民の前にグリゴーリエフの正体をあばき、改めてマフノ主義の旗のもとに結集するよう呼びかけることであった。
一方グリゴーリエフは、その間アレクサンドリア、ズナメンカ、エリサヴェトグラートを占領し、エカチェリノスラフに迫って、ハリコフのボリシェヴィキに少なからぬ脅威を与えていた。ボリシェヴィキは不安のうちにグリャイ=ポーレを注視してい、グリャイ=ポーレについてのあらゆる風評やマフノの全ての電報が貪るように集められて機関紙に掲載された。このような不安は、いうまでもなくソヴェート政府官僚の無知から生じたものにほかならない。彼らは、革命的アナーキスト=マフノがグリゴーリエフと相携えて、突如としてボリシェヴィキに襲いかかってくるものと考えていた。
だがマフノ主義とその運動は終始原則にのっとった態度を崩してこなかった。彼らには、革命の大義と権力なき人民共同体への節操が常に至上の名分だった。だからマフノ主義者は、ただ自らもボリシェヴィキに対抗しているという理由だけから、任意の反ボリシェヴィキ陣営と適合するようなことはしなかった。それどころか、マフノ主義者にとってもグリゴーリエフのような投機的行動は、人民の自由に対する新たな脅威としか考えられず、彼らとてボリシェヴィキ同様、そのような行動には敵対しようとしていた。
事実マフノ主義者は、叛乱の全過程を通じていかなる反ボリシェヴィキ運動とも手を組むことなく、ひたすら単独に、傷つきながらもひるむことなく、(1)ボリシェヴィキにも、(2)ペトリューラ党にも、(3)グリゴーリエフや、(4)ヂェニキン、更には(5)ヴランゲリにも戦闘を挑んでいった。彼らから見れば、結局これらの運動は全て、人民を従え収奪する少数の強権的なグループの利害へと還元されてしまう性格のものだったからである。それで、(6)左翼社会革命党(エス・エル)からの反ボリシェヴィキ統一戦線の申し入れですら彼らは拒否した。左翼エス・エルといえども、一個の政治党派としてボリシェヴィキと変わるところはなく、やはり社会民主主義者のひとつの流派による人民に対する支配をもたらすも。というのがその理由だった。
ところでグリゴーリエフ自身は、この叛乱行動の中で数度にわたってマフノとの同盟をもくろんだ。彼のグリャイ=ポーレ宛ての度重なる電報は結局一度しか目的地に着かなかったが、その中で彼は「親愛なるバチコよ! 共産主義者からきみは何を期待するか? 彼らを殲滅せよ!」と呼びかけている。もちろんこの呼びかけは無視され、その上数日後、彼はマフノ叛乱軍司令部の最終的な断定に接しねばならなかった。以下のアピールがそれである。
3、マフノ叛乱軍のアピール「グリゴーリエフとは何者か?」
働く兄弟たち! われわれは一年このかた、生死を賭けて、(1)ドイツ・オーストリア軍の侵攻に抗戦し、(2)ヘトマンと戦い、(3)ペトリューラと戦い、いまや(4)ヂェニキンを前に決起しているが、その過程でわれわれは常に戦いの意義を明確にし、蜂起の最初から、人民の解放は人民自身の任務であると確信してきた。そしてわれわれはうちつづく戦闘の中で、幾多の重要な勝利を獲得してきた。われわれはドイツ・オーストリア軍を駆逐し、ヘトマンを潰滅させた。またわれわれは、ペトリューラの小ブルジョア国家に根を張る暇も与えず、われわれ自身の手で解放した大地に建設の鍬をふるった。
しかも、そうしながらわれわれは、広汎な人民大衆に、身辺の全ての情勢に注目するよう呼びかけてきた。権力を独占し人々を服従させようと機会を待ちうけている盗賊どもが到る処に跳梁しているからである。そして、見るがいい、まさにいまわれわれの目の前にもグリゴーリエフという名の新しい盗賊が立っているではないか! 彼は、困窮し疲弊し屈従にあえぐ人々に鼻歌など歌って聞かせながら、実は収穫と権利を掠めとり貧困と圧制を肥大させる、あの滅んでいった受苦の世の中を再び現在に蘇えらせようとしている。ここで、このグリゴーリエフについて少しばかり説明を加えておこうと思う。
グリゴーリエフは、かつてのツァーリの士官である。ウクライナに革命が始まった頃、彼はペトリューラの配下にあってソヴェート政府と戦っていたが、やがてソヴェート政府の側に寝返った。そしていま、彼はソヴェート政府に対してばかりでなく革命総体に敵対して挙兵している。
グリゴーリエフの言葉を思い起こしてみ給え! 「総括」の冒頭に彼はこう述べている。「ウクライナはキリストを十字架にかけた者どもと《大喰いのモスクワ》からやって来た略奪者に支配されている」と−
兄弟たち! 諸君はこの中に恐るべきユダヤ人虐殺(ポグロム)の宣言を聞かないだろうか? 同時にまた、革命ウクライナと革命ロシアの、生気と友愛に満ちた連帯を引き裂こうとする彼の底意を感じないだろうか? たしかにグリゴーリエフは節くれ立ったわれわれの拳と労働する人民の崇高についても語ってはいるが、そんなことに欺かれてはならない。こんにち、いったい誰が労働の神聖と人民の福利に触れないでいられるだろうか。われわれと、われわれの土地を脅かす白軍でさえも、人民のために戦っていると公言している。だがわれわれは、そういう彼らがひとたび人々を掌握した時、果たしていかなる福利が人々に与えられることになるのかも充分に承知している。
グリゴーリエフはまた、自分は真のソヴェート権力を樹立するために、ボリシェヴィキの人民委員と戦っているのだと言っている。しかし彼は同じ「総括」の中で「本官は諸君を領導する。諸君は本官の命に従い、諸君の人民委員を選出すべきである」と語り、更につづけて、彼が(殊勝にも)流血を嫌っていること、それゆえ動員はかけるが、ハリコフ及びキーエフへ使者をたてて流血を避けるつもりでいると表明し、そうして「本官は諸君がただ一途に本官の命に従うことを要請する。その他のことは全て本官自身が行なう」と語る。
これは何事か。こんなものが真の人民の権力だというのか?− いやいや、皇帝ニコライも自分の政府が正真正銘の人民の政府だと信じて疑わなかった。多分グリゴーリエフも自分の命令が人民に対する強制ではなく、また彼の人民委員は天使の集まりであるとでも考えているのだろう。
兄弟たち! 諸君は、ペテン師たちの一味が競って諸君の兄弟を狩りたて革命の戦列を分裂させて、秘かに諸君の自滅を画策しているとは思わないか? 警戒せよ! 革命に手痛い打撃を与えたこの裏切り者は同時にブルジョアジーに奉仕している。彼のユダヤ人虐殺と反ユダヤ運動を利用して、既にガリツィアからはペトリューラが、ドンからはヂェニキンがわれわれの解放区に突入を図っている。もしこれら内外の敵を一撃のもとに屠ることがなければ……禍いなるかな、ウクライナの民よ!
兄弟たち、労働者農民の諸君、そして叛乱軍兵士諸君! 諸君の多くはこう質問するだろう。では革命のために誠実に戦い、しかしいまはグリゴーリエフの裏切りによってその不名誉な戦列に在る数多くの戦士たちをどう処遇すべきか、果たしてこれらの戦士たちもグリゴーリエフもろともに革命の敵なのか?−と。
そうではない。これらの同志たちは巧みな嘘にひっかかったに過ぎない。やがて彼らの健全な革命精神は、グリゴーリエフの虚偽と真の革命旗への復帰を彼らに告げるであろう。グリゴーリエフの全ての行動が可能になった原因を、われわれはただグリゴーリエフ個人にのみ求めてはならない。それ以上に、最近われわれのあいだで明らかになってきた各戦線の無統制さが作用していることを確認しておかねばならない。
ボリシェヴィキが進入してきてから、ウクライナにも彼らの党の独裁が表面化した。国権を掌握した党派として、ボリシェヴィキは到る処に官許の党支部を設け、革命に決起した人民をコントロールしようとし始めた。その結果、何から何まで、全てが党に従属し、その監視下に服さねばならなくなった。どのような反対も反抗も、党に公認されないいかなる企ても、新たに設置された随所の支部の手でつぶされた。しかもそれらの支部は全て労働者と革命から疎遠な人々によって構成されていた。ここに、働く革命的な人民が働かずに専横と強制をもって臨む人々の管理下に人らなければならないという事態が生じた。
ボリシェヴィキ=共産党の独裁はこうして衆知のこととなり、それは広汎な人民の中に新規の制度に対する敵意と反抗を植えつけた。グリゴーリエフはこのような情勢を利用した。実際、なるほどグリゴーリエフは革命の裏切り者であり、人民に敵対するものにちがいない。しかし、人民にとっては、ボリシェヴィキ=共産党とて、やはりグリゴーリエフに勝るとも劣らない敵だったということができる。ともかく、その無責任な独裁によって、ボリシェヴィキは人民の中に敵意を増大させた。そしてこの敵意はいまグリゴーリエフに幸いしたが、今後も任意の野心家を利することになるはずである。それゆえここにわれわれがグリゴーリエフを裏切り者と呼ぶとき、われわれは同時に裏切りの土壌を造ったボリシェヴィキからも、この人物の行動に対する弁明を要求することができるというものである。
兄弟たち! いま一度思い起こしてもらいたい。軛と抑圧と貧窮から人民を解放し得るものはただ人民自身の決起のみだということを。実に政権の交替など何の助けにもならない。労働者農民の自由な結束だけが、これらの働く階級を、革命と完全な自由、真の平等の彼岸へと連れ出してゆくものなのである。
全ての裏切り者と人民の敵に死と没落を! 民族の障壁を穿ち、挑発者を排撃せよ! 労働者農民諸君、密集せよ! 世界自由勤労コミューン万歳!
文責、マフノ叛乱軍=「第三旅団(ウクライナ革命叛乱軍)」師団司令部
バチコ・マフノ、ア・チュペンコ、ミバリョフ=パヴレンコ、ア・オルホヴィク、
イ・エム・チュチコ、イェ・カルペンコ、エム・ブザーノフ、
ヴェ・シャロフスキー、ペ・アルシーノフ、ヴェ・ヴェレチェリニコフ
賛同者 アレクサンドロフスク市、労・農・赤軍代表ソヴェート執行委員会
郡執行委員会議長 アンドリュスチェンコ
行政長官 シポータ
行政委員会議長 ガヴリロフ
市執行委員・政治コミサール ア・ポンダーリ
このアピールは膨大な部数印刷されて農民たちや前線の兵士に配布され、また叛乱軍報「プーチ・ク・スヴォボーヂェ」とアナーキストの機関紙「ナバト」(警鐘)にも特に掲載された。グリゴーリエフの投機は、その高揚と同じく速やかに衰退していった。結局それが残したものといえば、幾つかのユダヤ人虐殺という犯罪だけであり、殊にそのうちエリザヴェトグラートでの暴挙は大規模かつ酸鼻を極めるものだった。
マフノ叛乱軍のアピールと前後して、叛乱農民は急激に彼のもとから離れていった。グリゴーリエフが本来中味のない人間であることを知った農民たちは、もはや彼を支持する根拠をもち得なかった。その結果グリゴーリエフはわずか数千の手勢とともに、とり残され、ヘルソン県のアレクサンドリスク一帯にたてこもった。しかるにこのような情勢にあっても、まだボリシェヴィキは不安を感じていたが、いよいよグリャイ=ポーレの立場がはっきりするに及んで、ようやく彼らはひと息つき安堵することができた。
ソヴェート政府は、到る処で、マフノ叛乱軍がグリゴーリエフの叛乱を冷たくあしらったと吹聴した。政府はマフノらの態度表明をグリゴーリエフに対する牽制のプロパガンダに利用しようとした。マフノの名は全てのボリシェヴィキ政府機関紙に登場し、彼の電文は繰り越し報道された。再びマフノは労働者農民革命の真の擁護者としてかつぎあげられた。マフノの部隊が四方から包囲していて、グリゴーリエフは捕えられるか殲滅されるだろうという造り話を流布することによって、グリゴーリエフの心胆を寒からしめようとするのがプロパガンダの目標だった。
4、ボリシェヴィキの本音とマフノ運動への敵対再開
したがって、このようなマフノに対する世辞は、もとよりボリシェヴィキの本音ではなく、またながくつづきもしなかった。グリゴーリエフの危険が去るや、マフノ主義に敵対するそれまで通りのキャンペーンが再開された。この頃ウクライナに在ったトロツキーは、マフノの叛乱はウクライナに自らの覇権を確立しようとする富農の運動であるとの観点からアジテーションを行なった。政府なき共同体に関する叛乱軍とアナーキストの全ての主張は謀略以外の何ものでもなく、実際に両者が企てているものは、まさしく富農(「クラーク」)の主権そのものである無政府的な権力機構にほかならない、という。(ボリシェヴィキ新聞「道(フ・プチー)」第五一号掲載論文、トロツキー「マフノ主義」による)。
この殊更なまやかしのアジテーションを合図に、解放区に対する逆封鎖が極度に強化された。それで、遠方から、例えばイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクやモスクワ、ペトログラート、あるいはヴォルガで、ウラル、シベリアからも、この自立した誇らかな地区を慕ってやって来る革命的な労働者は、大変な用心を重ねないと、目指す地域に入れなかった。前線に日々欠かせない武器弾薬の補給は全面的にストップした。この二週間前、ちょうどグリゴーリエフの叛乱の最中に、グロスマン=ローシンがグリャイ=ポーレを訪問していた。マフノらは彼に圧倒的な軍需物資の欠乏のため、戦況が思うに任せない旨報告した。ローシンはこの報告に心を痛めた様子で、ハリコフから武器弾薬を送達するよう努力することを約束した。だが二週間しても物資は送られて来ず、前線は破局的な様相を呈した。折しも、クバンの諸連隊とカフカースからの幾つもの援軍部隊を加えて、ヂェニキン軍は途方もなく膨れあがっていた。
ところで、ますます混迷の度を加えるウクライナの情勢の中で、ボリシェヴィキは自分たちの行動の結果について、何らかの展望をもっていたのだろうか? たしかに彼らは計算していた。彼らはグリャイ=ポーレの防衛力を最低限に低下させるために逆封鎖戦術をとった。敵の武装は不完全なほど戦いやすい。武器弾薬をもたず、加えてヂェニキン軍との困難な前線に釘付けされている叛乱軍の状態は、武装解除には格好だった。しかしまた反面、ドネツ地方一円の情勢について、ボリシェヴィキはまるっきり判断を誤っていたともいえる。ヂェニキン軍の戦力を彼らは全然知らなかったし、差し迫った攻勢についても全くのところ察知していなかった。
だがそうするうちにも、ドン、クバン及びカフカースの各地方では、ヂェニキン軍の精鋭が着々と陣形を整え、革命そのものに対して総攻撃を開始しようとしていた。最初の四か月に、ヂェニキン軍はグリャイ=ポーレの頑強な抵抗に遭い、その左翼が北進を拒まれたため、攻撃を全面開花させ得なかった。この四か月のあいだ、前哨であるシクロー将軍の部隊は、グリャイ=ポーレの抵抗を排除しようと懸命に戦ったが、その企ては不発に終っていた。それゆえ彼らは次の攻勢をますます精力的に準備していて、それは一九一九年五月以降、ほかならぬ叛乱軍にさえ奇異に思えるほど活発になってきていた。そして、これら全てのことをボリシェヴィキは把握していなかった。いやもっと正確にいえば、彼らはマフノ運動との対決に気を取られるあまり、ヂェニキン軍についていささかも注意を払おうとはしなかった。
5、ヂェニキン反革命軍の脅威にたいする闘争方針
こうして危険は左右両面から、解放区とウクライナ革命総体に迫ってきた。このような事態に対処すべく、グリャイ=ポーレの地方革命軍事評議会は、エカチェリノスラフ、ハリコフ、タヴリダ、ヘルソン、ドネツ各県に緊急地区大会を呼びかけた。大会の目的は、ヂェニキン反革命軍の脅威に関してこれらの地方の総情況を点検し、ボリシェヴィキ=ソヴェート政府の無策を考慮した上で、危険を回避する何らかの方途を立案することであった。大会は、情勢との関連の中で、実践的具体的な方針の採択を求められていた。
次に、地方革命軍事評議会がウクライナ人民に宛てたアピールを挙げておこう。
第四回労・兵・農地区大会招請についての告示 電信No.四一六
エカチェリノスラフ、タヴリダ両県及び隣接する地方の全ての郡、市町村執行委員会、マフノ叛乱軍及び在ウクライナ赤軍各隊、全ての労働者農民諸君、全ての兵士諸君!
