一九四九年「謀略」の夏
戦後史検証
佐藤一
(注)、これは、松川事件元被告佐藤一『一九四九年「謀略」の夏』(時事通信社、1993年、絶版)からの一部抜粋である。1949年は、戦後日本の重要な転換点をなしている。この年、(1)下山・三鷹・松川事件が連続発生し、謀略の夏と言われた。(2)国鉄の人員整理と国鉄労働組合の反対闘争と敗北、全逓労働組合の分裂が起きた。(3)共産党の9月革命説が振り撒かれた。(4)これらに関する共産党側の誤った対応と責任というテーマがある。
1949年問題と日本共産党として、佐藤氏の他著書と他レポートも(別ファイル)として転載する。佐藤氏は、戦後史検証として、これらのテーマを総合的に研究し、公表した。文中の傍点は黒太字にした。私(宮地)の判断で随時青太字や赤太字をつけた。このHPにこれらを転載することについては、佐藤氏の了解をいただいてある。
〔目次〕
序章、 激動の戦後史…一九四九年夏
第1章、国鉄労働組合人員整理反対闘争は何故敗れたか (省略)
第2章、定員法反対闘争と陰の主役「日本共産党」 (省略)
第3章、謀略神話は何故生れたか (省略)
第4章、全逓信労働組合分裂と敗退の軌跡 (省略)
第5章、九月革命説と人民政府の幻想
第6章、「下山事件」と政府・占領軍の思惑 (省略)
第7章、つくられた列車暴走、転覆事件 (省略)
佐藤一略歴 (別ファイル)
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佐藤一『戦後民主主義の忘れもの』占領・戦後史研究会における報告
序章、激動の戦後史…一九四九年夏
〔小目次〕
1、はじめに
1、はじめに
第二次世界大戦の終了から半世紀ちかくが経った。敗戦国日本が、約七年におよぶ連合国の軍隊(といってもその実体はアメリカ軍であったが)の占領下にあったということも、夢のような昔の物語となってしまった。そしてわれわれ日本人はいま、貧富の差、そこにおける浮き沈みや価値観の違い、各種組織の束縛や環境問題など、数え上げれば幾多の問題はあっても、大多数の国民はそう不幸でない生活をおくっている。海外にもいくばくかの援助までできるようになった。その援助を受ける人びとからみれば、日本の現状は、未来の夢の物語ともなっていることだろう。
振り返ってみると半世紀まえ、戦争終了当時の日本では、いまの“夢”のような状態は、われわれには永久に手の届かぬはるか彼方にあった。それよりもまえにまず、アジアの国々、諸民族の地に、不法にも侵略をし、多大な損害をあたえた国の国民として、その責任を負わなければならない立場にあった。当然のこととして、賠償の問題が提示されていたのである。一九四六年十一月、最終的にまとめられたポーレー案とよばれる賠償案は、敗戦国日本に残存した生産設備の大部分を現物賠償として取りたて、アジア諸国に移すというものであった。日本国民の生活水準は、日本が侵略したアジア諸国の国民、民族の生活水準を超えてはならない、という原則がその基底にあって、生産水準を一九三〇年から三四年当時の状態に据え置く、という考え方からであった。この賠償案を伝える新聞を、どんな暗い気持ちで手にしたか、いまからでは想像がつかないだろう。日本経済の将来を考えるものには、絶望にちかかったのではなかろうか。
もちろん、賠償は当然であった。もしこのポーレー案がそのまま実施に移されていたら、いまの日本経済の繁栄は疑わしい。だが一方では、日本人はおごる気持ちをすて、いまよりはるかに真摯な気持ちで、アジアの国々、諸民族の姿をみつめ、相互理解の緊密な関係を築いていたにちがいない。半世紀たって、従軍慰安婦問題が吹き出してくるようなこともなかったろう。
2、占領時代の大転換点・一九四九年
不幸なことに、世界は第二次大戦終了後まもなく、冷戦構造のなかに突入する。日本はその冷戦構造のなかに組み込まれ、賠償はつぎつぎと軽減され、一九四九年五月、アメリカの安全保障会議は、その打ち切りを決定した。不幸な冷戦構造は、日本の経済にとって幸となったのである。
もっとも、当時その“幸”に気付くものはすくなかった。占領の実施にあたったアメリカは、厖大な占領費用と経済援助の縮小をはかり、早期の占領終結を考えていた。そのためもあって日本国内の急速な安定化をもとめ、戦争責任を軍部や政治家のごく一部に限定し、天皇とともに国民のそれを追及しなかった。たとい形式的ではあっても、国民のレベルまで非ナチ化の追及をしたドイツ占領とは、その点で著しく異なり、極端にいえば、日本国民は占領開始と同時になかば強制的に、本人の意志もとわれることなく、一夜にして民主的人間に生れかわらされていた。自己の責任は問題の外におき、ただ指導者層の戦争責任さえ騒ぎたてればいい立場にたたされていたのである。そういうこともあって、賠償問題も初期の段階でこそ深刻なうけとめ方をしたものの、次第にそれは支配層にかかわることでこそあれ、わが身とは無関係、まるで他人ごとと考えるようにかわっていったのである。もちろん、こういう受けとめ方や態度からは、アジアの人びとの苦境も、痛みも関心外においやられる。そして、当面の自分たちの窮乏生活を最大の関心事とし、すべてに満たされざる不幸をかこちながら日々をおくることになる。
賠償打ち切りが決定した一九四九年は、こうして、いろいろな点で日本にとって重要な意味をもつ年となった。占領時代でも、一つの転換点を画す時期でもある。賠償打ち切りと表裏をなし、日本を経済的に安定した独立国家として早急に自立させるため、新しい経済政策がつぎつぎと打ちだされている。前年の経済九原則にひきつづき、占領軍総司令官マッカーサーの経済顧問として来日したドッジの、日本経済の二本の竹馬の足を切るというドッジ・プラン、のちに世界的な存在になる「通産省」こと、通商産業省の設置、日本国有鉄道など新公社の発足、行政機関職員定員法の実施、シャープ税制改革勧告など、重要事項が年表上に目白押しにならぶ。駅弁大学と悪口された新制国立大学六十九校が、各都道府県に設置されたのもこの年だ。
あらためていうまでもなく、これらの政策のおおくが冷戦構造の下、対共産圏対策のためもあって、アジア諸国、諸民族の戦争被害を視野のそとにおき、日本経済の早急なる自立、成長を目指したアメリカの意向にそったものであった。そしてそのことが、広くアジアに向けなければならない日本国民の目をふさぎ、国内的にも混乱や摩擦と歪みを惹起した。もちろん、いかなる場合でも改革や新制度への移行には混乱や摩擦はつきもの、あえて異とするに足りないかも知れない。だが、視野を限定された人間は、当然のように他の痛みを忘れ、目を自己のうえにだけそそぎ、その幸、不幸を拡大しがちになる。日本国民は自らを戦争被害者の立場にのみ限定し、ややもすると最大の犠牲者という怨念をもって新しい政策に立ち向かったきらいがある。
3、高まる革命と社会主義政権樹立への願望
もちろん、視野を広くアジアにひろげていた人びとも少数ではあったが存在した。共産党もその勢力のひとつである。だがその目は、アジアの人びとを侵略戦争による犠牲者としてみるよりは、わが身の願望、端的にいえば革命政権樹立のための援軍としてとらえることがおおかった。プラグマティックなのである。その思考の根底には、革命のため、あるいはプロレタリアートの祖国ソヴィエトのためならばいかなる手段も状況もその利用を許される、という強固な信念があったようである。ときには他の不幸さえもである。
たとえば、一九四九年十月に出版された野坂参三の『新しい中国と日本』のなかの、「中国の将来と日本」には、つぎのような記述がみられる。「では、中国の新事態は(中国共産党が武力でもって全国土を完全に制圧する直前にあった・筆者)、まず世界の政局に、具体的にどのような影響をあたえるであろうか。
半植民地であった中国の帝国主義的覇絆からの解放と、人民的独立国家の形成は、近隣の植民地および半植民地にたいして、重大な影響をあたえることは、きわめて明白である。とくに国境を接する仏印とビルマには、同国の共産党を中心とする新しい動きがあらわれている。朝鮮では、もっと切迫した様相を呈している。金九(註1)の暗殺、アメリカ軍隊の南朝鮮からの撤退、等々を機会に、人民的南北統一政府の樹立の機運が非常にたかまった。このような政権がうまれるのは、本年度中であろうことは、一般の観測である。
もし、朝鮮全体が中国の先例にしたがうならば、日本にたいするその影響は、きわめて大きい。日本という島国の三面は、従来のように資本主義と反動によって取りかこまれるのではなく、人民民主主義と社会主義によって包囲される結果となる。東洋における日本の地位は根本的に変わってくる。上海・釜山・ウラジオストックの埠頭をあらうおなじ水は、日本の岸辺にうちよせてくる。これを防ぎとめる牆壁は絶対にないのである」
中国における武装闘争は既に最終段階にあり、とどめようもない状況にあった。だが野坂は、かつて日本が「わが領土」として支配してきた朝鮮で、民族相争う武力衝突を想定して(中国の先例にしたがうとはそういうことだろう)、全朝鮮における統一人民民主主義政権の樹立を期待し、その日本への影響を夢みていたようだ。
この「中国の将来と日本」の末尾には一九四九・七・五の日付がある。どこかで話したか、書いたものであろう。この時点で、野坂らは海上の連絡ルート(註2)を通じて、北朝鮮の戦争準備を認知していたのかも知れない。「人民的南北統一政府の樹立(は)……本年度中であろうことは、一般の観測である」というのは、それを確かな情報として、その早期発動を期待したものともかんがえられる。そうでもなければ残すところ五カ月となっていた「本年度中」の、南北統一政府樹立はとうてい望むべくもなかったろう。
いずれにしても、野坂らにとって日本における革命と社会主義政権樹立は絶対の善であり、真理、至高のものであった。そのためには、たとえ隣接民族の不幸であっても、期待をかける。またそうした絶対化があれば、そこから遠ざけられるもの、悪として排除されるものが生ずる。社会主義によって否定されるべき資本主義制度、体制は悪であり、これまたいかなる手段を講じても排除さるべきものとなった。当然、最大の資本主義国アメリカはその対象となり、悪の権化とされた。
さらに、社会主義国家ソヴィエトの創設者レーニンの『帝国主義』論の教えるところにより、その「資本主義最高の段階としての」帝国主義国家でもあるアメリカが、日本を植民地化しようとするのは自明の理であった。共産党はこの立場からアメリカをみて、アメリカの政策はすべて日本を植民地化するためのものであるとした。そして、そのアメリカと一体となって自己の利益を追求するものとして、買弁・金融独占資本を想定した。日本政府はアメリカ帝国主義の意をうけ、金融独占資本の立場で動く妖怪的存在である。したがって、一九四九年当時の『アカハタ』辞令では総理大臣吉田茂は、「狂犬」であり「売国奴」であった。
