下山・三鷹・松川事件と日本共産党

 

佐藤一

 

 (注)、これは、松川事件元被告佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』(三一書房、1981年、絶版)からの一部抜粋である。1949年は、戦後日本の重要な転換点をなしている。この年、()下山・三鷹・松川事件が連続発生し、謀略の夏と言われた。()国鉄の人員整理と国鉄労働組合の反対闘争と敗北、全逓労働組合の分裂が起きた。(3)共産党の9月革命説が振り撒かれた。(4)これらに関する共産党側の誤った対応と責任というテーマがある。

 

 1949年問題と日本共産党として、佐藤氏の他著書と他レポートも(別ファイル)として転載する。佐藤氏は、戦後史検証として、これらのテーマを総合的に研究し、公表した。文中の傍点は黒太字にした。私(宮地)の判断で随時青太字赤太字をつけた。このHPにこれらを転載することについては、佐藤氏の了解をいただいてある。

 

 〔目次〕

   序章〜第10章、下山事件 (省略)

   第11章、九月革命・人民電車・十万の整理を前に戦線混迷 (省略)『9月革命説』

   第12章、ストをも含む実力行使・国労事実上分裂状態 (省略)

   第13章、アカハタのストは止めろ! のデマ宣伝で総崩れ

   第14章、三鷹事件・日本共産党は竹内の単独犯行と大宣伝 (省略)

   第15章、松川事件・東芝の組合幹部行方不明と…読売新聞

   第16章、赤間予言で始った大量検挙と日本共産党

   第17章、下山事件・三鷹・松川謀略説で笑うものはだれだ!

   佐藤一の略歴

 

 (関連ファイル)       健一MENUに戻る

   佐藤一『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』9月革命説と人民政府の幻想

   佐藤一『戦後民主主義の忘れもの』下山事件研究会から『謀略の夏』まで

 

   高野和基『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』書評

   無限回廊『下山事件』  浦本誉至史『松川事件』

   Google検索『下山事件』  『三鷹事件』  『松川事件』

 

 第13章、アカハタのストは止めろ! のデマ宣伝で総崩れ

 

 七月一日、国鉄当局から組合に会見申しいれがあり、午後、鈴木副委員長以下中闘ほとんど全員と、下山総裁、加賀山副総裁、それから大屋運輸大臣、秋山次官などが対面した。席上運輸大臣から、抜打ち的な整理はやらない、必ず組合に連絡するという口約があるので、これはそれに従った話合いで団体交渉ではない、という前置きがあって(大屋はこのとき、これは茶番み話程度のことだ、といったともいわれている)、つづいて下山総裁が整理の総枠、その基準などの説明をおこなった。組合側は、これは団体交渉である、内容検討の時間をかせと主張するも、話合いはそれ以上に進展せず。

 

 二日、組合と当局の二度目の話合いがおこなわれた。組合は団体交渉として協定により解決せよと迫ったが、当局これを拒否、整理の時期、人員、退職手当など、変更する余地なしと主張、エーミスから“決裂のチャンスをつかめと叱られた”と、その手帳に書き残した下山は、これ以上の話合いは意味がないと宣言して、当局側の総退席となる。その後組合側は再交渉を申しいれるも、当局は、本件については本日をもって話合いを打切ると回答、翌三日にも組合の交渉再開申しいれを拒否した。

 

 四日、当局は、第一次整理三万七百名の解雇通告をおこなった。

 そして翌五日、下山総裁は出勤途上から失踪する。注目されるこの五日の『アカハタ』は、「ストを挑発する狂犬吉田といかに闘うか」と題する、主張をかかげていた。

 「吉田内閣は、あきらかに国鉄ストをたくらんでいる。破かいと首切り政策に対し、国鉄労働者を中心とする人民の攻勢におされた政府は、もはや弾圧とちょう発のほか、ほどこす手段を失った。……時ととも国鉄の闘争は全逓、さらに全人民の闘争に発展しつつある。それは吉田内閣の崩かいを意味する。そこであせった政府は、威たけだかなちょう発態度を国鉄労組にとり、一日も早く人民からうき離れたストライキに追いこみ、弾圧し、げき破しようと企てている……。社会党や民同派の悪質幹部がストを挑発し、狭い闘争に大衆をひきこもうとする動きは、正に吉田内閣の戦術にほかならない

 

 これよりさき、鈴木市蔵などの「国鉄ストライキの成功のために全党員の奮起を訴えるべきである」という申しいれに対して、共産党政治局代表志田重男と伊藤律は、つぎのように答えている。

 「わが国に革命のときがきている。民族の運命をになう重責がわが党にいま課せられている。わが党のスローガン吉田内閣打倒を、言葉ではなく実際に闘いとるよう奮闘しなければならない。人民の闘いはそこまできた。最後の勝利にまい進しなければならない。国鉄闘争はこの重大な闘いの一環である」とストライキ闘争を拒否、否定し、さらに伊藤は、「マッカーサーの(二・一ストのさいの)ゼネスト禁止令はいまでも生きている。これに反する党の方針、指導は党自身の合法性の問題に発展する危険をもっている」とつけ加えたという。

 

 ストライキも許されていないと考えるような情況下で、果して、「共産党、労農党、社会党その他の民主勢力……の代表によってつくられる人民政府」が出来るものか、どうか―。ここはまったく不思議でたまらないのだが、ともかく共産党中央は、野坂の唱えた「九月革命説」を固く信じて疑わなかったらしい。筆者はさいきん久野収からつぎのようなエピソードをきいた。

 

 「それは信じていたね。たぶん春先だったと思うがある雑誌で、“当面の情勢を語る”といったタイトルでタカクラ・テル(共産党中央委員で著名な作家)と対談したことがあったんだ。ところがタカクラは、『久野さん、とにかく秋まで待ってください。ガスや電気が一カ月ぐらい停ることがあるかも知れませんが、そのあとはずーっとよくなるはずです』の一点ばりでね、話にならなかったんだ。それで座談会は格好がつかず、結局ボツになってしまった。だから、共産党幹部が九月革命を信じていたことはまちがいないと思うね。清水幾太郎も、おなじような経験をしたといっていた。彼は、そのことをどこかで書いているはずだよ……」

 

 また、東芝労連副委員長で、党中央の大単産グループ会議(水曜会とよばれていたらしい)のメンバーでもあった久保哲次郎は、共産党第十五回拡大中央委員会で、「金属労働者の闘争の中で単に首切り反対闘争だけでなく、革命に対する確信をあらゆる問題について与えてゆく必要がある」(6・24『アカハタ』、傍点筆者)と発表しているが、彼もつぎのように語っている。「いや、当時は信じきっていたよ。九月革命は疑わなかったね。当時の党幹部は全員そろってそうだったろう。代々木の空気は、まったく革命前夜だった」。

 

 では、いったい、どんな闘争をもって吉田政府を倒し、人民政府をうちたてようと考えていたのだろうか。当時の『アカハタ』や共産党の文献をみると、「地域人民闘争」という文字がやたらと目につく。文字面からいっても“中央闘争”に対立する概念であろうが、ともかくこの頃の共産党は中央闘争というものを極端にきらい、この「地域人民闘争」にすべてをかけていたようである。そして、そこには二つの面があった。一つは、地方権力に対する闘いであり、二つは、労働組合の「職場闘争」である。

 

 第一の面では、地方権力を麻痺させれば、というよりは共産党の政策に同調させてしまえば、中央権力、すなわち吉田政府は自然に倒れることになる、ということのようである。このところを伊藤律は、つぎのようにいっている。「民自党議員にも民主党議員にもこの政策(県政綱領)に賛成することを求むべきである。町や村の民自党権力がこれに完全に同調したとき、吉田内閣は宙にうく、これが革命である」(8・12アカハタ))。そのためのデモや陳情が、「地域人民闘争」なのであろう。

 

 もう一つの職場闘争――。たとえば行政整理についてはつぎのようになる。「全官庁の職場闘争が徹底的に展開されるならば、大量首切りはやれるものではない。現場長はじめ、次第に上級役員さえ下の圧力に押され、廻れ左をして政府にほこ先を向ける。この時政府の破壊政策は敗北し、権力は事実上崩れおちてゆく。権力との闘争はこの職場の大衆闘争のうちにある」(3・1『アカハタ』)。もちろん、職場闘争の内容は職制に対する団体交渉であり、遵法闘争であり、場合によっては不正摘発がおこなわれ、他の職場、労働組合などとの「共同闘争」も含まれる。さらに、この職場の要求(たとえば首切りや地方工場、事業場の閉鎖反対から資材割当増加など)を、地方の各級議会にまでもちこんで、ここでの決議とさせるという点で、この「職場闘争」は、「地域人民闘争」の第一の面とつながってもいる。

 

 なるほど、こんな具合にうまくいくものなら確かにストライキだ!実力行使だ! などと大騒ぎをする必要はない。だが、そんな簡単なもんじゃない、不正摘発や遵法闘争だの、あるいは徹底した職場闘争だ、なんてうまいことをいくらいってみても、所詮そこには限界がある。首切りに対して本当に闘うとなると、どうしても実力闘争は避けられない。ストライキは欠かせないのだ! しかも国電ストにみられるように下部大衆はそれを求めている、というのが鈴木市蔵たちの考えだったろう。組合幹部として十万の首切りに直面し、真正面からこの問題と取りくんでみれば、勝敗を度外視しても、当然そうなるはずである。だから熱海の中央委員会でも、まる一昼夜もぶつつづけの討論でようやく「ストをも含む」という具体的闘争方針第六項の決議にまでもちこんだのだった。

 

 しかし、そう思いつめている鈴木たちを、時間をかけてじっくり説得する気持も、考えも、伊藤や志田にはなかったろう。彼らはすでに党官僚だった。人員整理の帰趨などは、ある意味ではどうでもいい問題であったろう。党の情勢判断を楯に、さらにアメリカ占領軍の威を借りて、鈴木たちの要望をしりぞけ、追いかえすだけだった。だが、鈴木たちを追いかえしただけでは、彼らには不安が残ったのかも知れない。国鉄労働組合の中央を押えても、いつどこかでストライキが起るかもわからない。そこで五日の『アカハタ』主張、「ストを挑発する狂犬吉田といかに闘うか」になったのだろう。

 

 それにしても、この主張はあまりにもひどすぎるようである。吉田内閣が、国鉄労働組合をストライキに追いこもうと企てている、などというのは、いったいどこからでた情報なのだろうか。第一、吉田内閣が崩壊に瀕している、という発想からしておかしいのである。夜郎自大もいい加減にしろ! といいたいが、これも革命間近しの情勢判断と同根であろう。さらに、「社会党や民同派の悪質幹部がストを挑発」している、などにいたってはもう完全なデッチ上げといっていい。「悪質幹部」とはいったい誰をさすのかわからないが、しかし、現実には社会党や民同派は合法闘争を唱え、ストライキには反対の立場で全力を傾けていた、というべきだったろう。要するに、この『アカハタ』主張自体が語っているところは、共産党は、どんな悪質なデマをとばしても、国鉄のストライキを阻止したかった、ということだ。これは、ストライキに対する恐怖心をあおり、実力行使凍結を求めた、一九六四年春闘の四・一七ストのばあいと同様である。

 

 いずれにしてもここで、交渉は決裂し、すでに第一次の整理人員三万七百名に解雇通告がおこなわれたという最悪の事態にたちいたって、ストライキをかけても闘おう、という勢力は国鉄労働組合のなかにはまったくなくなったことになる。「具体的闘争方針」のなかで、被整理者がもっとも頼りとしなければならず、また現実にも最大の偉力をもつ「第六項」は消滅した。とすれば、国鉄労働組合の整理反対闘争は下山事件をまつまでもなく、ここに音もなく崩れていったということになる。鈴木のいうとおり「孤立敗北に導かれ」ていったのだ。

 

 もちろん、そうはいっても、まったくなんの抵抗もなかった、というつもりはない。非常に数少ない例ではあるが、たとえば福島県下では四日、郡山機関区で区長が組合員に取りかこまれ解雇辞令の通達が出来なくなって、アメリカ軍政部の司令官が出動するという事態が起きた。また、福島管理部へは千名をこえる労働者や市民が押しかけ、管理部長など当局幹部が深夜まで軟禁状態となり、これも最後はアメリカ軍政部の解散命令というのが、市警察署の署長から伝えられている。

 

