戦後民主主義の忘れもの

 

占領・戦後史研究会での報告

 

佐藤一

 

 (注)、これは、松川事件元被告佐藤一の「占領・戦後史研究会」(2004年10月23日)における『報告』全文である。〔目次〕にあるように、報告の内容は、下山事件を含む、1949年問題と日本共産党の対応を分析している。1949年は、戦後日本の重要な転換点をなしている。この年、()下山・三鷹・松川事件が連続発生し、謀略の夏と言われた。()国鉄の人員整理と国鉄労働組合の反対闘争と敗北、全逓労働組合の分裂が起きた。(3)共産党の9月革命説が振り撒かれた。(4)これらに関する共産党側の誤った対応と責任というテーマがある。

 

 佐藤氏の他著書2冊も(別ファイル)として転載する。佐藤氏は、戦後史検証として、これらのテーマを総合的に研究し、公表した。文中の傍点は黒太字にした。私(宮地)の判断で随時青太字赤太字をつけた。文中にある〔資料〕の転載は省略する。このHPにこれらを転載することについては、佐藤氏の了解をいただいてある。

 

 〔目次〕

   1、「下山事件研究会」というものが作られるまで

   2、「下山事件研究会」の幕引きから『下山事件全研究』を経て『一九四九年「謀略」の夏』まで

   3、事実も統計も無視して清張「謀略説」を担ぐ奇妙な人たち

   4、われわれはこんな大事な「忘れもの」をしている。この責任追求をわすれてはならない!

   5、一九四九年を如何に眺め、どう捉えるか

     佐藤一略歴 (別ファイル)

 

 (関連ファイル)           健一MENUに戻る

   佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』

   佐藤一『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』9月革命説と人民政府の幻想

 

   高野和基『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』書評

   無限回廊『下山事件』  浦本誉至史『松川事件』

   Google検索『下山事件』  『三鷹事件』  『松川事件』

 

 1、「下山事件研究会」というものが作られるまで

 

 一九六〇年一月の『文芸春秋』に、「下山国鉄総裁謀殺論」が発表されます。筆者は松本清張。以後一年間、帝銀事件、松川事件など、彼が「日本の黒い霧」と呼ぶ各種事件を書きつづけ、最終回が「謀略朝鮮戦争」。

 

 この「謀略朝鮮戦争」の書き出しのところで、清張は次のようにいう。

 「これまで書いてきた一連の事件の『最終目的』は朝鮮戦争のような極点を目指し、そこに焦点を置いての伏線だった」

 「それぞれの事件は、それ自体の解剖では実態の究明にはならない。さまざまな事件が、このような『予見』(朝鮮戦争を見透した)の中に鏤められていると考えた時に、はじめて性格がわかるのである。この意味で、これらの一連のシリーズの最後は、朝鮮戦争を否応なしに持って来ざるをえなかった」

 

 これは要するに、『日本の黒い霧』に書かれた各種事件は、アメリカ占領軍が朝鮮戦争を最終目標に置き、そこへの準備段階として実施した謀略事件であった、ということ。

 

 また、これはノンフィクションである、と次のように書き、つづけて、「一等資料」を集め、歴史家とおなじ態度で綴ったとも述べている。

 「(最初は『小説』として書くつもりであった、としたうえで)しかし、小説で書くと、そこには多少のフィクションを入れなければならない。しかし、……なまじっかフィクションを入れることによって客観的な事実が混同され、真実が弱められるのである。それよりも、調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って私の考え方を述べたほうが小説などの形式よりもはるかに読者に直接的な印象をあたえると思った」

 

 「史家は、信用にたる資料、いわゆる彼らのいう『一等資料』を収集し、それを秩序立て、総合判断して『歴史』を組み立てる。だが、当然、少ない資料では客観的な復元は困難である。残された資料よりも失われた部分が多いからだ。この脱落した部分を、残っている資料を基にして推理してゆくのが史家の『史眼』であろう。従って、私のこのシリーズにおけるやり方は、この史家の方法を踏襲したつもりだし、また、その意図で書いてきた」

 

 この『黒い霧』を塩田庄兵衛は、「推理作家の目を以て歴史学者を超え、戦後史の裏側を抉り出した」と激賞、犬丸義一は、「推理作家にこういう仕事をされ、歴史学者の限界をさとり、仕事をするのが嫌になった」と嘆息をついています。

 