その狂犬、売国政府の圧政下、中小企業をふくめ、独占以外の民族資本、企業、経営は、買弁的金融独占資本の収奪をうけ、やがて息の根をとめられる。もちろん、労働者は窮乏のどん底につき落とされ、奴隷の状態で呻吟しなければならない。――これが共産党がえがいた日本資本主義の未来図であった。そこでは、アメリカが占領軍を通じておこなった、日本経済発展のための自由競争の導入、その保証を目指した財閥解体や独占禁止、過度経済力の集中排除、あるいは農地改革などという民主主義的政策はまったく考慮されない。いうまでもなく、これらの施策は、一九四九年に打ちだされた諸々の政策、方針とあいまって、日本の経済的発展、繁栄の基礎となり、いまわれわれは“夢”の国にすんでいる、というのが現実だろう。
この現実がみえなかった時代、アジアの変貌を横目でながめながら、社会主義国ソヴィエトとは一気にはいかないまでも、中国共産党が支配せんとしていた中国や北朝鮮の金日成政権、さらにはとおい東欧の人民民主主義諸国、それらを模範とした革命政府をこの日本に早急に樹立することを聖なる使命とかんがえ、その熱望に燃えた日本共産党が存在し、反対の極に、アメリカ帝国主義の「日本植民地化政策」に迎合する、「狂犬」吉田のひきいた「売国」民主自由党があった。社会党などは、そのいずれにつくべきか、去就に迷っていたというのが実際であったろう。以来この党は存在することだけを目的化したように、現実をみつめることを忘れて迷いつづけている。一九四九年の、日本の政界地図を、いささか戯画的に独断をもって大観すればこうなる。
こういう政治情勢のなかで、占領下の一時期を画する諸々の政策が実施にうつされた。そこで展開されたドラマは、正しくドラスティックなものにならざるをえなかった。だが、半世紀をすぎてもいまなお色褪せない、興味ある物語や、おおくの教訓をふくんだドラマは、まだ誰の目にもふれず厚いとばりの奥でねむらされている。そのすべてにふれるわけにはいかない。ここでは総計すると二十七万余におよんだという、史上空前の公務員馘首、行政機関職員定員法の実施をめぐって、新公社・日本国有鉄道と逓信省が、それぞれの相対する労働組合と争った経過を中心に、それにからんで日本共産党と吉田政府がどう考え、どう動いたかなどの軌跡をさぐり、その他のことについては関連してふれるにとどめざるをえない。あらかじめ御了承をこう。
まず最初に、日本国有鉄道と、それと相対した国鉄労働組合の抗争の軌跡からたどることにする。この年六月一日、運輸省直轄事業体であった国鉄が、公共企業体として分離され、新しく日本国有鉄道として発足した。と同時に、定員法で予定されていた人員整理が実施の段階となり、七月にはいって合計九万六千余人の解雇がおこなわれる。
しかもこの時期、さきにも述べたように、二十七万余の官公庁職員が馘首されるとともに、ドッジ.プランの影響で金詰りに窮した民間企業も企業整備という名の人員整理にのりだすところがあいついで、この一年で五十万から百万ちかい労働者が職場を追い出されるだろうという予測もあった。そしてその予測から想像されたのが、労働組合の激しい抵抗闘争である。とくにその中心となって、大闘争を展開するだろうと大方のおもいが一致したのが、国鉄労働組合であった。
当時の組織人員六十万、そのうち二割、約十万の馘首という人数もたいへんだったがそれだけではない。敗戦の翌年、一九四六年夏、国鉄当局がしめした七万五千の人員整理をゼネスト宣言で撤回させ、つぎの年の二月一日、全労働者をまきこんだいわゆる二・一ストで、その中核的先頭部隊となって吉田政府を窮地においこみ、さらに翌四八年の職場離脱闘争をはなばなしく闘い、国鉄労働組合の名は強力、きわめて戦闘的なものとして輝いていた。そして新国有鉄道発足後まもなく、新交番制(乗務員の新しい勤務体制)が人員整理につながるとした反対闘争は、東神奈川車掌区を中心としたストライキに発展(国電スト)、京浜・東北、中央、総武、横浜各線の電車がとまるという事態を惹起した。したがって、実際に十万の整理が実施にうつされたばあいにおこる抵抗の激しさは、おそらく全国的なものになると想像され、政府・当局は憂い、国民は固唾をのみ、労働者はおおきな期待をかけていたものである。
だが、いささか先回りをしてその結果をいえば、杞憂といい、安堵といい、あるいは期待空しくといい、それらの言葉はあたかもこんなときに備えて用意されていたように、恐れられていた事態はなにもおこらず、九万六千余人の首切りは平穏無事におわってしまったのである。無事終了はドラスティックであった。
もちろん、想像上のこととはいえ、忽然として消失したものには謎がのこる。マヤ文明やインカ帝国をめぐるそれとは比較にならないとしても、空前絶後の激しさと想像された人員整理反対闘争に静かな終止符をうった国鉄労働組合の周辺に、いくばくかの謎を感じるのもやむをえまい。その謎をとく興味もあって国鉄労働組合の軌跡をたどろうとしているわけだが、記録と証言をもとにその軌跡をリアルに追求する前段階として、この半世紀ほどのあいだに提示された解釈と謎とき物語にふれておくことも必要だろう。筆者の研究も、その解釈や謎ときに触発されたところが多々あるし、まずその紹介をしておくことによって、軌跡はいやがうえにも色あざやかさを増し、そこからえられる教訓もより深いものとなる、とおもわれるからである。
5、革命期大整理反対闘争敗北の仮説
最初に、大河内一男、松尾洋『日本労働組合物語』戦後編から。要旨を紹介すれば、「『下山事件』のショックのためか、第一次整理、(七月四日発令、三万七百人)は、たいした労働者の抵抗もなく順調にすすんだ」以下の記述と、「第一次整理を終った国鉄では、七月十二日いらい、早くも第二次整理六万三千余人の解雇がはじまっていた」につづく記述内容からみると、国鉄労働組合が闘えなかった原因をそれと前後しておきた下山事件や三鷹事件と、「民同派の分裂行動」に求めているようである。ここには、分裂というものは民同派によっておこされる、という固定観念があるようだ。
次は、正村公宏『戦後史』である。「下山事件・三鷹事件・松川事件は今日にいたるまで謎につつまれた事件として残されている。……下山事件や松川事件に関してはアメリカの諜報謀略機関が共産党の運動を挫折させるために仕掛けたのではないかという意見がある。決定的な証拠や証言は得られていないが、その疑問も消えていない。結果として、これらの事件は、国鉄労組や共産党の運動を国民のなかでいっそう孤立化させ、解雇反対闘争に打撃を与えた」(傍点筆者)
この両者に共通するところは、国鉄労働組合の整理反対闘争不発の原因を下山事件などに求めるところにあるが、それをさらに強力に主張するのが松本清張説である。『日本の黒い霧』・「下山国鉄総裁謀殺諭」がそれで、「(下山事件は)国鉄の大整理を『無事終了』させるために、また、日本の『行き過ぎた民主運動』を鎮圧し、来たるべき外国共産勢力との対決に備えるため一本の方向に持って行く(アメリカ占領軍による)謀略事件」であった、とする。
だが、松本「謀殺論」のユニークな点は、「米謀略機関の首脳が下山総裁の謀殺を考えた」、その背景にも広く説き及んでいるところである。ここでその概略を追ってみると、まずGHQ(アメリカ占領軍総司令部)内で、日本の民主化を推進したGS(民政局)と、対ソ連戦略を重視したG2(参謀第二部・情報担当)との勢力争いがあり、その指導権をとるためG2は「日本の民主的空気を至急方向転換させる必要(から)……日本国民の前に赤を恐れる衝動的な事件を誘発して見せる、或いは創造する必要があった」ということになる。
そういう情勢に国鉄の人員整理が重なってくる。そしてこの整理そのものについても、「謀殺論」は独特の解釈を展開する。「国鉄職員の整理ということは単に独立採算制とか定員法とかによる経済上の理由によるのではなく、米軍作戦という苛烈な狙いがあって、日本側の政治上の駆引とか妥協とかいうものは許されなかったわけである。国鉄整理は、G2の打ち出す強力な作戦計画の中の、一つの重大な要素であったわけである」。では、これに対して労働組合の方はどうであったか。
「当時の日本の上層部でも、アメリカ軍が極秘のうちに日本国内で何を作戦しているかは誰一人として気づかなかった」ように、「国鉄労組もまたこの大量首切りをGHQの作戦軌道の一つとは気づいていなかった。彼等はただ国鉄が共産分子を含む急進主義者を含めて大量馘首に出ることに反対したが、それを経済闘争と考えていた。琴平大会(国労第六回定期大会、一九四九年四月)では国鉄馘首に反対して実力を含む強力な反対闘争を決議したが、二・一ストの際のマッカーサー命令でも分っている通り、彼等はその完遂が不可能であることも、承知していたに違いない。しかし民同派を除いて国鉄の主流派は、敢然と実力行使を含む闘争宣言をしたのである」
「国鉄労組のこの闘争方針は大そう世間に注目された。七月三日に予定された馘首の発表があり次第、『直ちに実力行使の闘争に入る』という国鉄労組の方針に、国民は不安を抱き、不穏な空気がなんとなく漂っているように感じたに違いない」。「多分、シャグノン(GHQ民間運輸局の係官)は、この不穏な空気をかえって歓迎したことであろう。彼は何か衝撃的な事件を起こす準備を考えていたし、そのための背景になる国鉄労組の不穏な空気はむしろよろこぶところであった」
かくして第一次整理発表の翌日、七月五日午前九時半過ぎ、初代国鉄総裁下山定則は日本橋三越本店内から誘拐拉致され、翌六日早朝常磐線上で轢断死体として発見され、この事件がおおきな衝撃となって国鉄労働組合の馘首反対闘争に打撃をあたえ、抑止力として働いた。――これが「謀殺論」の説くところである。
6、「日本の黒い霧−謀略論」の証明度
松本清張「謀殺論」が視野を広くとり、アメリカ占領軍の奥深くまで考察をすすめているのに較べると、同じ謀略説でも学者ないしは研究者といわれる人たちの説は影がうすい。しかも発表順序をみると「謀殺論」が一番古いのだから、学者ないし研究者の説は二番煎じの感がある。もちろん、確実に証明された事実なら二番煎じもなにもない、定説を引用したまでということになるのだが、「謀殺論」から二十五年後に発表された正村『戦後史』が、「決定的な証拠や証言は得られていないが、その疑問も消えていない」と、自信のない判決文の常とう句のように腰がひけているのは、やはり松本説におんぶした亜流の「説」と考えられても致し方ないであろう。
だが、いずれにしてもこれらの「論」や「説」には証明がない、その点でオリジナルも、亜流も違いがないのである。もしそこに違いがあるとすれば、責任の程度においてであろう。学者、研究者ともなれば、説を唱えるにはやはりそれ相当の根拠を示すことが要求されるからである。
