連作短編5

〔3DCG宮地徹〕

 〔目次〕

   1、なにを落としたの?

   2、燃えた青春

   3、冬の花

   4、楽園

 

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     連作短編1『復活』つけられる女と男、復活 『復活・電子書籍版』

     連作短編2『政治の季節の ある青春群像』4・17スト 『電子書籍版』

     連作短編3『めだかのがっこう』 『電子書籍版』

     連作短編4『夏の嵐が走り去り』荒れる子どもたち 『電子書籍版』

     連作短編5『電子書籍版』お人よし列伝

 

 1、なにを落としたの?

 

 おれは、退職してカルチャースクールでピアノレッスンを始めた。もう3年過ぎた。仕事は卒業し、「ゆとりの中から文化は生まれる」を実感したかった。

 

 クラシック音楽が好きで夢中で聴いた頃が懐かしく、見学したとき、音大の名誉教授がクラシックだけでなく、映画音楽など多面的に編曲、あるいは作曲した教科書で指導していた。

 連弾もふくめ、個別指導は4人の若いピアノ科出身女性で、楽しそうだった。どんな曲でも大体知っているから、指の動きは未だ問題ありだが、男の指はタッチが強いと褒められ、授業には馴染んだ。

 

 レッスンが終わると、遅い昼食を同じクラスのメンバーとする。食事どころは、見渡す限り女、女、女ばかりだった。世の中、女が活躍している。強くなった。

 男は仕事が忙しいし、帰りも遅い。5〜6百円のコンビニ弁当か、よくて社員食堂での食事か、などと考えると少々複雑だ。

 このスクールは全体で50人ほどらしい。その中で、男は数人だから大事にしてもらえるし、発表会が3カ月に1回もあり、結構楽しめる。

 

 ある日、レッスンが終わって雑談していたときのことだ。

 「あなたの話を聞いていると、歳とっても多方面に関心を持ってピアノ弾いたり、文章書いたり、インターネットのホームページに論文を載せたり、私たち子育てが終わり始めた者には、これから段々歳になっても、希望を持って生きられる」なんて、褒められた。

 

 先日、センターへ会費を払いに行った。

 地下の洗面所で口をゆすいだ。排水口に栓がなく穴になっている洗面器だった。何かコロッとその穴に転げ落ちた。アッと思う間もなかったね。

 

 仕方がないので、6階で会費を支払ったあと、事務の人に頼んだのさ。

 「あのー、さっき、地下の洗面所でうがいしていて、洗面の穴に落とし物してしまったんです。どうしたらいいんでしょう」

 「落とし物ですか? 洗面器に流れたのですか?」事務室内で2〜3人が打ち合わせる。

 

 「お待たせしました。地下にビル管理の事務室がありますから、そちらに尋ねてください」。

 洗面所はあのまま、他の人が使っている。もう地下の排水路へ流れてしまっただろうか?

 焦りながら、エレベーターで地下へ走る。管理事務所を探す。

 

 目立たない通路の奥に看板があり、やっと見つけた。管理室へ入って事情を説明する。

 間もなく、責任者立会いの下で、洗面所を使用中止にし、若い男性が重そうに道具をいっぱい持って駆けつける。

 「この穴は、下の管がカーブしているから、ここまで止めればいいはず」とか、「この栓きついなあ」とかいいながら、いろいろ試みてくれる。

 

 そこへ掃除のおばさんがきて、「まだ見つからないですか? ところで大事な物って、何が流れたんですか? 指輪か何か?」

 

 このおばさんにまで、金の入れ歯がなんて言えるか。幸い、入れ歯は手元に戻った。

 入れ歯を無くして大騒動するなんて、オレも歳取ったなぁ。

 ビル管理の人たちだけでなく、使用禁止で、大勢の来客にも迷惑をかけたが一件落着だ。

 

 2、燃えた青春

 

 結婚式場で、「よーし。私も絶対に結婚する」と、姉がつぶやいていたのを聞いた。

 2歳下のおれが先に結婚した。姉は、社交的な性格だったが、日ごろ母たちが言っていた「女は結婚して、人の子の母になるのがいちばん」を信じて、仕事に就くときも、結婚までの短い期間だと、平凡に、近くの会社の事務員を選んだ。

 

 名古屋市東部の古い市民会館で、100人を超える仲間が集った。日本がまだ貧しかった時代とはいえ、会費350円で、出たのは粉末インスタントジュースだけだった。

 