 もちろん、昂奮したのはこの二人だけではない。一九六〇年といえば安保の年です。反米的空気は異常に膨れ上がっております。そこへ、国鉄総裁を誘拐し、占領軍工場で血を抜いて殺し、死体を占領軍専用貨車にのせ、田端機関区を経て常磐線綾瀬駅近くで落とし、後続の列車に轢かせた。こうすることで国鉄労働組合の首切り反対闘争を抑え、また共産党を窮地に追い込んだ、というのですから強烈な反米的メッセージがこめられている。拍手、喝采、歓呼して迎えられ、「黒い霧」は流行語になります。

 

 そればかりではありません。一九六四年七月には、南原繁を筆頭に、著名知識人による「下山事件研究会」が作られます。会の発足に当たっては、次のように謳う。

 「(下山事件は)当時の政局に一大転機を与えただけでなく、今日の日本の国際的立場や国内政治の潮流をきめた『起点』の役割を果したものであることは、思想や政治的立場を越えて、何人も否定することのできない現代史上の事実であります。……私たちは、現代史の中でこのように大きな歴史的役割を果した下山事件を、疑惑と空白の中に放置することは、後世に対する義務を怠るものであると考えます」。

 

 こうして支持と協力を訴えていますが、研究会には松本清張が入っていて(資料1、会員名参照)、資金も提供しているので、彼の「下山国鉄総裁謀殺論」をこれら著名知識人の権威によって裏付けようという、こういう意図が秘められていたことは間違いない。ですが、こういう偉い人だけでは会は動きません。そこで、その下で実際に仕事をする者が求められていました。

 

 ここは記憶が少しはっきりしないのですが、この年(64年)の暮か翌年になってか、突然、この会の事務局を引き受けてくれ、という話が私のところに飛び込んできました。聞くと、アメリカ謀略機関の秘密を暴く仕事なので、命の危険がある、あるいは、飛び切り上等の美人が近づいてきてキャバレーなどに誘われるかも知れない。命の危険も恐れず、女性の誘惑にも強く、酒も呑めないのは君しかいない。どうしても引き受けよ、という。

 

 その頃、松川事件も終って、私はある技術関係の仕事に戻ることが決まっていた。ですから命も惜しい、美人に誘われてみたいが酒が呑めないとどうにもならないらしい、ともかくやる気はないとお断り申し上げました。ところが、向こうはなかなか頑強で、とうとう断り切れなくなって引き受けます。向こうというのは、共産党と松本清張。こう話せば勘のいい人はすぐわかるんですが、本日のお客さんはあまり勘のいい人ばかりではないようなので少し説明申し上げます。

 

 実は、「下山事件研究会」の背後には共産党がいて糸を引き、操作をしていました。恐いですね、その中心が党本部員の大野達三と塩田庄兵衛、そして報道機関のなかの党員記者が協力者。そのなかで一番強力なのが、共同通信の斉藤茂男という人とそのグループ。ですから彼らは研究会に自由に出入りしていました。

 

 事務所は講談社第一別館、旧三井家の建物で古い木造三階建、キーナンが使用していたともいわれる曰くつきのところで、座敷牢などというものもありました。推理作家協会と同居ですが、電話一台だけで資料はなにもない。そこでまず、清張と大野に資料の提供を求めたが、これまたなにもない。見事なものです。それでもねばってよく聞きますと、大野と清張は、死体運搬列車一二〇一の乗務員を探して関東一円はもとより、福島県は水郡線、磐越東線、西線全部調べたが発見できなかった。朝鮮戦争にでもつれていかれ殺されたのかも知れん、ただ、列車は平(現在はいわき市)を越えて北に向かったことは事実だ、という。

 

 それならば、仙台になにか痕跡を残していないか、とまぁこう考えます。早速そこへ飛びまして、知り合いの国鉄関係者の間を聞き歩きますと、まもなくわかった。一二〇一というのは列車番号からいうと、常磐線廻りの下り特急で、占領軍専用の旅客列車だったという。国鉄には列車に番号をつける規則がございまして、四桁の数字にいろいろと必要情報が乗っている。これは秘密ですが、最後までおつき合い下さった方にはお教えします。いずれにしても、一二〇一は「殿様列車」と呼ばれた豪華なものだったので、これに死体を載せるわけにはいかないだろうし、速い列車なので貨車を連結することもできない。それに、常磐線なので田端とは全く無関係だという。清張の説くところとはだいぶイメージが違っていました。

 

 慌てるように東京に帰ると、国鉄労働組合本部から水戸に連絡を取って貰った。すぐ返事がきて、これまたびっくり。清張がいくら探しても行方不明、殺されてしまったのではないかといっていた一二〇一の機関士、車掌など乗務員が現存、生きていて元気で毎日乗務している。彼らは、誰も聞きにこないで、突然死体運搬列車の乗務員にされ、なんのことかさっぱりわからず困り切っている。然るべき人がきて調べ、はっきりさせてくれといっているということです。