もちろん、謀略事件が企らまれたという証明は困難である。場合によっては不可能でもあろう。だから、それを完壁なものとして証明せよ、というのはむりな要求かもしれない。しかし、問題としているこのばあいでは、謀略事件を云々するまえに、まず、国鉄労働組合の実態が本当に闘える状態にあったのかどうか、その分析と検討をなぜしなかったのか、という反問は正当性をもつはずである。
社会学、あるいは社会心理学の一分野である「帰属論」は、一つの社会的行為を考察するにあたっては、その行為主体の能力、意図、計画、そしてその意図なり計画に基づいてその行為主体が全力をつくしたかどうかを検討し、そのうえで行為の場、外部環境の条件を考慮にいれて判断する必要があると教示している。論議の的の国鉄労働組合馘首反対闘争に即していえば、まず組合に本当に闘う力があったのかどうかを考え、つぎに闘う目標に向かって適切な方針がたてられたか否かを検討し、さらにその方針にそって持てる力を充分発揮できたのか、それともできなかったのかの考察をする必要がある、ということになろう。その後での外部条件の影響検討である。
ところが、松本清張「謀殺論」はもとより、学者・研究者の「説」にも、国鉄労働組合、すなわち行為主体の能力分析はもちろん、闘争方針の検討もなにもまったくないのである。あるのは実体を欠きただ記号としての存在である「国鉄労働組合」だけということになる。そして、その記号としての「国鉄労働組合」に恣意的に最高の闘争能力と不屈の闘争心、鉄の団結をあたえ、「論」や「説」の拠り所を暗黙裡にそこに置いているのである。もっとも松本「謀殺論」は、「琴平大会では国鉄馘首に反対して実力を含む強力な反対闘争を決議した」と、ややその実態に触れた格好だが、現実の琴平大会ではそうした決議はされていないのだから問題外の事実誤認。当時の副委員長鈴木市蔵が後年、『下山事件前後』という著作で、「この大会は国鉄労働者全体にとって『失意』の大会であった」と書かざるをえなかったほど琴平大会は意気の上がらない低調なものだったのである。曲りなりにも、「ストをも含む実力行使」の闘争方針が決議されたのは、琴平大会から約二カ月後の熱海の中央委員会においてであった。
大量整理の実施を直前にひかえて緊急に召集され、重要な闘争方針が討議されたこの熱海中央委員会こそ、単なる記号としての「国鉄労働組合」でなく、有機的な行為主体としての国鉄労働組合の実体をさぐるのに絶好の対象であり、おおくの的確で、また鍵ともなる情報を提供してくれるはずである。なにを措いても、この検討をするのが筋道であろう。帰属論をまつまでもなく常識でもある。だが、推理作家は論外として、学者・研究者がここに目を向けず、全くの素通りなのである。筆者にとってはその理由の方がむしろおおきな謎であって、興味をそそられる問題なのだが(俗っぽくいえば、経営の盛衰や戦史の研究などでは該当企業や軍隊の総力量、戦略・戦術、統帥、実戦態勢と現実的運用が徹底的に分析検討されるのに、こと労働運動に関してはそこに全くといっていいほど目が向けられないのは、学者・研究者の単なる能力不足か、知的頽廃か、それともなんらかの意図をもってのことなのか)、それらの点の考察はあとで考えることとして、とりあえず記号としては年表のうえにも麗々しく記載されながら、その実体を不問にされつづけてきた国鉄労働組合熱海中央委員会(正式には第十五回中央委員会)の検討から、一九四九年夏の軌跡たどりをはじめようとおもう。
(註1)、韓国独立党党首、おなじ民族主義でありながら李承晩大統領らと対立していたといわれる。
(註2)、マッカーサー指令による追放令を受けた徳田球一、野坂参三、伊藤律などが日本を脱出、北京に日本共産党の指導部を創設活動していたことでもわかるように、海上を通じての通信、交通ルートが確立していたことは疑いない。それらを通じ、朝鮮半島や中国大陸の各種情報が確実に入手できていたものとおもわれる。なお、一九四九年頃は月四千人ぐらいの密入国者があったといわれている。
〔小目次〕
1、はじめに
1、はじめに
全逓信労働組合の分裂で、官公庁労働組合の定員法反対闘争は幕を閉じた。だが、民同支配となった国労も、再建同盟の「再建」した全逓も、「売国吉田内閣」や「買弁金融独占資本」によって、圧殺も消滅もさせられず、翌一九五〇年早々から、労働者の要求をひっさげ賃上げ闘争に立ち上っていく。国労民同派内には、ストをかまえた非合法闘争論さえかわされるようになった。労働組合は丸ごと敵階級に売り渡されたわけでもなかったようだ。とすると、民同や再同派を反労働者、敵階級の送りこんだ組織破壊工作者と規定して非難、攻撃、挑発し、分裂にまで追いこんだ共産党グループの活動方針は、あらためて問いなおさなければならない。
もっとも、筆者が問いなおすまでもなく、その誤りについてはひとつの回答が出されている。つぎに示すのは、産別会議の解散宣言の一節である。
「如何なる条件のもとでも労働組合の原則をつらぬくこと、つまり労働者の……共通の利益に基礎をおいた要求のもとに統一することこそ勝利のための確実な保障である。どんな理由があろうとも分裂は労働者の利益にならない。労働者の中に敵をつくらずすべてを民主的、大衆的にすすめるならば、労働組合はつねに発展し強固にして安定した力となり、それだけ敵に対する攻撃力を増大することはいうまでもない」
産別会議の解散大会は一九五八年二月十五日。これより二年前の五六年七月の第六回大会についてふれた、『産別会議小史』から。「(共産)党はどのように産別を指導し、どのように誤りをおかしたかを明らかにせよ、中央の責任ある幹部に釈明を求める、という代議員の追及をうけて立った共産党春日正一中央委員は、その指導方針の誤りを全面的にみとめ、六全協以後にこれらの誤りを改善するため努力しているとのべた。『最も良い組合員であるべき党員を、最も悪い組合員としていた』と春日中央委員は言った」
国労、全逓が強力な闘争力を保持し、産別会議もまだ意気盛んな一九四八年には、加盟十五単産、組織人員百二十五万余を数えていた。その産別会議が、定員法の一九四九年末には十二単産、七十六万九千余となり、翌五〇年には八単産、三十二万千余、さらにつぎの五一年五単産、四万千余、そして最終的には二単産、九千六百八十五名と急激に衰退し、さきにふれた宣言をのこし解散を決めた。
この経過を振り返ってみると、おそくとも、四八年より加盟単産で半数、組織人員では約四分の一まで後退した一九五〇年の時点で、その方針なり、指導、活動上で重大な誤りありと気づくべきではなかったか、という思いにとらわれる。もちろん、同心一体であった共産党とともにである。責任を問えば共産党のほうが重いはずだが、産別、共産両者は指導部を通じわかちがたく結びついていた。したがって、ときによって産別会議と共産党を一つのものとして考え、論ずることも、そうおおきな間違いをおかすことにはならないだろう。
ところで、戦前の日本共産党はコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部という位置つけで、コミンテルンの宣言・決議・指令は絶対的なものとして受け入れ、これに従わなければならない義務を負っていた。そのコミンテルンはまた、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)を組織、世界の労働組合の指導にあたらせていた。日本共産党と産別会議の関係のようなものであろう。したがって戦前の共産党系組合は、プロフィンテルンの影響もつよくうけていた。
そのプロフィンテルンの第四回大会(一九二八年三月)の決定テーゼは、「改良主義労働組合は資本主義の学校である」と規定している。同時にこの大会は、「経済闘争の独自的指導」と題する、つぎのようなストライキ戦術を決定していた。「(1)あらゆる闘争はストライキに転化させねばならない。(2)全闘争の矛先を社会民主主義的・改良主義的組合幹部の暴露と打倒に集中する。(3)あらゆる経済闘争を政治闘争に転化させる」
これらのテーゼや戦術が、ソヴィエト的革命を指向し、それに反対する社会民主主義者に向けての敵意からうまれたものであることは疑いない。こうした考えは、一九三二年四月にコミンテルンが発した、「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」(三二年テーゼ)でもつらぬかれている。そのなかの一節である。
「ブルジョア・地主的独裁の政策は、警察と同盟を結んだ社会民主主義者の積極的な支持によって遂行されている。これによってブルジョアジーは警察のサーベル、ピストル、毒ガスに左翼的な民主主義的言辞を組合せたものを武器としている。社会民主主義者共は労働者運動の『統一』の旗をかかげて登場しているが、事実は労働者階級を分裂せしめている。…出版物に現われる社会民主主義者、特にその左翼の欺瞞的言辞が急進的に響けば響くほど、経営内の労働争議における社会裏切者共の役割はいよいよ卑劣を極めている。そこにおいては彼等は警察の強制調停の組織者、ストライキ破りの組織として登場し、買収金と取換えに労働者の利益を資本家に売飛ばし、資本主義的合理化と労働者の大量解雇を積極的に支持し、警察と結んで最も活発な労働者を警察に売渡している」
世界中の共産主義者をそのまえに拝脆させていたコミンテルンは、第二次世界大戦中、ソヴィエトの対外政策上の都合で解散した。プロレタリアートの祖国ソヴィエトは、自国の都合でなんでもできたのである。だから戦後の再出発にあたって日本共産党はコミンテルンなど外国組織とは無関係に、自らの裁量で自由に動くことができた。だが、神の権威をもって押しつけられていた、かつてのテーゼや戦術の呪縛からも完全に自由、というわけにはいかなかったのだろう。『アカハタ』をみれば、随所にその教条どおりの非難、攻撃、挑発の痕跡がのこされている。また、第三者の証言としては、交通新聞記者だった有賀宗吉が、『国鉄の労政と労働運動』で、国鉄総連第四回臨時大会(一九四七年三月・於飯坂)のときの模様をつぎのように書いている。
「共産党が、反共派を攻撃する様子は、みていて恐ろしいほどだった。特に、前衛労農党を目の敵にしていた。前衛労農派とみられていた西孝夫が、会場の裏で、共産党の井上唯雄をなぐった、とかいうことが問題にされ、北海道代表などは、これが解決しなければ海を渡らない、といいだした。大会後に、旅館の広間で開かれた中央委員会では、西が吊しあげられ、中央委議長をやった加藤閲男も蒼白な顔になった。この大会で議長だったというだけの理由で、特に発言を許された傍聴者の植村が、“腕力なら負けない”というようなことをいって詰め寄ったときは、リンチ的な雰囲気だった。私は、ふるえあがる思いでみていた」