 ところが、これらの闘争を指導した国鉄労働組合福島支部の執行委員だった斎藤千は、翌五日、この後の闘争展開に具体的指示を求めて、共産党本部と国鉄労働組合の中央闘争委員会と両方に電話をいれたが、そこからは現実に役にたつ答えはなに一つかえってこなかった、と語っている。党本部は、すでに方針は示されている、敵の挑発にのらず革命のため奮闘せよ、というだけだし、組合中央も、闘争指令のとおりだ、というだけであった。その指令、七月三日に出された第三七号の、解雇通告返上や、家族を動員して所属長に陳情するなども、全部やったうえだといっても、熱海の中央委員会の「具体的闘争方針」を参考に頑張れ、という声がかえってくるばかりだった、という。

 

 共産党の積極的活動家、組合役員でさえなにをやったらいいのか本当のところはわからなかった、といえば、闘う意志はあったとしても、一般組合員がどう起ちあがっていいのかわかるはずもない。被解雇者は結局、最悪の事態に少しも動こうとしない組合に失望し、退職金をふところに淋しく職場を去っていくより仕方がなかった。被解雇者のいない整理反対闘争が存在するはずもないだろう。もちろんそれらの被解雇者を責めることは出来ない。責められなければならないのは、それらの人びとに、有効な闘い方を提示することのできなかった政党幹部である。そればかりか彼らは、激しい対立と抗争の原因さえつくって、労働組合の闘争力の源泉である、統一と団結を徹底的に破壊しつくしていた。現実に国鉄労働組合の整理反対闘争を切り崩し、押えつけてしまったのは、彼らであった。

 

 そういう政党のなかから、当時のこの重大な責任放棄と、裏切り的行為にたいして、自己批判の声はきかれない。もっとも、当時といえども、国鉄の整理反対闘争に微塵の責任も感じていなかったのだから、これは当然かも知れない。ただ彼らは、下山事件をアリバイに、この事件によって闘いは崩されてしまったと、責任転嫁の弁を繰りかえすばかりなのである。

 

 もちろん筆者も、下山事件のデマ宣伝が、労働者の闘いに幾許かの影響を与えたことを否定しない。しかしそれは、すでに闘う意志をなくし、敗走を開始していたからこそであった。そこに旺盛な戦意があり、固い統一と団結があったならば、逆に、官房長官増田が恐れたように、如何なるデマ宣伝もはねかえし、下山事件を政府攻撃の材料にさえなしえたろう。だが、国鉄労働組合を含め、共産党も、その他の民主勢力も、どれだけ下山事件を追い、その真相の究明に努力しただろうか――。

 

 たしかにそこに、“当時、われわれが謀略事件についての経験をもたなかったためだ”などという、これまたしたり顔の共産党イデオローグたちの遁辞はある。しかしそれならば、東大法医学教室のまったく理屈にあわない「死後轢断」に痛烈な批判を加えて、法医学論争をまき起した法医学者たちを、どう考えるのだ。あるいはまた、政府の意図するところに真向から対立し、自殺論の立場の報道を展開した毎日新聞の記者たちは、なんだったのか。彼らは、謀略事件にたいする豊富な体験でも持ちあわせていた、とでもいうのだろうか。

 

 問題は、なんといっても真実だ。客観的事実だ。七月八日付毎日新聞「社説」の指摘するとおりである。だが、自らデッチ上げたデマまで飛ばして、ストライキ闘争を阻止しようとした政党に、真実は見えなかった。いや、真実を見る気がまったくなかった、ということではなかったのか。当時の『アカハタ』を一瞥すれば、すぐわかる。「革命」、「革命」という活字は躍っているが、下山事件についての報道は、まったく影をひそめているのだ。ほとんど皆無といってもいい。労働者の闘いに、下山事件が深刻な影響を与えている、と仮にも考えたならば、なぜ必死で反撃しなかったのだ。謀略事件について経験不足であった、などというのが卑劣な遁辞であることはこの一事をもっても明瞭であろう。『アカハタ』は八月二日になっても、「情勢は革命に有利に展開しつつある。問題はわが党がいかに正しく奮闘するかにかかってきた。……そして労働攻勢と吉田内閣の致命的な弱点に徹底的な攻撃を組織することである。ストライキのみが闘争ではない」と、主張していた。彼らは、闘いの本当の方向がつかめず、つぎつぎと職場を去っていった労働者の現実の姿さえ見ようとしていなかった。

 

 さてここで、国鉄労働組合の十万人整理反対闘争がはかなく潰えさったあと、東芝労連がどう闘ったかを簡単にみておこう。その闘争方針が、闘う主体を個々の単位組合に下し、単位組合はまた所属組合員ひとりひとりに、その職場を「自から防衛する」という苛烈な責任を押しつけるものとなり、東芝労連伝統の統一したストライキ闘争という考えが、まったく影をひそめたものになっていた、ということはさきに述べた。この方針が、ストライキを避け、地域人民闘争によって九月までに吉田政府を倒し、人民政府をうちたてる、という共産党の戦術からでていることはまちがいない。

 

 もちろん、このストライキを押えるという方針は、国鉄や東芝だけでなくどこにでも持ちこまれた。『労働運動研究』一三三号では、樽美敏彦がつぎのように書いている。「日本電気三田工場の首切撤回闘争で組合員が工場内に座り込んだというのでかけつけてみると、共産党の地区委員とおぼしき人物が中央の演壇のうえから、『この首切は吉田内閣の政策から出たものだ、ストライキで首切は撤回できない。吉田内閣を打倒する政治闘争と結びつけねばならぬ』とアジ演説をぶっていた。組合員に配られた地区委員会のビラにも同じことが書いてあった」。

 

 また、この年の九月に書かれた中西功の共産党中央に対する『意見書』には、つぎのようなところがある。「言葉だけの勇ましさで、ストライキを意識的に拒否していることは明白である。これは地方の党機関に行けばさらに甚だしかった。各組織活動指導部の幹部はストをやめさせてきたことを自分の自慢話にしていた。そして少しでもストをアジるようなことが書かれればそれは『偏向』として、挑発分子として圧迫された。今日、実際にストを強調すれば、危険人物扱いになるのである(もちろんこれは共産党の機関によってである・筆者)」。これでは、「抗議ストを押え、大衆を分裂させてあるく社会党幹部」(6・7『アカハタ』主張)などと他を非難することは出来ないではないか。

 

 だが、それはともかく、首を切っても、労働組合がストライキも生産管理もやらないとわかっていれば、会社側としてはこんなに有難いことはない。対策はどうにでもたてられるだろう。ごく簡単な戦術だって、意外と大きな効果を生むはずである。すこしばかり小うるさい騒ぎを予想したとしても、そこにさしたる苦労があったとは思われない。たとえば、ささやき戦術――馘首者名の発表にさきだち緊張感がたかまって、組合が闘争体制を固めようとしている時期を狙い、会社は職制をつうじて整理非該当者に優しく声をかける。「君はだいじようぶ会社に残れる。つまらぬ気持を起して、組合に忠義だてなんかするなよ。ここはとにかくおとなしくして、身の安全を考えろ。君がたとい組合側についたって、首切り撤回はできっこないんだ。その責任は君にはないんだよ」。

 

 一名肩たたきとも呼ばれたこのささやき戦術で、東芝の会社側は非常に有利な立場にたつことができた。闘いへの戦意を固めようとしていた労働者の心理をゆさぶり、被解雇者との利害対立感を植えつけ、彼らを会社側に獲得できたからである。これにたいして組合側は、ささやきをおこなった職制を告発、抗議するなどの対抗手段をとったが効果を発揮せず、実際は会社側のなすままとなり、積極的活動家や共産党員までが動揺し崩されていった。

 

 もちろん、この会社の戦術が功をそうした背景には、組合側のとった戦術が、組合員全員を一つの行動に結集し、強固な連帯感をたかめるという方向ではなく、ひとりひとりに自分の職場は自分で守るのだという責任を課すようなものであったことと、同時に、地域人民闘争、あるいは共同闘争などという掛声で、有能で積極的な活動家を職場から外部に引きだしてしまったということもある。自分の職場は自分で守るのだという意識をもてといわれた職場防衛闘争は、それが強調されれば、他人の職場はどうあろうと、自分の職場さえ確保されればよしとするエゴイズムに結びつく。また、共同闘争で活動家の留守となったあとは、職制活動の格好の舞台でもあった。極端にいえば、職制は、活動家は組合のためというのは口実で、本当は共産党の戦術にのって動いているのだ、とも宣伝できたのである。

 

 もちろん、だからといってすべての組合員が戦闘意慾を失ってしまった、などというつもりはない。闘い抜こうと考えていた人たちも少数であったが確かにいたのである。しかし、それにもかかわらず会社側が、自分たちのほうが絶対有利な立場にある、と考えていたことはまちがいあるまい。その現われが、慎重ではあるが大胆に、戦闘開始の第一陣として堀川町工場の選定となったものと考えていいだろう。一気に天王山を目指し、中央突破作戦にでたのである。

 

 たびたび述べたが、堀川町工場労働組合が東芝労連傘下最左翼の組合と見なされ、ここでどういう闘いが展開されるかが東芝全体、いや産別会議を含めた労使全体の注目の的となっていた。そこへまず、会社側は攻撃を仕かけたのである。七月十二日、突然、工場の心臓にもたとえられたアイバンホー・マシン(高速自動電球製造機)修理のため、所属ガラス熔解炉の火を落とし、六カ月間休止すると宣言した。その火落としの当日十四日、熔解炉を担当する第一硝子課では全電工、全金属傘下の外部組合員約四百名傍聴裡に職場大会がひらかれたが、途中で民同派は総退場、第二組合の結成へ向けて公然とした行動にでた。

 

 これよりさき、組合側はあらゆる努力を石炭購入に傾けていた。会社側がガラス炉の火落とし準備の口実に、石炭購入資金の枯渇をあげていたからである。共産党の主張する「民族産業防衛」、「生産復興」などのスローガンに忠実だった東芝労連は(資本家は生産を破壊し、民族産業をアメリカに売渡そうとしているというのが共産党の考え方)、通産省や配炭公団に必死の働きかけをして、とりあえず石炭二日分の見通しをたてた。しかし、会社側は、この組合の対策を妨害、結局は石炭入手は不可能となり、外部団体約千の応援をうけた堀川町労働組合の夜を徹しての討議も、ガラス炉破壊を防ぐため自主的に火を落とす、ということになってしまった。結果的には会社側の望むところと一致し、会社の争議行為に手を貸してしまうということになった。ここに共産党の「産業防衛闘争」理論が色濃く投影されていて生産手段を守ることが第一義となり、緊急課題の首切り反対という闘争目標をぼやかし、暖味なものとなし、戦闘力を拡散することに終始してしまったのである。

 

 十六日、ガラス炉火落としが完了し組合員が落胆の渕に沈んだとき、工場側は千三百七十名にたいする解雇通告を発送、五日間以内に受入れるばあいの退職金支払いについての優遇措置(〇・五月分の増額と一括支払いなど)を条件としていた。同時にこの日、民同派による第二組合、堀川町新労働組合結成大会がひらかれ、参加人員は約四百名であった。翌十七日、会社側は工場を休業とし、さらにその翌十八日、退職金支払いの初日には、工場前は長蛇の列となった。もちろん、退職金受けとりのためである(この日の退職金受領者は被解雇者の半数にちかかったといわれている)。組合への失望と、不信任とみてまちがいあるまい。

 

 二十二日、解雇予告期日の切れる日である。この日、川崎駅頭で開かれた、『東芝首切り粉砕人民大会』には、参加者約七百名。東芝労連は、かねて闘争方針としていた「権力闘争」、「人民闘争」、「共同闘争」などの戦術にしたがってオルグ団を組織し、東京、神奈川県下の労働組合に働きかけ、七千名の動員を目標としていたが、実際の参加者はその十分の一、天王山の闘いとしては如何にも寂寥たるものであった(鶴見工場労働組合から動員で参加したものは、顔も青ざめがっくりして帰ってきた)。その七百名は、最初計画されていたと伝えられる会社構内入場強行もせず(この人数では実際できなかったろうが)、川崎市警察署と市役所へデモと陳情をおこなったにとどまった。そして、この日までに、整理通告人員の八四%が退職を承諾し、一日のストライキもうつことなく、堀川町工場労働組合の整理反対闘争は実質にはあっけない敗北におわる。それは、あまりにも忠実に共産党の方針にしたがったための、内部よりの崩壊であった。会社側は、東芝労連最強の砦をやすやすと攻め落としたことによって、ますます自信を強めたことだったろう。が、それにしてもなんともあっけない幕切れであった。