地方革命軍事評議会執行委員会は、五月三十日の会議に於いて、白軍侵攻に関する前線の情勢を討議した。その結果当執行委員会は、現時点に於けるソヴェート政府の政治的経済的状態にかんがみ、ウクライナの現状打破は個々人や政党によってではなく、労農人民の力によってのみ可能であるという見解に達した。よって、地方革命軍事評議会執行委員会は、一九一九年六月十五日、グリャイ=ポーレに緊急地区大会を開催する旨決定をくだした。要領は以下の通りである。
代議員選出基準
一、労働者農民代表は住民三千人につき一名。
二、各叛乱軍及び赤軍兵士代表は、師団、連隊等各部隊につき一名。
三、マフノ叛乱軍司令部から二名、各旅団司令官からはそれぞれ一名。
四、郡、市町村執行委員会各一名。
五、ソヴェート制にのっとった共産党地区組織各一名。
ただし、
a、労働者農民代表の選出は、各市町村及び工場に於ける全体集会でなされるべきこと。
b、ソヴェートあるいは工場委員会の個別的な集会の場で選出されてはならないこと。
c、当方資金難のため、大会の参加者は各自食糧を携帯のこと。
討議事項
一、地方革命軍事評議会執行委員会及び各地域執行委員会からの報告。
二、現在の総合的な情勢の説明と検討。
三、グリャイ=ポーレ地区の任務とその意義及び課題について。
四、地方革命軍事評議会の改組について。
五、叛乱地区に於ける軍事機構について。
六、食糧問題。
七、農業問題。
八、財政問題。
九、農民と労働者の連帯について。
十、公共の秩序維持について。
十一、裁判について。
十二、その他目下要請されている諸項目について。
地方革命軍事評議会執行委員会 グリャイ=ポーレ発
一九一九年五月三十一日
6、トロツキーによる解放区への総攻撃開始
このアピールとともに、ボリシェヴィキのグリャイ=ポーレに対する総攻撃が開始された。なだれ寄せる白軍カザーク部隊に抗して叛乱軍将兵は死をもって革命を守り抜いているというのに、一方では数連隊のボリシェヴィキが、北からつまり後方から解放区に襲いかかった。彼らは叛乱軍の労働者農民を逮捕して、その場で銃殺し、コミューンやコミューンに類する組織を手当り次第に破壊した。疑いもなく、この攻略を指揮したのはトロツキーその人であった。
われわれは、トロツキーが解放区を見、即自的に生きつつ新しい政府など鼻にもかけていない人々の言葉を聞いた時、あるいはまた、畏怖もなく素朴に、彼をたんなる国家官僚と呼んでいる解放区の新聞を読んだ時、彼の胸中はどうだったかを容易に推測できる。アナーキズムなどというものは「鉄の箒で」ロシアから掃き出してやるといきまいてきたトロツキーが、いざウクライナの現状に触れてみると、当然のことながらただ狂暴かつ盲目的な怒りの焔をしか感じ得なかったちがいない。そしてこのような感情こそ「国家至上主義者」に特有なものなのである。トロツキーがマフノ叛乱軍鎮圧のために発した度重なる命令の内容が、彼のそういう内心をあからさまに語っている。
際限もなく無節操に、彼はマフノ運動の粛清にとりかかった。まずグリャイ=ポーレ地方革命軍事評議会のアピールに対応して彼は次のような指令を発した。
ソヴェート政府革命軍事参謀本部指令No.一八二四
ハリコフ、一九一九年六月四日
アレクサンドロフスク、マリウポリ、ベルヂャンスク、パフムート、パヴログラート、ヘルソン各地区の全ての軍事コミサールと全ての執行委員に告げる。グリャイ=ポーレの執行委員会は、マフノの旅団司令部と相図って、アレクサンドロフスク、マリウポリ、ベルヂャンスク、メリトポリ、パフムート、パヴログラート各地区のソヴェート・叛乱軍大会をこの六月十五日に開催せんとしている。右の大会は、ウクライナに於けるわがソヴェート政府とマフノ旅団が布陣している南部戦線に於ける政府諸機関に真っ向から敵対するものである。大会の結果はグリゴーリエフの裏切りと変らぬ新たな謀反でしかあり得ないだろうし、それはまた白軍に前線を明け渡すことにもつながるだろう。事実現在もマフノ旅団は、その無能と犯罪的な立場、更には司令部の裏切り行為によって後退をつづけている。
一、本指令により大会は禁止される。いかなる場合にも開催されてはならない。
二、全ての労働者農民は、この大会への参加がソヴェート政府及び戦線に対する背反行為と見なされる旨、口頭ないし文書をもって通告されねばならない。
三、この大会の全ての代議員はただちに逮捕され、ウクライナ第一四軍(もとの第二軍)の軍事法廷に連行される。
四、マフノとグリャイ=ポーレ執行委員会のアピールを配布した者は逮捕される。
五、この指令は電信を通じて報道され、可能な限り広汎に行き渡るよう努力されねばならない。
あらゆる公的な場所に掲示され、各地区の代表者、政府機関の代表者、各部隊の指揮官並びに人民委員各位に交付されねばならない。
共和国革命軍事委員会議長 トロツキー
総司令官 ヴァツィエチス
共和国革命軍事委員会委員 アラーロフ
ハリコフ軍管区軍事コミサール コシカリョフ
この文書は典型的なものである。ロシア革命史を研究しようというほどの人なら誰しもこの文献は記憶しておくべきである。それにしてもグリャイ=ポーレの革命的農民は既に一か月半も前に、なんと適切正確に事態を把握していたのだろうか。先に示したドゥイベンコのそこに対する回答が、このトロツキーの指令を見事に先取りしているではないか!
「いったい、革命家をもって自認している人々が、ほかならぬ革命的な人民に除名をもって対立することを正当化するような、そのよう革命政府の法律などあり得るだろうか?」−回答の中で彼らはボリシェヴィキにこのような問を発している。そして、トロツキーの指令中、その第二項は、かかる法律があり得ることを、またこの指令自体がそのような法律であることを的確に示している。
つづいてグリャイ=ポーレの農民は更なる問を発する。「革命家の許可なしに、革命家が約束した自由と平等を享受した人民は、革命政府の法律によって弾圧されねばならないとでもいうのか?」−トロツキーの指令第二項はこれにも「然り」と答え、自由な大会に参加する労働者農民は国家に対つる反逆者であるとしている。
またグリャイ=ポーレの回答は「人民の代表者は、人民に委託された任務を遂行しようとすることによって、革命政府の法律に銃殺を宣告されて然るべきなのか?」と質問するが、これには指令第三、第四項が答えている。即ち、人民に委託された任務のために尽力する代表者ばかりでなく、何らの任務も与えられるわけではないたんなる代議員までも逮捕され処刑されねばならないという。(ソヴェート政府の軍事法廷への連行は事実上銃殺と同義である。例えば、グリャイ=ポーレのアピールを審議したというかどで告訴され、軍事法廷に引き出されたコスチン、ポルニン、ドプロリューボフらはこの犠牲となって斃れた)−この指令が人民の権利の強奪であることは余りにも明白なので、その例証はこれくらいで充分だろ
ところで、トロツキーは、グリャイ=ポーレ地区でのあらゆる行動の黒幕はマフノであると型通りに考えていた。彼は、この大会がマフノ旅団や個別グリャイ=ポーレ地区の招請によるのではなく、それらから全く独立した機関、つまり解放区全体の地方革命軍事評議会の呼びかけによるものであることさえ確認しようとしなかった。ともあれこの指令の中で、トロツキーが「白軍を前に後退をつづける」マフノ軍司令部の裏切りという考えを前面に出していることは注目に価する。そして数日ののち、トロツキーと全ての政府機関紙は、マフノ叛乱軍がヂェニキン軍に前線を明け渡したという報道を、我が意を得たりとばかりに行なうようになる。
われわれは、この前線が専ら叛乱農民の骨折りと犠牲の上に構築されたことを既に確認した。反ヂェニキン前線は、叛乱農民にとって忘れ難く英雄的な瞬間、自分たちの土地を全ての権力から解放したあの日々に形成され、南東部に於ける前衛線として、あるいは、自由のための守備線として立派にその機能を果たしてきた。そしてこの前線に拠って、偉大な革命的叛乱者の群は、六か月以上ものあいだ、帝制反革命の熾烈極まる攻撃を耐え、幾千名にものぼるウクライナの最良の息子たちを失いながらも、総力をふりしぼって、なお己れの血の最後の一滴に至るまで反革命軍本隊の侵攻の前にはげしく自由を防衛しようとした。反ヂェニキン前線の維持がいかに決定的に、しかも最後の最後まで、叛乱農民の力にかかっていたかは、グリゴーリエフの叛乱に際して、グリャイ=ポーレ宛て打電された前述のカーメネフの電報が物語っている。
このモスクワから来た臨時全権特使は、その中でマフノに、反ヂェニキン前線の叛乱軍将兵をグリゴーリエフ鎮圧のために移動させるよう要請している。カーメネフがこういう要請をほかならぬマフノにせねばならなかったのは、彼が当時滞在していたハリコフでは必要な情報は得られず、政府が派遣していた軍事人民委員や赤軍の戦線指揮官を通じてさえ資料は何ひとつ入手し得なかったからである。この南部の反ヂェニキン戦線について、疑いもなくトロツキーは更に貧弱な知識をしかもっていなかった。トロツキーがウクライナにやってきた頃、この前線は既に方々で白軍に蚕蝕されていた。しかしトロツキーは、革命派人民に対する彼の犯罪的な襲撃を形式的にせよ正当化せねばならなかった。そこで彼は類い稀な無恥と卑劣さをもって、六月十五日の労・兵・農地区大会は専ら南部前線から将兵を召喚して前線を弱めるものであると言明した。
このトロツキーの意見からすると、結局叛乱農民は南部前線の強化に全力を尽くし、急ぎ志願して総力を反ヂェニキン戦にあてねばならないということになる。しかし、このことはソヴェート政府筋に言われるまでもなく、既に一九一九年二月十九日の地区大全で叛乱農民自身が決定していたことである。一方トロツキーの指令について、ボリシェヴィキはある謀略を策した。彼らはマフノ叛乱軍司令部にこの指令を伝えなかった。トロツキーとソヴェート政府の一連の主張と対応はとても正気の人間のものとは思えないが、事実は病める人間の行為などではなく、人民に信じ難いほどの恥知らずさで対処することに慣れた全く醒めた人々の行為であった。
二、三日あとから偶然の機会にこの指令を耳にしたマフノは、もはや押し留め難い内外の情勢を考慮しつつ、反ヂェニキン連合戦線の指揮官としての地位を辞任したい旨、ボリシェヴィキに通告した。だが残念ながらこの通告の電文は現在筆者の手元にはない。
トロツキーの指令は電報で各地に伝達され、ボリシェヴィキはその戦時法令に基づいて、この指令の各条項を実践した。例えば、グリャイ=ポーレからのアピールを審議しようとしたアレクサンドロフスクの町工場では、集会は違法であると宣告せられて強制的に解散させられ、参集した農民たちは銃殺か絞首に処すると脅迫された。方々で(コスチン、ポルニン、ドブロリューボフらの)様々な活動家が検挙され、地方革命軍事評議会のアピールを流布したかどで告発されて党の軍事裁判で死刑を宣告された。
この指令のほかにも、トロツキーは一連の軍令を発し、マフノ運動を根こそぎ殲滅するよう赤軍各部隊に要請した。更に彼は密令を飛ばして、マフノとその司令部及び全ての加担者を拘禁し、軍事法廷に、換言すれば首斬り役人に引き渡すよう訓令していた。
幾人かの赤軍指揮官や高級将校等、信頼できる消息筋の証言によれば、トロツキーはマフノ運動に関して、(1)この運動の更なる興隆を許すくらいなら、(2)全ウクライナをヂェニキン軍に明け渡した方がましだという見地に立っていた。なぜなら、(2)ヂェニキン軍は公然たる反革命であるがゆえに階級闘争を激化させることによってやがて撃退できるが、(1)マフノ運動の方は人民最深部に根を張ってボリシェヴィキに敵対してくるものだからである。
7、ヂェニキン軍による解放区への突入攻撃
トロツキーが以上のような行動を起こす数日前に、マフノは次のような通達を傘下の司令部と地方革命軍事評議会に出していた。即ち、(1)ボリシェヴィキの数連隊がグリシンスク方面の前線から撤退したこと、(2)したがってこの部分から、つまり前線北東部からヂェニキン軍がグリャイ=ポーレ地方へ無傷で侵入してきたこと、この二つである。事実、白軍のカザーク部隊は、けっして叛乱軍の防衛線からではなく、赤軍が守備していた左翼方向から解放区へ突入してきた。その結果、マリウポリからクチェイニコヴォを経てタガンロークに至るマフノ叛乱軍は背後にも敵の脅威を受けることになった。いまやヂェニキン軍は大挙して解放区の心臓部へとながれ込み始めた。
以前にも述べた通り、全解放区の農民たちはヂェニキン軍の総攻撃を覚悟していた。彼らは侵攻に備え、動員を了解していた。既に四月の段階で各村落の住民は多数のパルチザンをグリャイ=ポーレに送ってきたが、グリャイ=ポーレには武器が不足していた。従来から守りについていた前線の部隊さえ、もはや武器弾薬をもたず、ただただ軍需品を奪取するためだけにヂェニキン軍を襲撃せねばならないこともしばしばという有様だった。連合に際しての同意書で叛乱軍に物資供与を約束したはずのボリシェヴィキは四月にはもう逆封鎖を始めていて、武器弾薬の搬入が阻止されていた。それで志願兵がいくら詰めかけても、新規の部隊編制はかなわず、しかもそのために生じる悲劇的な事態は、ただ解放区住民のみが一身に負わねばならなかった。
グリャイ=ポーレの農民は自分たちの村落を救うためにわずか一日のうちに連隊を組織した。武器はいとも粗末なもので、斧とつるはし、猟銃とほんの少しのカービン銃くらいなものだった。それでも彼らは押し寄せるカザークの部隊を正面から迎え撃ち、果敢にこれを阻もうとした。グリャイ=ポーレから十五キロばかり離れたスヴャトドゥホフカ村(アレクサンドロフスク郡)で、これらの農民軍はドン及びクバンのカザークから成る優勢な部隊に遭遇した。グリャイ=ポーレの人々はその見すぼらしい装備にもかかわらず悲壮かつ英雄的に交戦し、ほとんど全軍がこの無名の村の戦線に自らの生命を捧げた。
その中には、グリャイ=ポーレ出身でペトログラートのプチロフ工場の労働者、農民軍指揮官ベ・ヴェレチェリニコフもいた。やがてカザークの怒涛はグリャイ=ポーレを被い、六月六日には全村がその占領下に入った。マフノは幕僚たちとともに小部隊とわずか一隊の砲兵を率いて村の中心部から七キロ隔たった鉄道駅まで後退して布陣したが、夜になるとこの地点も放棄せねばならなかった。翌日、彼は能う限りの兵力を結束してグリャイ=ポーレ攻略を試み、ひとたびはヂェニキン軍を駆逐したが、新たなカザーク部隊の脅威を受けて再度の撤退を余儀なくされた。
ところでここにいまひとつ、ボリシェヴィキが一連の反マフノ宣伝のあとも、最初のうちは何事もなかったように紳士的に振舞っていたことも書き留めておかねばならない。マフノ運動の指導者たちをできるだけ労せずして捕縛するための、それは彼らの戦術だった。トロツキーらが指令第一八二四号を打電した三日後の六月七日に、ボリシェヴィキはマフノに装甲列車を提供して彼にできる限り戦線を維持するよう依頼し、また早急に援軍を送る旨約束した。そして実際その翌日、グリャイ=ポーレから二十キロの距離にあるガイチュール駅に、チャプリノから派遣されてきた赤軍の数隊が到着した。
この援軍にはボリシェヴィキの軍事コミサール、メジラウクやヴォロシーロフら高官が付き添っていた。赤軍と叛乱軍両司令部は連合して一種の共同司令部を形成し、両者は装甲列車に同乗して共に作戦にあたった。だがこの時ヴォロシーロフは、(1)マフノとマフノ主義者の上部を逮捕し、(2)叛乱軍を解体して、(3)これに反抗する者は全て射殺せよとのトロツキーの指令をポケットにひそませていた。ヴォロシーロフはひたすら適当な時を待っていた。
8、トロツキー・赤軍の攻撃にたいするマフノの領袖地位辞退
一方マフノの方もこの陰謀については警告を受けていて、自らの為すべき対策を練っていた。彼は情勢の全般を考量した上で、いずれ流血の内紛が必至であることを察知していた。マフノは理性的な解決を模索し、その結果自分が叛乱軍の領袖としての地位を退きさえすればいいのだと判断した。彼はこの決意を幕僚に伝え、さしあたってはたんなる一兵卒として下部で活動するのが最適の方途であると表明した。そしてソヴェート政府筋には以下のような声明を送った−
赤軍第一四軍司令部ヴォロシーロフ宛て。ハリコフ 革命軍事会議議長トロツキー宛て。
モスクワ レーニン、カーメネフ宛て。