こうして、社会党、民同派などへの非難、攻撃は、社会党主班内閣の後半期からますます激しさをまし、『アカハタ』紙上でながめてみると、保守党にたいする以上のものがあるとさえおもわれる。さらに一九四九年にはいり、正面の敵は吉田政府で、社会党とは手を組まなければならないはずとおもわれるのに、社・共合同などという直接的組織攻撃までをくわえて、悪罵はエスカレートするばかりであった。その裏側にはつぎのような認識があったらしい。
「革命の高揚期においては、革命党の綱領によって大衆を統一することが決定的に重要である。現在の情勢はまさに、全党の機関がこのことを実行することを要求している。現在のように危機がいたるところで深まり、大衆を根底から揺りうごかしている時は、ますますマルクス・レーニン主義的立場、危機に対する具体的な正しい共産党の綱領と戦術を明かにし、これによって民同的大衆、労農党、社会党下の大衆に働きかけることが必要なのであって、これをアイマイにし、あるいはおしかくして、水をわって妥協し、最小抵抗線で働きかけることは決定的な誤りである」(『アカハタ』一九四九年六月五日主張「情勢の評価と革命的立場」)
これは要するに、現在の革命的情勢下では、統一とはわが党の綱領と方針に相手を同調させることである。これに反する社会党や民同派とは絶対妥協せず、徹底的な非難と攻撃で彼らのよりどころの理論を打ち破り、その顔をこちら側に向けさせよ、ということなのだろう。したがって、全逓第十六回中央委員会における八中闘不信任、排除決定も、この線からたかく評価された。
さて、こうした『アカハタ』の記事に目をとおして改めてかんがえてみると、労働組合がもっとも団結を固め、一致協力して闘わなければならない首切り反対闘争で、こともあろうに分裂必然といった活動方針がもちこまれていたことは、戦前からのコミンテルンとプロフィンテルンの教条に、想像を超える力で呪縛されていたためとおもわれる。と同時に、もうひとつこうなった原因として、やはり革命の時代、民主人民政権は真に眼前にあり、という幻覚とも幻想ともつかぬ、強固な思念にとりつかれていたためとかんがえられよう。
もちろん、共産党が共産主義の社会を目指して闘う政党である以上、革命を願うのは当然であった。そしてまた、その早期実現をめざすのも当然であって、その気持ちはよくわかる。だが、それにしても急ぎすぎたきらいはある。折りあるごとに、「革命だ!」と叫んでいたのだ。
二・一ストのときも、彼らのあいだでは正に革命目前の空気で、ひそかに閣僚名簿が用意されたという噂がながれた。社会党片山内閣が総辞職したあともそうである。その直後の『アカハタ』(一九四八年二月十五日)には、「社共中心内閣のみ……野坂代表は語る」という記事がある。社会党と、議席わずかに四つの共産党が中心となって内閣をつくり、議会を解散して政策を世論に問えといっている。このように、そこで共産党が主導権をにぎった政権構想はたびたび表明されてきた。
だが、それらの主張、構想は具体性と鮮明さをかき、噂か線香花火の程度で、プロパガンダの域をでていない。周囲の反応も冷ややかで、ほとんど無視、問題にもされないといった状態だった。だが、一九四九年、共産党が国会で三十五議席を獲得し、大躍進をしたあとの「九月革命説」となると様相は一変した。まず、野坂参三が、第十五回拡大中央委員会(六月十八・九日)で、徳田書記長の「九月までに吉田内閣を倒す」という一般報告のあと、つぎのように政権構想を明らかにしたのだ。「さて、吉田内閣を倒したのちどうするかという疑問も、大衆のなかにある。これには大胆にはっきり答えることが重要である。すなわち、吉田内閣を倒せば、われわれが政権をとるのだ。それは共産党、労農党、社会党その他民主的勢力、さらに労働組合、農民組織、その他の大衆団体の代表によってつくられる人民政府である、ということを答えなければならない。この確信をわれわれはもたなければならない。
占領下にあってこのような政府ができるかという疑問をもつ人もある。これについては、つぎのように答えるべきである。
第一に、日本の占領はポツダム宣言にしたがってなされている。そのポツダム宣言は、平和な民主的政府が出来れば、占領軍は撤退することを明記している。これをみても外国の占領が、永久につづくものではないといわねばならない。しかも国際情勢は一変し、民主勢力は強大になっている。中国の新政府が対日管理や国連に加入する可能性を考えても、このことは明かである。
第二に、大衆の圧倒的な支持さえあれば、われわれは政府をつくることができ、同時に連合国の承認をうけることもできる。一例をあげれば、中国でも新しい政府が大衆の圧倒的な支持をえているから、最近のニュースでは、英、豪、仏、ソ同盟の諸国も、米国も新政府をみとめざるをえなくなってきている。このことは日本にもあてはまる」(『アカハタ』一九四九年六月二十二日)
もっともこの年、野坂が政権問題についてふれたのはこのときがはじめてではない。一月の衆議院総選挙で三十五名の当選者をだし、一挙約九倍の躍進の歓喜のなかでひらかれた第十四回中央委員会で彼はつぎのようにのべ、『前衛』三十七号にも「政権への闘争と国会活動」として掲載されている。
「日本の支配機構は破綻し、大衆の間における不平不満と、闘争気運はたかまっている。共産党に対して、三百万人が投票した。政権への人民の闘争が日程にのぼってきた。この事実を見ることのできないものは、ただ日和見主義者か、または、社会民主主義者だけである。しかし、この時、いつも次の質問が出される。すなわち、日本はいま占領下にある。このような状態の下で、はたして人民政権が樹立されるであろうか。われわれは、確信をもって『できる!』と答える」
このあと、さきに引用の第十五回拡大中央委員会野坂発言のように、ポツダム宣言と中国新政府などの例をあげて、その「できる!」理由を説明していたのだが、このとき、その部分は占領軍検閲で削除されている。理由は占領軍批判になるということらしい(荒木義修「占領期の日本共産党に関する資料」松阪政経研究第三巻)。とすると、野坂のこの年の革命説にはまず占領軍が反応したといえるのかも知れない。そしてそのあと、吉田政府も治安上の問題として重大視する、という事態を引き起こす。こうなるとジャーナリズムも黙っていない。この年八月号の『文芸春秋』は、「真夏の『権力闘争』」特集として、伊藤律、田邊忠男、鈴木文史朗三人の文章が誌上を飾っている。そのさわりの部分。
まず、伊藤律=この七月に入り、『暴力革命』のおとぎ話が、又もや各政党や新聞から、大きくもち出されてきた(これまでいってきたことは『平和革命』だ、といいたいのだろう・筆者)。今までの内閣が崩れた経験も示すように、これ自体、吉田内閣の仆れる前兆である。京浜の国電ストライキに面くらった吉田内閣とその代弁者たちは、あわててこの古びたおとぎ話をばらまきはじめた。だが労働者はいっている。『電車を止めたのは吉田だ』と。確かに人民電車を動かす労働者を警官がひきずり下ろし、ついに送電線を切ったのは当局であった。労働者がストライキをやるのは、共産党のせいではなく、民自党のせいである。……
この危機は、吉田内閣の退陣によってのみ救われる。だがあくまで頑張るなら、これを仆さねば産業と文化は破かいされ、民族は独立できなくなる。民自党は国電ストの背後にあるものを究明すると言う。大いにやるがよい。そうしたら、背後にあるものは、大衆の耐えがたい苦しみと経済や文化の破かいをもたらす民自党の売国政策であることが、はっきりと出てくるにちがいない。
吉田内閣はもう何もできないし、これ以上つづけば東條式の暴政になるばかりだから、仆れるのだ。今では国民の大多数が、心から反対している。
田邊忠男=日本共産党が九月革命説を唱えているが、党員でなくとも、之を信じている者があるらしい。信じるとまで行かないでも、この際余り出しゃばって共産党の反感を買わない方が明哲保身の途であると考えている者が多数にある。降伏して折角助かった命だから大事にすることも良いが、馬鹿らしい感じがする。共産党が八月前後を期して全官公、産別を中心に先ず全国的な罷工(ストライキ)を起こし、それが持続する中に社会不安、大衆擾乱を招来し、あわよくば革命に持ち込む戦術を決定したことは、諸種の情報から見て真実らしい。而して先頃の国電争議、広島争議等はその予行演習であるが、著しく暴力的色調をおびている。……
しかし、それにも拘わらず九月革命は白日夢でしかない。その切っかけである罷工そのものを不成功ならしめる二つの障碍が厳存しているからである。
その一つは、云う迄も無く我々が被占領状態にあり、アメリカ軍が秩序の維持に当っているからである。次にかかる要求を貫徹するために最も有力な組織をもっている労働者にしても……假令強力な争議基金が平生から積立てられていても、(罷工は)恐らく半月に亙ることは出来ぬ。まして我国の組合の如く臨時の同情醵金に依頼するならば、直ちに飢餓に陥るであろう。
鈴木文史朗=一大労働攻勢まではわかるが、八月革命だの九月革命だのという、うわさ見たいなものを聞かされると、全く戸まどいしてしまう。だが、火の如きもののあるところに煙の如きものが立ったのだろう。
その火の如きものの一つは……国鉄労組中央委員会の最近熱海における総会の決定である。…、他の一つは、共産党の拡大中央委員会における徳田の書記長報告である。その結論は吉田内閣を打倒し崩壊させる時機は迫っている。その次ぎに来る「民主勢力の連立政権」には共産党は参加できるし、またしなくてはならぬというのである。
この二つをつないで見ただけでも風聲鶴唳式のうわさを招き起こすには十分であるのに、それをハッキリ入念に裏書きしたのは民自党幹事長広川の遊説道中における談話発表であった。曰く、「共産党は八、九月ごろ労働攻勢を機会に暴力革命をねらっている」。これに対しては国民自身共産党を批判して反撃する必要があり、政府も国会も民自党も必要な緊急手段を講ずるというのである。……以上三つの事実――国鉄労組中委の実力決議、徳田の「連立政権」の目論見書、広川の共産党暴力革命説―― 一体これを、この人たちは何れも実現できるものと大まじめで言っているものとは、局外から見ているとどうしても思えない。
さらに「九月革命説」は労働組合などにも波紋をひろげる。波紋は広さ深ささまざまで、それに応じた驚き、不審、疑惑、不安などいろいろな色彩をおびていた。全逓第七回大会における北海道代表の「書記長は九月革命説を説いたというが、その見解を問う」という発言は、疑惑と不安からであろう。岡田書記長は、それを否定した形だが、この時期はまだ広川幹事長は問題にしていたが共産党第十五回拡大中央委員会まえで、あまり公然とはいわれなかったからだろう。