 舞台の上では、活発な合唱団の歌声が響き、演劇の仲間たちは、現代の若者たちが力強く励ましあって生きる姿を演じていた。

 おれは、大学卒業後3年間民間企業で働いた。その頃、ある政党の専従活動家にと説得された。

 

 素直に従った。何の迷いもないそのいさぎよさに、経済的にかなり苦労して、4人の子すべてを、大学卒業させた両親は激怒した。

 「4人とも、いい大学を卒業したのに! 折角安定した就職先に入れたのに、なぜ辞めるのだ!」

 

 戦争が終わっておよそ10年、貧しかった日本では、大学進学する者はまだまだ少ない時代だった。名古屋出身、品行方正で有名なその党の国会議員にも来てもらって話し合ったが、理解し合えなかった。

 

 焼け野が原になった名古屋の街、そこで校長という名の、中学校責任者になった父だった。授業は、教室が足りないから午前午後と、2部に別れてした。

 

 プールなど夢の貧困時代、お酒に強いのを力にして、PTAの偉いさんと渡り合った。ぜひ、子どもたちにプールを作ってください。そうか、そんなに言うのか。この杯が飲み干せたら、考えてもいい。毎晩のように、酔っ払って、大声で歌を歌いながら千鳥足の帰宅だった。恥ずかしいくらい、有名だった。

 

 そのやり手校長で名の通った父に「勘当だ! 家を出て行け!」と追い出された。仕方がないので、少し前から専従活動家になったSの下宿に転がり込んだ。

 

 連れ合いになるユミコも、心配した親類の叔父や叔母たちから「ユミちゃんの相手になる人は、どんな職業の人?」と、わざと、何度も聞かれたそうだ。

 「ちゃんと学校出ているけど、政党の専従活動家になった人なの」。

 ユミコには分かっていた。母が心配して親類に相談したから、こんなに何度も何回も、相手の職業はと聞かれるのだということを。

 

 オレは、そんなことばを一方の耳で聞き、片方の耳は仕事まで投げ打って専従活動家になるなんて、偉いね。そういうことばの方を重視した。

 まるで理解不能という態度の親族だったが、それでもユミコの家族は結婚式の席に並んでくれた。でも、おれの家族席は誰もいなかった。

 

 1960年から1970年は、社会主義の存在が大きかった。読書会や労働運動も盛んだった。日本とアメリカの安全保障条約に反対する運動で、国中が大きく揺れた。

 

 おれもユミコも、地域で署名活動をしたり、夜行列車で何度も東京へ行った。国会請願や、道路いっぱいに広がってする、フランスデモというのをした。

 国の進路が一面的に決まってしまわないように、当時は労働組合や革新政党が統一して行動しようという、いい関係があったんだ。

 

 ユミコとの新婚生活はスタートした。6畳ひと間の安アパートは、共同炊事場、共同便所だった。夫婦とも帰りは夜遅く、近くにある銭湯が閉まる夜中12時に、ぎりぎりで走り込む毎日だった。

 

 思想的、趣味的一致があったので貧乏も、苦にならず、「世のため、人のため」と、希望をもって日々革新運動に燃えた。

 

 3、冬の花

 

 12月の冷気で、わが家のさざんかの垣根も、紅白そろい組みで競い始めた。

 30年前、近くの幼稚園の垣根が、凛としてさざんかを咲かせていた。あの頃、おれは仕事をくびになり、精神的にも経済的にもどん

底だった。

 

 請われて政党の専従活動家になり、忠実に任務を果たしていたが、組織の方針に疑問を持った。党勢拡大、つまり機関紙と党員を増やすことのみに偏った活動に、大衆の要求を闘う運動の指導はまるで入り込む余地はなかった。

 

 会議で発言しても、一面的にとられて批判され続けるだけ、こころある同志と話しあったら、分派活動と批判され、21日間も監禁して査問された。

 

 同じように活動家だったユミコには、何も知らされないので、いつものように泊りがけの会議が毎日続くとばかり思い込み、事務所の入り口で洗濯物を受け取り、着替えを渡しては日暮れる中を、活動の場に走ったものだ。


 そして、おれは退職金もなく、風呂敷包みひとつで組織を追い出された。

 これは自ら選んだ道、政党の専従活動家なら何があっても覚悟のうえだから文句は言えないかもしれない。

 専従活動家の給料は、当時で約10万円、それも遅配が常態だから貯金も何もない。

 