共和国革命軍事会議指令第一八二四号に関連して、私は第二軍及びトロツキー宛ての先の通信に於いて現在の地位を辞退したい旨申し入れておいたが、ここにいま一度この申し入れを反復しておこうと思う。ところで右のことを表明するに際して、私はその根拠をも同時に具申しておく必要を感ずるも。私はこれまで、叛乱せる人民と相携えて専ら白色ヂェニキン軍と戦い、ただ自由への愛と自力建設への願いをのみこれら人民に語ってきた。にもかかわらず、全てのソヴェート政府機関紙並びにボリシェヴィキ=共産党機関紙は、革命家にあるまじき流言を飛ばして私を中傷しつづけてきた。
これらの各紙は私を(1)盗賊といい、グリゴーリエフの(2)共犯者といい、あるいは(3)資本制の再来を望む者であるとして、ソヴェート共和国に対する(4)背反者と呼ばわった。またトロツキーは「マフノ体制」と題する論文(「道」第五一号)に於いて「マフノとその叛乱軍は誰に抗して戦ってきたか」という問を発し、マフノ主義の運動は結局(5)ソヴェート政府に反目する戦線以外の何ものでもないと言明している。だが彼はその中で、現実に百キロ余も伸びる叛乱軍の反ヂェニキン前線にはいささかも触れていない。六か月以上ものあいだ、われわれはこの前線を維持しつつ数限りない犠牲を支払ってきたし現在も支払っている。このような事実の上で、指令第一八二四号は私をソヴェート政府に対する裏切り者と断罪し、グリゴーリエフと同類の反逆者と罵った。
私は、労働者農民が公私にわたることどもについて協議し決定する目的で、何らかの集会を開催することは、彼らが革命によって獲得した犯すべからざる権利であると考える。それゆえかかる集会を中央政府の力をもって禁止し違法であると宣告すること(指令第一八二四号)は、人民の諸権利に対する露骨かつ悪辣な弾圧であるといわねばならない。
私は中央政府当局の私に対する態度を充分に感知しているし、また当局が自らの権力に同化し得ない異物として叛乱の総体を扱っていることも重々承知している。そしてこれらのことを総合すれば、中央政府が叛乱を私個人に短絡させ、叛乱に対する憎悪を私個人に対する憎悪へと転化させていることも容易に理解できる。例えば前述のトロツキーの論文にしても、そこに挙げられている幾つもの偽りの資料から、彼が無意識のうちにも私個人に憎悪と敵意を向けている有様が読み取れる。
私がこれまでに感じてき、また昨今では非常に攻撃的になっている中央政府の農民叛乱に対する態度は、革命派の内部に不可避的に亀裂をもたらすものである。しかもこの亀裂の双方の側に、等しく革命を信頼する働く人民が立っている。私はこのような内訌こそ人民に対する許され得べくもない犯罪であると思うし、この犯罪をどうにかして食い止めることを義務と考える者である.そして私は、中央政府が種を蒔いたこの犯罪をなんとか阻止する適正な方法として、現在の地位の返上を決意するに至った。
そうすれば中央政府は私と叛乱農民を、陰謀を策している輩とは考えなくなるだろう。私はウクライナの叛乱農民がいかがわしく敵対的なものとしてではなく、果断で活発な革命派として正当に扱われることを望んでいる。われわれ叛乱軍は、約束されていた中央政府からの武器弾薬の配給を削減され停止されることによって、そうでなければ容易に避けられたはずの兵員の損失や解放区の喪失を蒙らねばならなかった。私は、右の私の判断と提案を即刻受け入れられるよう各位に申し入れる。
ガイチュール駅にて、一九一九年六月九日 バチコ・マフノ
その間、マリウポリに居た叛乱軍の各部隊は、ポロギーを経てアレクサンドロフスクまで後退してきていた。ガイチュール駅に伸びてきたボリシェヴィキの魔手をかわしてのち、マフノは全く予期に反して、この叛乱軍の中に在った。だがマフノ叛乱軍司令部長官オセロフや幕僚のミハレフ=バヴレンコ、ブルビガ、更に地方革命軍事評議会の数名のメンバーは謀略にかかって捕えられ、処刑された。これは、当時ボリシェヴィキに拘禁されていた他の多くのマフノ主義者に対する処刑のほんの端初に過ぎなかった。
9、ヂェニキン軍総攻撃による赤軍のウクライナ撤収→マフノ復帰
マフノの立場はまことに困難なものだった。ウクライナ革命に於ける幾多の危機を共に戦い抜いてきた同志人民に全く訣れを告げてしまうか、ボリシェヴィキとの戦いを指導するか、彼はこの択一を迫られていた。だがヂェニキン軍の総攻撃を目前にしながら、ボリシェヴィキと抗争することは彼にはできなかった。マフノは、生来の聡明さと革命家としての本能をもって、やがて見事に窮状の打開を図った。彼は叛乱軍将兵に現下の情勢を詳しく説明し、彼が指揮官を辞任したいきさつを伝え、にもかかわらず叛乱軍は、困惑することなくひとまずボリシェヴィキの指令に服して、以前同様にヂェニキン軍との戦線を堅持すべきであるとうったえた。
このアピールに従って、叛乱軍の半数以上がそれまでの状態を保ち、赤軍の一部としてボリシェヴィキ司令部の傘下に留まった。だが同時に叛乱軍各隊の指揮官は、白軍に対する戦線に支障をきたすことなく、再びマフノのもとに結集できる時機を秘かに待とうと互に固い申し合わせを行なっていた。そして、のちほど明らかになることだが、この時機については叛乱軍の各将校が驚くほど厳密正確に立案し、予定していた。
間もなく、マフノは少数の騎兵を率いて姿を消した。だが一方では赤色連隊と改称させられた叛乱軍各連隊が、カチェシュニコフ、クリレンコ、クレイン、ヂェルメンジ等以前からの隊長の指揮下で、アレクサンドロフスク及びエカチェリノスラフに向かおうとするヂェニキン軍と戦いこれを阻みつづけた。
事態が破局的な様相を呈するまで、ボリシェヴィキの指導部はヂェニキン軍の攻撃力を把握していなかった。エカチェリノスラフとハリコフが陥落する少し前まで、トロツキーはまだ、ヂェニキンなど恐れるに足りない、ウクライナはけっして危険な状態ではないとぶっていた。しかしさしもの彼も、そのあとすぐに前言を翻して、ハリコフが極めて重大な局面に立ち至っていることを認めねばならない破目になった。とはいっても勿論この時には、もう誰の目にもウクライナの命数は定まっていた。六月末、エカチェリノスラフが落ち、更にその十日から二週間あとにはハリコフをも放棄せねばならなかった。
ボリシェヴィキは反撃もしなければ迎撃もしなかった。彼らはただただウクライナから撤収しようとしていた。赤軍の全ての部隊がこの方針に従った。文字通り無血のうちに、ボリシェヴィキと赤軍はウクライナから立ち退いてゆこうとしていた。あきらかに、ボリシェヴィキはウクライナを見捨てていた。彼らはただ詰め込めるだけの兵員と物資を積み込んで車輌もろとも運び去ろうと狂奔しただけだった。そこでマフノは、いまこそ闘争のイニシャティヴを握り、自立した革命派として、(1)ヂェニキンにも、(2)ボリシェヴィキにも対決すべき時が来たと判断した。(3)一時的に赤軍に編入されていた叛乱軍に、ボリシェヴィキ司令部から離れマフノの指揮下に復帰せよとの檄が飛んだ。
7、大後退戦と勝利 (省略)
グリゴーリエフの処刑、ペレゴノフカの決戦、ヂェニキン掃討、再び解放区へ
8、叛乱軍の誤算−ボリシェヴィキ再び解放区を襲う (全文)
〔小目次〕
2、叛乱軍をポーランド戦線に移動させよとの赤軍指令とその狙い
4、バチコ・マフノ暗殺を狙う共産主義者=ボリシェヴィキの犯罪機構
1、ヂェニキン反革命軍の殲滅とマフノ叛乱軍側の誤算
ヂェニキンとの戦闘の過程で、マフノ叛乱軍が払った犠牲と尽力は甚大なものであり、その果断さとわけても後半の六か月にわたる死闘は万人の目に明らかだった。彼らこそ、ウクライナに革命の嵐を巻き起こし、ヂェニキンの反革命攻勢を潰滅へと追いやった唯一の勢力だった。激動の中で、都市農村の人民はこのことを認めまた評価していた。そしてそれゆえに、多くの叛乱軍将兵は次のような確信を抱くに至った。
即ち、(1)労働者農民の強固な支持を獲得している現在、(2)もはや叛乱軍がボリシェヴィキの挑発に乗る必要も危険もないだろうということ、(3)また南下してくる赤軍の兵士たちにはボリシェヴィキの叛乱軍に関する宣伝がいかにひどい中傷であるか判っているにちがいないということ、(4)それゆえ赤軍は中央政府のどのような嘘にも挑発にもだまされず、むしろ友好的に叛乱軍に対応してくるだろうということ、これらである。いやそれどころか将兵のある部分は更に楽観的で、(5)ボリシェヴィキがマフノに信頼を寄せている人民を前に、新たな陰謀をたくらむなどとはとうてい考えられなかったのだった。
(6)叛乱軍当局は全ての軍事的政治的方針をこのような雰囲気に基づいて決定した。彼らはドニエプル及びドネツ地区の一部を占拠することで満足し、(7)敢えて北進して陣を張ろうとはしなかった。というのも、(8)赤軍の方で南下してきているのだからこれを待っていて協議さえすれば、おのずととるべき戦術は明らかになるだろうと考えたからである。
またその上に一部の将兵は、(9)いかに革命に関わることはいえ、余りに軍事ばかりに熱中していてはならないとする見解に固執していた。(10)彼らによれば、専ら労働者農民に注目してこれを革命的な建設へと領導することこそ必須の要件であり、そのために各地に労農集会を設定することが緊急の実践的な課題であって、ボリシェヴィキの策動のために行きづまってしまった革命を救おうとするなら、先ずこの課題を果たさねばならないというのだった。
たしかに右のようなボリシェヴィキに対する楽観も、積極的な建設を主張する態度も、ともに文句なく健全なものだが、それらは遺憾にも当時のウクライナ情勢に全くもって合致せず、したがって何らの有益な結果ももたらしはしなかった。
相手はほかならぬボリシェヴィズムである。いかなる情況のもとでも、ボリシェヴィキはその本性からして、マフノ主義の運動のような人民深部の闘争が自由に公然と存在することを許容するわけはない。労働者農民自身がどのような社会的な立場を望んでいるにしても、ともかくボリシェヴィキはこういう種類の運動に接触するなりただちに全力を尽くして粉砕しようとするにちがいない。したがってマフノ主義者の側でも、人々の生活の問題に深く関わりながら、一方で時宜を得たボリシェヴィキ対策をもゆるがせにしてはならなかった。
なるほど積極的な建設への努力はそれ自体としては正当であり革命的なことであるが、一九一八年以降のウクライナの特殊事情を考慮すれば、それはまた成果を期待すべくもない努力であったといわねばならない。ウクライナは、(1)ドイツ・オーストリア軍や、(2)ペトリューラ軍、あるいは、(3)白軍や、(4)ボリシェヴィキによって幾度となく蹂躙されてきた。一九一九年、叛乱区は隅から隅まで、(3)カザーク軍団に踏みにじられた。やがて彼らは一度撤退したが、四か月後に再び戻ってきて同じ地域を手当り次第に破壊し焼き払った。次いで、(4)大軍をもって押し寄せた赤軍が、革命叛乱に参加しまたは協力する人民を同じく徹底的に弾圧した。
こうして、一九一九年の夏以降、叛乱民の居住区は全て、革命的な建設などまるで問題にならないような状態に陥った。これらの地域はあたかも巨大な銃剣の鑢(やすり)で北から南へあるいは南から北へとこすられたようであり、人々の建設の形跡などまるきりかき消えてしまった。そして、こういう厳しい条件のもとであらゆる敵への抗戦を強いられながら、マフノ叛乱軍はその軍事的力量を満天下に示してきた。
困難な時局はこうしてつづいてきたのであり、この先もなお、つづいてゆく。この時期の解放区の生活をただ黙過することは何びとにも許されていない。一九一九年晩秋のヂェニキン反革命軍の殲滅は、ロシア革命を守り抜いてゆく上でマフノ主義者が果たさねばならなかった主要な任務だった。そして彼らは立派にこの任務を完遂した。だが、ロシア革命によって課された彼らの歴史的使命はただこれだけではなかった。ヂェニキンから解放された全ての地域がすぐにも防衛を必要としていた。もし防衛を怠るならば、ヂェニキンなきあとようやく日程にのぼった建設の事業は、北からヂェニキンを追跡して再びウクライナに急行してきたボリシェヴィキの政府軍にたちまち潰されてしまうほかなかった。
個々の地域の自由を個別的に守るばかりではなく、解放区を全体として防衛し得る革命軍の創出は、疑いもなく、一九一九年後半に於けるマフノ主義者と叛乱軍に与えられた歴史的使命のひとつだった。これはヂェニキン軍との熾烈な攻防の中でなるほどけっしてたやすい仕事ではなかったが、歴史の求める任務でありまた可能事でもあった。なぜならこの時、ウクライナの大部分は蜂起の炎に包まれていて、住民のほとんどが心情的にも叛乱軍に親しかったからである。
南部からのみならず、北部ウクライナからも幾多のパルチザン部隊がマフノ運動区に流れ込んできていた。ポルタヴァを占領したビビクの師団もそのひとつである。その上大ロシアからも、本来赤軍に属していた幾つかの軍団がマフノ主義の旗のもとに革命に献身しようと合流してきた。例えば、オガルコフに率いられた赤軍の強力な部隊は、叛乱軍に参加するためにオリョール県を出発して、途中他の赤軍部隊やヂェニキンの部隊と間断なく戦いながら、遂に一九一九年十月、当時叛乱軍が駐留していたエカチェリノスラフに到着した。
期せずして、マフノ主義と叛乱軍の旗は全ウクライナにはためいた。だが到る処にたぎり立つこれらの戦力を解放区の防塁となるべき単一の大革命軍へと組織してゆく方針が欠けていた。もしそのような革命軍が構築されていたならば、ボリシェヴィキの貪欲な食指をも容易に挫けたはずである。
結局マフノとその叛乱軍は、戦勝に酔った上に、先にも述べたある種の楽観も加わって、統一された防衛隊を編制する格好の時機を逃がした。その結果、赤軍のウクライナへの帰還とともに彼らはグリャイ=ポーレ一地区に押し込められてしまった。これは軍事上の取り返しのつかない失策だった。この失策はボリシェヴィキを利し、その重大な責任はやがて叛乱軍にばかりでなくウクライナ革命総体に痛くのしかかってくることになる。
地図は、著書冒頭の添付。マフノ運動の中心は、ウクライナ南東部エカチェリノスラフ県。
(1)二重円の外側は、マフノ解放区の影響下にある地域。(2)内側の円はマフノ解放区。
(3)内側円の真中が、マフノ出身グリャイ=ポーレ。(4)ヂェニキン軍とヴランゲリ軍は、西部
と南東から解放区を襲撃。(5)ボリシェヴィキ・赤軍は、北部全域からマフノ運動に3回の攻撃
*
この頃ロシア全土にはびこっていたチフスの流行がマフノ叛乱軍の中にも猖獗を極めるようになった。既に十月の段階で将兵の五十パーセントが罹病していた。そのため、第七章でも少し触れたが、十一月末、スラシチョフ将軍傘下のヂェニキン軍精鋭が北面から迫ると、叛乱軍はエカチェリノスラフを放棄せねばならなかった。ただしこの白軍の部隊はクリミアへの撤退途上であり、わずかばかりのあいだエカチェリノスラフを占領しはしたものの、彼らにとっても大した意味はなかった。叛乱軍は再びメリトポリ、ニコポリ、アレクサンドロフスク一帯に戻り、アレクサンドロフスクに司令部を置いた。赤軍が進軍してきているという噂は、かなり以前から広まっていたが、叛乱軍当局はこれとの対決に何らの策も講じなかった。このことも先に述べておいた通りだが、彼らには赤軍との出会いが多分友好的なものになるだろうという楽観があった。
十二月二十日を前後して、赤軍の数師団がエカチェリノスラフ及びアレクサンドロフスク一円に到着し、両軍は心から和気藹々と会した。ただちに統一集会がもたれ、双方の戦士たちは互いに手を取ってともに共通の敵=資本と反革命に当たっていることを確かめ合った。このような交歓はほぼ一週間つづき、赤軍の中には叛乱軍に合流したいという部隊さえ幾つも出てきた。
2、叛乱軍をポーランド戦線に移動させよとの赤軍指令とその狙い
しかしここで、マフノ叛乱軍司令部に、赤軍第一四軍革命軍事委員会からの通達が届いた。叛乱軍をポーランド戦線に移動させようというのである。これがボリシェヴィキの叛乱軍に対する新たな攻撃の始まりであることは誰の目にも明らかだった。叛乱軍をポーランド戦線に追いやるということは、とりも直さず、(1)ウクライナの革命叛乱の中枢神経を切断することである。ボリシェヴィキはまさにこの反抗的な地方を、(2)労せずして、乗っ取ろうとしていたのであり、いまや叛乱軍司令部もそれを充分に感じ取っていた。だいたいかかる通達自体が不埒だった。(3)マフノ叛乱軍は第一四軍の配下にあるのでもなかったし、他のいずれかの赤軍部隊に属しているわけでもなかった。(4)ウクライナの反革命に独力で抗戦してきた叛乱軍に指令を発する資格など、ボリシェヴィキには皆目なかった。