だが、国労熱海中央委員会のころになると、共産党十五回拡大中央委員会もおわっており、「九月革命説」は公然のものとなった。だから鈴木副委員長も冒頭挨拶で、「現実に権力闘争なくしてわれわれは一歩も前進し得ないところに来ているのであります。……革命が本格的なコースにさしかかって来たというところの唯一の国内情勢である」といい、また経過報告で、「(首切りが)九月までずれて行くことになれば、吉田内閣は政策の破綻を来します」としているのは、「九月革命説」を十分に意識してのことだろう。もちろん、鈴木のとらえ方は革命にたいして肯定的である。また、革同派橋本中央委員の、「社会労農三党の連立政権樹立を期す」という提案も同様だし、井上企画部長の大会決議を無視し、組合規約も破る闘争方針提案にいたっては、「九月革命説」なしには、まったくかんがえられない。
反対に、民同派山田中央委員の、「(そのような)闘争目標で闘争を展開すれば、労働組合としての存在の限界を超えて、権力打倒の暴力革命方式にならざるをえない。感情に走らず、現在の条件を考え、自分たちの問題(行政整理)だけを解決する方式をとるべきである」という発言は、不安色のこいもので、この山田発言につづいて、不審から疑惑までをふくめていろいろな意見がつづく。竹崎中央委員、「民自党の政策が自然に行詰るというのは余りにも希望的観測すぎる。首切り前に資本主義が崩壊するとは到底考えられない」。室伏中闘、「共産党は地域人民闘争をやる考えだ。これは国際関係が反映している。ソヴェトが欧州における苦境を東洋で打破る戦術をとっているのではないか。この春東アジア植民地で共産党の蜂起があった。ソ連の立場からの指令だ。……スターリンはソ連を守るのが国際主義だという。日共はこの立場で、アメリカが真剣になっている経済九原則を破砕しようと地域人民闘争に出ている」。これもやはり「九月革命説」に触発された意見だろう。
これらの発言や意見にたいして、共産党グループから反論はあるが、それは必ずしも説得的ではない。代表として菅原中央委員の発言をみても、「首切り反対闘争をすると会社がつぶれる。こういう現象が各地で起きている。資本主義枠内闘争の悲劇である。資本主義を否定し、新しい社会を作りあげることだけが、首切りを防ぐ」というのも素朴すぎるし、「われわれは暴力革命など考えていない。政府がそういうのは共産党を弾圧しようと考えているからだ。暴行、暴動を否定するゆえに正しいストライキを主張しているのだ」というのも、「九月革命説」を強行すれば暴力革命にならざるをえないのではないか、という疑心と不安を払拭するにはほど遠い。まして、鈴木市蔵のように、「(苦しい状況に)私たちを引きずっていった敵に対し、これを乗越え、叩きつぶし、もっと明るい生活をする社会にしようとなぜ考えないのか」とこたえるばかりなのは、感情論の範囲をでていない。
こうして、情勢にたいする判断から、闘う方向についてまで激しい論議をまきおこし、さらには感情的対立から分裂の途へと、「九月革命説」は、共産党が狙ったはずのところとは逆の効果を生むばかりであった。ところが、組合内にそうした対立、抗争がひろがると、かえってそれを革命的情勢の深化、発展が引き起こした、社会民主主義者の抵抗的日和見現象ととらえるようなところがあって、『アカハタ』にはますます「情勢は革命に有利に進展」とか、「吉田内閣は断末魔」という文字がおどるようになる。
一方、「断末魔」とよばれた吉田内閣のほうは、表面的には苦虫をかみつぶしたような顔をして、「治安上も大問題」などと騒ぎたてながら、これを奇貨として警察力の強化や、あまり吉田の意になびかない斉藤昇国警長官の追い出しをはかるなど、むしろ内心はほくそえんでいたようなところがある。吉田はマッカーサーやG2のウィロビーなどに手紙をだし、しきりに訴えている。八月六日付、マッカーサー宛書簡の一節。
「事件が多発したこの数カ月間、わが国の警察は無力さを示し、公共の安定にたいし最終的には究極的責任を有するわが政府にとって、深刻な憂慮を生み出しています」。だが、その胸のうちを見透したか、マッカーサーはあまり色よい返事をしていない。「連合国最高司令官の精神的支持を得て、日本の警察は占領軍の介入なしに、予期しうるいかなる国内的混乱をも処理しうるのである」(袖井林二郎「マッカーサー=吉田往復書簡」『法学志林』七九巻二号)。だからあまり心配するな、というのである。
しかし、マッカーサーからは冷たくあしらわれはしたが、世論のうえではその強硬姿勢が歓迎されたようである。分裂につぐ分裂にも助けられて、大量整理を終了した直後の十月、『朝日新聞』の世論調査は、吉田内閣支持率四三%、戦後この時期での内閣支持率の最高数字を示している。断末魔どころか、長期政権への強固な足がかりをきづいたわけだ。ここで春秋の筆法をかりれば、「狂犬」「売国」吉田内閣の政権基盤がためのため、共産党の貢献度は抜群であった、ということになるのかも知れない。吉田のことだ、胸中ひそかにその功績を讃え、オールドパーに喜びをかみしめていたことだろう。
ところで問題の「九月革命説」、勢いよくぶちあげたころは、一月総選挙の余波もあって景気がよかったが、真夏にはいってみるみる減速、急速にしぼんでしまった。『アカハタ』紙上の革命へのかけ声はいぜんとしておおきかったが、その実体はかくしようもない。共産党も方向転換をはかったのだろう。八月二十一日に十六回中央委員会総会をひらいているが、徳田書記長の表報告にも前回のような勢いはない。ここで野坂も発言したようだが、『アカハタ』紙上では紹介されず、『前衛』四二号(九月号)で、「基本的な仕事をやれ」と地味になっている。「この論文は、第十六回中央委員会総会における討論を増補したものである」というから、総会における発言どおりでもないのだろう。
さて、その野坂論文、結論的にいえば、「九月革命説」は夢であったということである。しかも、その夢は自分が描いたのではなく、自分の発言を理解しないものが描いた勝手な夢で、責任はそちらにあるという。野坂らしいすりかえの論理だが、その一端をのぞいてみよう。
「一部の同志のあいだには、『吉田内閣打倒』すなわち、『支配階級全体の倒壊――人民政権の樹立』と、単純に解釈しているものがいる。いうまでもなく、これは正しくない。吉田内閣が倒されても、……吉田に代って、支配階級の他の政府、たとえば『中道』政府がつくられるおそれがある。……新しい政権を確保し維持することの方が、古い政権を倒すことよりも、一層困難であるとレーニンが述懐している通りである。吉田内閣打倒が、ただちに人民政府樹立になるか、ならないかは、客観的条件および主観的条件のいかんにかかっている。とくに、革命の主体勢力の強弱いかんにかかっている。いくら早く人民政府がつくりたくても、その条件が熟さなければ、できるものではない」
「さて、それでは、現在、日本には革命的情勢が存在し、また、革命の勝利――人民政権の樹立に導く条件が存在するか、たしかに存在する。たとえば、経済を見たらいい。日本の資本家階級には、自力で立つ力はなくなった。……極東の情勢も有利である。もし、人民大衆が、強大な団結と闘争によって一撃を彼等にあたえるならば、日本の支配体制はさらに動揺し、混乱し、これが国際的条件に影響をあたえ、革命的危機は到来する可能性が十分にある。この事実を見ようとしないで、これを否定するだけでなく、世界と日本の資本主義が安定の方向に進みつつあると考えるのは、革命を好まない資本家階級と社会民主主義者である。
たとえば、今年夏の闘争を見ても、もし吉田内閣のロコツな弾圧政策と社会党や民同の破廉恥な裏切りがなかったならば、国鉄の闘争をキッカケとして、大きな革命的波がたかまり、国会内外の活動と結合して、これが内閣を瓦解にみちびき、その時の情勢いかんによっては、さらに、全民主勢力を基盤にした政府が、直ちにつくられなくても、これをつくる内外の条件を促進することは予想できた。すくなくとも、この方針のもとに、全力をあげて闘争を指導すべきであった。共産党は、この方針をもって進んだ。第十五回拡大中央委員会で私の報告の中で、この問題について述べたことも、このような趣旨である」
野坂にいわれるまでもなく、吉田内閣が倒れたとしても、直ちに人民政府などできるものでないくらい、当時だって中学生でもわかる常識だったろう。社会、労農党を除いても、民主党(六十九議席)、国民協同党(十四議席)、諸・無所属(二十九議席)などの野党があり、合計議席は百十二、社、共、労と合わせた九十議席を超える勢力であった。単独過半数を制し(二百六十四議席)、ただ一党で組閣した民自党内閣が倒れ、吉田が退陣したとしても、共産党のいう民主人民政府内閣に席をゆずるよりは、民主党などに政権を渡すと考えるのが、過去の例からいっても、当時の政治情勢からみても当然であった。この場合、民自党はたとい閣僚はださないとしても、閣外からの援助、協力にまわることになったろう。
もちろん、吉田が解散、総選挙という手段にでることもある。だがそうなっても、社、共、労農三党と、これら三党に同調して人民政府内閣の組閣に参加すると思われるような党が、国会の過半数を制するとはとても考えられない。まったく絶望的とみてよかった。
だがそれでも、それが可能ならば、民自党吉田内閣を倒すことは、その政策を労働者階級にすこしでも有利に転換させるということで、意味はあった。極めて困難であったが、社、共、労が統一戦線をくみ、労働者階級が強固な団結をかため、おおくの国民の同意と支持を得たうえ、不退転の決意をもって民同派も用意していた遵法闘争をふくむ実力闘争にとりくめば、その可能性は幾許かはあったかも知れない。だから、労働組合は別として、共産党としては、吉田内閣打倒を闘争目標にかかげることは当然であったともいえよう。そして、それが仮に実現したとしても、その後の経過は、いまのべたようなことになる。要するに社、共、労三党で議会の過半数を制することは不可能で、民主人民政府は絶望ということである。これは誰もが考える、常識であった。
ところが、野坂はこういう状況の下で、「大胆にはっきり答えることが重要である。吉田内閣を倒せば、われわれが政権をとるのだ。それは共産党、労農党、社会党その他民主的勢力、さらに労働組合、農民組織、その他の大衆団体の代表によってつくられる人民政府である、ということを答えなければならない。この確信をわれわれはもたなければならない」と、強調し、活動の主方向を指示したのだ。幹部会員の指示(ましてや中央委員会で満場一致の決議となっているものともなれば)は、下部党員にとっては絶対的であり、厳守しなければならない。「革命なんて遠いさきのこと、吉田内閣打倒よりそのまえにまず首切り反対、ここに全力を傾けよう!」(このほうが本当は運動も闘争も発展したのだ)などといったら大変なことになる。それこそ反労働者どころか反党的裏切り分子として査問委員会や除名処分がまっている。野坂の発言はそれほど重い意味をもっていた。単なるおしゃべりではないのだ。