 

 

 第15章、松川事件・東芝の組合幹部行方不明と……読売新聞

 

 三鷹事件は、なんとも後味の悪い事件である。事件と前後して、「自然事故、原因不明事故を起せ」とか、「突発事故による休暇または欠勤戦術」といった、共産党の秘密指令″なるものが、一部民同派によって国鉄の職場に持ちこまれた形跡がある。もちろん指令はニセものである。こういう事実と、彼らの一部の不審な行動を基に、共産党は三鷹事件の背後に民同派がいる、と考えたようだ。そこで自由法曹団を通じて、町家五郎、石井方治ら数名に告発まがいの証拠保全請求をおこない、『アカハタ』でもトップ記事扱いで大々的に報道している。

 

 たしかに一部民同派の行動には不審を呼ぶ行動がおおかったようだ。だが、その底流にはながい期間にわたって醸成(じようせい)されてきた共産党にたいする反感がある。その感情がとくに熾烈となり、危機感となったのは国電スト前後からのようである。三鷹、中野両電車区分会をその組織内におく国労八王子支部の委員長鈴木清は、その危機意識をもって熱海の中央委員会で発言している。鈴木の発言によれば、国電ストのさい、“八王子支部全体をストに突入させよ”と要求した共産党系組合員が、特別仕立の電車(鈴木は現在これも「人民電車」であった、といっている)で支部執行委員会に乗りこみ、事実は判然としないが、なかには帽子のかげに短刀をかくして鈴木らを脅迫するものがいた、というのだ。これでは自由な発言は出来ないし、組合民主主義は守れない、という訴えに、国労中央は調査団の派遣を約束したほどであった。

 

 したがって、民同派のなかにはこういう動きに対抗しようとする意識が強かった。これも自然のなりゆきであろう。共産党としては、冷静にその意識の底流を見極め、適切な対策のもとに、国鉄の労働者の統一と団結を固める方向で努力を傾けるべきであったのだ。だが、一つ一つの現象にばかり目を奪われ、批判と攻撃に終始し、分裂をますます根強いものとしてしまっていたのである。

 

 さて、民同派に事件の責任ありとして攻撃する一方、竹内景助が単独犯行の自白をはじめると、こんどはいち早く彼の犯行と断定し、共産党とは無関係という大宣伝をはじめる。竹内はむしろ共産党のシンパ的立場にあったといわれ(彼は共産党の人たちに無実の罪を着せたくないので自分がやったと自白したとさえいっている)、民同派とはつながらない。したがって、事件の背後に民同派があるという民同派攻撃とは矛盾するのである。だが、共産党にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。要するに、自己の利益につながるならば、ことの善悪や真実か否かは、二の次ということになる。

 

 だが、それにしても、共産党はなんとお粗末な「事件」で右往左往しなければならなかったことか。もちろんそこには、基本的に民主勢力が分裂状態にあり、しかも、共産党がその分裂を煽り、労働者の闘いを内部から切りくずすような方向で活動していたことが影響していたのだが、さらには、下山事件にたいして逃げの姿勢で、ここで強力な反共宣伝を許してしまったことが、なんといっても大きくひびいている。下山事件についてのデマ報道で、どんなことが起っても不思議ではないような雰囲気づくりと、地均(じなら)しが出来あがってしまっていたのだから、事件をつくる方としてはこんな容易なことはない。自由自在に行動できたはずだ。もちろん、それだけに崩れるのも早かったわけだが、しかし、一時的にせよ、共産党が打撃をうけたことは事実だろう。

 

 ところで、話をもう一度、三鷹事件の起きた七月十五日に戻そう。この日、国労中央闘争委員会を退場した民同派が、戦術転換のため、解雇されたものを除いた中央委員会を急いでひらくべきである、という方針を決めたことはさきに述べた。すると十八日、あたかもこの時機を待っていたように、これまで不当労働行為問題に発展しかねないと躊躇(ためらい)をみせていた当局は、十七名の中央闘争委員を解雇した。もちろん、これらの中央闘争委員の大部分は共産党員であった。以後、国労中央闘争委員会は、この事態に対する一致した方針を見出すため会議をくりかえすが結論がでず、結局、二十三日ILO総会から十七日に帰っていた加藤委員長裁決で、“指令○号”が下部組織に通達されることになった。

 

 「第十六回中央委員会開催について」と題する“指令○号”の要点は、中央委員会を八月十五目東京付近でおこなうこと(後に成田と決定)、解雇や懲戒免職となったものは中央委員の資格がないこと、補充選挙の選挙権および被選挙権は国鉄職員でかつ組合員であるものに限ること、というところにあった。これに対して、「国鉄労働組合中央闘争委員会共産党グループ一同」は声明を発し、「民同派中闘の指令」は、「悪質なる組合分裂の策動であり、何ら組合員を拘束するものでない」こと、「常に分裂裏切りをつづけてきた悪質民同幹部はここに完全に吉田内閣の番犬となり、とくに本日のハレソチ暴力的行動は労働組合の原則を無視したものとして全労働者の反撃にあい、粉粋されるであろう」と述べている。そして彼らは、国労本部を出て国鉄西ヶ原寮に移り、ここで改めて「国鉄労働組合中央闘争委員会」と名乗った。国鉄労働組合には、二つの本部と、二つの中央闘争委員会が存在することになったのである。

 

 さて、この国労中央の分裂は、地方の組織にも大きな混乱をひきおこしていくのだが、以下に述べようとする松川事件に関連して、福島支部の状況をみておくことにする。ここの支部臨時大会は、八月六日からひらかれたが、大会冒頭支部委員長の武田久はつぎのように述べている。

 

 「私は解雇されているが規約の定めにより大会招集責任者である。さきの大会の代議員は一七七名であったが、本大会は一〇七名である。この七〇名の差の理由は、組合脱退と二千名の解雇がでたことによる。われわれは組合を旧に復するため統一と定員法撤廃闘争を強力に推進することを要望する。本大会の使命は過去二ケ月間の闘争を集約し、今後の闘争方針を決定するにある。吉田内閣の寿命もつきてその寿命は九月または十月より長くはない。この闘いに勝った時は、労働者の革命が成功した時であると思う」(傍点筆者)

 

 この拶挨最後の部分には、共産党の「九月革命説」の影響が色濃くでているが、この時期の『アカハタ』は以下の如くまだ意気軒昂としていたのだから、共産党員の武田委員長としては当然のことであったろう。

 「吉田内閣は正に崩かいの断崖に立った。それは反動支配そのものの崩かいであり、人民の政府いがい打破できない民族の危機を意味する。……人民の勝利の条件は、吉田の暴政によって急速に熟しつつある」(8・3「崩壊早める吉田の警察政治」)

 「吉田内閣は死相をあらわしてきた。……この危機は、吉田内閣一個の崩かいではない。資本主義のワク内では打開できぬ危機であり、これは革命のみが解決できる」(8・5「主張」)

 

 しかし、国労福島支部内における事態は、『アカハタ』の説くところとはむしろ逆の方向に進行していたようである。かつて共産党の支配力が圧倒的に強く、支部役員の大半を党員でおさえていたともいわれていたが、大会代議員の空気はすでに共産党を離れ、民同派の強い影響下にあった。二日間にわたる激論は、要するにこの二派の“指令○号”に対する態度をめぐってのものであったが、採決をすれば明らかに不利とさとった共産系が、最後には流会・引きのばし戦術をとった(彼らは、引きのばしておけば九月に人民政府が出来ると考えたらしい)ことで、結論をえないまま閉会となった。これで福島支部は機能麻痺状態におちいる。そして九月はじめ、役員改選の結果は、共産党総崩れとなり、支部役員は完全に民同派の占めるところとなるのである。

 

 ではここで、松川事件に関連して、東芝労連のほうを眺めてみることにする。十三章で、労連傘下最強を誇っていた堀川町労働組合が、あっけなく崩れてしまったことを述べた。もちろん、ここがいとも簡単に落ちたことによって、あとは一瀉千里、七月末までに京浜地帯の中心工場から地方主力工場までの整理はほぼ終了という状態になってしまっていた。残るは、処分工場として東芝から切り離される予定の地方弱小工場の整理だったが、福島県下の松川工場で三十二名の解雇通告がなされたのは八月十二日であった。

 

 東芝松川工場労働組合は、組合員約三百名、数こそ少ないが、福島県下では産別系で活発な活動を展開する組合として知られていた。しかし、東芝労連の主力がほとんど闘わずして敗退してしまった後で、ここだけが英雄的に頑張るというのは奇蹟を願うに等しい。二、三日後には被解雇者の大部分が退職金を受けとり工場を後にしていった。残るはほとんどが共産党員の五、六名。彼らを中心として、東芝労連の企業整備反対闘争がつづけられることになったのだが、松川工場労働組合の闘争目標は、馘首反対とともに、松川工場の東芝本社からの分離・別会社化反対ということがあった。そこでここでも、人員整理と工場処分は地方財政にも影響するという問題提起で、県議会その他の地方自治体組織に訴えるいわゆる「地域人民闘争」の一環を占める陳情闘争などを展開してきたが、期待したほどの成果を挙げることが出来ずにいた。

 

 筆者は八月十日、この松川工場に東芝労連のオルグとして鶴見工場労働組合から派遣されたが、共産党に入党してまもなくのことだった。松川工場の大体の様子は労連本部できいてわかっていたが、しかし、福島県下の他の組合の動きなどがよくわからない。そこで十四日、佐藤代治という青年部長とともに福島市内に出て、地区労や県労会議などを訪問することにしたが、どこも開店休業といった状態のようだった。仕方なしに共産党の県本部を訪ねて福島県下の情勢について御高説を拝聴しようと考え、青年部長の案内をうけたが、ここでは信任状がないということを理由に門前払い同然で、真面目に相手をしようというものがいなかった。あとで佐藤代治は、得体(えたい)の知れない人間を連れてくるとは何事か、革命的情勢下で警戒心が不足していると、自己批判を迫られたというのであるから驚きであった。

 

 いささか余談めくが、このとき佐藤代治に自己批判を迫ったのが、県委員長か副委員長だった竹内七郎で、彼はのちに中央委員会幹部会員という位人臣を極める地位にまで出世(?)し、一九六四年春闘の四・一七ストつぶしで活躍、その後共産党の方針が変ると、こんどは逆に責任を追及され、自己批判を求められたというのだから、世のなかというものはなかなか面白いものである。

 

 さて、こうしているうちに労連本部からスト指令の電報がきた。馘首に抗議し、十七日に二十四時間ストをおこなえ、というものである。もちろん、スト指令権はすでに本部に委譲してあったので、松川工場労働組合としてはそのまま機械的にストに入ってもいい状態になっていた。しかし、せっかくストをおこなう以上、その意義を確認し、あわせて東芝全体の情況などを報告しておくことも必要と判断し、十六日午後組合大会をひらくことにした。

 

 大会は午後二時から天王原工場内で開始された。委員長の杉浦三郎が冒頭まず、過渡経済力集中排除法により処分工場と指定された松川工場を、如何にして東芝の組織内に残すか、その闘いの経過や方針について長時間の報告、説明をおこなった。これは、組合員全員に関心のもたれるところであったので、静かに聞かれていた。しかし、ストライキの趣旨説明で、人員整理にたいする抗議ということになると、やはり鋭い質問や意見がつぎつぎと出てきた。――それならば、なぜ、解雇通告がだされた直後に、すぐやらなかったのか、というのである。被解雇者の大部分が退職金を受けとって、すでに会社を去ってしまっているのでは、その人びとにはなんの役にもたたないし、第一、迫力に欠けるではないか、というのである。どうしてこういうスケジュールになったのか、その真意を問う、というものもあった。みんなもっともで、当然の疑問であり、意見であった。

 

 したがって、これにまともに答えることはむずかしい。組合長の杉浦は共産党員であったが、どちらかというとリアリスト。あらかじめ解雇されることを予想して、下請工場の設立を準備していたくらいだから、九月に人民政府を樹立するため″などとはいわない。また、労連派遣オルグである筆者のほうは、この年になってからの労働法規の改正や、これに歩調を合わせた会社側の一方的労働協約の破棄などに民主主義への危機感を抱き、共産党が革命幻想でうかれ狂っているなどとは少しも考えずにとびこんだくらいの純真派だから、労連本部のスト指定期日の政治的意図や本当の狙いがよくわからない。とすると、答弁はいきおい迂遠となり、時間がかかる。結局は、ここで抗議のストライキを打ち、統一と団結の固さを示しておかないと、会社は第二、第三の首切りに踏切るだろう、などという、本当にそうなるのかどうかはっきりしない予想をばらまいて、やっとこさと逃げ切ったものだった。