叛乱軍革命軍事評議会は、第一四軍にただちに回答した。回答は概ね次のように要約されるが、原文が手許にないため基本線だけを示しておくほか致し方ない。回答の骨子はこうである−(1)マフノ叛乱軍はその革命的信条を、これまで他のどのようなグループよりも明確に表明し裏付けてきた。この成果を踏まえ革命的な立場を固持して、(2)叛乱軍は今後ともウクライナに留まるであろう。(3)叛乱軍はポーランド戦線に転戦する意志をもたないし、(4)その意義をも理解し兼ねる。加えて叛乱軍は、現在純粋に物理的な理由から移動不可能な状態にある。即ち、(5)兵士の半数と司令部全員がチフスを罹患している。よって当叛乱軍革命軍事評議会は、(6)第十四軍の指令が時宜に適しないものであり、わが軍の承服し得ないものと判断する。
叛乱軍当局は右の回答と同時に、赤軍兵士にもアピールを発して、彼らが指導部の挑発に巻き込まれることのないよう警告した。そうして叛乱軍の各部隊はそれぞれの宿営をたたみ、グリャイ=ポーレに向けていっせいに進発した。彼らは無事にグリャイ=ポーレに集結した。立ち退いてゆく叛乱軍と事を構える気は赤軍にもなかった。ただあとに残された小人数のグループや幾人かの兵士だけが、そこここでボリシェヴィキの囚われとなった。
一九二〇年一月中旬、ポーランド戦線への遠征拒否の廉(かど)で、マフノと叛乱軍将兵は、ウクライナ革命委員会なるものの名のもとに法の保護を停止された。それとともに両軍の激烈な戦闘が始まった。戦闘は九か月に及んだが、ここにはその個々の局面を順次分析することはしない。ただそれが実に仮借ない戦いであったことだけを書き留めておこう。
ボリシェヴィキは良く装備された赤軍部隊の数に於ける優越を頼みとしていた。そして、これらの部隊の兵士と叛乱軍兵士とのあいだにあるいは生じるかもしれない不測の事態、例えば戦友意識などを予防するために、ボリシェヴィキはレット人狙撃兵師団と中国人部隊を前線に投入した。これらの部隊はロシア革命の理念に何らの理解ももたず、ひたすら中央政府に盲従しているだけだった。
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一九二〇年一月のうちに、チフスの流行は叛乱軍を打ちのめした。司令部の幕僚は全員が病床に臥し、マフノ自身も重い発疹チフスにかかっていた。将兵のほとんども感染していて戦えず、それぞれ村に戻って療養せねばならなかった。このような状態の中で、叛乱軍は攻囲してくる敵を迎撃し、とりわけ、意識不明の容態がつづくマフノを看病せねばならなかった。それはもっとも劇的で自己犠牲の精神に満ちた時であり、指導者に対する感動的ないたわりの時でもあった。叛乱軍の兵士たちはいずれも貧しく、朴訥な農民であったが、マフノの病状と常に逮捕に直面している彼の危険な状態を見るにつけ、自らの窮迫も顧みることなく英雄的に奮い立った。
彼らの誰もが、マフノを失うことはウクライナ農民階級全体の損失でありその結果は測り知れなく大きいことを正しく承知していた。農民たちは自らこの苦境を打開するために力の限りを尽くした。彼らは迫ってくる赤軍の魔手をふり払ってマフノを小屋から小屋へと移し替え、発見されれば自らが犠牲となってこの偉大な人民の指導者を救うための時間をかせいだ。この時期のマフノをめぐる全ての出来事は、農民たちがいかに自分たちの救世主を尊重しいかなる敬愛をもって彼を守ろうとしたかを如実に示している。マフノはこのように深く熱い人々の愛に包まれて、遂に闘争のもっとも危険な局面のさ中を生き抜くことができた。
圧倒的な軍勢を誇る赤軍の懸命の探索にもかかわらず、マフノとその不定形の叛乱部隊はいつまでも捕捉されなかった。だが、ボリシェヴィキは、既に一九一九年のはじめに全ての住民によって計画されていたあのウクライナの自由な発展だけは阻害することができた。そしてそうしておいて、彼らは何の抵抗も受けずに、農民の大量処刑を始めた。
どれだけの人数の叛乱軍将兵が撃破され、囚えられ、銃殺に処されたかを、マフノとの戦いを報じた当時の政府機関紙によって記憶している人は多いだろう。しかしながらそれらの不運な人々のほとんどは、けっして叛乱軍の実際の戦闘員ではなく、マフノ主義の運動に共鳴するただの農民たちだった。赤軍が侵入するとどこでも多数の村民が逮捕され、彼らは叛乱農民としてあるいは叛乱軍をおびき寄せる人質として拘禁されたあげく、多くは銃殺された。赤軍の各部隊の司令部は、直接マフノと交戦するのを避けて、マフノ運動全体に対するこのような野蛮かつ破廉恥な戦法を好んで用いた。中でも第四二及び第四六狙撃師団はその最たるものだった。
グリャイ=ポーレの村は、十回以上も赤軍と叛乱軍に入れ替わり立ち替わりして占領され、特におびただしい彼害をこうむった。赤軍がこの村に入ってき、また撤退してゆくたびに、彼らは常に数十人の住民を連行していった。これらの人々はただ通りを歩いていて、いきなり任意に捕縛され、やがて銃殺される。グリャイ=ポーレの農民たちなら誰でも、このボリシェヴィキの暴虐を示すエピソードを幾らも知っている。控え目に見積っても、二十万をくだらない労働者や農民がウクライナのあちこちでボリシェヴィキに処刑され、あるいは、片輪にされた。その上これとほぼ同数の人々が遠い地方やシベリアへ流されていった。
勿論、革命がこのような理不尽なやり方で歪曲されてゆく時、人民の生んだ革命の子マフノ叛乱軍は、けっして為すところなく座して見守ってはいなかった。ボリシェヴィキのテロルに対して、彼らはそれに劣らぬはげしい反撃をもって応えた。スコロバツキー傀儡政権に向けられたと同様なゲリラ戦の方式がここでも採用された。赤軍は、叛乱軍との交戦にあらゆる手段を用いて当たったが、その際犠牲になるのは主に無理矢理招集されて来た一介の兵卒たちであって、しかも彼らはいつの場合にも褒賞に与かれなかった。しかしこれは赤軍及びボリシェヴィキの体質からして当然のことである。叛乱軍に投降した赤軍兵士は武装を解かれて釈放された。その中で叛乱軍に志願する者は喜んで迎え入れられた。だが、兵士たちの助命嘆願のない限り、党員や幕僚は概ね処刑されねばならなかった。
ソヴェート政府とその手先たちは、マフノとその叛乱軍が非情な殺し屋であると繰り返し宣伝し、叛乱軍の手にかかって倒れた兵士や党員のリストを公表した。しかしそういう宣伝をするにあたって、政府は常にもっとも肝要な事柄について沈黙を守っていた。つまり、どのような事態のもとでこれらの兵士や党員たちが倒れたのかということである。これらの人々はほとんどが、政府の企てた、あるいは叛乱軍を追いつめて駆り立てた戦闘の中で犠牲になったのだった。戦争はあくまで戦争であり、双方の当事者に損失と犠牲を要求するものとはいえマフノらは、自分たちが個々の赤軍兵士を相手取っているのではなく、これらの兵士たちをあやつっている人々と争っているのだということを充分に承知していた。
こういう「指導者」たちは、ソヴェート政府の覇権を擁護して戦う限りに於いてのみ、兵士たちを尊重する。それゆえいかにはげしい戦闘を交えはしても、戦いのあとで、叛乱軍は捕虜にした赤軍兵士たちを同志と同じようにあたたかく扱った。叛乱軍が赤軍兵士との交流の上で示した思いやりと規律、その革命派としての面目は、まことに瞠目すべきものである。囚えられた赤軍兵士の少なからぬ部分がそれによって自らマフノ叛乱軍に投じた。だが逆に叛乱軍の兵士が捕縛されると、それが誰であれ、赤軍は衆目監視の中でその兵士を銃殺した。
一方、既に少し触れたように、赤軍の指導者や党の高級官僚に対する叛乱軍の態度は、兵士に対するそれとは全く違っていた。これらの上層部は、各地の党支部が行なったあらゆる残虐行為の首謀者と見なされた。彼らは人々の自由を故意に窒息させ、蜂起の全域を流血の修羅場に変えさせた張本人だった。それで、これら首脳部に対しては叛乱軍とて相応の態度をもって臨み、捕えればたいてい死刑に処した。
ところで、マフノ叛乱軍に加えられたボリシェヴィキによる赤色テロルは、支配階級のテロルがもっている諸々の特性を全て備えている。逮捕された叛乱軍兵士は、仮にその場で銃殺されなかったとしても、(1)投獄されて拷問を受けねばならなかった。(2)その際彼らは叛乱軍から転向して仲間を売り、ボリシェヴィキに参加するよう求められた。例えば、叛乱軍第一三連隊参謀ベレソフスキーは、囚えられたあと、やむなくチェーカーの一員となったが、彼自身の証言によれば、それは残忍な拷問のためだった。また叛乱軍爆破隊長チゥペンコの場合、ボリシェヴィキは彼に、もし彼がマフノを陥し込める陰謀に協力しさえすればすぐにも釈放してやると、繰り返し約束したという。
一九二〇年夏の段階では、(3)捕虜にした叛乱軍将兵を利用してマフノを暗殺することがボリシェヴィキの動かぬ方針になっていた。ボリシェヴィキのマフノ暗殺失敗を機に叛乱軍が公布したビラをここに明らかにしておこう。
4、バチコ・マフノ暗殺を狙う共産主義者=ボリシェヴィキの犯罪機構
ここ二か月来、戦線で勝利し得ないボリシェヴィキ=共産党が殺し屋を雇って同志ネストル・マフノを謀殺しようとしているという情報が、方々から叛乱軍司令部に入っている。
更に詳しい情報によれば、このために全ウクライナのチェーカーは、特別なグループを編制していて、その頭目には古参のボリシェヴィキ・スパイであり諜報部の首脳でもあるマンツェフとマルトゥイノフが座っているということである。グループを構成しているのは専ら死刑を宣告されて入獄しているかつての「野盗ども」で、彼らはチェーカーの手先として働くという条件のもとに、刑の執行を免除されている。なおこれらの廻し者の中には何らかのかたちでアナーキズムの運動に接触をもっていた人物たちもまじっている。
例えばピョートル・シドロフ、(ペトラコフチマ=イワン)、ジェーニヤ・エルマコヴァ(アンナ・スホーヴァ)、チャルドン、ブルツェフなどである。彼らはアナーキスト・グループとのあいだに軍事の領域にまで及ぶ関係をもっていた。また別の情報では、この廻し者の仲間には「のっぽのニコライ」も居るということである。この男は個人主義者で、去年ハリコフから「ク・スヴェートゥ」なる雑誌を出していたが、ヴァシャという名でも知られている。
彼らの犯罪行為には限度などない。彼らと個人的に知り合いで、ボリシェヴィキに敵対したために逮捕され銃殺されたアナーキストたちについては触れないが、これらの廻し者どもは、反ヂェニキン戦の頃から幾つもの同志の隠れ家やアジトを熟知していて、そこに押し入っては片っ端から人々を殺害してきた。
一味は、ハリコフやオデッサでこのような蛮行を犯したあと首領のマンツェフに率いられてエカチェリノスラフに向かい、ここでマフノ暗殺を計画し刺客を募った。
だが三年の支配のうちに、もうボリシェヴィキは忘れてしまったのだろうか。革命の過程で彼らが放ったスパイたちは時にツァーリの政府と親しく通じていたし、ペトログラートのペトロフのように、スパイとして利用されることの屈辱に堂々と復讐した人々も随分とあった。現在も事情は変わっていない。買収されたり処刑を迫られて転向したりした人々の中にも、あるいは義務感から、またあるいはほかならぬボリシェヴィキに叩き込まれた裏切りの習性から、マンツェフ一味の策謀を前以って残らず吐いてしまう部分が存在している。次のような例がある−
マンツェフのスパイの投降
本年六月二十日のことである。叛乱軍の部隊が、グリャイ=ポーレから十五露里のところにあるトゥルケノフカの村に入って一時間もした頃、司令部近くの村道に立っていた同志マフノに、フェーヂア・グルシチェンコという男が駈け寄って押し殺した声で耳打った。「バチコ、とても大切な話があるんです!」……この男は去年まで叛乱軍の情宣局で働いていたが、この村にははじめて姿を見せたのだった。マフノは彼に、情報があるならすぐ近くに居るクリレンコに告げるよう命じた。それでフェーヂアはクリレンコに、自分はもうひとりの男と一緒にマフノ暗殺のために送られてきた者であると白状し、そのもうひとりの男はずっとマフノの近くで機会をうかがっていると警告した。同志クリレンコが用心深くその男に近づいて捕えてみると、彼はブロウニングとモーゼル銃を各一挺携帯し、なお二発の手榴弾をもっていた。フェーヂアの方には一挺のコルトがあった。
この第二の男はヤーコブ・コスチューヒンといってもとは野盗の一味であり、「ずるのヤシカ」という異名でちょっとは知れていた。彼はマンツェフを罵りながら情報をこまごまと自白し、そのうち文書でも供述し立てる有様だった。彼らは二人合わせて一万三千ニコライ・ルーブリとほかにかなりのソヴェート・ルーブリを所持していた。暗殺計画は、マンツェフ、マルトゥイノフ、フェーヂアによってエカチェリノスラフで詳細に立てられたものであり、更にフューヂアは、叛乱軍第一ドネツ兵団の元指揮官リフ・ザードフをも味方に引き入れるべき旨指令されていた。コスチューヒンはフェーヂアに助手としてつけられていた。もはや死を免れないと知ったコスチューヒンは、どんな苦役にも服するから命だけは助けてくれと嘆願したが、もとよりこの嘆願は唾棄すべきものとして棄却された。翌日彼は処刑されたが、これに先立って彼は口汚なく悪態をつき、わけてもフェーヂアを醜く罵った。
一方フェーヂアは、マンツェフに捕えられ、銃殺かチェーカーに転向して、マフノ暗殺に加わるかの択一を迫られて後者を選んだが、それはマフノに予め危険を知らせようとしてのことだったと供述した。そして彼は終始毅然として、チェーカーの手先になったことは充分に死に価することを、そして、だが、彼の転向は適当な時にマフノを救うためであり、しかも願わくば同志の手にかかって倒れるためであったことを陳述した。勿論叛乱軍当局は、どのような目的のためにせよ彼のチェーカーとの協働を不問には付せなかった。
革命家というものは、いかなる事情、いかなる根拠に於いても、政治警察と手を組んでならないからである。それゆえ致し方なく、フェーヂア・グルスチェンコは、コスチューヒンとともに翌二十一日に処刑された。死を前にしながらも、フェーヂアは冷静だった。彼は自身の刑を当然であるとし、ただマフノ叛乱軍の全ての同志たちに、自らが卑怯者として倒れる者ではなく、叛乱軍の誠実な友として、まさにバチコを救うためにのみチェーカーに参加した誠実な友として倒れる者であることを伝えてくれと言い残した。そして、「神よ、友に加護を」−これがフェーヂアの最後のことばだった。
こうして、ウクライナのチェーカーが総力を傾けた同志マフノ暗殺の謀略は挫折した。
ウクライナ革命叛乱軍(マフノ叛乱軍)評議会、一九二〇年六月二十一日
一九二〇年とそれにつづく歳月を、ソヴェート政府は野盗鎮圧と称してマフノ運動に敵対しつづけた。このために彼らははげしいアジテーションを繰りひろげ、自分たちの流したデマを補強しようと、能う限りの機関紙と宣伝機構を動員した。同時に彼らは多数の狙撃兵や騎兵の師団を派遣して運動の殲滅を図り、絶望した叛乱民が実際に野盗化するよう全力を尽くして画策した。捕えられた叛乱軍の戦士は容赦なく銃殺され、両親や配偶者など近親者も、全て拷問を受けた上にしばしば処刑された。
家財は没収にあい、家屋もことごとく破壊された。このような弾圧は極めて広範囲に及んだ。際限のない政府の残虐の前に、なお叛乱農民が自らの革命的な立場を守り抜き、けっして腹立ちまぎれに盗賊へと転落してゆかないためには、誇張ではなく超人的かつ英雄的な意志と努力を必要とした。だがウクライナの人民はこの勇気を一日たりとも阻喪することなく、革命旗はいかなる時にもうなだれることはなかった。困難極まる時代にあってここに叛乱せる人々がどう生きたかを目の当たりにした者にとっては、それはまさしくひとつの奇跡であり、人々に保たれた革命への信念と献身を測る確かな指標でもあった。
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一九二〇年の春から夏にかけての戦闘の中で、マフノ叛乱軍はたんに赤軍の各個部隊をでなく、ウクライナ及び大ロシアのボリシェヴィキ国家装置総体を相手取らねばならなくなった。それで叛乱軍は、余りに優勢な敵を避けて一度ならず解放区を放棄し、千キロにもわたる大退却を余儀なくされもした。彼らはある時はドン地方へ、またある時はハリコフ県やポルタヴァ県にまでも後退せねばならなかった。だがこの退却も、プロパガンダのためにほかなりの役割を果たした。叛乱軍がほんの一、二日でも滞在すれば、そこでは村全体が巨大な集会場と化した。