だから、世間は驚き、ジャーナリズムが問題とし、政府は神経過敏になり、共産党内は政権近しとわいたのだ。革命政権の声は党内に満ち満ち、共産党が多数をにぎる労働組合大会などでは「人民民主主義政府樹立」のスローガンがあふれるようになる。当時東芝鶴見工場労組執行部の一員であった筆者の体験でも、ここの委員長になったばかりの寺崎茂を、共産党鶴見地区委員長にしたいので、組合役員をやめさせてくれと、市委員長Tが申し入れにきた。これにたいして、鶴見工場労組の弱体化をうれい反対する意見がおおかったが、「いまや革命の時だ。鶴見工場労働組合の整理反対闘争がどうのこうのという段階ではない。どうしてもこの組合で寺崎同志を必要とするならば、革命がおわった段階で考慮する」と、Tは強硬におしきった。
最近、この寺崎に当時の心境をきいたら、「あのときは本当に九月に革命ができると信じこまされた。固く信じていたよ。だから革命闘争が終わったら、また鶴見工場に帰れるとおもっていた」ということだった。また、筆者が福島の東芝松川工場労組にオルグとして派遣され、国労福島支部の役員だったものに会ったとき、「九月には革命だ。そうしたらまた国鉄にかえって、われわれを追いだした民同の連中をたたきだしてやる!」と息巻くものもいた。彼らは、心のどこかで、代々木の幹部になにか特別の秘策があるのだ、と信じているようだった。でなければ、野坂がああまで確信をもって、政権をとるのだ、とはいわないはずだというのだ。こうした見方が、一部で暴力革命説にまでつながっていたのは、事実として否定できないだろう。
現実に、野坂発言は、党内にこのような事態を引き起こし、さらに党外にまでおおきな混乱をまきおこしていたのである。だがそれは、自分の責任ではない、自分は極めて常識的な話をしたまでで、それを誤解、曲解したほうに問題があり、責任があると、野坂は説教しているのである。こんな愚にもつかない説教を、中央委員は黙ってきいていたのだろうか。中央委員といえば共産党ではエリート集団、すこしは常識的に頭を回転させるものがいたはずである。そしてたしかにいたのだろう。だから、「この論文は……総会における討論を増補したものである」などという序をつけて、『アカハタ』からはずし、あまり人目につかない『前衛』に発表させたのだと思われる。
だが、それにしても、事態が破局的に進展するまで、野坂発言の誤まりを見抜けなかったのだろうか。中央委員、幹部会員といっても知的水準も理論的水準もそれ程だったといってしまえばそれまでだが、いずれにしてもこの野坂理論は翌一九五〇年一月、コミンフォルムの痛烈な批判をよぶ。そしてそれがきっかけとなって、共産党までが分裂することになるのだから、野坂という男は、ごく最近まで名誉議長などとしていたようだが、本当のところは日本共産党にとっては疫病神だったにちがいない。昨年の夏、『週刊文春』誌上をにぎわした山本懸蔵にたいする裏切り事件を含めて、野坂の「業績」は厳密に問いなおす必要があるだろう。
ところで、野坂『前衛』論文には、もうひとつ問題にしておきたいところがある。自分の発言を誤って理解したと、その責任を党内「同志諸君」に押しつける一方、彼はまた、党外の社会党や民同諸君に、罪を押しつける。「大きな革命的波」がたかまらなかったのは、彼らの責任だというわけだ。革命のため、民同派などとの共闘、協力が必要ならば、それが可能となる方向で活動をすすめるよう、なぜ最高幹部として指導をしなかったのか。幹部も、またその口真似に徹した下部党員も、口をひらけば社会党や民同派にたいする非難、攻撃ばかりであったのだ。分裂のため狂奔していたというのが実態としかいいようがないのである。
一九四九年夏、わずか二、三カ月のあいだだったが、政府からジャーナリズムまでを騒がせ、労働組合にはとりかえしのつかない分裂を引き起こし、まるで通り魔のように駈けぬけていった「九月革命説」。ここで重複をいとわず、あらためてまたこの説の誕生の背景を、誕生の年のはじめから、やや詳しく振り返っておこうとおもう。
この年、一月二十三日におこなわれた総選挙で、共産党が三十五議席を獲得したことはたびたびふれた。その喜びのなかで、二月五、六の両日、共産党は第十四回中央委員会総会をひらいている。九日付『アカハタ』全紙面は、そこでの徳田書記長「一般報告」、伊藤律「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化」、野坂参三「新国会対策に関する報告」の三本で埋められている。
注目されるのは、元気のいいはずの徳田の報告がきわめて控え目だということである。「こんどの総選挙の結果にたいして党内に相当勝利に酔っぱらった気分が起っていることは、まことに残念である。『社会党ザマをみやがれ!』……といった気分が相当強くあらわれている。これは明らかにまちがっており……。われわれの正面の敵、保守反動勢力は、前回にくらべて得票率において十四パーセント、議席数において二十五パーセントを拡大して明らかに圧倒的勝利をしめている」(傍点筆者・以下同じ)と説きだしているのだ。そしてつぎのようにもいっている。
「それゆえ人民大衆にたいしてとくに謙譲であるばかりでなく、社会党、労働者農民党ならびに人民の民主主義諸団体にたいしては懇切と謙譲とをもって共同戦線と合同を成就せしむべきである」
また、各論の「統一戦線の精力的発展」では、「労働者農民党および社会党地方組織との合同問題が、もっとも急務である」としながらも、「社会党との共同闘争については、社会党中央執行委員会は、わが党と一線を引くかの如き回答をあたえているが、これは大した問題ではない。社会党中央執行委員会の見解は、実践を通ることによって改まるべき性質のものである。それゆえに、一層懇切にかつ謙譲さをもって、人民大衆とともに統一戦線の成功に向わねばならない」としている。
そしてさらに、「克服すべき重要な弱点」のなかでも、つぎのように戒めている。「党機関の利己心をなくすこと。および党機関が自家広告的行動を止めることは、現在統一戦線を急速に成就するためにとくに必要である。こうしたことはいつでも克服しなければならない欠陥だが……この欠陥が党に対して政策の上で承認しながら、感情的対立を引き起しこれが統一戦線をそ害しているからである」
情勢分析も、共産党のいつもの図式にのっとった極めて平凡なもので、「人民民主主義の達成、この問題は、民主人民政権の樹立であり、人民闘争の当面の集中的表現である。したがってあらゆる闘争においてこれが強調せられねばならぬ」とはいっているが、直ちに反動内閣打倒! などということではないのである。責任ある指導者としては真っ当な発言だったろう。
だが、野坂のほうはこの徳田とやや調子を異にして、どちらかといえば攻撃的というか、極めて積極的なのだ。まず、「民主人民政府、今や現実の問題」という見出しで、「革命の条件は成熟しつつある」とし、つぎのように説いている。
「わが党の新国会対策は、政権闘争の一環として樹てられなければならない。とくに民主人民政府の樹立という点をわれわれは強くおし出さねばならない。……社共合同といい、戦線統一といっても、すべてこれらは民主人民政府樹立という目標を達成するための手段だからである。この点を私が強調するいま一つの重大な理由は現在の内外における革命の客観的、主観的条件が成熟しつつある事実に照して、その必要を痛感するからである」
その条件は三つに分けている。一つは、全世界的に資本主義体制が、急速に崩壊している。二、民主勢力側が、ソ同盟、東欧諸国や中共の例でわかるように社会主義建設と民族独立に成功を収めている。三、国内でも支配階級内部の腐敗堕落がひどくなって、権力が弱ってきた反面、共産党の躍進に示されたように人民大衆の政治的自覚が著しくたかまった。以上のようなことで、「民主人民政権の問題はいまや現実の問題となる」というのである。
野坂は戦時中コミンテルン執行部に籍をおいたり、中国でも毛沢東らと一緒にすごしたこともあって、東欧諸国の人民民主主義政権、あるいは中国共産党の勝利によせる関心や期待もおおきかったのだろう。そしてそのうえ、情報を表面的にとらえて、東欧諸国の人民民主主義政府は、文字どおり平和的に、国会における民主的手続で政権獲得が成功し、その結果として成立したものと単純に考えていたのかも知れない。
だが、いまわれわれは東欧人民民主主義政権の実体も、その成立過程においてソヴィエトが、民主主義もなにもなく、反対派を謀略や、血を流しての弾圧をもって追い落とした実情を知るにいたっている。もちろん当時においても、その実情の断片は、外国通信のつたえるところとして日本の新聞にも紹介されていた。しかしそれらは反共宣伝としてしりぞけられ、ソヴィエトの流す情報だけが信ずべきものとして共産党内を支配していた。野坂もそのソヴィエトの表面的情報をうのみにする立場にたっていたのだろうか。
ところが、ソヴェト内ではある程度東欧諸国の実体が知られていたようである。最近筆者は、古い『文芸春秋』(昭和二十四年十二月号)で面白い記事を発見した。書いたのは野崎韶夫、戦後シベリヤに抑留された人らしく、ロシア語が堪能であったため、通訳をやらされていたようである。表題は、「ソ連将校の批判した『吊し上げ』」となっていて、でてくるソ連将校はほとんどが好人物、しかも日本語もうまい。ナホトカの五三地区の司令部にいたという事情によるのだろう。
その司令部で、一九四九年五月末頃、将校三人が二月の日本共産党中央委員会総会における徳田、野坂らの報告の輪読会をやることになって、野崎に呼びだしがかかった。翻訳を手伝うわけだが、それは省略するとし、こうして手にはいった日本の文献から反ファシスト委員のひとりが政治教育テキストを作り、分所政治局員に提出したところ、平和革命説は正しくないと訂正を命じられたという。戦術として、偽装ではないかと疑われたらしい。
その分所で、テキスト使用の野坂論文を全訳して提出せよと指示がだされ、その仕事が野崎のところにまわってきた。野崎の記憶では訳した論文は『日本新聞』にのったもので、かなり省略があるものらしかったが、ともかく武力解体、財閥政党の弱化、議会の民主化など六つの条件をあげて、日本の革命が平和的、民主的に実現する可能性があることを説いたものであったという。
それをみた分所の政治将校、一読のあとで、「『野坂がこういうのであれば、……恐らくそれが正しいのであろう。しかし私はこの意見には賛成できない。平和革命の例としてよく東欧民主主義国家が引合に出されるが、これもソヴェート軍の武力を背景として行われたことを忘れてはならない』。明らかに日本における平和革命の可能性は信じられない、という面持だった」という。この『文芸春秋』記事から約一カ月後、その野坂の平和革命論をコミンフォルムがこっぴどく批判する。東欧諸国革命の実体をよく知るコミンフォルムにとっては、平和革命論などお笑いでしかなかったのだろう。実情をいうと『アカハタ』も、この年の三月二十日付紙面で当時のハンガリー首相ラコシの論文を紹介して、東欧人民民主主義革命成立の条件としてソヴィエト軍のプレゼンスを明らかにしていた。野坂はこうした情報にも目をつぶっていたのだろうか。