 当時は、世の中の革新への夢があり、希望があった。

 資本主義社会の矛盾、くり返す恐慌、多くの良心的な人たちが社会主義社会への希望を持った。計画経済、平等社会に。

 

 社会主義の次は、必然的に共産主義社会になり、自由に働き、必要に応じて受け取る理想社会になる。

 これが社会発展の歴史的法則である。マルクス・レーニン主義こそ真理と学び合った。

 

 ユミコは、職場の活動家として、綱領決定の大会に代議員に選ばれた。

 「採決で、保留した中野重治以外、すべて満場一致で決まって感動的大会だった」と言っていた。

 議長は有名な野坂参三で、いつも演説の巧さは抜群だった。

 

 それで思ったのだが、先日の新聞報道が伝えていたニュースだ。

 北朝鮮の最高人民会議代議員選挙で、総書記をふくめて登録された候補者すべて、100%の賛成投票だったと。野坂参三も、100歳まで生きたが1992年、長年にわたるソ連共産党のスパイ活動がばれて除名された。

 

 ユミコは、県や地区の会議ではいつも先進的手本として、活動報告をさせられていた。

 あの必死さ、真剣さに多くの人がこころ打たれた。おれもそのひとりで、憧れを抱いた。

 あれは、ピエロだったのか?

 

 ユミコは、子持ちの先輩に「子を産まないで活動して」と言われた。働きながらの活動、結婚、何もかも手探りで必死だった。

 おれは、政党を相手に「専従解任は不当」と裁判に訴えた。そのときは、二人の子の親になっていた。

 おれたちは歳が同じで友達夫婦だった。

 

 二人の子も12年間の保育園通いで育てた。

 「君に迷惑をかけるといけないから離婚する」と言ったら、「じゃ二人の子どもはどうするの?」胃がきりきり痛んだ夫婦の激論だった

 

 結局、ユミコは、子への情、家族への愛で「離婚なんて、問題が違う」と、連日の地区委員長からの電話と戦っていた。

 「どうして裁判を止めさせないのだ!」「その前に、中央へ5回も6回も出した質問状に、なぜ答えて貰えないのですか!」

 

 毎晩繰り返されるやりとり、ときには子どもたちが聴いているのに、電話の前で泣きながら応対するユミコの声を、おれは黙って聞いた。

 

 組織あげての反党分子キヤンペーンが繰り広げられた。

 おれ一人で、法律の勉強をしての裁判なのに、どこかと連絡をとっているのではないかと、自宅の張り込みが続いた。自宅から近い中電変電所に、いつも不審な車が止まっていた。それは、玄関を出ると視界に入る位置で、人がこちらを伺っていた。


 散歩に出ると、距離をおいてその車がついてきた。尾行は、おれの精神的破綻を期待するかのような、執拗な攻撃だった。

 あるとき、小学生の長男が学校から帰って「変な車がそこに止まって、中の人がこっちをみているよ」と言ったので、オレは玄関から靴を持って来させ、裏の部屋の窓から飛び降りて、車まで走った。

 

 「お前は、誰の命令で毎日張り込みしてるのだ!」と怒鳴った。急発進して車は去ったが、メモしたナンバーを陸運局で調べたら、

持ち主はトヨタ関連の組織が、共産党県委員会の命令で見張っていたことがわかった。


 経済的貧困もさることながら、生死を共にするとまで支え合った同士たちのすべてが「党中央がすべて正しい」の姿勢で、「本当は何があったの?」の質問は誰からもなく、それが辛かった。

 

 普通なら、同じように査問された人たちの多くがなった自律神経失調症になる日々だった。妻の友人はその話を聞いて「よく自殺しなかったわね」と、驚いていたという。

 おれは、人格的にのんびりと抜けたところがあるらしい。病気にならなかったのはそれ故ではないか、毎日、仕事から帰って話を聞くユミコはそう言うのだ。

 

 友人たちに助けて貰った借金も80万円を超え、生計に限界を感じて、2年で裁判を打ち切った。

 42歳になっていた。働こうにも中途採用など、どこも無くて、唯一出来たのは学習塾だった。

 

 おれは思い切って、名古屋の大手進学塾へ飛び込み、テキストを使わせて欲しいと頼んだ。すると、相手は父親が校長時代の教頭だった。全くの偶然だった。

 「本当は駄目ですが、お父さんにお世話になったお礼です。テキストはどうぞお使いください。教室は二部屋作りなさいよ」とアドバイスまでしてくれた。

 