このような後退戦の中で、一九二〇年六月から七月に至る期間に、軍と運動の全般をとりしきる最高機関として「ウクライナ革命叛乱軍(マフノ叛乱軍)評議会」が発足した。評議会は叛乱民によって選出され承認された七人の委員から成っていて、その下には、軍事参謀部と組織部、それに文化情宣部の三部局が設置されていた。
9、反ウランゲリ統一戦線とその後−ボリシェヴィキの3度目攻撃、叛乱軍潰滅 (全文)
〔小目次〕
2、ヴランゲリとの戦闘にたいするマフノ軍と赤軍との政治・軍事協定
3、マフノ叛乱軍と赤軍との反ヴランゲリ統一戦線によるヴランゲリ殲滅
1、ツァーリ反革命領袖ヴランゲリの侵攻とそれとの戦闘
一九二〇年の夏になると、マフノ叛乱軍は一方で、ヂェニキンに替わったツァーリ反革命の領袖ヴランゲリとも戦いを強いられるようになった。叛乱軍はこの反革命軍とのあいだに二度戦端を開いたが、二度とも兵站部を赤軍に脅かされて後退した。いまや、両面の火線に挟撃された叛乱軍は、やむなくボリシェヴィキとの前線を解いて、全ての部隊をヴランゲリ迎撃にさし向けねばならなかった。
だが、このような叛乱軍の革命防衛のための苦戦にもかかわらず、ボリシェヴィキのソヴェート政府は中傷の宣伝に余念なかった。彼らはマフノがヴランゲリと同盟関係をもっているとウクライナ全土に吹聴し、ハリコフ政府の代表ヤコブレフに至っては、一九二〇年夏、エカチェリノスラフ・ソヴェート総会に先立って、当局はこの同盟を裏付ける数点の証拠書類を入手しているとまで言明する始末だった。いうまでもなくこういう宣伝は嘘であり、ソヴェート政府はこの種の出鱈目を吹聴することで労働者農民の意気を挫こうとしていた。それというのも、(1)ヴランゲリの侵攻が強まり、(2)赤軍がこれに反撃を加えようとしない分だけ、ウクライナの人民はますます(3)マフノに期待し、彼に依拠しようとしつつあったからである。
勿論、誰もがマフノの人となりを承知してい、またボリシェヴィキのやり口をも重々心得ていたために、マフノがヴランゲリと同盟しているなどというデマは誰にも信用されなかった。しかしヴランゲリの方ではマフノとの同盟を真剣に考えていて、もしそのような可能性があればそれをあくまで追求しようとしていた。以下に事の経緯に関連する記録を示しておこう−
ウクライナ革命叛乱軍(マフノ叛乱軍)司令部議事録
一九二〇年七月九日、マリウポリ郡ヴレミエフカ村
……(中略)
第四項 ヴランゲリ将軍の使者
議事終了の際、ヴランゲリ将軍よりの使者引き出される。書状一通提出。内容次の如し。
叛乱軍総司令マフノ殿
わがロシア軍は、人民を救い、共産党とその人民委員からこれを解放せんがため、また更に国家と地主の土地を農民に与え保証せんがために、専ら共産主義者の政府と戦いを交えているものである。事実、農民に対する土地の分譲は目下着々と進行している。わがロシア軍将兵は人民とその福利のために戦っている。人民の福利に思いを致すものはともに手を携えて進まねばならない。それゆえ、いまこそ貴下は共産主義者の政府に仮借なく対抗し、その兵站を侵し補給線を分断し、かくして死力を尽くしてトロツキー軍団の殲滅に加担されたい。わが軍最高司令部は、兵員であれ各種専門家であれあるいは武器弾薬であれ、貴下への援助を惜しむことはない。貴下の信頼するに足る使者をもって、共同の作戦に必要な物資等をわが軍に要請されそことを。
南ロシア軍参謀本部参謀総長 シャチロフ中将
地方参謀本部司令長官 コノヴァレツツ少将
メリトポリ 一九二〇年六月十八日
使者はイワン・ミハイロフと名乗り、二十八才。当人によれば、スラシチョフ将軍の副官が書状を手渡し派遣したとのこと。またヴランゲリ傘下の白軍は、マフノの共闘を確信しているとのことである。この書状と使者イワン・ミハイロフに対する処遇について発言あり。
ポポフ「われわれは本日、昨今の時局をめぐる赤軍への態度表明を協議しこれを採択したが、白色テロ集団に対しても即刻適切な回答を与えねばならないと考える」
マフノ「このような低劣な提案に対する唯一可能な回答は、使者の処刑を決意することである。ヴランゲリからの、あるいは右翼一般からの使者が仮にどのような人物であっても変わるところほない。これ以外に回答はない」……
以下の事項、満場一致をもって決議される。(1)イワン・ミハイロフは処刑されねばならないこと。(2)右の書状の公開とそれに対する文書による何らかの回答は、革命叛乱軍評議会に一任されるべきこと。
イワン・ミハイロフは間もなく公の場で処刑された。ヴランゲリの提案をめぐるこれらの事実は、叛乱軍によってその軍報に公表された。だがボリシェヴィキは、事の経緯を一部始終熟知していたにもかかわらず、マフノがヴランゲリと同盟しているという宣伝を、到る処で恥じらいもなく続行した。ソヴェート政府が自ら非を認めたのは、ようやくマフノ叛乱軍とのあいだに軍事及び政治に関する協定が成立してからのことである。
その時点で、政府はその最高軍事委員会を通じて、(1)マフノがヴランゲリと同盟したという事実はなくそれまでの政府の報道は誤った情報に基づいていたこと、(2)それどころか叛乱軍はヴランゲリとの交渉さえ行なわずにヴランゲリの使者を即座に処刑したこと、等を声明した(これについては、ハリコフのソヴェート政府機関紙「プロレタリア」に発表された最高軍事委員会声明「マフノとヴランゲリ」、及びこの十月二十日前後のハリコフに於ける各紙報道を参照のこと)。ただしかかる声明はソヴェート政府が真実を尊重するがゆえに発したものではなく、叛乱軍と協定成立のあと、真実の公表を余儀なくされてのことだった。
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一九二〇年の夏半ばから、ヴランゲリは自ら全軍の指揮をとってゆっくりと、だが着実に侵攻し、ドネツ地方一帯を脅かしてきた。ポーランド戦線の困難な戦況と相まって、ヴランゲリのドネツ侵攻はロシア革命全体に深刻な危機をもたらした。
マフノ叛乱軍は、ますますつのってくるヴランゲリ反革命の脅威をもはや看過し得なくなった。叛乱軍は、ヴランゲリの侵攻がまだ第一段階にあり充分に定着していないうちにこれを叩いておかねばならないと考えた。ヴランゲリ反革命殲滅のための全ての行動は、結局のところ革命に対する寄与そのものであると、正当にも彼らは判断していた。しかし一方で、ボリシェヴィキ=共産主義者にはどういう態度を取るべきなのだろうか? (1)共産主義者の独裁は、解放された労働に対する(2)ヴランゲリに優るとも劣らぬ脅威なのである。だが(1)共産主義者と(2)ヴランゲリとのあいだには明白な相違がある。革命を信奉している多数の人民が、ヴランゲリの側にではなく共産主義者の側にあるということである。
なるほどこれらの人民は姑息な手段で共産主義者にだまされ、権力の強化に利用されてはいるが、それでもなお彼らはひたすらに革命を信じている。この事実は重い意味をもっている。そこで革命叛乱軍評議会と叛乱軍司令部は協議の上、主たる交戦目標をヴランゲリとする旨決定し、大衆的な承認を求めた。
2、ヴランゲリとの戦闘にたいするマフノ軍と赤軍との政治・軍事協定
叛乱民集会は、ヴランゲリを潰走させることによって達成される大きな成果を確認した。第一に、それは革命から余分な重圧を取り除くことになり、第二には、数年にわたって悩まされてきた様々なかたちの反革命勢力を最終的に一括してロシアの現実から叩き出すことになる。労働者農民はこのような雑音の一掃を切実に望んでいた。反革命の妨害をさえ一掃してしまえば、彼らはもっと容易に自らを方向づけ、また混乱と分裂に締めくくりをつけて、革命に新たな活力をもたらすことができるはずなのである。討議の末集会は、共同してヴランゲリを追うために、抗争を停止するよう共産主義者に申し入れることを決議した。
これに先立って、叛乱軍当局は既に七月と八月に、当該内容の電報をハリコフとモスクワのソヴェート政府筋に打っていたが、政府からはいっこうに返答なく、相変らずの弾圧と中傷がつづいていた。しかし九月に入って、エカチェリノスラフが陥落し、ベルヂャンスク、アレクサンドロフスク、グリャイ=ポーレ、シネリニコヴォが相前後して、ヴランゲリの支配に服するに及んで、共同作戦を協議すべく、イワノフを団長とする共産党中央委員会の全権代表が、スタロベリスクの叛乱軍陣地に到着した。そして協議の結果、ソヴェート政府と叛乱軍の軍事及び政治に関する協定の草案が作成され、この草案は最終的な締結を見るためにハリコフへも送付された。同時に、クリレンコ、ブダノフ、ポポフをはじめとするマフノ叛乱軍代表団が、協定を締結し、かつソヴェート政府ウクライナ方面首脳部とも接触を保つためにハリコフへ派遣された。
一九二〇年十月十日から十五日にかけての折衝のあと、次のようなかたちの協定が両当事者のあいだで確認されることになった。
ウクライナのソヴェート当局とウクライナ革命叛乱軍(マフノ叛乱軍)による軍事及び政治に関する暫定協定の各条項
第一部 政治協定
(一)、ソヴェート共和国全域に於いて、マフノ叛乱軍将兵とアナーキスト全員に対する追及を停止し、あるいは、即時釈放すること。ただし、ソヴェート政府に武力をもって敵対する者はこの限りにあらず。
(二)、ソヴェート政府の暴力的転覆を叫ぶ場合は例外とし、また戦時検閲にも従うことを条件として、叛乱軍及びアナーキストが自らの思想信条を文書並びに口頭で宣伝する自由を保証すること。宣伝物の発表にあたって叛乱軍及びアナーキストは政府公認の革命組織と見なされ、政府の出版印刷機関を使用し得ること。ただし、出版印刷に関する諸規定の遵守を前提とする。
(三)、ソヴェート議員選挙への自由参加。叛乱軍将兵及びアナーキストは、ソヴェート議員選出に於ける彼選挙権を有すること。更に、本年十二月に開催される第五回ウクライナ・ソヴェート大会の招集に向けての準備工作に自由に参加し従事できること。
ウクライナ・ソヴェート共和国政府委任代表 ヤ・ヤコヴレフ
ウクライナ革命叛乱軍全権代表 クリレンコ、ポポフ
第二部 軍事協定
(一)、マフノ叛乱軍は志願部隊として赤軍に合流し、作戦行動に於いては赤軍最高司令部の指揮下に入ること。ただし、叛乱軍は赤軍正規軍の基本原則を拘束されることなく、その内部構造を保持し得ること。
(二)、叛乱軍は、ソヴェート共和国領及びその前線を通過する際に、いかなる赤軍部隊も脱走兵も自らの戦列に吸収してはならない。
注意事項
1、ヴランゲリ軍に包囲されあるいは取り残されて孤立した赤軍部隊及び各将兵は、仮に一時的に叛乱軍に救われこれと行動をともにしても、やがて赤軍と再会すればその時点で赤軍に帰属せねばならないこと。
2、叛乱軍将兵や叛乱軍に参加した各地住民は、仮にそれ以前に赤軍から動員命令を受けていたとしても、叛乱軍に留まるべきこと。
(三)、叛乱軍は、共通の敵である白軍を殲滅するために、当協定の成立に関するアピールを人民に公表し、その中でソヴェート政府に敵対する全ての軍事行動を即時停止するよう指示せねばならない。一方、事の迅速かつ徹底した解決を図るために、ソヴェート政府の側も当協定についてただちに人民にアピールせねばならない。
(四)、ソヴェート共和国領内に居住する叛乱軍将兵の家族は、赤軍将兵の家族と同等の特権を承認され、ウクライナのソヴェート政府当局から必要な証明書類の交付を受けることができる。
南部方面軍司令官 フルンゼ
南部方面軍革命軍事会議委員 ベラ・クン、グセフ
ウクライナ革命叛乱軍全権代表 クリレンコ、ポポフ
更にマフノ叛乱軍代表団は、右の第一部(政治協定)三項目に加えて次のような特別項目をソヴェート政府に提案した。
「人民による地域自治を求める戦いがマフノ運動の主要な部分を構成してきた実状にかんがみ、叛乱軍は以下の項目を政治協定第四項として追加提案する。即ち、叛乱軍作戦地域内住民による政治経済両面にわたる自治機関の設置とその自立、及び条約に基づくソヴェート共和国政府機関との連合共存、である」
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種々の口実をもうけて、ソヴェート政府はこの協定の公表を引き延ばした。それで叛乱軍代表団は既に当初から釈然としないものを感じていたが、ソヴェート政府が叛乱軍に三度目の不意討ち攻撃をかけるに及んで、ようやくその真意は露呈した。だがここではひとまず、そこに至るまでの過程に少し説明を加えておこう。
協定公表の件に関するソヴェート政府の不実を確認して、マフノ叛乱軍は協定が公表されるまで、協定にのっとった行動をとれない旨厳重な抗議を発した。このような叛乱軍の圧力によって、やっとのことでソヴェート政府は協定の内容の公布に踏み切ったが、それでも一度に全部を発表せず、先ず第二部の軍事協定を、次いで一週間後に第一部の政治協定を印刷したのだった。そのため協定の本来の意義は曖味なものとなり、ごくわずかの人々にしか理解されなかった。更に政治協定の第四項については、ボリシェヴィキはそれを切り離し、モスクワの意向を打診した上で、特別に審議せねばならないと主張した。叛乱軍代表団はこの主張を了解した。
3、マフノ叛乱軍と赤軍との反ヴランゲリ統一戦線によるヴランゲリ殲滅
マフノ叛乱軍は、十月十五日から二十日にかけて、ヴランゲリに対する攻撃を開始した。前線は、シネリニコヴォ、アレクサンドロフスク、ポロギー、ベルヂャンスクへと延びてゆき、その先はペレコープだった。ポロギーとオレホフ間の最初の戦闘で、ドロズドフ将軍傘下のヴランゲリ軍の大部隊は手痛い打撃を蒙り、約四千名の白軍兵士が捕虜になった。やがて三週間もするとこの地区からヴランゲリ軍は一掃され、十一月のはじめには、叛乱軍は赤軍とともに、もうペレコープを前にしていた。
ところで前線各地の住民の様態も書き留めておかねばならない。マフノ叛乱軍が赤軍と相携えてヴランゲリに宣戦したことが知れわたると、彼らの士気はみるみる高揚した。ヴランゲリの敗北は誰の目にも明らかであり、白軍などものの一両日中にも潰走してしまうだろうという雰囲気が随処にみなぎっていた。
クリミア地方の白軍一掃に果たしたマフノ叛乱軍の功績は、凡そ次のようなものである。赤軍がペレコープに肉迫して布陣しているうちに、叛乱軍は作戦命令を受けてペレコープから東へ約二十五〜三十露里移動し、その地点から、凍結しているシヴァシ海峡を渡った。先ずマルチェンコ(グリャイ=ポーレ出身の農民アナーキスト)の率いる騎兵が先頭に立ち、コージン指揮下の機関銃連隊がこれにつづいた。部隊は敵のつるべ撃ちのただ中を進撃せねばならず、多数の犠牲者を出しながらも、遂に海峡の横断を貫徹した。この時指揮官のフォーマ・コージンも重傷を負って後方に運ばれた。
だが、ただただ勇敢で頑強な攻撃によって、叛乱軍はヴランゲリ軍を追い、やがてクリミア方面軍司令官セミョン・カレトニクがシムフェロポリ将校連隊を直撃し、十一月十三日〜十四日にペレコープを陥落させた。次いで赤軍がこの町に入り占領した。シヴァシ海峡を渡ってクリミアに突入したマフノ叛乱軍の功績は疑うべくもない。彼らはそうしてヴランゲリの軍をその兵站深くまで駆逐し、革命軍がペレコープ地峡に孤立して、四方から包囲される危険を防いだ。
4、グリャイ=ポーレにおける教育・演劇活動の強化
マフノ叛乱軍とソヴェート政府との協定は、ながい戦いの日々のあと、ようやくこの地域にも落着いた建設のためのいくばくかの可能性を与えた。ここに敢えて「いくばくかの可能性」というのは、どこでもヴランゲリ軍との死闘がつづいた上に(例えばグリャイ=ポーレでは叛乱軍と白軍が数度にわたって占領合戦を演じた)、ソヴェート政府が協定を無視して解放区を一種の準封鎖状態に置き、労働者農民の革命的な建設活動を麻痺させていたからである。
だが、グリャイ=ポーレにあったマフノ叛乱軍のもっとも活発な中核部隊は、コミューン建設を最大限に遂行するため尽力しつつあった。活動の主要な眼目は、住民自治の中枢となるべき自由労働者ソヴェートの強化だった。これらのソヴェートの根本理念は<いかなる政府からも支配されずに自立していることであり、ただそれぞれの地域の住民に対してのみ責任を負っていた。