さて、日本の情勢に戻ろう。二月十六日には、第三次吉田内閣成立。すでにそれより前にだされていた行政機構刷新審議会の三割行政整理案答申にもとづき、二月二十六日「行政機構刷新および人員整理に関する件」を閣議決定、いよいよその実施に向かっての第一歩をふみだす。こうなると官公労組合も動きださざるをえない。民間企業の労働組合もまた、企業整備の声にたちあがる。労・使間の緊張は次第にたかまってきた。以下、第三次吉田内閣成立後の『産別会議小史』巻末の年表をのぞいてみる。「傘下組合その他」の主な動きである。
2月19日 東芝、労働協約の全面改訂案を出す。
22日 給料遅配対策合同戦術会議
23日 全労会議、労働法規改悪反対労働者大会
25日 金属産業防衛会議
3月 2日 へプラー、電産にスト中止勧告。
4日 東芝川岸工場に弾圧。
7日 ドッジ、日本経済を竹馬経済と重大声明。
右声明に関する八日付『朝日新聞』記者会見記事中の一部。「米国は日本救済と復興のため、昭和二十三年度までに約十二億五千万ドルを支出した。米国が要求し、同時に日本が必要とすることは、対日援助を終らせることと、日本の自立のためへの国内建設的な行動である。……(現在の日本の)方針政策は、合理的でも現実的でもない。すなわち日本の経済は両足を地につけていず、竹馬にのっているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今ただちにそれをちぢめることが必要だ。つづけて外国の援助を仰ぎ、補助金を増大し、物価を引き上げることはインフレの激化を来すのみならず、国家を自滅に導く恐れが十分にある」。ここから復興金融金庫などを通じて大量に流されていた経済界への補助金を打ち切り、逆に税収入を増すという超均衡予算となり、民間企業の整理に拍車がかかる。
3月14日 電産拡大執行委、非常事態宣言。
15日 東芝労連波状スト。
19日 全官労拡大委員会、行政整理に対し実力行使の非常時宣言。
26日 大同製鋼、首切り二〇〇〇人に達し本格的闘争に入る。
31日 東芝労連、一方的労働協約解除に反対、非常事態宣言。
4月 4日 団規令施行、日立総連施政演説に抗議二四時間スト。
7日 通信防衛総ケッキ大会防衛会議の設置を決定。
年表その他で「産業防衛」という文字がたびたびでるので、ここで産別会議の第五回拡大執行委員会(六月二十三〜二十四日)決定の産業防衛闘争方針を紹介しておくことにする。
一、職場の要求を職場綱領に結集し……大衆行動を組織し、職場を自主的に管理して経営を大衆の要求する方向に動かす。(これは人民管理の思想だろう・筆者)
二、進歩的民族資本をして大衆の要求に従わせ、独占資本の集中生産政策と闘う。(こういう進歩的民族資本家が現実にいたのだろうか)
三、産業防衛闘争を職場・経営の中から拡大して関連産業、基幹産業と結び、市民農民と結びつけて地方自治体をして郷土産業を守る闘争にたたせる。
四、各地域における闘争を全国的にもりあげて、吉田内閣を打倒する政治闘争に発展させ、政府と団体交渉し、臨時国会の開催を要求して闘う。(結局は「地域人民闘争」同様、中央はなんの責任もない、ただ絵に描いたもち″のセールスマンに徹するという構図がよくわかる・筆者)
4月15日 金属東京、労働法規改悪反対二四時間スト決行。
23日 日本電気、三六〇〇人の整理発表。
26日 印刷出版スト突入。
29日 沖電機、四割二分の人員整理案発表、組合全面拒否。
30日 定員法改正案、整理二六七三〇〇人として閣議最終決定。
5月 l日 メーデー。
3日 炭労、全国的に波状スト。
7日 通信産業防衛会議結成総会。
9日 三井化学労組無期限スト突入。
11日 全鉱北海道地区スト突入。
12日 東芝労連労働法規改悪反対スト。
14日 炭労第三次四八時間スト。
16日 国労超勤拒否。
25日 東京土建、仕事よこせと都庁に座り込む。
30日 公安条例都議会通過阻止のため東交(東京都交通労働組合)はじめ労働者多数都庁におしかけ、警官ともみ合い橋本金二君殺さる(のちに五・三〇事件とよばれることになる)。
31日 東交柳島、広尾、早稲田などスト突入、公安条例粉砕大会弾圧さる。
東交は産別会議傘下ではないはず。だが、傘下の動きにいれたのは、おおきな注目をひき、参加したのが左・右両派の組合員だったからだろう。六月一日付『アカハタ』は、「東交抗議スト決行、八支部職場要求で無期限スト決議」として、つぎのように伝えている。
「東京都交通労働組合各支部では三十日都庁内の同僚虐殺事件にふんげき、柳島支部三百三十八名が三十一日午前十時半から……業務命令をけって二十四時間ストに突入したのを最初に、目黒二百三十名、広尾三百二十八名の各支部がこれにつづいた。目黒支部では自然発生的にサボ状態に入り午後三時にいたり完全に電車がとまった。各組合員は行動隊を編成都労連、田町電車区、東急、明電舎など各組合に実力行使でたたかおうとよびかけた。広尾支部では午前九時から職場大会をひらき協議、公安条例を粉砕するのが橋本氏の死にむくいるものであると決議……」
この動きに東交本部は中止命令をだす。「本部は中止指令」という小見出し以下の部分。
「東交労組本部では三十一日午前十時から執行委員会をひらき公安条例阻止、官憲の責任追及など今後の処置につき協議したところ、単独ストについてはいたずらに官憲の弾圧をまねくものであると、ただちにストおよび減車サボを中止せよと指令することになった……」
だが、ストとサボは断続的に六月三日ごろまで続く、そして、東京軍政部の警告と、スト参加幹部の解雇処分でようやく終息する。連日この動きをおおきくつたえていた『アカハタ』が、さきに引用の「情勢の評価と革命的立場」という主張のなかで、「公安条例に対する闘争において、東京の労働者虐殺事件に対してただちに革命的抗議、ストライキを主張したプロレタリア的立場こそ広はんな労働者大衆の胸に革命的統一の精神をふきこみ、民同的大衆、総同盟大衆をもまきこんだ」(傍点筆者)と評価したのが、この都電ストであった。
ここから『アカハタ』紙面を追ってみると、毎日のようにストライキの記事が続く。そして、まもなくはじまった国労東神奈川車掌区の交番制反対闘争は、国電スト、人民電車事件へと発展していった。都電ストがひとつの引き金となっていたとみてもいいだろう。『アカハタ』や、産別会議機関紙『労働戦線』などをみているかぎりでは、ストの波は全国的にどこまでもひろがり、とどまるところを知らないような感じさえうける。
こういう状況のなかで、日本共産党第十五回拡大中央委員会が六月十八、九の両日、代々木の本部でひらかれたのであった。委員会での徳田の一般報告は、「資本主義諸国に於ける恐慌の進化と人民民主主義の勝利」、「民自党吉田内閣はその支配を維持することができなくなりつつある」、「わが党は急速に『立遅れ』を取返さなければならない」、「わが党の欠陥とその克服について」の四つに分かれている。
ここでは二番目の吉田内閣関係の部分を紹介するが、まず一読して感ずることは四カ月前の第十四回中央委員会総会での報告よりは、調子がだいぶ高いということである。社会党にたいする見方なども、まるで逆になったような感じさえする。六月二十二日付『アカハタ』紙面から、それらの部分をのぞいてみよう。
「総選挙後の民自党的九原則の遂行は、買弁的独占資本と、労働者階級を先頭とする人民大衆との対立を、最早ぼかすことのできないほど深刻にした。かくて民自党か? 共産党か? の対立が明確になったのである。……民主党野党派、国民協同党その他の小会派も、最早従来のままでいることができず、非常な動揺をしている。中小資本家、小地主または富農の立場を代表して、独占資本に反対しつつ動揺しているのであって、これらは主導権をとり得ないことが明らかになった。……
社会党の本流は最早労働者、農民の支持を受け得なくなっていることは明らかである。いわゆる左派なるものが、右翼と何ら異らないのみならず、革命的言辞を時おりふりまわすところに、かえって危険が存在する。彼等は右翼とともに金で動く選挙党であることは、いまやかくすことのできないものとなり、明確に独占資本の走くであることを明らかにしている……
労農党は……党として存在しうる明確な綱領と組織を、持つことができないでいる。労農党内の戦闘的人々は、きそってわが党に大量入党を開始した。今後急速に分解され、大部分がわが党に参加するであろう。……
かかる情勢の下に開かれた第五国会は民自党の反動的役割を極めて鮮明にした。……いまここに第五国会において成立した諸法令(労働組合法・労働関係調整法改正、行政機関職員定員法、予算関係法令など・筆者註)の性格について、いちいち述べる必要はない。しかし重大なことはこれら諸政策の決定が吉田内閣の背後に存在する財界の戦犯的グループによって操縦されていることである。まだ社会的には明らかにされていないが、番町会という財界の巨頭連の団体がある。これは世界戦争開始前の日本の財界を牛耳り、暗黒政治と密接な関係を結んでいたものの新版である。吉田民自党内閣成立以来、政界、財界を通じてのフハイ、ダラクの発展は、かかる暗黒的組織の活動にまつところが多く、今後これは買弁政策の拠点となろう。これに対して人民の革命的組織が急速に統一されつつあることは、階級対立が激化しつつあることを雄弁に物語るものである」(傍点筆者・以下同じ)
このへんを読んでいくと、徳田球一の思考は退行し、コミンテルン日本支部の戦時時代に逆戻りしてしまったのではないかという感がする。古い公式的図式に合わせて情勢を解釈しようとし、また論旨展開の論理とその運びにもいささか乱れがある。がそれはそうとして、このあともみておく必要があろう。
「国際的に経済は急速に恐慌に向いつつある情勢の下…(労働者は)決定的闘争に起上りつつある。そのため一局部の闘争が全労働者とその家族を動かしつつある。東京に起った五・三〇事件に引きつづく労働者のけっ起は、まさにその代表的なものであり、政治的意義は巨大である。労働者の闘争は、もはやこれまでのものとその性格を異にし、革命をめざす政治性をあらわしてきた」