 

 この大会が終ったのは八時半ちかくであった。激論がつづいたにしては、圧倒的多数で(反対は五、六名だった)、十七日の二十四時間ストが確認されたのだ。組合員は闘う意志を持っていたのである! なぜ、この労働者の闘う意志を、馘首発表直後、いや、その直前に、東芝労連を一丸として発揮させるような闘争指導をおこなわなかったのか。「地域人民闘争」だの、個々の職場は自分自身で守る「職場防衛闘争」だのと、愚にもつかぬお題目に明け暮れてしまった、共産党推薦の闘争方式が、いまでも残念に思えてならないのである。

 

 さて、大会終了後、工場数地内の八坂寮の一室(組合が使用していた)に十人ぐらいが集まった。国労や地区労、それに青共など、大会応援にきた外部団体の四、五名が、福島方面行きの下り列車までまだがあるというので、接待とも懇談ともつかぬ集まりであった。組合長の杉浦などの組合幹部も二、三ちょっと顔をだしたし、それに青年部員が数名でたり入ったりで、落ちつきもなければ、まとまった話もできないといった具合だったが、ともかく二十分ぐらいは会合のようなものとなった。一方、正門守衛所に隣接した組合事務所では、ストライキ準備のための役員会議、青年部の行動準備の作業などがつづけられていた。そして、それらの準備が一応終了し、杉浦たちが工場正門を出ていったのは十時を過ぎたばかりのことだった。もちろん、外部団体のものは九時ごろに帰っていたし、筆者も、宿泊場所となっていた八坂寮二階の真の間″に引き揚げていた。

 

 それから五時間余りたった、八月十七日午前三時九分、松川駅北方約一キロの地点で、上り旅客列車の機関車と、つづく荷物車などが脱線転覆して、機関車乗務員三名が死亡した。松川事件の発生である。もっともこの事件は最初、福島事件とか金谷川事件などと呼ばれ、中央紙の扱い方は下山、三鷹事件とは比較にならぬほど小さく、なんとなく地方の小事件という格好であった。しかし、地方紙にとっては大事件であり、中央紙の地方版もおおいにハッスルぶりを示していた。ここにその一例として、「外部団体が応援」と題する、十九日付読売新聞を引用しよう。

 

 「東芝松川労組は事件発生当日の十七日朝八時から二十四時間ストに入ったが、その前夜同労組はスト準備会合を天王原工場で外部団体員三百名が出席して行われ、散会後幹部数名は引続いてフラク会議を開き、これに出席した争議のリーダー格の共産党員三名が同夜十時過ぎ帰路についたまま行方不明になっている事実があり、これも一応の疑惑をもち目下三名の所在を調査している」

 

 これはまた驚いた記事である。「外部団体員三百名」といっても、組合大会全出席者が二百名を少し超えた程度なのだから、甚だしい誤りである。だがその誤りを、「引続いてフラク会議」、「出席した……共産党員三名が……行方不明」とつづけてみると、単なる誤りではなく、ある底意をもった、意図的なものと考えざるをえない。しかも、八坂寮組合室の集まりはフラク会議などというものではなかったし、十時過ぎに帰った三名といえば、杉浦に太田(副組合長)と佐藤代治にちがいなく、三名とも十七日は早ばやと工場にでてきて、ストライキで予定した行動にはいっていた。もちろん、この三名以外にも行方不明などというのは一人もいない。

 

 この記事を読むと、私は執行委員の斎藤正と一緒に、読売新聞福島支局に抗議にでかけた。ところが、この支局員たちの論理がすさまじい。記事内容は確認していないし、また確認とか調査をするとかということは、まったく必要ないのだ。もちろん、はっきりしたニュース・ソースはあるが、それをあかすことはわれわれの義務としてできない、というのである。しかも、暴力団まがいの態度で、高飛車である。これには、記事を読んだとき以上に驚かされたものである。

 

 しかし、一時間ほども押し問答をしているうちに、彼らも次第に詰まってきた。そこで彼らはつぎのような論理を展開してきた。工場をでて、人家の多い町場まで出るには、畠や田圃のなかの一本道を歩かなければならない。ところが、この道のまわりには人家がないのだから、三人を見ているものは誰もいないはずだ。したがって、この間、たとえそれが十分だろうが、二十分になろうが、ともかく行方不明とおなじことになる、というのである。これもまた呆れた話だったが、しかし、これ以上は時間の無駄と考え、記事の訂正を約束させて帰ってきたものであった。

 

 しかし、二十一日付読売新聞をみると、つぎのようになっていた。訂正どころか、さらに悪質な内容なのである。

 「列車転覆事件の前夜二十四時間ストを決議した東芝松川工場の労組大会終了後開かれたという少数フラクの天王原会議″と、事件発生当時所在不明を伝えられた三名が捜査線上に大きく浮び上っている。東芝労組連合会佐藤一、松川労組執行委員斎藤正両氏は、『当夜の大会参加者は外部団体を加えて二百三十名だが、会議終了後開かれたといわれるフラク会議は組合執行部としては全然関知しない。組合会議が事件と関係のあるような想像は迷惑千万だ。もちろん会議終了後所在不明といわれるものについても全く知らない』と抗議しているが、捜査当局では、同会議に潜入したらしい組合員外の過激分子と会議後数時間所在不明となった三名との関係に疑惑を深め慎重な内偵を行っている」

 

 行方不明も、フラク会議などというものも、ともに“存在しない”という抗議を、“関知しない”とすりかえ、ますますいわくありげな筆使いは、下山、三鷹、松川事件と、政府筋の意図を先取りするように、デマ報道に狂奔した読売新聞の体質のようなものが感じられる。彼らは、デマ報道だけでは足りなくて、後には一女性を誘拐し、飯坂の旅館に閉じこめて、虚偽の「自白」さえ強要した。それを取材とうそぶく、卑劣な記者がいたのである。

 

 ところで、順序が逆になったが、政府筋の増田官房長官の談話を、十九日付読売新聞から紹介しておこう。発表は十八日正午の記者会見である。

 「今回の列車転覆事件は集団組織をもってした計画的妨害行為と推定される。その意図するところは旅客列車の転覆によって被害の多いことを期待したもので、この点無人電車を暴走させた三鷹事件より更に凶悪な犯罪である。十七日に共産党代議士の林百郎氏(弁護士で三鷹事件でも活躍・筆者)がきて、この事件は共産党の仕業と断定しないでくれといっていたが私は話の趣旨だけは了承しておいた。しかし今回の事件の思想的傾向は究極において行政整理実施以来惹起した幾多の事件と同一傾向のものであることは断定できる」

 

 “三鷹事件より更に凶悪”といっても、実際には死者の数では半分、負傷者はなし、というのだし、場所的にもだいぶきつい上り勾配で列車はあえぎあえぎのぼってくるところなので、現実的にはこれ以上の被害は見込めなかったのではないか。とすれば、増田の発言は極めて感情的で、こういう談話こそ、社会にますます不安をばらまき、連鎖反応さえ起しかねないのである。が、それはともかく、三鷹事件と関連させたデマ記事を一つ紹介しておこう。八月二十日付福島民友である。

 

 「……事故発生の前東芝工場労組副執行委員長太田省次氏(34)の妻すみ子さん(23)が、同工場堤ケ岡寮の者に対し、『今晩県下のどこかに三鷹事件以上の大事件が起きる』ともらしたことである。捜査本部ではすみ子さんがどこでそのようなことをきいてきたか関係者を取調べ中である」

 

 もちろん、副組合長太田の妻は、「三鷹事件以上の大事件」などといってはいない。これは組合が、闘わずしていまの首切りを見過せば、やがて第二、第三の首切りがでる、という情宣活動をしていたのを歪曲し、“第二の三鷹事件”にすりかえ、さらに「三鷹事件以上の大事件」にまで発展させてしまったものらしい。こうして、東芝松川工場労組には、新聞報道を通じ、また実際には刑事たちが工場周辺を毎日うろつくことで、圧力やゆさぶりをかけてきたが、ここから直接攻めこむ糸口はつかめないと考えたのか、刑事たちの姿もいつしか目立たなくなっていった。そして新聞紙上では、「不良仲間を追求」、「松川の不良逮捕続く」、「捜査陣俄然緊張・不良機関区員らを逮捕」などという見出しが、人目をひくようになっていった。

 

 しかし、それも国警福島本部の新井隊長が語るように、「事件関係で十一名をこれまでに逮捕、約十名を参考人として呼んだがその大部分は事件から無関係を確認するためで、いわば捜査線整理のために邪魔物を除いたようなものだ」(9・16朝日新聞)ということになると、“三鷹事件の教訓を生かして確証をつかんでから犯人を逮捕する”という掛声に反し、ここでも人権蹂躙のゴマ化し捜査がおこなわれていたことになる。しかも、逮捕、取調べのうえ釈放したもののなかに、本当の犯人にいたる手掛りを秘めたものがあったとすれば、なおさら問題であろう。

 

 さて、こうした記事のつづくなかで、九月十三日付福島民友新聞は、「盆踊りに予言・赤間に疑惑集まる」という見出しで、つぎのように書いた。

 「伊藤敬二のアリバイ追及中の列車転覆事件捜査本部では十二日またも伊藤の下宿先松川町矢代君江さん(34)を福島地区署に召喚取調べを続行しているが、一方十一日(傷害容疑で)検挙した元福島保線区永井川線路班赤間勝美(20)は事件前夜の十六日虚空蔵のぼん踊りのさい『今晩列車転覆事件が起る』と語ったとの聞込みからこの点を重視、十二日午前には赤間の実母みなさん(75)、午後赤間の不良仲間信夫郡大森村菊地某(20)外一名を福島地区署に任意出頭を求め、赤間の十六日夜における行動ならびにその言動の事実について確めている」

 

 伊藤敬二も不良グループとして逮捕されていたものだが、福島民友新聞は翌九月十四日もつぎのように伝えている。

 「捜査本部(福島地区署)では十三日も引きつづいて伊藤、赤間の両氏を中心に取調べを続行しているが、当の赤間氏はどこまでも“事件発生予言”を否認しつづけており、また証人として召喚された菊地某(20)ら四名の中にも“事件が起る”と“事件が起った”ということをきいたという二色の証言が出てきており、捜査当局としてもこの点についてその判定に難渋を極めている。

 

 一方、伊藤氏の事件当夜におけるアリバイについては多少疑問の点が残っているが、これも事件と直接結びつくかどうかは今までの取調べの結果からはあまり期待出来ないが、未だアリバイがあいまいなことからこの点に捜査の重点をおいている」

 

 

 第16章、赤間予言で始った大量検挙と日本共産党

 

 松川事件の逮捕は九月二十二日からはじまり、以後、二次、三次、四次と十月二十一日までつづき、最終的にはつぎの二十名が被告とされた。武田久、鈴木信、斎藤千、本田昇、阿部市次、高橋晴雄、二宮豊、岡田十良松、加藤謙三、赤間勝美、以上十名は赤間を除いて国労福島支部の委員長、委員その他の活動家で、また共産党員でもあった。これに対して東芝側は以下の十名で、最後の二人を除いて共産党員であり、もちろん十名全員が組合の役員か、または青年部の活動家であった。佐藤一、杉浦三郎、太田省次、佐藤代治、二階堂武夫、浜崎二雄、大内昭三、二階堂園子、小林源三郎、菊地武。

 

 では、これら二十人の逮捕の根拠はなんであったのか――。既に読者の予想されたところかも知れないが、傷害罪容疑で逮捕された赤間勝美の自白である。彼は九月十日早朝、勤務先の。パン屋(国鉄を解雇されパン屋に就職していた)から福島地区警察署に拘引され、武田刑事の取調べをうけた。その調べでは、傷害罪のことなどはほとんど問題にされず(といっても、ときどき脅しにはつかわれたが)、武田刑事がきいてきたことは、八月十六日、虚空蔵様の宵祭の夜、友だちの安藤と飯島らに、「今夜、列車の脱線転覆がある」といったろう、ということだった。