このような方向に最初の実践的な一歩を踏み出したのは、ほかならぬグリャイ=ポーレの農民たちだった。一九二〇年十一月一日から二十日までのあいだに、彼らはこの問題を討議するため少なくとも五回から七回の集会を重ね、徐々に入念に対策を準備していった。十一月の半ばにはこのソヴェートの基礎は固まっていたが、まだ最終的に完成したとはいえなかった。人民によるこのような全く新しい試みは、なおながい模索の時間と経験を必要としていた。それでも革命叛乱軍評議会は、既にこの時期に「自由労働者ソヴェート形成のための綱領」を起草し、(あくまで草案としてながら)公布していた。
グリャイ=ポーレの住民はまた、教育問題をもけっしてなおざりにはしていなかった。なるほど敵味方の再三の占領合戦はこの地区の教育制度を破壊し尽くしていた。長期にわたる無報酬のために教師は生活の手前やむなく四散していたし、学校の施設は廃屋と化し、使用に耐えない有様となっていた。だがソヴェート政府との協定が成立するに及んで、教育問題は再び生彩を帯びて前面にもち出され、叛乱軍は自主管理を前提とした教育制度の再建を図った。
彼らによれば、教育もまた、人民の根本的な要請に基づく他の全ての事柄と同じく働く人々自身の問題なのだから人々はまず自分たちの子供に自らの力で直接に教育を施さねばならない。しかし勿論それだけで満足してはならない。労働者農民はこうしてまず独力で次の世代を教育しながら、同時に学校のシステムを繰り上げ高めてゆく必要がある。その際、この人民の学校はたんに知識の源泉としてあるのではなく、各人が自由共同体の中で自由人として発展してゆくための手段ともならなければならない。それゆえ学校は、その設立の当初から、教会にも国家にも干渉されるべきものではない。
右のような原則にのっとって、グリャイ=ポーレの住民は、教育制度の教会及び国家からの分離独立を精力的に推進した。加えてグリャイ=ポーレには、フランシスコ・フェレロの自由学校思想の信奉者やその理論家、実践員などが幾人もいた。
この新しい教育制度はグリャイ=ポーレ地区に活発な論議を巻き起こし、多数の農民たちが繰り返し参集して討論に加わった。当時マフノは足に重傷を負っていたが、それにもかかわらず彼はこの問題の動向に積極的な関心を示して、集会には必ず姿を見せ、またその方面の専門家に自由学校の理念と実践に関する包括的な解説を求めた。
こうして開発され摂取された新しい教育観は、いよいよ具体化の段階に入った。グリャイ=ポーレ地区には幾つかの初等学校と二つの高等学校があったが、その運営に必要な教師の給与は地区全体の住民が責任を負うことになり、更に労働者農民及び教師の代表者による教育委員会が設置されて経理問題や組織問題の実務に取り組み始めた。委員会は、いかなる権威にも規制を受けないという原則を再確認し、フランシスコ・フェレロの思想を導入して、自由学校のシェーマを作成し採択した。残念ながら内外の困難な情勢に圧迫されて必ずしもスムーズに進捗したとはいえないが、実状に見合った構想が立てられ、それに則した工作活動が到る処で展開していった。また、こういう一般教育と並んで、文盲の人々や無教育な叛乱民のための講座も開講され、更に充分な教養と経験を積んだ講師による成人のための特別クラスも編制された。
叛乱軍将兵向けのコースでは、政治の基本が講義された。このコースの目的は歴史学や社会学及びその関連領域に於ける最低限の素養を養うことであり、そうすることで実際の武器に思想的な内容を付与し、兵士に革命の諸問題と戦略を理解させることであった。ここでは叛乱軍将兵中の博学の士が指導に当たった。カリキュラムは次のような科目で構成されていた。(1)政治経済講座、(2)歴史学、(3)アナーキズムと社会主義の理論と実際、(4)フランス大革命史(ピョートル・クロポトキンの著作をテキストとして)、(5)ロシア革命に於ける革命叛乱の経過について、等々。マフノ叛乱軍がこれらの講座の講演者や教師のために提供できたものはすこぶる貧弱なものでしかなかったが、それでも教える側と学ぶ側双方の熱意によってこのコースは開講とともに活況を呈し、マフノ運動の発展に大きな役割を演じるだろうことは疑いのないところだった。
ところでこうした教育制度の整備に並行して、演劇の分野にも新風が吹き込まれた。ボリシェヴィキとの協定が成立する以前、まだ赤白両面の敵と日夜はげしくわたり合っている最中にも、既に叛乱軍には演劇班が常設されていた。この演劇班は叛乱軍の中から選ばれて組織され、将兵と一般農民のために幾つものドラマを上演してきた。
グリャイ=ポーレにはとても大きな劇場があったが、職業俳優というのは少なく、普通は演劇好きな労働者や農民それに教師などの素人俳優による出し物がかかった。そして、グリャイ=ポーレ近辺の全村が極度に疲弊した内戦期にも、演劇熱は萎縮するどころか、逆に高まったとさえ思えるほどだった。やがてボリシェヴィキとの協定が成立し、その発効によって外からの封鎖がある程度緩和される
と、劇場は連日人波で埋まった。農民も叛乱軍の兵士たちも家族ぐるみで押しかけてきて、時には俳優として出演し、また自作のドラマを上演することもあった。このような中で、叛乱軍の文化部も、グリャイ=ポーレをはじめ解放区全域で積極的に演劇の振興を図った。
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マフノ叛乱軍では、ボリシェヴィキとの協定が信頼するに足るものであり、ながつづきするものなどとは誰ひとり考えてもいなかった。ボリシェヴィキは必ずや何らかの口実をもうけて、マフノ運動に対する新たな攻撃をかけてくるだろう。過去の経論に照らしてみればそれは容易に察しのつくことである。だが前後の政治情勢からして、叛乱軍は三、四か月の余裕を見込んでいた。ボリシェヴィキとの停戦は牧乱軍の宣伝活動に大きな可能性を与えるものだった。当時困難な戦局のため叛乱軍は宣伝活動をほとんど放棄せねばならない状態に置かれていたので、プロパガンダの必要は切実であり、しかも彼らにはその能力が少なからず残っていた。
協定以後のボリシェヴィキとの小康状態を機に、どこでソヴェート政府と相容れないか、何ゆえ両者は戦うのかを人民に明示できるだろうと叛乱軍は考えた。これは図に当たった。住民の自治を要求した政治協定第四項は、ボリシェヴィキには到底承服し兼ねるものだったが、叛乱軍の全権代表はボリシェヴィキに署名を迫り、署名できない場合にはその理由を公的に説明するよう求めた。そうしながら一方で、叛乱軍はこの第四項を討議するよう公衆にアピールし、アナーキストとともに幾度もハリコフの労働者に訴えた。グリャイ=ポーレとその周辺では、この問題を扱った数点の論文が一般に配布された。こうして十一月の半ばには、わずか三、四行にまとまってしまうこの政治協定第四項が到る処で人々の関心をそそり、そのままゆけば、すぐにも全ウクライナの世論を席巻してしまうかと思われるまでになっていた。
5、ヴランゲリ軍総崩れ後直後からの赤軍によるマフノ運動襲撃
だが折しもこの時、ヴランゲリ軍は総崩れとなって、反革命の危険は去った。勿論局外者から見れば、このことは叛乱軍とボリシェヴィキの協定関係に何らの悪影響も及ぼさないように映るかもしれない。しかし叛乱軍は、これが協定の終焉につながることを正しく看破していた。シモン・カレトニクがクリミアに突入し叛乱軍部隊を率いてシムフェロポリに向け進撃中との野戦本部の電報がグリャイ=ポーレに到着するや、マフノの副官グリゴリイ・ヴァシレフスキーは叫んだ。「これで協定はお終いだ! 賭けてもいい。一週間もすればボリシェヴィキはわれわれを襲ってくるにちがいない」−この予言は十一月の十五ないし十六日のことだったが、実際十一月の二十六日、ボリシェヴィキはマフノの司令部とクリミア及びグリャイ=ポーレの叛乱軍を急襲し、ハリコフの叛乱軍代表部と全てのアナーキストを逮捕した。これに呼応してウクライナの他の地域でも、アナーキストとその組織が軒並みに攻撃を受け捕縛された。
時を移さず、ソヴェート政府は常套のやり口でこの恥ずべき行為を言い繕った。政府は、(1)叛乱軍とアナーキストが大規模な叛逆をたくらんでいたと主張し、(2)更にその場所と日時も既に決定済みで、(3)スローガンは例の政治協定第四項をめぐるものだったと断言した。またマフノ個人についても、彼らは、(4)マフノがカフカース戦線への出兵を拒絶し、反政府軍編制のために農民の動員を指示し、(5)あまつさえクリミアでヴランゲリと戦うかわりに、兵站で赤軍の後衛に攻撃をかけていた、などと吹聴した。
いうまでもなく、このような類いの宣伝は全て真っ赤なデマゴギーである。幸いにしてわれわれにはこれらの虚偽をあばき真実を解き明かす手立てがある。それを列挙してみよう。
第一、一九二〇年十一月二十三日、マフノ叛乱軍当局は、ポロギー及びグリャイ=ポーレに於いて、赤軍第四二狙撃師団所属の九人のスパイを逮捕した。彼らは(1)スパイ活動を認め、(2)自分たちが第四二狙撃師団防諜部長官の命でグリャイ=ポーレに潜入したことと、(3)任務はマフノ並びに司令部要人、革命叛乱軍評議会委員の居所をつきとめ、(4)赤軍のグリャイ=ポーレ侵攻と同時にそれを報告することであり、(5)その際これらの人々が逃亡すればあくまで追跡して摘発することであったと白状した。スパイたちのもたらした情報では、赤軍の襲撃は十一月の二十四日か二十五日だろうということだった。
革命叛乱軍評議会と叛乱軍司令部は、ソヴェート政府南部方面革命軍事参謀本部と当時のその長官ラコフスキーにこの発覚した陰謀に関する通達を送り以下の二点を要請した。
(1)、第四二師団司令官及び防諜部長官はじめ全ての加担者を即刻逮捕し軍事法廷に喚問すること。
(2)、赤軍はトラブルを避けるためにグリャイ=ポーレ、ポロギー、小タクマチカ、トゥルケノフカの各地点を通過しないこと。
ハリコフのソヴェート政府からの回答は次のようなものだった。
(1)、この陰謀なるものは多分単純な誤解から生じたものだった。
(2)、しかしながら、ソヴェート政府は、真相究明のため特別委員会を設置する。
(3)、マフノ叛乱軍からも二名の委員を派遣されたい。
回答は十一月二十日、ハリコフから直通電話で伝えられた。そして翌二十六日の朝、叛乱軍書記局のペ・ルゥイピンがこの件について再度ハリコフと連絡をとったが、この時もボリシェヴィキは事もなげに、第四二師団の問題は叛乱軍に納得のゆくよう処理されるはずであると通告し、加えて政治協定第四項についても実り豊かな解決に近づいている旨返答した。この直通の会話は十一月二十六日午前九時のことである。だが一方で、既に午前三時には、ハリコフの叛乱軍代表部と全ウクライナのアナーキストが逮捕されていたのであり、更にルゥイピンとボリシェヴィキの協議からきっかり二時間あとには、グリャイ=ポーレは八方を赤軍に包囲されて集中砲火を浴びていた。
そればかりではない。ヴランゲリを撃破したクリミアの叛乱軍部隊も、同日同時刻に不意討ちを受け、クリミア方面司令官シモン・カレトニクをはじめとする叛乱軍野戦本部の幕僚は全員捕えられて銃殺された。疑いもなく、このように統制のとれた作戦と一斉検挙は慎重に計画されたものであり、少なくとも十日か二週間前から準備されていたものと思われる。だからソヴェート政府は、ただマフノ叛乱軍を卑怯なやり方で襲ったばかりではなく、より徹底的に弾圧せんがために、友軍を装いながら前以って叛乱軍の注意を外らせて、せっせと口先で誤魔化してきた。
第二、赤軍のグリャイ=ポーレ侵攻の翌日、十一月二十七日に、叛乱軍は捕虜にした赤軍兵士から、「マフノに向かって進撃せよ」とか「マフノ運動に死を」などと標題された日付のないパンフレットを押収した。これらのパンフレットは赤軍第四軍政治局から出されたものであり、兵士の証言では、十一月の十五日から十六日にかけて配布されたものである。それらは、マフノが協定を無視したとか、カフカース前線への出兵を拒絶してソヴェート政府に対する叛逆を企てたとか、いう出鱈目な理由によって叛乱軍への宣戦をアピールしている。叛乱軍がクリミアへの突破口を開いてシムフェロポリを占領し、またマフノの代表部がハリコフでソヴェート政府と協働しているさ中に、マフノに対するこのような誹謗が捏造され印刷されていた。
第三、叛乱軍とソヴェート政府の協定が合意に達して調印された十月から十一月にわたる期間に、政府に雇われた暗殺者によるマフノを狙った二つのテロル計画がグリャイ=ポーレで発覚し、未遂に終っている。
なお、カフカース前線への出兵を要請した命令書なるものが、グリャイ=ポーレの叛乱軍中央司令部に届いていないことも付け加えておく必要がある。マフノは当時、足の骨を砕かれるという重傷を負っていて文書処理には全く携わっておらず、文書の類いは参謀長ベラシュと書記局のべ・ルゥイピンが目を通して毎日の評議員会に報告していたので、この点について間違いはない。
ここでもう一度、ソヴェート政府が協定の公表を遅らせたことについて考察せねばならない。なにゆえに政府が公表を渋ったかはいまや明らかである。政府にとっては協定など戦術上の策略に過ぎず、ヴランゲリを潰走させるまでたかだか二か月のあいだ通用すればそれでよかった。ヴランゲリの反革命が去ってしまえば、ソヴェート政府は再び叛乱軍を盗賊集団と呼び、革命の敵と罵って、対抗する用意があった。したがって彼らには、叛乱軍との同盟を公にし衆目の裁断に任せる熱意などさらさらなく、むしろ何事もなかったかのようにひた隠して、叛乱軍に対する弾圧を再開しようと図っていた。これがソヴェート政府の協定違反の背後にあった真相である。
ところで、この協定の条文を慎重に検討してみると、そこには二つの要素が認められる。(1)ひとつは権力構造の中のエリート権限を保障しようとする集権的な傾向であり、(2)いまひとつは、抑圧された人民が古い時代からもちつづけてきた願望に基づく革命的な傾向である。労働者農民の権利に言及した協定第一部が全て叛乱軍側からの要請のみによって構成されていることは注目に価するが、これに対してソヴェート政府は、各条文の中でまさに古典的な態度をもって圧制者側の立場を擁護し主張している。即ち政府は、叛乱軍の要求を極力制限しようとし、各項の意義を空文化して人民の生活に不可欠な政治上の諸権利を可能な限り抑制しようとしている。
更にわれわれは、アナーキズムから闘争の形態を学んだマフノ叛乱軍が、常に政治的陰謀に敵対してきたことをも証言しておこうと思う。叛乱軍は、広大な人民のただ中に直接に闘争をもち込むことによって、何の隠しだてもなく革命戦争を遂行してきた。彼らはこのような人民自身による戦いのみが、最終的な勝利をもたらすものであることを固く信じていたのであり、それゆえただ権力の交替だけを目指す陰謀などというものは彼らにとっては己れの本性に反することだった。
こうして、ソヴェート政府と叛乱軍とのあいだにとり交わされた協定は既にその端緒からボリシェヴィキによって死文化を運命づけられていて、ヴランゲリの破滅まで、わずかにかりそめのの効力を発したに過ぎない。
このことはほかならぬソヴェート政府の手になる幾つかの文書からも明らかである。当時のボリシェヴィキ南部方面司令官フルンゼの命令書をここにあげておこう。この命令書はボリシェヴィキの裏切りを如実に物語っていて、同時に、ソヴェート政府によるアナーキストや叛乱軍についてのデマがまさしくデマ以外の何ものでもないことを証明している。
叛乱軍司令官同志マフノ宛て指令。並びに南部方面各戦線指揮官宛て指令。aZ〇一四九
総司令部発。一九二〇年十一月二十三日、メリトポリ
ヴランゲリ軍に対する作戦行動の終結にともない、ソヴェート政府南部方面軍革命軍事参謀本部は、叛乱軍パルチザン部隊の任務が完了したものと見なし、叛乱軍革命軍事評議会に、ただちにこの部隊を赤軍正規軍に編入するよう提案する。叛乱軍が独自に存続する必要は現下の軍事情勢からしてもはやなく、別個の組織と目標をもった軍が赤軍と並存することは、実に好ましからざる事態をもたらすもととなるだろう。それゆえわれわれは次の如き要請を行なうものである。
(1)、クリミアに展開している叛乱軍全部隊は即刻赤軍第四軍に編入すべきこと。その際、改編改組手続きは第四軍革命軍事委員会に委任される。
(2)、グリャイ=ポーレの「軍令部」は解散し、各兵士は赤軍司令部の指示に従って予備軍に編入される。
(3)、叛乱軍革命軍事評議会は、あらゆる手段を用いてかかる措置の不可欠なることを傘下の兵員にアピールすべきこと。