 深刻な苦闘の日々が続いた二年間だったが、その出会いが運を切り開く発端になった。

 知り合いの大工さんが、「困ったときはお互いさま」と言って、仕事仲間五人ほどで来てくれた。そして裏地に借りた土地に、一日で塾舎を建ててくれた。

 

 建設の槌音が響いた。高らかな槌音に、あのときほど胸躍らせた記憶がない。

 夫婦で、学校の門前でビラを撒いた。先生が出てきて、配布を止めるようにいわれた学校もあったが、これは活動慣れした二人には何ともなかった。

 

 こうして塾を始めた。最初から50人近い子どもが来てくれた。進学実績も上がり評判になると、生徒は毎年どんどん増え続けた。

 これはあの教頭先生のお陰、労働金庫から借金した保証人になってくれた友や妹のお陰だ。それに、大工さんたちのお陰、教えた子の親たちのお陰である。子どもが増える時代で、経済的にもやっと立ち直れた。

 

 1989年から東欧革命で社会主義国が次々崩壊し、91年ソ連邦が崩壊した。おれは跳び上がらんばかりに喜んだ。血が踊った。 権力のためには平気で命を抹殺する社会が終わったことに。

 

 この喜びは、理想の崩壊、ユートピアの崩壊に直面したとき、その建設に全てを投げ打った者、そして、排除され苦闘した体験者がより深く味わうのかも知れない。

 

 ユミコも2年間、女ひとりの給料で一家4人を支えた。何回も、友たちに借金を頼み、しのいだ体験があるから貧困、貧しさは人ごとではない。

 

 昨年末の大企業各社は、世界的不況の深刻さにあわて、住む場所も追い出す残酷な「派遣きり」を実行している。

 現在の貧困は、不安があるだけで何の夢も希望もない。

 

 第八回大仏次郎論壇賞を受賞した『反貧困「すべり台社会」からの脱出』の湯浅誠氏が言うように、「貧困は『彼らはかわいそうだから、何とかしてあげましょう』という問題ではなくて、私たちの社会をどうしていきたいか、という問題なのです」。共感するなぁ。

 

 紅白の山茶花が12月の寒風の中でひときわ美しく咲き競っている。30年前と同じように。

 そしてあのときと同じように、悲惨の中で泣いている人たちが大勢いる。

 

 苦しかった、あの経験をしたことは良かった。それは、唯一絶対という考え方は間違っていると納得できたから。人は助け合い、信頼し合えるということがわかったから。

 

 同じ活動を、まだ誠実に続けている人たちもいる。疑問を持つ人たちも増えているようだが、体験しなければ本質が分からないということなのだろうか?

 現実が矛盾だらけだからなのだろうか?

 

 姉も年取ったが、成人した甥っこ共々、地域で政党新聞を配り、地域活動を続けている。職場や地域で活動している人たちは誠実だ。そして人がいい。

 

 先日も、ユミコがしみじみした調子で言うのだ。「お人好し列伝だよねー」と。

 小林さんという方から大声の電話があり、「新潟にいまぁーす。蟹送りました」。毎年こうだ。

 

 インターネットで知り合った若い活動家、防音装置の仕事で景気のいい人はスゴイ景気がよくて、100万円の防音扉をつける人が多いとか。活動家の知り合いも多いが、何か苦い体験があるらしい。

 

 中央幹部の秘書にと頼られ、京大のエリートから専従になった兵本氏もお人好しだ。

 たまたま拉致された家族に心痛し、拉致問題で政府幹部と会ったことで除名された氏、おれのホームページを読んで知り合った。

 

 また、「北朝鮮に消えた友と私の物語」で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した萩原遼氏は、兵本氏の友人で赤旗記者として活躍した。

 

 北朝鮮で、記者をしながら、日本から北朝鮮に帰国した友を探した。すると北朝鮮当局に睨まれ帰国させられた。そして、北朝鮮にやや批判的な記事を書いていた。北朝鮮帰国問題の誤りに関し、朝鮮総連を批判したビラをまいたら、党を除籍になった。

 

 記者をくびになったとき、怒って3年間アメリカへ行った。公文書館で必死に英文を読み調べた。長年疑問だった朝鮮戦争が始まったのは、北から南へ攻め入った事実を証明した事だ。

 

 おれは、何よりの功績だと思う。おれたちもそうだったけど、左翼的革新派の人たちは、朝鮮戦争は米国と南朝鮮からの侵攻で始まった。そう信じて疑わなかった。事実は逆だったのだ。

 