 

 だが、当時のことについては赤間にはっきりとした記憶があって、それは翌十七日、朝早く起きて虚空蔵様へいく途中、永井川信号所(赤間も二カ月ほど前まではここに勤めていた)にいた同級生の森谷にあい、彼から松川と金谷川の間で列車脱線転覆の事故がおきたときき、さらにその後でもおなじ永井川信号所の太田から重ねて同様のことを教えられ、そうしたことを安藤や飯島に鉄道の知識をまじえながら話したものだった。だから赤間は、武田刑事がなぜこんなことを聞くのかと不思議に思いながら、彼が転覆事件を知ったこのようないきさつを詳しく述べたのである。しかし、武田刑事は、「いや、よく考えてみろ。それはおまえの記憶ちがいで、本当は十六日の夜だったろう」と、なんど説明してもとりあわない。そうして、「この野郎、喧嘩だの、女は強姦するだのと、悪いことばっかりしていて、ここへきてまだ嘘をいっている。そんなに嘘をいうなら安藤と飯島に、よく聞いてみろ!」と、彼ら二人を待たせてあった別の部屋に連れていかれたのだった。

 

 もちろん、遊び仲間の安藤と飯島は傷害罪や女遊びを種に武田刑事に脅かされ、すでに彼のいいぶんを認めさせられてしまっている。だから赤間がいくら、列車転覆事件の話をしたのは十七日だったと、前後の事情を説明しながら話してみても、武田刑事に、「安藤、飯島、まちがいなく十六日だったな!」と声高くいわれると、「はい」と、顔を伏せたまま返事をしてしまうのである。こうなると赤間は孤立無援の状態だった。それでも、「いや、たしかにあれは十七日だった」と頑張って、くりかえし説明を試みたが、しかし、安藤と飯島のほうはかえってますますかたくなになっていくようで、「でも、話は前の晩だったよな」と顔を見合わせ、武田刑事に調子をあわせるようになってしまうのだ。そうすると、赤間もそれ以上は頑張ることができなくなり、しまいには「じゃ、十六日の夜だったんかなァ」と、半ば認めるような格好になってしまったのだ。

 

 ここまで来てしまうと、もうあとには引きかえせない。武田刑事は、その後くわわった玉川警視と一緒になって、「脱線転覆事件が起きるというその話を、おまえ自身は誰からきいたのか」、「その人間と、どういう関係なのだ」、「関係ない人だといったって、そんな大事なことをまったく関係ないものに話すものか」と、つぎつぎと赤間を追いつめる尋問をつみ重ねて、数日の取調べでとうとう列車脱線転覆事件に関係があった、ということを認めさせてしまったのである。そうしてそのうえで、「なァ赤間、おまえは共産党に利用されてるんだ。みろ、連中は本当は自分たちがやっているのに、赤間がやったと大宣伝をしている」と、赤間の無知につけこんで共産党にたいする憎悪をうえつけ、さらに激しくあおりたてた。単純で、お人よしのところのある赤間は、この武田らの話を信じこみ、こんどは共産党にたいする憎しみを燃やし、ついには、彼らと一緒に事件を起した、という自白に発展させてしまったのである。

 

 さてこうして、共産党員の組合幹部に誘われて列車転覆事件に参加した、という自白が完成すると、警察の態度は一変した。九月二十一日、翌日からはじまる大量検挙にそなえて福島地区署から保原地区署に移された赤間には、十一月三十日までのそこでの生活が、「まるで夢のような」ものだった。まず極度に窮屈だった食糧事情のもとで、食事は二人分ちかい量があたえられた。しかも、留置場では決してお目にかかれないはずの天ぷらや生きのいい魚がつき、食後の果物までがでた。煙草はすい放題だったし、酒の供応さえあったのである。

 

 そのうえ、保原署全体があたかも赤間の運動場で、彼はほとんど自由に署内を歩き、ピンポン、碁、将棋を楽しみ、入浴にあたっては署長が一緒にはいって三助まがいのサービスまでしたことがある。そういうなかで赤間は、「赤」退治の英雄的気分にひたり、またこの異常な待遇を、それに見合った当然のものとして考えていたらしい。さらに、この赤間の気持をひきたてるのにひと役を果したのは、「男の中の男」などという激励のはがきや、近くの町村の顔役たちの訪問だった。彼らは監房までではいりして、はげましの言葉をかけたという。そして、保原署最後の夜は、これも異例の茶話会がひらかれ、署の幹部が出席して赤間の奮闘を祈ったものだった。

 

 だから、福島拘置所に移された初日、十二月一日に面会した兄の博(共産党員、東京の勤務先から駈けつけた)に対しても挑戦的だった。博に対して赤間は、「私は兄さんと気持がちがう。十年になるか、二十年後にかえれるかわからないが、自分は自分で闘います。人民政府なんて、兄さんたちがいうように、今年や来年にはできないでしよう。また、三鷹事件の竹内のように、一人で責任を背負うようなことは絶対しませんよ」と、激しい口調でやりあっている。彼は、このときはまだ、共産党にたいする憎しみと闘志に燃えていたのだ。

 

 だが翌二日岡林弁護士に面会、新聞を見せられ、警察でいわれていたことと実際とはまるでちがうことを知り、いままで騙されていたのではないかと動揺をはじめる。そして、その日すぐ赤間は及川福島拘置所長をつうじ、保原署に会いにきてくれたことのある新町教会の多田牧師に面会を求める。ただちに駈けつけた多田牧師に赤間は、「いままで警察で述べてきたことには、たいへんな間違いがあるのですが……」と訴える。そこで多田牧師はそれ以上のことはきかず、聖書の「然りを然りとし、否を否とせよ。これより過ぐるは悪より出づるなり」の句を引き、神に誓って真実を述べ、やったならやったといい、やっていないならやらないといわなければなりません、と説教をしてキリストに祈りをささげると、赤間もまた頭をたれて祈った。最後に牧師は一枚の紙片に聖書の言葉を書いて赤間に渡した。「人を恐れるものは臆病になる。神を恐れる者は強くなる」。彼はその紙片を持って法廷に立ったのだった。

 

 松川事件の第一回公判は、それから三日後の十二月五日、福島地方裁判所の法廷で開かれた。私にとっては、東芝関係以外の被告の大部分は、顔も名前もよく知らない人たちだったが、法廷に入ってまもなく、おなじ被告席にならんだ一人の若者から、「佐藤さん、本当に申しわけありませんでした。今日からは真実だけを述べていきますから許して下さい」と、如何にも親しい間柄であったように挨拶されて、驚いたり、戸惑ったりしたものだった。彼のほうでは私をよく知っているらしいのだが、私のほうでは、彼が名乗った「赤間です」という、その赤間に記憶がない。しかも、顔にもまったく見覚えがなかったのだ。私には、この謎のような、不思議な若者と一緒に被告席に座らされた、というのがまず公判最初の印象であった。

 

 やがて、公判がすすむにつれて冒頭陳述がおこなわれ、検察官の主張がわかってきた。それによると、国鉄、東芝の両方が二度の連絡謀議をおこない、その結果、共同で列車脱線転覆事件を起すことにして、国鉄側からは本田、高橋、赤間の三人、東芝側からは佐藤一、浜崎の二人が八月十七日午前二時ごろ現場で落ちあい、線路破壊作業をした、というのである。もちろん、検察官主張の根拠は赤間自白にあるのだが、しかし、考えてみると、赤間がどうして私の名前をだし、佐藤一と一緒に線路破壊の作業をした、と供述することができたのか、それもやはり不思議な謎だった。

 

 だが、公判がさらにすすむと、その謎がとけてきた。警察は一枚の写真を赤間に示し、そのなかに現場で落ちあい、一緒に作業をした東芝側の人間はいないか、という聞き方をしたのである。写真は、私が松川に於けるオルグ活動を終え、労連本部に引きあげるとき、松川の青年部の人たちが記念にということでとったもので、私を中心に数名がスクラムを組んだ格好でうつつていた。もちろん、そのころ赤間は警察の自由になっていたし、東芝側の人間が誰であろうと、そんなことにこだわる必要もまったくなかった(というより、本当は東芝側をまったく知らないといった状態だった)。そこで写真のなかで適当に、この人とこの人、と指さしたのが私であり、浜崎であった、というわけなのである。もっとも、警察側が、この赤間の指示をそのまま受けいれたのか、それともあらかじめある種の暗示をあたえたうえで指示させたものか、そのへんについては判然としない。が、いずれにしても赤間の指示は、警察側の期待していたところと、あまり離れていなかったことは事実だろう。そしてその後、私にはわからないような状況で赤間になんどか面通しをさせ、私の顔形や、全体の姿格好をよく覚えこませたらしい。だから赤間は、第一回の法廷で私に会うと、初対面のはずにもかかわらず、ためらいもなく「佐藤さん」と話しかけ、かねて親しい間柄ででもあったように接してきたのであった。

 

 では、検察官は、動機の点はどう考えたのか――。冒頭陳述によると、国鉄と東芝側ではそこに若干異なるものがあるような記述となっている。だが、東芝側のそれをあとまわしとすることにして、まず第一回の国鉄・東芝の連絡謀議(八月十三日)で語られたという、事件を起す目的と狙いは、つぎのようになっている。「現政府の政策に反対し、国鉄労組員と東芝松川労組員とが共同して本件列車脱線を決行し、之れを民同派の行為の如くすること」。

 

 検察官のこの主張に見合うものとして、太田省次の検察官笛吹享三に対する自白調書(10・17作成)につぎのような記載がある。「(前記第一回の連絡謀議で武田久が)『吾々が此の様に首切りになったのは吉田政策の現れである。吾々は此のままでは生きて居られない、何か報復手段はないか』と云い、夫に対して鈴木信が『東京では三鷹事件が起きた。共産党ではあれは民同がやった様に云って居るが、此処でも列車転覆をやって要領よくやれば民同になすりつけられるからやって見よう』といい……」。

 

 吉田政府の政策に「反対」するにせよ、「報復」するにしろ、列車転覆事件を起すことがどうしてそれに適うのか、ましてそれを、「民同派の行為の如くする」ことにまでつなげた主張となると、そこに論理的整合性がまったく欠落することになる。この点では、三鷹事件の検察官主張のほうがまだ合理性があった(十四章を参照されたい)。だがそれはともかく、この検察官の主張を読むと(自白調書もまた彼らの意図の表現とみていいだろう)、そこには、共産党と民同派の対立抗争がぬきさしならぬほど激しく、根強いものだという彼らの認識が、色濃く投影されていることを知らされる。そのことなくして、「之れを民同派の行為の如くすること」という発想はでてこないだろう。

 

 三鷹事件のばあいも検察官は冒頭陳述で、「いわゆる民同派の者に疑惑を向けさせ……町屋五郎を真犯人らしく宣伝することが行われた」と述べているが、それはむしろ事後発生の事実の指摘であるのに反し、松川事件では事前の、動機のなかにまで繰りいれられてしまっているのである。いずれにしても、民主勢力内で敵対的に争う二派があれば、それは相手側を喜ばすだけで、さらにそのうえその分裂は重大な局面で必ず巧みに利用される。このことは銘記されて然るべきであろう。

 

 とくにここで共産党に関していえば、赤間の兄博との福島拘置所における面会記録によってもわかるように、竹内を真犯人とする三鷹事件についての宣伝が、赤間から虚偽の自白を引きだすために利用されていることである。取調官から吹きこまれずには、「三鷹事件の竹内のように、一人で責任を背負うようなことは絶対しませんよ」などという言葉は、赤間の立場からはでてこない。取調べるほうは、彼ら独自の仕方で解釈した共産党の竹内単独犯行宣伝を、時機をとらえて赤間の頭にたたきこんだにちがいない。こう考えると、共産党の愚行は、単にそのときの愚行としてとどまらず、あとあとまで尾を引くものとなっていたことを改めて痛感させられるのである。

 

 ところで、検察官主張の動機についてもう一つ検討しておかなければならない点は、彼らは最初、冒頭陳述とは別の形のものを考えていたらしい節があるということである。前記笛吹検察官作成の太田自白調書では、その末尾のほうにつぎのような部分がある。「(八月十六日午後十時頃)自分は杉浦、佐藤代治と共に工場守衛所を出て帰途に就きましたが、その途中(読売新聞によれば行方不明″の状態のとき・筆者)、杉浦は『革命とは社会を撹乱させることである』と申しておりました」。