南部方面軍司令官 エム・フルンゼ
革命軍事会議委員 スミルガ
野戦参謀本部長 カラトゥイギン
ここで協定成立までの成り行きをふりかえってみよう。
前にも述べた通り、マフノ側は協定に先立って、とくにこの目的のためにスタロベリスクの叛乱軍陣地を訪れたイワノフを長とする政府代表団と予備交渉をもっていた。この交渉はスタロベリスクからハリコフに移され、合意に達するまでの三週間のあいだに各条項についての綿密な検討が双方から加えられた。その結果、あくまで両当事者の合意に基づいて、最終的には全条項をひとまとめとして、協定が成立し調印された。したがって、どちらかの側から全体が一方的に破棄されない限り、協定はその経過からいって、双方の同意なしにたとえ一項でも停止されたり変更されたりしてはならない。
ところで協定第二部第一項は次のようになっている。
「ウクライナ革命叛乱軍(マフノ叛乱軍)はソヴェート共和国軍に志願部隊として参加し、作戦行動に於いては赤軍最高司令部の指揮下に入ること。ただし、叛乱軍は赤軍正規軍の基本原則に拘束されることなくその内部構造を保持しうること」
右の条項にもかかわらず、フルンゼは前掲の指令によって叛乱軍の解散と赤軍への編入を要請している。しかもその根拠はといえば、命令書本文にも明記されている通り、ヴランゲリ軍に対する作戦行動の終結にともない、「叛乱軍パルチザン部隊の任務が完了したものと」ソヴェート政府に「見なさ」れたからである。
こうして一部を無視された協定は、その当該箇所に於いてばかりでなく、全条項に於いて失効した。ソヴェート政府が条項の変更を協議による修正という形態をとらずに、軍事命令というかたちで、しかもただちに砲門を開いてまでやりおおせようとしたことは、そもそもこの協定の全体が、叛乱軍を陥し入れるためのボリシェヴィキの罠にほかならなかったことを雄弁に物語っている。なお、クリミアに駐留中の赤軍第四軍は、もし叛乱軍が指示に従わなければ、総力を挙げてこれを叩くようにとの追加命令をも入手していた。
とやかくいうまでもなく、フルンゼの指令を一見するだけで、事態は明白である。つまりは叛乱軍に自発的な解散と赤軍への身売りを迫っているのであり、換言すればマフノ運動そのものが自殺を要求されている。その露骨さと単細胞ぶりだけでも呆然とするほかないように思える。
だがその裏には、マフノ運動を決定的に殲滅するための透徹した計算が秘められている。(1)ヴランゲリは掃討されたし、(2)叛乱軍をも利用し尽くした。(3)マフノ運動を破壊するには最適の時機である。いまこそマフノ主義は消滅せねばならない。−これがフルンゼの指令の本来の狙いであった。
しかし、この露骨で隠しだてのない命令書も、その内容と同様に隠しだてなく伝えられたわけではなかった。当初グリャイ=ポーレの司令部もハリコフの代表部もこの指令をうけ取ってはおらず、奇襲攻撃の三、四週もあとになって偶然手に入った新聞の紙面から、ようやく叛乱軍はその存在を知った。もっとも、それは当り前のことで、不意討ちをかけようとしていたボリシェヴィキがこのような文書を予め公表するわけはない。そんなことをすれば計画はひとたまりもなく頓挫してしまっていたにちがいない。叛乱軍はたちまちにして到る処に決起し、ボリシェヴィキの奇襲など思いもよらなくなってしまったはずである。
ソヴェート政府はこのことを充分に承知していた。それで彼らは、己れの腹の内を最後の最後まで極秘にしておいた。フルンゼの指令は日付けこそ十一月二十三日となっているが、攻撃のあと協定の破棄が既成事実となってから、十二月十五日付けのハリコフの機関紙「共産主義者」にはじめて公表された。以上の全ての策謀は、叛乱軍を不意討って潰滅させ、しかもその行為を「手続き上正当なものである」といいくるめるために立てられ実行されたのだった。
マフノ叛乱軍に対する攻撃と並んで、各地でアナーキストの大量逮捕が行なわれたことについても既に述べたが、アナーキズムの理念を直接批判し圧殺するだけでは満足できないボリシェヴィキは、これによってアナーキストの側からの弾劾声明や事件の真相アピールの可能性をも窒息させようとした。この時逮捕されたのはアナーキストだけではない。アナーキストと知り合いであるとかアナーキズムの文献に興味をもっているというだけでも無差別に逮捕され、エリサヴェトグラートでは十五才から十八才の十五人の少年までが拘禁された。さすがに、ニコラーエフ市の県庁当局はこれには難色を示し、「本当の」アナーキストを目標にすべきだとの見解を出したが、それでもこれらの少年たちは釈放されなかった。
ハリコフに於けるアナーキストの検挙は、ロシヤでは前代未聞の規模をもって行なわれた。町中のアナーキストの住居には罠が張りめぐらされ、アナーキズムの文献を扱っている「自由兄弟」という書店にも張り込みが立って、この店を訪れる客は誰彼となくチェーカーに突き出された。それどころか、検挙令が出る直前に合法的に印刷されて、家々の壁に貼られているアナーキストの機関紙「ナバト」を路上で立ち止まって読もうとすれば、もうそれだけで手が後ろへ回るという始末だった。ハリコフのアナーキスト、グリゴリィ・ツェスニクは偶然にも逮捕を免れたが、その替わりに政治活動にはまるで関係のなかった妻が投獄された。それで彼女はただちにハンガー・ストライキに入って釈放を要求したが、ボリシェヴィキは卑劣にも、ツェスニクが自首すれば妻を放免すると公示した。ツェスニクは重症の結核を押して出頭し投獄された。
クリミアの叛乱軍司令部が全員不意を襲われて、捕虜になったことも前述の通りだが、その中で、やはり赤軍第四軍に包囲された騎兵隊長マルチェンコだけは手勢を率いてペレコープ地峡の阻止線を破り、夜を日についでの強行軍の末に、ようやく十二月の七日になって、ギリシャ方面のケルメンチクでマフノらの一隊と合流した。これに先立って、クリミアのマフノ叛乱軍が血路を開いて脱出に成功したという噂が流れていたが、遂にこの日になってマルチェンコの部隊が数時間内に到着するとの情報がもたらされるや、狂喜したマフノの部隊はケルメンチクから馬を飛ばして出迎えに赴いた。だが、遠方に接近してくる騎馬の軍団を認めた時、居合わせた将兵の胸は曇った。千五百騎にのぼる装甲騎兵が、いまやわずか二百五十騎の哀れな隊列となって帰還してきた。先頭にはマルチェンコとタロノフスキーがいた。
「私は光栄にもクリミア派遣軍の帰還を諸君に報告します」
マルチェンコは軽い自虐を込めて言った。全員が力なく微笑した。「兄弟たち」、マルチェンコはつづけた。「そう、いまこそわれわれは共産主義者がどういうものか知ったのです」−
マフノは暗鬱な表情のまま黙っていた。全ウクライナに勇名を馳せたあの輝かしい騎馬隊の潰滅と、眼前にうなだれる一握りの敗残兵の姿が、彼のこころを打ちのめしていた。マフノはひたすら沈黙し、そうすることで内心の動揺をひた隠そうとしているふうであった。
その場で集会がもたれ、クリミアでの出来事が報告された。その大要は次のようなものである。クリミア派遣軍司令官セミョン・カレトニクは、軍事上の協議のためと称して、ソヴェート政府によってグリャイ=ポーレへ急派され、その途上で逮捕された。野戦参謀本部長ガヴリレンコはじめ司令部幕僚及び指揮官級の将校は、作戦会議にかこつけて招集され逮捕された。これら全員が即刻銃殺となり、更にシムフェロポリに在った文化宣伝局のメンバーもまたたく間に拘禁された……
十一月二十六日、赤軍に包囲されたグリャイ=ポーレに残っていたのは、わずか百五十騎から二百騎の特別騎兵中隊だけだった。だがマフノはこの中隊を率いて、ウスペノフスク方面から侵攻してきたソヴェート騎馬連隊を蹴散らし、密集した赤軍の包囲網を突破した。最初の一週間に、各地から結集してきたパルチザンとボリシェヴィキを見捨てて参加してきた幾つかの赤軍部隊を加えて、マフノは千騎の騎馬隊と千五百名の歩兵を組織し攻勢に転じた。そしてそれからちょうど一週間すると、赤軍第四二師団を敗走させたマフノの部隊は、もうグリャイ=ポーレを奪回し、六千にのぼる敵兵を捕虜にしていた。
このうち約二千名は叛乱軍に参加したいと申し出てひきつづき滞在し、他の四千名は、集会のあとその日のうちに釈放された。次いで三週間あとにも、叛乱軍はアンドレエフカで更なる打撃を与えた。深夜から翌日の夕刻までつづいた戦闘で、マフノは赤軍の二個師団を降服させ、八千名から一万名に達する将兵を武装解除した。この時もグリャイ=ポーレでの場合と同じく、叛乱軍に志願する者を除いて全員がただちに釈放された。その後更に、赤軍は、コマレ、ツァーレ=コンスタンチノフカ、ベルヂャンスクの各会戦でも重大な敗北を蒙らねばならなかった。赤軍の歩兵部隊は叛乱軍を前に士気高まらず、いつでも機会さえあれば大挙して投降を図る有様だった。
暫くのあいだ、叛乱軍は打ちつづく勝利に勢いを得ていた。それで彼らは、この上二つか三つの師団を敗走させればもう充分だと考えるようになっていた。そうすれば赤軍のある部分は叛乱軍に流入してき、残る部分も北へ撤収するほかなくなるだろうと予測していた。だがこの予測は甘かった。やがて方々の農民から、ボリシェヴィキがどの町村にも宿営を築いて、主に騎兵連隊を配置し、幾つかの箇所では大部隊の集結も見られるという情報が入った。事実マフノも、間もなくグリャイ=ポーレ南方のフェドロフカで騎兵歩兵から成る赤軍の数個師団に囲まれ、この時は早朝二時から午後四時まで戦いつめてようやく北東方向に離脱したのだった。そしてその三日あとに今度は、コンスタンチンで同様の事態が発生し、戦局は急転直下終末的な様相を呈し始めた。
叛乱軍は、騎兵の大部隊に包囲され集中砲火を浴びせられた。マフノが捕虜にした赤軍士官から聞き出した情報によれば、敵は騎兵二個・混成二個の計四軍団をマフノ追跡に当てていて、これに四方からの援軍を加えて包囲網を張ろうとしているらしかった。この情報は、農民たちから得た情報ともマフノ自身の判断とも一致していた。叛乱軍に差し向けられた大軍を前にして、たかが二つか三つの赤軍部隊を破ることなどもはや何の意味もなくなっていた。問題は敵の戦力を撃破するどころか、いかにして叛乱軍を全滅から救うかにあった。わずか三千の兵力で、叛乱軍は連日、一万〜一万五千の兵員を擁する敵と渡り合わねばならなかった。
このような条件のもとでは、叛乱軍の破局はいよいよ避け得べくもないと思われた。そこで、革命叛乱軍評議会は協議の末に南部ウクライナ全域の一時的な放棄を決意し、転進行動の指揮をマフノ一身に委ねた。マフノの軍事的な才能は重大な試練に立たされていた。叛乱軍を完璧に包囲してしまったボリシェヴィキから逃れることはまず不可能事といってよかった。三千の革命戦士が一万五千名にのぼる赤軍に囲まれている。だがマフノはどのような局面にも戦意を失うことなく、部隊を率いて英雄的な決戦を挑んでいった。赤軍の師団を全面に受けながら、彼は前後左右に遊撃し、さながら神話の巨人タイタンのように奮闘した。
やがてマフノは幾つかの赤軍部隊を粉砕して、二千名の将兵を捕獲し、その方面の阻止線を破って脱出した。最初彼は東に進路をとって、ユゾフカの方角へ向かった。これは奇妙なことだった。ユゾフカから来た労働者が口をそろえて、そこには敵の強力な防塁があると警告していた。ところが、それもマフノの策略だった。ユゾフカ方面に向かうと見せて、彼は途中で突然西へと転じ、彼にしかできないような現実離れした方針をとったのだった。それからというもの、叛乱軍はいっさいの道路を無視し、数百キロに及ぶ雪の荒野を進軍したが、マフノの非凡な方位感覚に支えられて目標を見失うことはなかった。この強硬奇抜な戦術によって、叛乱軍は密集した敵の砲陣と銃座を逃れ、更にはヘルソン県のペトロヴォで、赤軍第一騎兵師団に属する二つの旅団を潰走させた。彼らは、叛乱軍がまだ百キロも彼方に布陣しているものと思い込んでいた。
このような昼夜を分かたぬ遊撃戦が数か月のあいだつづいた。
叛乱軍がキーエフ県の岩山地帯に入ったのは厳冬期で、一面が氷に彼われている季節だった。それで彼らは、野戦砲も糧食も荷車(タチャンカ)さえも放棄せねばならなかった。しかもこういう時期に、西部辺境地帯に在った赤色カザークの騎兵二個師団が、思いがけなくも参戦し、ボリシェヴィキのマフノ追討軍に加担した。あらゆる退路が絶たれていた。叛乱軍にとって一帯は全て墓場であり、岩と凍結した絶壁の上を、絶え間ない砲撃にさらされながら彼らはひたすら遅々として行軍をつづけた。救いも望みもなかった。だが誰ひとり恥ずべき敵前逃亡を図る者はなく、全軍の将兵が名を惜しみ、互に寄り添って死地をともにしようと決意していた。
それは言い知れぬ悲痛な姿だった。ほかならぬ自由のために決起して追われたひと握りの人々が、裸の岩壁と空と砲火のさ中に、なお最後の一兵まで戦おうとしている。彼らに許されているものは、ただ死の運命だけだった。そうして苦悶と悲哀の底で、絶望の果てに彼らは叫んだ。そう、愛する息子たちと母たちへ、愛する兄弟たちの全世界へ、マフノ叛乱軍の戦士らは叫んだ。それは無言の叫びだったが、人々よ、あなたがたには聞こえないか。恐るべき犯罪が行なわれようとしている、と。この英雄的な世紀を通じて、ものもたぬ人民が、ただ人民のみが産み築いてきた美しい希望、何者にも奪われず何者をも裏切ることのない潤い深い精神がいまこそ虐殺されようとしている、と−
だが、マフノは自らに課された試練を誇らかに耐え抜いた。彼はガリツィア県境まで進んで再びキーエフ方向に転じ、キーエフ市近郊でドニエプルを渡河してポルタヴァ、ハリコフ両県を経、そこから北上してクールスク県に入った。そして間もなく、クールスクとベルゴロド間で鉄道を横断したマフノと叛乱軍は、ようやく一息つける状態をとり戻した。赤軍の騎兵・歩兵の大軍を遙か後方にひき離すことができた。
しかし戦いは終ったわけではない。ソヴェート政府はマフノ運動の真の中核を破壊しようとあくまで総力をふりしぼっていた。ウクライナの到る処から最大な数の赤軍がマフノの宿営を目指し、機烈極まる砲火がまたもわずかな革命の戦士らを包んだ。生死を賭けた戦闘が尽きることなく繰り返された。
6、マフノの手紙−マフノ運動と叛乱軍の劇的で英雄的な終焉
マフノは友人に宛てた手紙の中で、マフノ運動と叛乱軍の劇的で英雄的な終焉を次のように物語っている−
親愛なる友よ、きみがわれわれのもとを去ってから二日後に、われわれはクールスク県のコロチャの町を占領して、「自由ソヴェート建設に関する基本原則」を数千部配布した。それからわれわれは、更にヴァルプニャルカとドン地方を通ってエカチェリノスラフ県とタヴリダ県に向かった。連日がはげしい戦闘のうちに明け暮れた。われわれは二面の敵と戦わねばならなかった。(1)ひとつはわれわれを追跡してくる赤軍歩兵部隊であり、(2)もうひとつは私個人を狙って、特にボリシェヴィキ司令部から派遣された第二騎兵隊である。
勿論きみも知っての通り、われわれの騎兵は無敵だ。ボリシェヴィキの騎兵など、歩兵と装甲車の援護なしにはまともに相手にもならない。それで、なるほど損害も少なくはなかったが、われわれはコースを変更することなく直進することができた。われわれの軍が真に革命的な人民軍であることは、この過程で日々新たに明らかとなった。実際、論理的には減退するはずの戦力が、人的にも物資の上でも増大する一方だった。
進撃の途上、ある激烈な戦闘では、特別騎兵連隊の三十人近くが戦死し、その半数は将校だった。その中にはわれわれの得難い同志でこの連隊を指揮していたガヴリューシャ・トロヤンも入っている。知っての通り、彼は若いが戦略には長けていた。トロヤンは一発で即死した。彼のそばで、アポロンやその他多くの勇敢な同志たちも倒れた。
グリャイ=ポーレ近くで、われわれはブローヴァとパルホメンコに率いられたパルチザンの大部隊と合流した。更にそのあと、マスラクを長とするブヂョンヌイの赤軍第四騎兵師団第一旅団がわれわれの側についた。ボリシェヴィキの専横に対する戦いはいよいよはげしく燃えさかった。
三月の上旬になって、私はブローヴァとマンフクの部隊を本隊から切り離して独立させ、これをドン及びクバン方面に派遣した。またパルホメンコの部隊も単独のグループとして、ヴォロネシ県方面に出撃させたが、パルホメンコは間もなく戦死し、替わってハリコフ県チュグエフ出身のアナーキストが指揮をとった。更に六百の騎兵とイヴァニュクの歩兵連隊から成る第三の独立部隊がハリコフを目指した。