 3人とそれぞれ会ったときはユミコも一緒だったが、恐れ多くも3人の方々を「お人好し列伝」だと言うのだ。

 

 ユミコは、もうおひと方おられる、と言う。イラク攻撃に対する「意見具申」をした、レバノン特命全権大使天木直人氏だ。

 「さらば外務省」の著者だが、外務省をくびになるのを覚悟で、「対イラク攻撃は阻止すべきだ」と総理に具申した。外務省の「意見具申」は、出世の妨げになるから、いまは提出する人はいないそうだ。

 ただ一人、中東の日本大使館に勤務する若い外交官が、「血をもって書かれた書、男泣きした」とメールが届いたとか。

 ユミコがいう通りだ。この正義感、この男気はどうだ。

 

 4、楽園

 

 オレも歳取った。世の中変革の夢破れたいまとなっては、その運動の先頭に立った者として、恥多き人生だったとは思う。

 夕方、犬の散歩で歩きながら「われら未来を作るもの、世界を一つに結ぶもの・・・。東と西の兄弟よー、励まし合ってたたかおう・・・」と、頭の中が歌っている。そんな自分に気づいて、苦笑するときもある。

 

 4人に3人が、あの悲惨な戦争さえ知らない世代になった。うたごえ運動の歌集ももうない。

 つい最近、おれの大学の師であり、アダム・スミス研究者の水田洋氏の文章について質問する機会があった。

 

 「アダム・スミスの道徳哲学の基本は、『見知らぬ他人に同感されるように、当事者が利己心を抑制すること』」。学士院会員の氏の答えだった。

 新鮮だった。氏がもう90歳とは思えない元気さだ。


 おれたち夫婦の、いや、子どもも含めてのどん底生活から、精神的に立ち直ったのは、1989年東欧から始まった社会主義の崩壊、1991年のソ連邦の崩壊だ。

 

 親の意見も聞かず、勘当されようが、食べるメドがなかろうが、一直線にしたひたすら信じた社会主義国への憧れだった。

 それはまさに信仰だった。

 

 おれは「ジャン・クリストフ」を読み、「ロマン・ローラン」に熱中した青春時代、存在感が大きかった社会主義、大学の師たちからも左翼の影響を受けた。

 

 夢は無残に打ち砕かれた。多くの左翼の学者も、スターリンは間違っているが、レーニンは正しい。そう信じた。そのまま逝ってしまった誠実派も多い。

 中には、親しくしている政治学者K教授のように、「イタリー、イギリスのように、共産党は自然死した方が国の政治は変わる」と、現実をしっかり見つめている研究者もいるが。

 

 オレは、学者でも何でもないが、現実の厳しさの中で考え、学び続けた。何より力になったのは、ソ連邦崩壊による公文書の公開だった。

 

 独裁政権樹立のために、何百万という殺人を平気でした。世界中が理想とした社会主義政権の実態を調べれば調べるほど、恐ろしい殺人の数が増える。

 レーニンは「ストライキをする黄色い害虫」などと言い、弾圧し処刑した指導者。この表現の傲慢さはどうだ。

 

 オレは数々の事実から、目を逸らさない。夫婦で続けているホームページも、広い意味でボランティアだと思っている。

 

 雀が20羽ほど、自転車置場の屋根に並んでいる。鳩はいつも2羽と決まっている。楽園の主は9歳の雄犬、ご主人さまが鍋いっぱいに持ってきてくれる朝食を、のほほんと待っている。味噌汁ご飯に、肉や魚がほんの少し入ったご飯を。

 

 ご主人さまは、缶詰の空き缶3つくらいに、味噌汁とご飯を少しずつ分けている。直径20センチくらいの入れ物に入ったのは、ひとまず飼い犬が食べる。すると待機していた雀たちが、一斉に舞い降りてきて缶詰のご飯をつつく。

 

 犬が向きを変えて、気まぐれに缶詰の方をつつくと、騒ぎながら雀と鳩が他の缶のご飯をつつき、大きな入れ物の残りを狙う。食べ終わるとてんでに空中へ飛び上がり、消えていなくなる。

 

 ここは、楽園、そう鳥たちが平和共存する、鳥の楽園だ。

 人間世界に楽園は夢か。

 

 終わり良ければすべてよし」死んだ親父がよく言っていた。シェークスピア名言集にある言葉らしい。

 仕事を卒業したオレも、そうなれるといいと思う。

 

 この花のように、人はやがて散りゆくものだから・・・。 2009・4・30

 

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 〔関連ファイル〕

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