 

 さらにこの自白調書は、事件のあった十七日夕刻のことについて、つぎのようにつづく。「杉浦私等と合計十名(東芝側被告全員・筆者)が杉浦の家に行きました。杉浦の家で同人は私達九名に対し『滞(とどこおり)なく成功した今後共その事については絶対に死んでも喋ってはならない、一層アリバイを確実にしておけ』と申しました。夫から更に大変であったと云って謝礼金として……」。ここで出てくるのがいわゆる転覆謝礼金だが、その額をこの調書で太田は各々数万円程度に述べている。しかし、浜崎二雄は、一時は三笠検事に百万円の謝礼金をもらったといわされた、といっているし、また、小林源三郎の検察官辻辰三郎に対する自白調書(10・20作成)によると、彼の貰った金額は十五万円であったとして、つぎのように述べている。「私は十五万円であるので其の多いのに驚き杉浦さんが自分で出したのではないことは明かで、杉浦さんは共産党員でもありますから、之は共産党から出たものではないかと思いました」。

 

 ちなみに、この当時の民間企業における月平均収入が賞与を含めて八千八百円、やっと二十歳になったばかりの小林などにとっては、十五万円といえば三年分の年収に匹敵する大金であった。もちろん、九人分を合計すれば大変な額になるそんな金が杉浦個人にも、あるいはさらに組合にさえない。とすれば、小林が現最高検検事総長の辻辰三郎に述べさせられているように、出所は共産党、しかもそれも本部のほう以外にない、ということになる。そして、この大金を、太田白白とあわせ考えれば、共産党が「革命」を目指して、「社会を撹乱させる」ためにばらまいた謝礼金、ということになってくる。

 

 たしかに、松川事件の捜査本部は一時期、事件を共産党本部と関連させて考えたようである。九月二十二日に逮捕されてから二、三日後に調べはじめた安斉と土屋という二人の刑事は私に向かって、「おまえらが平(たいら)でやった、あれは何だ! これから平の仇討(かたきう)ちだ。こんどこそ共産党の化けの皮をひっぺがして、本部の連中までひっこくってやる!」と怒鳴りちらし、たいへんな剣幕であった。

 

 彼らがいう「平」というのは、六月三十日の平事件である。平地区の共産党員と周辺の炭鉱労働者によって、平市警察薯が十数時間にわたって占拠され、警察署としての機能がまったく麻痺してしまった。在監者が彼らの手で釈放され、かわりに警官が閉じこめられて施錠され、署長は軟禁状態でふるえていた、というのだからやはり警察の側にとってはショッキングな事件であったにちがいない。しかも、福島県内はもちろん、仙台あたりからまで応援に駈けつけようとした警官隊が国鉄で乗車拒否にあったり、あるいは各地の警察署にデモがかけられたりで身動きができず、福島県下が騒然とした空気の一日であった。

 

 東北地方の共産党はこの「戦果」に、勝った、勝ったと大喜び、これこそ地域人民闘争による地方権力の麻痺状態の出現だと、自画自讃に酔っていたらしい。ところが、共産党中央のほうは、必ずしも好ましい状況とも、歓迎すべき事態とも考えなかったようである。事件を伝える七月二日の『アカハタ』も、二面の記事としてひかえ目だし、さらに直ちに駈けつけた中央委員会の使者聴涛克己は、ここの地区委員会で、「貴様ら、暴力革命でもやるつもりか!」と、不機嫌な顔つきで怒鳴りまくったといわれる。しかし、そのとき怒鳴られた地区委員は、緊急事態に他所からかき集められた新しいものばかりで、実際に事件に参加し、指導的役割を演じた連中は、事件直後から開始された大量検挙と、それを避ける逃亡で、まったく影もなかったというのだから、結果としては共産党が大打撃を受けた事件であった。

 

 しかし、結果はそうであったとしても、十数時間にわたって警察署が占拠され、その機能が完全に麻痺したのだから福島の警察関係者にとっては大事件で、彼らの恨みは骨髄に徹するものがあったことは、容易に察することができる。しかも事件発生は、共産党が「九月革命説」を打ちだした直後とあって、これと関連させて、「革命の前段蜂起」というとらえ方までしていたようで、その点でも共産党中央の指令による人民闘争という見方が強かったらしい。したがって、平事件の捜査はそのへんを明らかにしようと、執拗につづけられたといわれる。だが、その点では当然のことながら思ったような成果を挙げえなかった彼らは、松川事件にその望みをつないだ、ということだったのだろう。平事件の捜査にも参加したという安斉刑事らが、「共産党の化けの皮をひっぺがして、本部の連中までひっこくってやる」と怒鳴りまくったのは、彼らのそうした願望の現われだったにちがいない。

 

 もちろんこれは、まったくの見当はずれなのだが、しかし、だからといって警察ばかりを笑っていられない事情も共産党の側にあった。公判を直前にひかえた時期だったと思うが、福島拘置所の運動場で一緒になった国鉄側の被告鈴木信から、「わが党内にどうも怪しいのがいる……」と、心配げに話されたことがある。鈴木のその話によると、保坂浩明がどこからか連れてきていた男で、常日頃の過激な行動から、彼ならああいう線路破壊もやりかねないし、しかも、事件が起きてから行方がはっきりしていない、というのである。疑えば、いくらでも不審な点がある、と鈴木は本当に心配しているようであった。

 

 保坂といえば、当時共産党東北地方委員会の議長で、これまた過激な指導でもって知られていた(平事件直前に平の活動家に向かい、まごまごしていたら革命が起きてしまうじやないか、その前に警察署の一つぐらいなんとかしろ! とはっぱをかけていたといわれる)。鈴木はその下で東北地方委員候補、福島県委員などの肩書をもっていたのだから、彼の話にはなんらかの根拠があったのだろう。そして、この話と関連があるのかどうかわからないが、幹部会員であった袴田里見が一九六四年五月の共産党中央党学校の講義として、つぎのように語っている。「保坂浩明は三月頃党の勤務からズラカッタ。査問しようとした。彼はかつて平事件を指導した。松川事件で彼は汽車の脱線を計画した」(「松川国家賠償請求事件」記録)。

 

 もちろん、真相は不明である。しかし、狂信的にまで革命まじかしと思いこまされていた共産党員の一部には、過激な言動を、革命への忠誠の証(あかし)と考えていたものがいたことも事実である。共産党本部勤務員であった増山太助が、三鷹事件のとき、「本部関係者のなかには、本当に共産党員が、電車を暴走させたものと思い込み、憤慨するものもいたし、『だから、地域人民闘争はまちがっているのだ』と、無責任な放言をするものもいた」(『運動史研究』4)と書いているが、この頃の空気をよく伝えている。要するに、党員が電車暴走事件や、列車転覆事件を引き起しても、決して不自然ではない、と思われるような雰囲気が共産党のなかの一部にあった、ということである。このことは、現在の情況からは想像もつかないことであろう。

 

 さて、当初、共産党本部さえ狙った痕跡があるにもかかわらず、さきに引用した検察官冒頭陳述のように、動機が論理的整合性を欠き、なんとなく倭小化してしまったのは如何なる理由によるのか。杉浦三郎の如きは、太田自白ではたいへんな革命家ぶりであったのに、冒頭陳述の動機は、「松川労組の円谷玖雄が…公安条例違反で逮捕されたので、此の際大事件を惹起して其方面に警察力を指向して円谷同様の地位に置かれて居る自己の逮捕を免れる為であった」と、されてしまっている。

 

 ここで公安条例違反といっても、県会陳情のさいの団体行動に無届デモといいがかりをつけられた程度で、「大事件を惹起して其方面に警察力を指向して」その「逮捕を免れる」というのは、こじつけにしてもいささか大袈裟すぎる。しかも、その大事件を、松川工場のすぐ近くで起したのでは、警察力はすこしも他所には向かない。現実には、その警察が幾重にも杉浦をとりかこんでしまったのだから、検察官の説く動機は滑稽でさえある。

 

 では、さきほどもいったように、どうしてこんなことになったのか。といっても、ここは推察する以外にないのだが、まず第一には、転覆謝礼金の裏付けでつまずいた、ということがあげられよう。彼らは、太田、浜崎、小林、大内、菊地などの自白調書を片手に松川町の彼らの家を急襲し、預金通帳や数年前に購入した木材などを押収し、現金入りの瓶を求めて縁の下を掘りさげ、あるいはまた芸妓置屋の女将を呼んで面通しをしたりと(菊地は大金の使途に困り、芸者遊びで散じたという自白をしていた)、金の動きを裏付けるための試みをいろいろやってみたが、元来が架空の物語なのだからなにも出るはずもなく、ことごとく失敗した。ここから、方向転換ははじまったのだろう。

 

 さらにまた、一つの筋書に従ってたくさんの自白調書を作ってみたが、しかし、現実の裁判となるとそれぞれのアリバイが問題になる。そこでいろいろと手段を講じて、そのアリバイ崩しを試みたはずなのだが、ここでも彼らが思うように事は運ばなかったようだ。そればかりか、あとで問題になった「諏訪メモ」のように動かしえないアリバイ証明の証拠まで出てきて、事件全体の成立に自信がもてなくなってきたものと思われる。事実、十一月にはいって私を調べにきた検事は、「君は本当に白なのか?」と、まったく自信のない聞き方をしていた。もちろん、さきの「諏訪メモ」を検討し、そのうえでやってきたにちがいない。

 

 基本的には以上のような事情があったうえに、第一回公判がちかずいた十一月の下旬ごろになると、共産党にも夏の頃の勢いはすでになくなっていた。このこともまた影響していたのではなかろうか。

 『アカハタ』の紙面からも、「革命」という活字がまったく影をひそめてしまっていた。わずか三、四カ月前の紙面と較べてみると、まるで別の政党の機関紙のような変りようである。また、三月四日の三鷹事件第一回公判では、宮本顕治特別弁護人が、共産党統制委員会議長としての立場から、「共産党は破かい的暴力的方針は絶対とらない。党の諸決定の中でもこの事は明らかであり、『九月革命説』を初めにいいだしたのは、民自党の広川幹事長であり、更に悪質民同が共産党の信用を落す為に用いたデマだと断ずる」(日本評論編集部編『三鷹事件公判記録』と、統制委員会議長自ら自分の出席した(『アカハタ』に宮本の「統制委員会報告」があるから明瞭)第十五回拡大中央委員会の、満場一致の決議を覆し、民同派に責任を転嫁するような弁論を展開する始末なのだから、“革命神話”も終りを告げていたのだろう。とすると、検察官も、こんな共産党本部を相手にするのも馬鹿馬鹿しい、と考えたのかも知れない。

 

 ところで、少ない紙数で裁判の経過を紹介しなければならないことになったが、第一審は、翌一九五〇年になって、八月二十六日までに八十四回の公判を重ね、この日検察官は論告求刑をおこなった。それは、死刑十名、無期懲役三名、その他七名に有期懲役計九十四年という、驚くべきものであった。三鷹事件における死刑求刑が三名であったことを考えると、狂気のことといわなければならない。そして、福島地方裁判所は、あたかもこの検察官の異常なはったり求刑に感応したように、冷静な判断力を失い、十二月六日、九十五回目の公判で、死刑五名、無期懲役五名、有期懲役計九十五年六カ月という、全員有罪の判決を下した。

 

 第二審は、一九五一年十月二十三日からはじまり、五三年七月二十三日の百十回目の公判で結審、十二月二十二日に判決となったが、三名を無罪としたほか、十七名を有罪とし、死刑四名、無期懲役二名、有期懲役計八十四年というものであった。

 

 ここで三名の無罪がでたのは、八月十三日の、国労福島支部事務所内における謀議が、それぞれの出席者のアリバイが明白となったため不成立となり、この謀議にだけ出席したということで共謀共同正犯の罪に問われていた武田、斎藤、岡田の三名が、完全に事件から外れることになったからであった。もちろん、この謀議は国鉄・東芝間の第一回の連絡謀議であり、ここで両方の代表(東芝側は佐藤一、太田省次)が最初の接触をし、列車転覆事件を起す合意を成立させたとされているもので、さきに動機の説明として引用の検察官冒頭陳述も、またこれと関連する太田自白調書も、この十三日謀議で語りあわれた内容といわれるものである。

 