この頃、最良の同志であり革命家であるヴドヴィチェンコが戦闘で負傷し、療養のためノヴォシバスクに行かねばならなくなった。ところがそこで彼はボリシェヴィキの討伐隊に発見され、抗戦の末、マトロセンコとともに自決を図った。マトロセンコは即死したが、ヴドヴィチェンコの弾丸は脳に達せず、瀕死のまま逮捕されて暫く生きていた。私が伝え聞いたところでは、彼はアレクサンドロフスクの病院に収容されながら、ともに収容された同志たちになお脱走させてくれるよう懇願していたということである。ボリシェヴィキは死の床にあるヴドヴィチェンコを虐待し、マフノ主義との訣別を迫って署名させようとした。だが彼は、もうほとんど話せず、しかも拒めば銃殺を免れないにもかかわらず、ボリシェヴィキの申し出を冷淡にきっぱりと断わった。ヴドヴィチェンコが実際に銃殺されたかどうかは私にもわからない。
その間、私自身はドニエプルを渡ってエコラーエフに攻め入った。しかしそこから再度ドニエプルを渡ってペレコープ北方を経、叛乱軍の幾つかの部隊に合流するためわれわれの地方を目指そうとしたところ、既にメリトポリには赤軍の阻止線が張られていた。その上ドニエプルはもう流氷の時期に入っていて、右岸まで引き返すこともできなかった。そこで私は自ら馬にまたがり、戦闘を指揮せねばならなかった。われわれは正面に布陣している一隊との交戦を避け、敵の他の隊をこちらの偵察隊の誘導で移動させて、その部分の戦線を突破し、更に六十露里進んで三月八日の早朝に、モロチヌイ湖畔のボリシェヴィキ第三軍を攻撃した。
次いでわれわれはモロチヌイ湖とアゾフ海に狭まれた地峡を通過し、上トクマクの平原に達した。ここで私はクリレンコに命じてベルヂャンスクとマリウポリ方面の叛乱を指導させ、私自身と本隊はグリャイ=ポーレを経由してチェルニーゴフ県へ向かった。農民の代表団がチュルニーゴフ県の数か所からやってきて、是非視察に訪れるよう招待してくれていた。
ところが、千五百の騎兵と二連隊の歩兵から成るペトレンコ指揮下のわが軍は、途中ボリシェヴィキの強力な部隊に包囲されて足止めをくった。私はここでも自ら指揮をとって反撃し、これに成功した。われわれは敵を撃破し全軍を捕虜にして、武器弾薬と大砲、軍馬を没収した。だが二日後にはもうわれわれは優秀な新手の敵軍に攻撃されねばならなかった。
うちつづく戦いに味方の将兵は命知らずの猛者となり、既に比類のない勇敢さと英雄性を身につけていた。「自由に生きるか、さもなくば戦場に死す」という叫びとともに、彼らはどのような敵中にも身を躍らせ、これを撃滅し四散させた。こうした愚かなまでに果敢な反攻の中で、私は座骨部から盲腸の近くを貫通する銃創を負い落馬した。これが後退の原因となった。こういう場面に慣れていないひとりの新兵が「バチコがやられたぞ!」と叫んでしまったからである。
包帯もせずに銃座つきのタチャンカに載せられて、私は十二露里も後方へ運ばれた。そのため私は出血多量で危うく落命するところだった。立つことも座ることもならず、気を失ったまま、私はレフ・ジニコフスキーに看病され警護された。これは三月十四日のことである。
ところで、つづく三月十五日の早朝にかけて、各部隊の指揮官や司令部のメンバーがベラシを先頭に私のところに集まってきた。彼らは、クリレンコやコージンをはじめ各地で作戦を指導している同志たちに百ないし二百名ずつ兵員を割いて分与するよう命令してほしいと頼んだ。私が再び乗馬できるようになるまで、護衛の特別連隊とともにもっと静かな場所にひとまず私を転地させようとの配慮からだった。私は命令書に署名し、更にザブヂコに軽装備の一隊を托して現在地に留まるよう命じた。
この部隊には、私との連絡を絶たないという条件をつけた上で自由な作戦行動を許可した。翌三月十六日の早朝、護衛の特別連隊を除く全ての部隊がそれぞれの目的地に向けて出発していった。ところがそのあとすぐに、われわれは赤軍第九騎兵師団に襲われ、百八十露里を十三時間にわたって追撃された。われわれは、アゾフ海に面したスロボダの町まで撤退してようやく馬を替え、五時間ほどの休憩時間を確保できた。
三月十七日の早朝、われわれはノヴォスパソフカの方向に進路をとって出発したが、十七霹里ほど行軍した地点でまたも別のボリシェヴィキ騎兵隊に遭遇した。この部隊はクリレンコを追跡していて果たさず、替わりにわれわれに襲いかかってきた。われわれは疲労の極にありとても満足な交戦など不可能な状態だったが、そのわれわれをなお二十五霞里追撃したあと、彼らはいよいよ総力をあげて攻撃してきた。
私は何をなすべきだったろうか? 乗馬できるどころか馬事の中で座ることもならず、ただ横たわって、百五十メートルばかり後方のむごたらしい白兵戦を眺めているほかなかった。わが軍の戦士たちはただただ私のために、私を見捨てないために死んでいった。衆寡敵せず、やがてわれわれの潰減は必至となった。敵は恐らくわれわれの五倍から六倍の兵力であり、次々と新手を繰り出してきていた。この時私の馬車に「ルイース軽機銃隊」の兵士たちが近づいてきた。彼らはきみがまだわれわれのところに居た頃からの同志たちで、きみも憶えているだろうが、あのベルヂャンスク近郊チェルニゴフカ村出身のミーシャに指揮されていた部隊の五人である。
彼らは私に訣れを告げてこう言った。「バチコ、あなたは私たち農民の運動に無くてはならない人です。この運動は私たちにとってかけがえがありません。私たちは間もなく死ぬでしようが、私たちの死はあなたとあなたに希望をつないでいる全ての人々を救うことになると思います。どうか忘れずに、私たちの最期の言葉を私たちの両親に伝えて下さい」−
誰かが私に訣れの接吻をし、そしてただちに身を翻して打って出た。レフ・ジニコフスキーが私を両腕にかかえ、ちょうど通りかかった農夫の馬車に移した。私は遠のいてゆく機銃音と砲弾の炸裂音を聞いていた。私をボリシェヴィキから守ったのはこの「ルイース軽機銃隊」の銃手たちである。その間に、われわれは三ないし四露里の道のりを戦場から離脱し、とある小川を渡っていた。だがわれわれの機銃手は、全員が帰らぬ人となった。マリウポリ地区スタロドゥポフカでの出来事である。
のちにわれわれが再びこの村を通過したとき、村人たちは草原に囲まれたささやかな墓地を見せてくれた。そこに、われわれの機銃手たちが眠っている。これらの無名で純朴な農民戦士たちの、そしてその妻子と両親たちの生涯にわたる哀歓と、いまや生涯を越えてゆく熱い願いを思いめぐらせば、いつまでも私は涙を禁じ得ない。だが親愛なる友よ、私はきみに報告しておかねばならない。実にこの勇敢な人々の行為に気圧されて、私はたしかにいくらか回復したのだった。その日の夕刻間近く、私は馬にまたがってこの地区を後にした。
四月に入って私は叛乱軍の全部隊と連絡をとり、余り遠くない部隊をポルタヴァ県に招集した。五月に、私はフォーマ・コージンやクリレンコとともにポルタヴァにあり、傘下には二千の騎兵と歩兵の数個連隊が結集していた。われわれはハリコフへ進撃してボリシェヴィキ=共産党の「ダラ幹」を討つ決意だった。だが敵にも油断はなかった。彼らは六十台の戦車と騎兵数個師団及び歩兵の大軍をもってわれわれを攻撃してきた。戦闘は数週間つづいた。
一か月後、同じこのポルタヴァの戦いで、同志シチュシが戦死した。この時彼はザブヂコの部隊で参謀長をしていたが、その働きは常にめざましかった。更に一か月後にはクリレンコが倒れた。われわれが鉄道を越えて進出した時、彼の部隊は沿線の確保を担当したが、ここで彼は自分の中隊を二分して半数を守備に残し他の半数を率いてパトロールに出た。だがこのパトロール隊は赤軍ブヂョンヌイ師団の騎兵に組まれ、抗戦の末クリレンコは戦死した。
一九二一年五月十八日、ブヂョンヌイの赤軍騎兵師団が、元同師団第一旅団長で旅団ともどもわが方に参加してきたマスラクと古参の叛乱軍同志ブローヴァの率いる部隊を討つために、エカチェリノスラフ方面からドン地方に向かっていた。
われわれが居たペトレンコ=プラトーノフ指揮下の部隊はブヂョンヌイの師団から十五ないし二十雷里の地点にあったが、私がいつもこの部隊と行動をともにしているのを知っていたブヂョンヌイは攻撃を決意した。彼は、同じく叛乱軍鎮圧のためにドン地方を目指していた第三戦車隊に、戦車十六台でノヴォ=ダリゴレフカ(ストレメンノエ)郊外を包囲するよう命じ、自らも師団の中核である第一九騎兵隊(元の「ヴヌース」連隊)を率いてノヴォ=グリゴレフカに向かった。
だが戦車隊が谷間を避け浅瀬をさがして迂回しているうちに、ブヂョンヌイの方が先に到着してしまった。わが軍の斥候はこのような形勢の一部始終を捕捉していて、そのためわれわれは先手を打つことができた。ブヂョンヌイの攻撃とともに、待ちもうけていたわが軍は激烈な逆襲を加えた。誇らしげに先頭を切っていたこの臆病な男は、いち早く戦況を悟るや、部下の第一九騎兵隊を見捨てて一目散に遁走した。
だがこれにつづく戦闘はいかにも凄惨な様相を呈した。この赤軍第一九騎兵隊の前身は大ロシア防衛連隊で大クリミアでもわが軍と戦ったことはなく、それゆえわれわれをひたすらただの「盗賊」だと信じ込んでいた。このことが彼らの士気を鼓舞した。盗賊を怖れて逃亡することなど言語道断だからである。彼らがわれわれを盗賊と見なし、いかなる犠牲を払ってもこれを討伐して武装解除せねばならないと考えていることは当のわれわれにもひしひしと感じられた。
この戦闘の激しさは空前絶後のものだった。しかしながら、双方相譲らない死闘の果てにわが軍は完勝した。敵は解体し、多数の赤軍兵士が戦線から脱走していった。
暫くして、私はシベリア出身者から成る分遣隊を組織し、同志グラズノフの指揮のもとに良好な装備を施させてシベリアへ派遣した。一九二一年八月のはじめ、われわれはボリシェヴィキの機関紙によってこの分遣隊のサマラ県に於ける作戦行動を伝え知ったが、その後の消息はつかめないでいる。
この夏は息もつかせぬ戦闘のうちに過ぎていった。エカチェリノスラフ県、タヴリダ県の全域とヘルソン県、ポルタヴァ県及びドン地方の一部に広がった旱魃と凶作のために、われわれのある部分はクバン地方に向かい、ツァリーツィンないしサラトフへ、また他の部分はキーエフ、チェルニーゴフの両県へ移動せねばならなかった。チェルニーゴフでは同志コージンが戦いつづけていたが、われわれが到着すると彼は私に農民たちの連判状の束を手渡した。人々は自由ソヴェート建設の戦いを全面的に支持する旨意志一致している。
私はザブヂコとペトレそこの指揮するグループを連れてヴォルガ沿岸まで遠征し、そこからドン地方を迂回して幾つもの叛乱軍部隊と接触をもちながら各部隊間の連絡を立て直し、更にそれらの部隊とアゾフ海方面軍(元のヴドヴィチェンコのグループ)との連携関係を確立した。その間、私はまたも重傷を負った。それで遂に八月のはじめに、私は数人の指揮官とともに治療のため外国に転地することになった。同じ頃に、われわれのもっとも秀でた指揮官たち、コージン、ペトレンコ、ザブヂコたちも重傷を負っていた。一九二一年八月十三日、われわれは騎兵一個中隊に護衛されてドニプルを目指して出発し、八月十六日未明に十七艘の漁船に分乗してオルリクークレメンチゥク間でドニニプルを渡った。この日私は六か所に傷を負ったが、いずれも大したことはなかった。
途中、ドニニプル右岸の一帯で、われわれは多くの叛乱軍部隊に出会った。われわれはわれわれの転地の目的を説明したが、どの部隊の兵士も口をそろえて、「行って良くなってきて下さい、バチコ。すっかり良くなったらまた帰ってきて私たちを助けて下さい」と言ってくれた。八月十九日、ポプリネツから十二露里の地点で、われわれはイングレッツ河畔に布陣していた赤軍第七騎兵師団に遭遇した。退却はできなかった。というのは、右翼方向からする別の騎兵連隊がわれわれを捕捉し、退路を絶つために背後に回り込んでいたからである。私はジニコフスキーに助けられて馬の背にまたがった。われわれは一斉にサーベルを抜き放ち、喊声をあげて敵陣に突っ込んだ。この突撃で赤軍第七騎兵師団の前哨は散逸し、われわれは十三挺のマキシム機関銃と三挺のルイース軽機を捕獲した。われわれはなお旅を急いだ。
やがてニコラエフカ村とその近郊から第七騎兵師団の本隊が進発し、大挙して反撃に転じてきた。われわれは進退極まったが士気は衰えず、この師団の第三八連隊を撃破し、更にうちつづく攻撃の中を百十露里前進した。われわれは遂に敵の追撃から離脱したが、この戦闘で十七名の優れた同志が犠牲となった。
八月二十二日、私はまたも同志に余計な面倒をかけることになった。敵弾が右後頭部の下から右頬に抜けた。再び私は馬車に臥せられねばならなかった。このため行軍はますます急ピッチで進められた。二十六日にもわれわれは赤軍と交戦した。この戦闘では、われわれ全ての誠実な友であり勇敢な戦士であったべトレンコ=プラトーノフとイヴァニュクが戦死した。われわれは進路を変更し、一九二一年八月二十八日にドニエストル河を渡った。そうして私は、いま外国に居る……
*
ボリシェヴィキのマフノ叛乱軍に対する三度目の攻撃は、同時にまた全ウクライナの農民に対する攻撃でもあった。この作戦行動の目的は、(1)マフノと叛乱軍を潰滅させ、(2)不満を抱く農民階級の総体を自らの手に入れ、(3)これらの農民たちからいかなる独自の革命運動の可能性をも奪ってしまうことにあった。ヴランゲリ軍なきあと数の上でも優勢な赤軍にとって、それは容易なことだった。ボリシェヴィキは全ての反抗的な町や村を蹂躙し、かつての富農の密告に基づいて革命的な農民たちを絶滅していった。ボリシェヴィキの卑劣な襲撃が開始されてから一週間して、マフノがグリャイ=ポーレを奪回した時、叛乱軍はうち沈んだ人々から、前日土地の農民三百人が処刑されたと知らされた。
グリャイ=ポーレの住民たちは、叛乱軍が囚われた不運な人々を救助するために帰還してくるのを、毎日待ち待ち焦がれていた。同じような農民の大量処刑はノヴォスパンフカでも行なわれていた。ノヴォスパンフカの場合は叛乱軍の文化情宣部による記録が残されているが、それによると殺戮に酔ったチェーカーは手間を減らすために母親たちにそれぞれの子供を抱かせ、そうしておいて一斉射撃で母子もろともに射殺したということである。マルトゥインというノヴォスパンフカ出身の叛乱軍兵士の妻も、この時子供を抱いて引き出された。子供は一発で即死したが彼女は負傷しただけで、チェーカーがそれを見落したため一命をとりとめた。
このような虐殺は稀ではない。その全貌はやがて発掘され考証されるようになるだろう。ボリシェヴィキは、小トクマチカやウスペノフカでも、あるいはポロギーやその他多くの町村でも農民たちを大量に処刑している。これらの殺戮は全て、ボリシェヴィキの南部方面軍司令官フルンゼの指令に基づいて行なわれた。
「万人がただちにマフノ主義と手を切らねばならない」−討伐に先立って、フルンゼは南部戦線の各部隊にこう檄を飛ばしている。生粋の軍人として、また上官に認められたい一心から、彼は抜刀してウクライナの村々を侵し、これに抗う全ての者を手当たり次第に葬り去ったのである。
10、民族問題とユダヤ問題 (省略)
11、戦士たち、その生と死 (省略)
12、マフノ主義とアナーキズム (省略)
13、終章 (省略)
解説、中井和夫「マフノフシナ−内戦期ウクライナにおける農民運動」 (省略)
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〔関連ファイル〕
『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回とボリシェヴィキ政権側からの攻撃3回
第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始
ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年
梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇
20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文
ウィキペディア『ウクライナの歴史』
大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』反乱の全経過