 

 ここにも飛んでいきました。組合役員立会いのうえその人たちに会って話を聞くと、これはもう清張の書いたのが絵空事としかいいようがない。彼らは事件直後に事情聴取を受けていた。警視庁捜査本部は、下山さんを轢いた列車の前後の列車を調べている。それで運行状況などを詳しく聞かれた記憶が残り、それが極めて鮮明。しかも、こうした捜査記録、当時「下山白書」と呼ばれたんですが、共同の記者が警視庁から持ち出し、『文春』と『改造』に売った。そこで両者は五〇年一月号でこれを公表、そこに一二〇一列車関係も書かれ、乗務員の氏名も明らかにされていた。

 

 清張がなぜこの人たちを探さなかったか、これも謎(それとも清張の頭を黒い霧が覆っていた?)しかいいようがないのだが、あるいは俺は推理作家だから実際がどうなっているか関係ない」でもいうのだろうか。そうすると「一等資料」どというのは全くの虚仮威(こけおど)し。

 

 いずれにしても、1201列車は横浜始発(当時は飛行機よりまだ船の時代で、横浜が玄関だった)で東京を経て上野に来ると、ここで機関車を取り換え(東海道は電気機関車、以北は蒸気機関車)、上野を出ると常磐線で真っ直ぐ水戸に向かう(最終到着地は札幌)。田端とは全く無関係。これは話だけではなく、国鉄の記録でも明瞭。でも、清張も会員も、こうした話を聞くべきだといっても、「それには及ばない」というのだから処置なし。なんのための「研究会」だったのか(一二〇一列車関係については資料2、新原稿「下山国鉄総裁謀殺論」の18P以下を参照されたい)。

 

 こういうことで、これまで謀略論的立場で論じられてきたものを信じていたらとんでもない、それらのものを徹底的に検討し直さなければならないと考えます。そして、次なる目標として、東大法医学教室の解剖結論の検討に取りかかります。

 

 そこでまずわかったのは、清張が主張する、下山総裁は血を抜いて殺されたという根拠は、証明もなければなにもない、東大法医学教室教授の古畑種基のお伽噺。ところが、検察庁の委託を受けて下山さんの遺体を解剖し、鑑定書を書いたのは講師の桑島直樹(後に横浜市大に移り最終的に学長)で、結論は「睾丸蹴り上げによるショック死」。これが正式な鑑定書記載の死因。この死因をめぐって教授と講師が対立し、激しく争っていた。これまた難問で、この解明にだいぶ時間を費やしましたが、結論は、両方とも間違い。詳細は『下山事件全研究』で明らかにしましたが、取りあえずはお手許に差し上げました資料2の新原稿第一章24P以下を参照して下さい。

 

 

 2、「下山事件研究会」の幕引きから『下山事件全研究』を経て『一九四九年「謀略」の夏』まで

 

 では、下山事件研究会は最終的にどうなったか、といいますと、週刊誌などに書かれたいろんな情報を追ってみても大同小異、みんな種元は消えて、まずウソというほかなくなり、幕引きを考えます。でも、ただ黙ってジ・エンドでは格好がつかないということで『資料集』を出そうということになり、資料は自殺・他殺両説を公平に扱うという方針で私が編集実務を担当、みすず書房から六九年に『資料・下山事件』として出版されます。私は全部原稿を入れ、最終校正までみて、研究会を辞めさせていただきました。一二〇一列車などの関係者から話を聞くべきだ、といったことを申し上げても応じて貰えない。それに、調べれば調べるほど自殺としか思えなくなってくる。そういうと、塩田庄兵衛大先生あたりからは叱声が飛び、沼田稲次郎先生などは、「オレは松本清張の大ファンだ」といって憚らない。

 

 こうなると、水戸や田端の機関区・車掌区であたかも犯人のように書かれている人びとの名誉回復の望みもない。馬鹿者の私にはこれ以上のことは最早不可能と思い、別な仕事をはじめようと考えたわけです。

 

 ところが、完成した『資料・下山事件』を見てびっくり。自・他殺公平にと心掛けて書いた私の資料解説は削られ、まるで強力な他殺主張のものに替えられている(資料2、26P参照)。そのうえ、「七月四日(69年)、研究会は記者会見を行い、声明を発表『下山元国鉄総裁は、何ものかによって殺害されたものであるという疑いを到底払拭できない』との見解を明らかにした」とされている(みすず書房『資料・下山車件』12P参照)。こうなりますと、話がちょっと変わって、このままじゃ済まされんと考えます。