 この第一回連絡謀議を不成立とした第二審判決は、したがって、事件は“頭の部分を欠く”ということを認めたに等しかった。ところが、たしかに頭は無くなったが、胴体と足は残っているとして十七名を有罪としたのだから、まったく奇妙な判決であったといわなければならない。

 

 一九五四年五月、一・二審裁判記録が最高裁判所に送付され、第三小法廷係属の事件となった。二審の途中から次第に大きくなっていた松川救援運動は、総評が本格的に取りくむことになり、広津和郎の中央公論誌上における活躍などとあいまって、ようやく世論への影響を強めてきていた。そしてそのなかで、事件は第三小法廷から大法廷に移され、また法廷外では「諏訪メモ」が、一審担当の鈴木久学検事の手許に隠されている、という事実がバクロされ、大法廷は異例といわれた同メモの提出を命ぜざるをえなくなった。

 

 さきに、十三日の連絡謀議は不成立となったと書いたが、国鉄、東芝間で残されていたのは八月十五日の国労福島支部事務所内における、第二回連絡謀議であった。この謀議が消えれば、国鉄と東芝の間は完全に切りはなされ、事件全体は崩壊する。したがって、この謀議にただ一人、東芝側を代表して出席したとされていた私のアリバイは、大きな争点であった。

 

 ところでこの日、この謀議があったとされる時刻、私は、東芝松川工場における会社側との団体交渉に出席していた。したがって、アリバイ立証の証人は、組合側役員のみならず会社側にもあった。しかし、それらの証言を裁判所は、“佐藤一のため事実をまげて証言したもの”としてしりぞけた。しかし、「諏訪メモ」が最高裁の提出命令で白日の下にさらされてみると、これらの証人の証言を見事に裏付けていた。「諏訪メモ」は団体交渉の経過を克明に記録していたのである。

 

 松川事件の捜査本部は、この「諏訪メモ」を、太田らから自白を引き出していた十月末頃に、東芝松川工場から押収し隠匿していた。そのうえで十五日謀議の存在を主張し、死刑の求刑までしていたのだから、あきれるばかりである。この責任の一端を、現最高検検事総長の辻辰三郎も負っている。いや、負っていることが明白であるからこそ、彼は現在の輝ける地位にあるのだろう。

 

 しかし、最高裁は、さすがにこの「諏訪メモ」を黙視しえなかった。ここに「原判決破棄、差戻し」の判決となる。一九五九年八月十日であった。これを受けた仙台高等裁判所は四十七回の公判を重ねた結果、六一年八月八日、全員に完全無罪の判決を下す(この門田判決を読みかえすたびに私は涙が流れる)。そして、最高裁判所が検察官の上告を棄却したのが一九六三年九月十二日、ここに無罪判決が確定したのであった。

 

 

 第17章、下山・三鷹・松川謀略説で笑うものはだれだ!

 

 ここでもう一度、下山事件にかえる。下山、三鷹、松川とならべてみても、この事件が一番最初の事件だというばかりでなく、国鉄の第一次整理発表とも重なり、社会に与えた影響も他の事件と比較にならないはど大きい。事実、新聞報道なども圧倒的に多彩、豊富であった。また、毎日対朝日、読売という、自・他殺両説に分かれた報道がそれに輪をかけていた。

 

 もちろん、だからといって、これらの新聞社が、社を挙げてその説で統一されていたということではない。毎日新聞では、自殺説の立場をとった平正一デスクに、共産党の「秘密党員」という噂が流され(自殺説のほうが共産党に有利であったし、また共産党もこの当時は自殺説であったようだ)、編集部の柱には「アカハタ編集長を命ず」などという貼り紙もされたという。こういう情況に、ときの社会部長黒崎貞次郎は、「心の中で、お題目のように“真実は一つなり”を唱えて、この嵐の中に担当者をはげましていた」(『中央公論』36・6「なつメロ社会部長の唄」)と書いている。

 

 他殺説で、狂ったように突っ走った読売新聞のなかにも、自殺と考えるものはいた。当時警視庁詰であった竹内理一は、取材データからはどう考えてみても自殺ということにしかならず、思いあまって社会部長や編集局長に直訴し、第一線捜査官たちと対談する機会をつくらせたという。第二現場(三越周辺)の捜査を担当した鈴木清主任の想い出によると、読売からたしかにそういう申しいれをうけ、堀崎課長に相談しようと考えたが、相談すれば止められるだけと思い、関口主任を誘って自分の責任で指定の場所まで出かけていったという。どこかビルの屋上のビアガーデンで、ビールを御馳走になりながら二時間ぐらい話をしたが、結局、「読売の偉い人たちは聞く耳をもっていなかったね」というのが鈴木の結論であった。

 

 竹内理一とおなじく、警視庁で主として二課を担当したという福島薫も、やはり自殺説であった。理由は、あれだけ他殺の情報を追ったのに、結局は、なに一つこれはというものが出ず、最後まで捜査をつづけた二課の刑事たちも、「自殺だよ」と笑っていたのだから、これ以外にないでしよう、というのである。また、当時、読売新聞従業員組合の委員長であった青木慶一も、「直接取材には当りませんでしたが、各種の情報から判断して、私の結論は自殺でした」ということだった。後に最高検検事となったある人物と雑談したとき、たまたま話が下山事件となって、お互いの意見をメモに書いて、一緒にひらいて見せあったことがあったが、両方「自殺」で、おやおやと苦笑したことがある、という。だから、「検察庁だって、本当のところ自殺と考えていたんじゃないですか」というのが青木の結論であった。だが、政府のほうが、占領軍の後楯もあって、他殺の立場で捜査を継続しろ、と捜査本部につめよっていたのだから、大勢は他殺のほうに傾くのは自然の成行きでもあったろう。

 

 さて、継続捜査となった捜査本部であるが、捜査二課のほうは第九章で述べたように、東大裁判化学教室と一体となって「油」を追い、翌年五月末頃まで捜査をつづけたが、結局はなに一つ他殺の根拠を見出すことは出来なかった。一方、捜査一課のほうだが、第二第二現場での聞きこみ捜査を継続、その間になんどか自殺発表の努力を試みることになる。その一つが、九月十五日の首相官邸における捜査結果の説明会である。政府側出席者は、増田官房長官、郡副官房長官、それから第二代国鉄総裁となった加賀山之雄、これに対して捜査本部は坂本刑事部長、堀崎一課長、松本二課長、金原係長、関口主任らで、報告と説明は夕食をとりながら二時間半にわたっておこなわれたが、もちろん“自殺”という結論に不満な増田は、不機嫌な表情で、終ってからも「御苦労」というねぎらいの言葉もなかった、という。

 

 しかし、どうしても“自殺”という結論を発表して、捜査を締めくくりたいと考えていた捜査本部は、「捜査報告書」(いわゆる「下山白書」)の作成に取りかかる。これを政府と占領軍関係に提出し、了解を求めようという考えである。ところが、その第一部と第二部が完成し、第三部の、下山定則の病歴や家庭・職場環境、さらに日記、手帳からみた心理状態の分析結果などについて、成文化が進められている途中で、『文芸春秋』や『改造』などの一九五〇年二、三月号へのスクープ事件が起きた。これが警視庁内では歴史的不祥事として大問題となり、こんどは捜査本部の刑事たちが調査官につけまわされるという事態になってしまった。刑事たちは、預金通帳や買物リストの提出を求められ、そのリストに従って買物先の調査をされたとさえいわれる。こういう状態になっては、自殺発表という熱意も冷めざるをえず、いつのまにかたち消えとなってしまったのである。しかし、いずれにしても、三鷹、松川事件を超えて大量の捜査員を投入し、はるかに長期間の捜査がおこなわれた結果が自殺であったことはまちがいない。

 

 事件当時は、“他殺”といえば、犯人は共産党員であり、労働組合員であった。そして、“自殺”を主張するものは、共産党員にされた。だが、これに反して現在では下山・三鷹・松川の三つの事件とも、アメリカ謀略機関陰謀説が花盛りである。またアメリカ謀略説でありさえすれば、どんな荒唐無稽なものでも歓迎されるらしい。したがって、説をなす者は、あえて「事実」の創造さえ辞さないようである。『日本の黒い霧−下山国鉄総裁謀殺論−』が走らせた、アメリカ軍専用臨時貨物列車一二〇一は、その顕著な事例である。その詳細は拙著『下山事件全研究』の「列車をめぐる謎」で検討ずみなのでそれにゆずるが、『日本の黒い霧』の著者は、この一二〇一列車が関係したとする(実際はまったく無関係)、田端機関区にさえ一度も足を運んでいない。しかも国鉄労働組合が彼の「説」に基づいて調査をし、その事実の不存在を確認して訂正を求めたのにも、応じてはいない。なぜならば、そうするとアメリカ軍謀略説は根底から崩れるからである。

 

 もう一つ例を挙げよう。下山の靴底に、緑色の色素が付着していて、それがアメリカ軍用の「染料」であるという説がある。では、本当に「染料」は付着していたのか――。筆者は、この靴の検査に当った塚元久雄(事件当時東大裁判化学教室助教授)を九州の大学の彼の教室にたずね、その事実を確かめたことがある。しかし、彼はその事実を否定した。そんな検査はしていない、というのである。そして塚元は、いささか憤然とした調子で、「そんなことをいいふらすのは、矢田だろう」というのである。「彼はやたらに想像でものをいう、下山はソヴェト大使館に連れこまれて、血を抜かれて殺された、なんてこともいっていましたよ。だから、あれは睾丸蹴りあげのショック死じゃなかったか、といったんですが、いや、出血死だ、ソヴェト大使館で血を抜かれて殺されたんだと、興奮して話してました。私が九州大学に来てまもなくでしたから、昭和二十五年の秋ごろでしたかね」

 

 たしかに、塚元がいうように、矢田喜美雄は一時期この「ソヴェト大使館説」をふりまいて歩いたらしい。その情報は李中漢なる朝鮮人から出たとして、別冊『週刊朝日』(25・11・10)に、「スリ盗られた調書」という一文を書いている。こういう情報を持ちまわったり、事件当時は盛んに国労や共産党が怪しいと書きまくっていたはずの矢田が、いつのまにかアメリカ軍謀略説をとなえだし、その彼の説に基づいて映画まで作られるというのだから、矢田が変ったというか、世の中が変ったというべきか、まったく当てにならないものである。しかもその映画では(シナリオ第一稿を読んだ限りだが)、矢田らしい新聞記者と捜査二課(公安担当)が、アメリカ秘密機関(?)の犯跡を追って大活躍というのだから驚き、あきれるばかりなのである。

 

 では一体、いつ頃からアメリカ軍謀略説はでてきたのであろうか。もちろん、そんなことをいうことも、書くことも出来ない占領期間中はほとんど皆無という状態であった。ところが占領が終了し、マーク・ゲインの『ニッポン日記』の発刊に象徴されるように、占領中の隠された事実のバクロが吹きだし、流行するという空気のなかで噂されだしたが、まだ遠慮がちでおずおずとしたものであった。その代表的なものが、一九五二年六月ごろ、労働組合や二、三の新聞社などに郵送されたといわれる“怪文書”であった。

 

 この怪文書は、帝銀事件や下山、松川事件などにふれたものであったが、まず下山事件については、「変死の現場付近の地面に大きな米兵の靴跡が残っていた。殺害の時刻と思われるころ、アメリカの軍用トラックが現場付近の橋を通った事実を付近の一市民が警察に届け出た」、「他殺の事実を確認した法医学権威者の発表に対抗するため警察は小宮博士を、はるばる名古屋からよんで国鉄総裁の死は自殺によると発表せしめた」などと、事実に反し信憑性を欠く、まことにお粗末なものであったが、松川事件についてはつぎのように述べている。

 

 「(松川の)列車転覆事件についてもアメリカ人が責任者である事実は疑うべくもない。ここには目撃者が一人いた。彼はたまたま脱線の現場付近を通りかかったとき、約十二人程の米兵が枕木からレールをはずしているのを見た。彼はそれを見て、一体何をしているのだろうかとちよっと不審を抱いたが、多分レールの検査か修理をやっているのだろうと自ら納得し、大して驚きもしなかった。ところが、この仲間に加わっていた一人の日本人が彼の跡をつけてきて、わが家の戸を開けようとするところを、うしろから日本語で呼びとめた。

 

 この男は彼に向かってその夜見たことを他人に口外しないようにと告げた、『口外するとアメリカの軍事裁判にかけられる』とその男は警告した。もちろん彼はそれが何のことだかまったく理由がわからなかったが、ただ『言いません』と答えた。翌朝になって始めてわかった。彼はこの転覆事件について不安を感じ、胸がしずまらなかった。……」