「労働者の闘争は、もはや質的に大きな変化をきたし民自党が押しつけてきた反動的な諸法規を、堂々正面から押し切りつつある。これにたいして農民も漁民も中小商工業者もこれを支持し、いかなる反動的せん動もこれを冷却させることはできなくなり、政府のファシスト的テロ行為も全人民の反撃により、い縮せざるをえなくなってきた。すでに数カ月前から養われてきたこの反抗力は五・三〇事件以来非常な速度をもって発展しつつある。人民の要求は身のまわりの日常闘争から、非常な速度をもって、吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつあることは明確である。総同盟、民同などのダラク幹部は、独占資本のために悪あがきをしつつあるけれども、もはやこの大きな革命の波には抗しがたいものとなった。民自党吉田内閣を、九月までには倒さねばならないというわれわれの主張は、かかる条件にもとづいているのであり、十分な可能性をそなえている。問題はわれわれが、いかに誠実にかつ勇敢にこの任務を果すか否かにかかっている」
野坂が、この徳田の一般報告のあと、国会活動についての報告をし、その(四)「今後の見通し」の最後のところでこれまでたびたびふれてきた「九月革命説」といわれる主張を展開する。「さて、吉田内閣を打倒したらどうするか……」にはじまる部分は、さきにも紹介してあるので重複はさけよう。
ところで、革命説の基礎ともなるべき徳田の情勢分析のなかで説かれている、世界経済と、その枠組のなかの日本経済が、恐慌の深化、発展の泥沼に沈み、結局は破綻のほかはないという見通しは、そのごの世界経済の推移によって単なる希望的観測にすぎなかったことが証明されている。ことさらふれる必要はないだろう。ただ、アジテーションとしてもいささか雑駁、当時の理論水準からみても都合のいい観測的情報を好き勝手にならべている、とみられていても致仕方なかったという感想は記しておく。労働者の動きについてもほぼおなじ感想なのだが、こちらのほうは具体的事実にもとづき若干、それがいかに希望的観測であったかを明らかにしておくことにする。
まず、国鉄労働組合の状態。象徴的なのは四月末の琴平大会における三十円の闘争基金問題。中闘提案三十円は高すぎ、組合員はださないという多数意見で十円に切り下げられてしまった。当時の賃金ベースは六千三百円、しかも大会代議員、中央委員、中闘委員ともに統一左派が多数を占めていた状況(一章の表参照)のなかでである。どう考えてみても、「決定的闘争に起上りつつある」労働組合の姿とはおもえない。
全逓信労働組合もまたおなじ、組合費納入にも応じない組合員がふえていて、規約どおりでは大会さえひらけないような状態になっていたことは前章で明らかにしたとおりで、あらためてのべない。いずれにしてもこういう事態は、一般組合員の組合離れを意味している。それは前年あたりからはじまっていたのだが、産別会議の政治的方針にたいする拒否反応と、もうひとつ、政治も経済も終戦直後の混沌的状態からぬけだし、安定化と一定の方向づけもでてきたため、自由気ままな意見がとおりにくくなって、組合役員希望者が急激に減ってしまったというような事情もあった。筆者の所属した東芝鶴見組合でも、この年四月には立候補者不足で執行部は定員割れ、そういう状況だから逆に共産党員が選出されやすく、戦後はじめての共産党員組合長の出現ともなった。こうしたことを『アカハタ』などは、共産党や左派の勝利とみていたようなところがある。
とにかく、情勢を革命的とみなければならないのだから、『アカハタ』紙面はつぎつぎと勇ましくなり、組合の動きをつたえるニュースには輪をかけ、誇大化する。六月九日紙面は、一面トップに「弾圧は実力で一蹴・国鉄の闘争、神奈川全労組起つ」というおおきな見出しが躍っている。その記事をみていくと、東神奈川車掌区でひらかれた七日の工場代表者会議で、東芝鶴見工場の代表がつぎのようにのべたという。
「最近私の工場で専従者の給料不払が通告されたとき、ある職場の二十名ばかりがデモをはじめたところそれが五百人、千人、二千人と雪だるまのように大きくなっていった。われわれの闘争に必要なのはいまこそ起ち上ろうとする決意である」
当時執行委員であった筆者はこの事実を知らなかった。所属は設計部で工場とは離れていたが、これだけの動きがあれば、(組合員総数二千二百九十一名だったから大騒ぎになったはず)執行委員会でも話題になり、記憶にものこるはずである。十年ほどまえ、この『アカハタ』記事をみて不思議におもい、当時の仲間の数名に問いあわせてみたが、みな同様、信じられないという。ただ、誠実な仲間でいまでも当時の志をかえていない加藤金造が、工場代表者会議に出席した者であったかどうかは知らないが、若い細胞員が三、四名、「東神奈川の国鉄労働者を支援しよう」と訴えながら、赤旗をたてて全工場をデモしてまわったことがあったという話をしてくれた。しかしそれは、いかにも淋しいもので拍手もわかず、そのあとをついてまわろうなどとはとても思えないようなものだったという述懐であった。執行委員会が定数割れという状態の組合としては、二千名のデモより、この風景のほうがよっぽど実情にあっているようである。
また、『アカハタ』とは別に、産別会議の『労働戦線』は、十二日付一面トップ記事に「ストの波刻々と拡大・先づ鶴見、横浜線とまる・京浜線も全面的に運転停止」というのがあるが、その記事の「東芝、国鉄と共闘に立つ」というところ。「東芝堀川町、柳町両分会は川崎地区労さん下の各組合とともに国鉄神奈川車掌区分会の新勤務制拒否の闘争にたち、弾圧があれば地区の全工場が実力行使で防衛することを決議、東芝労連さん下の全労組もいつでもストライキで闘う体制をとっている」。だが、これも実情とはかけはなれている。「いつでもストライキで闘う体制」など、到底とれるはずもない。実際、東芝労連傘下の最左翼と評価のたかかった堀川町工場労働組合などは、このころになるとまったくの分裂状態で、自分のところにだされた首切りにたいしてさえ一日のストライキもできず、解雇発表の翌日には、退職金を受けとるための長蛇の列が工場をとりまいた、といわれるくらいだったのである。
どこの組合も状況は似たりよったりで、大量首切りの声のまえに、共闘会議や産業防衛会議の結成といった具合に、表面的な動きは活発のようであっても、その内部は鬱陶しい空気で沈滞していたとおもわれる。こういう空気に組合幹部は焦燥感を強めていたはずである。左派組合幹部ならなおさらである。とくに共産党員であったなら、一刻もはやい蹶起を毎日の『アカハタ』紙面で責めたてられているような気にもなったろう。共産党グループが支配していたといわれる東神奈川車掌区分会が、支部の指令もなくストライキに突入したのは、その背景でこうした事情がはたらいていたはずである。
もちろん、伊東中央委員会と、引き続く琴平大会でも決議されていた「反射闘争」に期待もかけ、そのストライキが各地に反射し、拡大していくことを願ってであった。そのためにもオルグをだし、関係団体とともにおおきな労力をついやした。だが、ことは期待どおりにはすすまず、占領軍のスト中止命令となり、六十四名の犠牲をだして矛をおさめざるをえなかった。この闘争の直前まで、共産党の労対部長として組合指導の最高責任者であった長谷川浩は、松本健二との対談で「これ(定員法)に対する国鉄労働者の闘争は、実は定員法に先立つ新交番制反対闘争、人民電車の闘争で決してしまったのです」(『流動』昭和五十二年二月号)と語っている。国労の首切り反対闘争は、熱海中央委員会で闘争方針を決定するまえにすでに終わっていた、というのが長谷川の認識なのだ。
以上が、「九月革命説」のひとつの根拠とされた、労働者の闘いの内実であった。上田耕一郎(現共産党副委員長)は、その著『戦後革命論争史』で、「国際情勢の有利な変化や、支配階級の部分的な動揺、若干の分野での共産党の成功をもってただちに革命情勢の到来と即断し、労働者階級を中心に人民全体を統一する基本的な課題を忘れさる傾向は、戦前、戦後を通じての共産党の『宿痾』の一つだ」と書いている。
9、コミンテルンの呪縛から逃れられなかった革命党
その「宿痾」と表裏をなすものに、度をすぎた自信過剰があった。産別会議幹事亀田東伍のとなえた(ゼネストで生産復興)なども、ゼネストで政権さえとればなんでもできる、という思いあがりに由来した。おなじように、徳田も野坂もかんがえたのだろう。吉田内閣を倒して政権をとろうというのに二人の報告には、政権をとったあとなにをやるのかという具体的政策が見当らないのである。
哲学者の久野収が、ある雑誌の依頼で当時はなばなしい活躍をしていた共産党員作家タカクラ・テル(党中央委員でもあった)と対談したところ、「共産党が政権をとったあと、ガスや電気がとまったりして一カ月くらいは混乱するかも知れませんが、そのあとはいまよりずーっとよくなります」と繰りかえすばかりで、まったく話にならず、その対談はボツになってしまったという。こうしたエピソードからもわかるように、要求だけを羅列して大声で怒鳴っていればなんでもできる、といった小児的願望思考も、「宿痾」の一種であったろう。
彼らの頭のなかでは、米ソ対立の冷戦構造も、その構造に強固にくみこまれていた日本の立場も、さらには、そういう状況下で食糧や資源不足を克復、いかに生産を回復し、民主的体制を固めていくか、などという手順は問題にもなっていなかった。とくに野坂は、「新しい政権を確保し維持することの方が、古い政権を倒すことよりも一層困難であるとレーニンが述懐している」などと格好いい説教はしているが、では彼自身そこをどれほど真剣にかんがえていたかと問えば、恐らくまったくの空白であったとおもわれる。世界はただ、彼らの願望(自由、民主などというところからはほど遠く、イデオロギッシュで排他的、軍国主義的なものであったろう)を満すためだけに存在したのであり、その願望は古いコミンテルンやコミンフォルムの教条から生まれていた。その呪縛から逃れられないまま、「九月革命」という一場の夢を追っていたにすぎない、ということになろう。
ここでおもいだされるのが、セルバンテス作『ドン・キホーテ』である。スペインはラ・マンチャ地方の田舎郷士であったキハーノは、昔の騎士道物語に読みふけって、その末に自からを騎士ドン・キホーテと名乗るようになり、世の不正、不義をただすべく遍歴の旅にでた。旅は奇行にみちていた。槍を片手に風車小屋に突進した話はあまりにも有名である。そうした奇行の数々はいま文庫本六冊を埋めてわれわれのまえにある。そのすべてをここに紹介するわけにはいかない。ただ、墓碑銘の最後のところは記しておいたほうがいいだろう。ドン・キホーテことキハーノは、「狂人として世を送ったが、正気にかえって神に召された」。ここをおもいだしながら、短命ではあったがあれほど日本中を騒がせた「九月革命説」の墓碑銘がどうなっているのかとかんがえた。いや、そのまえに墓碑そのもののありかを探さなければならないのかも知れない。
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(関連ファイル)
佐藤一『戦後民主主義の忘れもの』占領・戦後史研究会における報告