 

 “現場を見た人”――その人は実在し、斉藤金作といった。事件当時は松川ちかくの渋川村に住んでいたが、一九五〇年十一月横浜に移住、輪タクを生業としていたが、翌年春先市内堀割のなかで水死体となって発見された。斉藤は、戦後三年ほどシベリヤで抑留生活を送り、帰国後、一時共産党に関係していたともいわれる。もちろん、現場からさほど遠くないところに住んでいただけに、転覆事件に興味をもち公判を傍聴したこともあったらしい(弟博の話)。一杯飲んでご機嫌のときに仲間をつかまえては、「松川の被告は無罪だ」などと気焔をあげてもいた(妻アサイの話)。だが、その彼の妻が語るところによれば、肝心の事件の夜、金作は外出せず、家で寝ていたし、第一、あけっぴろげな性格で、ものごとを隠しておけるような人間でないのに、「線路破カイ作業を見た」などということは一度もいったことがない、また、誰もきいたものがいないというのである。

 

 もっとも、妻アサイの語るところとは別に、その話を聞いた、という人もいた。斉藤金作は、被告たちのため証人になってもいいといっていた、ともいうのである。当時、東京都昭和町に住んでいた同郷出身の安斎金治である。この金治の弟が安斎庫治といい、共産党本部員、のちに中央委員会幹部会員にまでなったが、中国派として宮本共産党に除名された人物である。

 

 ここから推測がつくことは、斉藤金作の話は、安斎庫治からその弟の庫治に伝わった、ということであろう。しかし、安斎庫治は、ちがうといった。彼は、五〇年の末に徳田球一に呼ばれて中国に渡ったので、その時期には日本にいなかったというのである。だから、自分ではないが、その話を処理したのは、おなじ代々木本部の調査部所属だったAだ、という。とすると、さきの推測は、当らずといえども遠からず、ということになろう。さらに噂の伝えるところでは、英文タイプをたたいたのは、F女史だったともいわれている。女史は入院中で確認することはできなかったが、“怪文書”は英文で書かれていたのである。

 

 この“怪文書”はその後、山田泰二郎『アメリカの秘密機関』、木村文平『日本七年間の謎』、板垣進助『この自由党!』などアメリカに批判的な著作に引用されているが、いずれも半信、半疑といった格好で、『この自由党!』などは、つぎのような書きっぷりで、せっかくのアメリカ軍謀略説をぶちこわしてさえいる。

 

 「下山国鉄総裁は国鉄信濃川発電所の建設工事請負について、東芝と日立が張り合い、その一方の日立から三百万円を贈賄されたといわれていた……司令部側から早く団交を決裂させろといわれ、それに加えて共産党の鈴木市蔵の首切りを断行せよ、もし躊躇しているなら、日立からの収賄を公けにするといわれたという噂さ、また四日下山は自ら総司令部筋へ辞意を表明したといわれている」

 

 「こうした窮地にある下山を誰が殺したか?……他殺説をとっていた検察局で捜査の結果、有力な容疑者として捜査線上に浮び上って来た、事件当初から行動が怪しい都内の貧民街の兇悪な数名についてさらに追究していったところ、急にかれらは姿を消し、その一人にようやく尾行をつけるまでにこぎつけたとき、その担当検事がとつじょ地方に転勤を命ぜられたという奇怪な話がある」

 

 これこそまさに正真正銘の“奇怪な話”である。が、筆者などはこうした文章を読んでいると、自然と顔が赤らむ思いがする。“板垣助”などという筆名からも想像がつくように、この一本は「進歩的ジャーナリスト」たちの努力の結晶だといわれていた。それにしてこのデタラメさなのだから、事件当時の、あの“反共”、反労働者的報道に終始した「ブル新」を笑うことは出来ないだろう。彼らにいわせれば、「そんな固いことをいったって仕方ないですよ。要するに、書きどくなんですからね」ということらしいのだが……。

 

 さて、事件から十年目の一九五九年、『アカハタ』は七月七日から十回にわたって、「十年のなぞ・下山事件をさぐる」を連載した。その前日、幹部会員志賀義雄は、「下山事件から十年」なる一文をおなじ『アカハタ』に発表、そのなかで、「共産党は(事件)後ただちに調査をはじめた。それは今日まで十年間、ときには中断したことはあっても、ひきつづき綿密にやってきた」と書いている。ここから推察すれば、「十年のなぞ・下山事件をさぐる」は、その成果ということになろう。

 

 ところが、これがまた箸にも棒にも掛らない代物なのである。第一に、基礎的な事実の無視である。「もっとも重要なことは現場にあった下山氏の上衣にははころび一つなく……」などと書きだしているが、遺留品の写真を見ただけでも、この嘘はすぐわかる。大きくいえば、上衣は背筋中央からやや右斜め下方に切りさかれていた。また、右の袖付後方にも大きな開口部があり、右腕が肩のつけねのところで切断されていたことと、よく見合った状態になっていた。これがどうして、「はころび一つなく」なのか、まずもって呆れるのである。

 

 また、他殺の根拠となる法医学的判断も古畑のゴマ化し論法だけに頼り、「ただ一ケ所、『生活反応』があったところがある。それは睾丸だった」と、客観的事実無視になっている。古畑らの説に対する態度も、事件の年の八月二十日、新日本医師協会が発表した、「下山氏変死事件の法医学論争に関する公開状」を一読すれば、こうも無批判的ではいられなかったはずである。ここにいう新日本医師協会は、共産党にもっとも近い関係の団体の一つ。そこに所属する医師たちが、各方面から集めたデータに基づいて東大の解剖所見を分析、現在の時点からみても極めて科学的で、その後の法医学の進歩を見事に予見したような立派な結論をだしていた。だが、如何に科学的で、客観的な結論であっても、政治的意図の前には無力である。共産党“十年におよぶ調査の成果”のなかに、影も形もみせられなかったのであった。

 

 こういう例をあげれば限りないが、この連載でもっとも許し難い点は、その四回目の「奇怪な捜査打ち切り・現場付近に落ちていた分解図」という、国鉄田端機関区のデッチ上げに抵抗して闘った労働者に対するいわれなき攻撃であろう。この詳細も『下山事件全研究』にゆずらざるをえないが、問題は、捜査二課二係の公安的追及を、朝日新聞が大きな紙面を割いて、怪しい怪しいと書きたてた田端機関区の「疑惑」なるものである。そこをそのまま、まったく無批判に引き継いでいるところに、三鷹事件の竹内景助のばあい同様、ことの善悪、真実か否かは二の次、三の次で、党利党略のみを先行させる、『アカハタ』独特の体質がにじみ出ているのである。

 

 こうして、「ブル新」や週刊誌にちらほらした“怪情報”を、切り貼り、切りつないだ『アカハタ』連載(不思議とさきに引用の“怪文書”にはふれていない)は、最後のところでつぎのようにいう。

 「ここまで、十回にわたってのべてきた事実は、この事件が大きな背後関係をもっておこなわれた一大謀略であることをしめしている。それはどこのだれとか、かれとかいう個人のグループによってなし得るものではない。アメリカ占領者とこれに呼応する日本政府高官、ならびに下山氏を除く国鉄首脳部の一部が合作しなければ不可能な犯罪ともいえる。国鉄労働者のなかに潜入した労働スパイ―共産党のニセ指令を製造していたような当時の労組内の一部悪質分子―や右翼のゴロツキが加わったとしても、アメリカと日本の政治権力を背景にしたものどもが主謀者であることはまちがいない」

 

 ここまでくれば、『日本の黒い霧』に、もう一歩である。事実、松本清張の「下山国鉄総裁謀殺論」や「推理・松川事件」などが発表されたのは、翌一九六〇年の『文芸春秋』誌上であった。ここから、肝心要の点では客観的検討にたえる根拠はなに一つ存在しないのに、アメリカ秘密機関謀略説は花盛りとなる。そして、その蔭でまったく忘れられてきたものが、事件当時の日本共産党の、犯罪的行為と指弾されても仕方のないような、分裂的裏切り行為であった。

 

 決定的ともいえる重要な時期に、デマまで飛ばし、味方陣営を混乱におとしいれ、結局は闘いを回避するのが、日本共産党の常套手段であるらしい。一九六四年春闘の四・一七ストのばあいはまだ記憶に新しいが、一九四七年の二・一ストのさいもおなじようなことがあったと、斎藤一郎は『戦後日本労働運動史』で書いている。

 

 「そのときゼネ・ストをやめたのは産別であり、これに反対してゼネ・ストを挑発して混乱にみちびきいれようとしているのは総同盟であるというデマゴギーが伊藤律の口から公然といわれ、産別のなかでさえそのまねをするものがでてきた。総同盟および社会党は挑発どころか必死になってゼネ・ストを攻撃していた」。「総同盟に対するデマゴギーは総同盟を攻撃するためではなかった。それは産別および、各組合のスト強行派を沈黙させるためであった。総同盟スト挑発説はまもなくスト強行派にたいするスパイあつかいにまで発展した。このスパイ説はスト強行派を完全に沈黙させた」。

 なんとよく、一九四九年七月五日の『アカハタ』主張、「ストを挑発する狂犬吉田といかに闘うか」に似ていることか。

 

 ところで、現今花盛りのアメリカ秘密機関謀略説は、百万に及ぶ人員整理反対の闘争が、その謀略によって崩れ去ったと説くことによって、この共産党の闘争放棄の方針にアリバイを与え、免責を許すものとなっている。下山、三鷹、松川謀略説でだれが笑うかといえば、まず真先に笑うものこそ、日本共産党であることにまちがいあるまい。

 

 第二に笑うものは、この謀略説の蔭で、当時の、あの反共、反労働者的報道批判を免れている、新聞であろう。なぜ彼らが、あれほどまでに政府の意図にそった報道を展開しなければならなかったのか――。筆者はいまなお理解に苦しむものなのだが、そうした報道に活躍した記者を英雄的にうたいあげるため、謀略説に基づいた映画まで作られるという現状にいたっては、やはり積極的なアリバイ工作とでもいうより、いいようがないのである。

 

 さらにもし、この謀略説で表面的には顔をしかめながらも、腹の底で笑っているものがあるとしたならば、それこそアメリカの「秘密機関」であり、それにつながる日本の黒い勢力かも知れない。彼らは、彼らに対する非難はさておき、いざという場合にはどんなことでもやりますよ、という脅迫として謀略説が滲透しているとするならば、そのいざというときに、日本共産党に頼んでデマを飛ばし、緊急事態は逃げられるはず、と計算しているかもしれないのである。

 

 もちろん筆者は、そんな事態を願うものではない。いや、心からそんな事態の起らないことを祈っている。だからこそ、下山・三鷹・松川事件謀略説などにばかりうつつをぬかすことなく、一九四九年夏の、激しく揺れ動いた情況を、労働者階級はもとより、日本国民全体の指導までを自任する共産党の動きを中心に、冷静に、客観的に検討し、そこからつきぬ教訓をくみとっておくべきだ、と考えるものなのである。

 

 

 佐藤一の略歴

 

 1921年 栃木県日光市に生れる。

 1936年 小学校卒業後、国産精機()設計部、東京芝浦電気マツダ研究所に勤務

 1938年 応召、1945年復員

 1946年 東京芝浦電気鶴見工場設計部。労働組合執行委員・厚生部長・法対部長、東芝関東地区協議会議長

 

 1949年 7月、共産党に入党。8月、東芝松川工場に東芝労連中央から派遣されオルグ活動中に松川事件発生。9月22日、松川事件容疑者として逮捕され、二度死刑の判決を受ける。

 1963年 最高裁で完全無罪判決

 1964年 下山事件研究会事務局長

 1968年 下山事件に関して、共産党と意見対立し、離党。

 

 以後   執筆活動とともに、各種冤罪事件の支援に取り組む。現在は、狭山事件月間パンフに執筆。占領・戦後史研究会に所属し、主として占領下の労働運動の研究。

 

以上  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

   佐藤一『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』9月革命説と人民政府の幻想

   佐藤一『戦後民主主義の忘れもの』下山事件研究会から『謀略の夏』まで

 

   高野和基『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』書評

   無限回廊『下山事件』  浦本誉至史『松川事件』

   Google検索『下山事件』  『三鷹事件』  『松川事件』