 

 そして、前の年に亡くなった広津和郎が心配し、人権問題も絡むので一二〇一列車問題だけでもはっきりさせておきたいということで、『世界』編集長の緑川亨氏に掲載の承諾をとってあったので、その原稿を入れると、「南原先生から佐藤のような者の原稿を載せるなら、東大は今後岩波と縁を切る」との申し入れがあったということで、ボツ。古畑東大法医の擁護であったのか、それとも謀略説にこだわったのか、南原先生は「東大」という切り札を使ったようであります。

 

 さて、こうなりますと、馬鹿は益々馬鹿になって、戦闘的となる。そしてそれから七年、改めて全国に法医学者、裁判化学、油、染料などの研究者の話を聞き歩き、実験装置を持ち込める広い風呂場を探して伊東市に転居し、さらには長門機関区(山陰本線)を三度訪ねて、活動停止寸前の蒸気機関車の下にもぐりこませて貰い、車底油を拭き取って分析したりして七六年、『下山事件全研究』をまとめ、これでビリオドを打つ考えを固めました。

 

 ところがところが、それから間もなく、国鉄分割民営化が話題となってきます。そこで国鉄労働者に発破をかけ、奮起させようということで、社会党、総評、俳優座映画が協同で、「謀殺・下山事件」(原作矢田喜美雄)なる映画を作り、全国上映運動に取り組みます。

 

 丁度その頃ですが、死刑判決の松山、島田、財田川などの再審問題が山場になっていて、冤罪支援者がこの総評の動きに驚きます。これらの事件はいずれも古畑種基の誤った鑑定(これは最終的に無罪判決となりその誤りが確認された)で、死刑に追いこまれていて、『週刊朝日』もその事実を取り上げ大きく伝え(七七年三月)、古畑の岩波新書『法医学の話』は絶版に追いこまれていました。

 

 そのように大きな社会問題となった古畑を持ち上げるような映画に、なぜ総評が取り組むんだ、ということになり各支援団体の代表が要請状を持って総評に押しかけ、大きな組合の本部などを訪ねました。そのときの要請書と総評教宣局長の回答をコピーして差し上げてありますが(資料3)、そのなかの囲いをした部分を紹介します。

 

 「その理由は、下山事件を利用した国鉄労働者への弾圧とその後の一連の謀略を背景として政治の反動をおしすすめた状況が、今日の国鉄労働者にたいする合理化政策と右傾化する政治情勢ときわめて酷似しており、このような権力による謀略の実態を知り、警戒心を高めるために、この映画の果たす役割りについて一定の評価をしたからです」

 

 しかしこれも事実に反する。私は、『下山事件全研究』発表後、断片的ですが、下山事件は国鉄労働組合の首切り反対闘争に全く影響していない。国鉄労組は弾圧などで闘えなくなったのではなく、内部分裂で闘争方針もうまく確立できず、闘わずして敗北したのだ、と説いてきました。だが、この総評の動きをみて急遽、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』という本を書きました。この本をどなたかが目にとめられ、占領史研究会に呼ばれて話をしたことがあります。確か本郷の学士会館で、ここではじめて占領史研究会なる妙な研究会があることを知ったわけです。しかし、この本は急いだもので全く不本意なもの。そこで本格的な国鉄と全逓の一九四九年定員法反対闘争を書きたいと考え、国鉄本社や国労本部の資料倉庫をあさり、また多くの人々に会って話を聞き、一九九三年に『一九四九年「謀略」の夏』という本をまとめました。

 

 これをまとめるに当たっては、千葉大の河西宏祐先生のゼミ学生と二回研究討論会を持ち、東経大竹前ゼミでは、二泊三日の夏期合宿で、国労の四九年、伊東中央委、琴平大会、熱海中央委の速記議事録に全部目を通して討論、竹前先生ももちろん出席、国労定員法反対闘争敗北の原因を、闘争方針確立に失敗、内部崩壊によるものと結論。

 

 さらに、一九九一年一一月の占領史研究会公開シンポで、国労定員法反対闘争の最高責任者だった鈴木市蔵氏が、「下山、三鷹事件など謀略事件といわれるものを、権力が起す必要はなかった。組合の実情をみればストが出来ないという判断はできたはずだ。これらの事件は二次的要因であり、反対闘争を展開できなかったのは、国労の内部対立が原因である」と、敗因を下山事件とは別とする証言をされた。

 

 こういう経過もありまして、私はこの『一九四九年「謀略」の夏』には絶対の自信を持っております。これに反論する者は、ドン・キホーテだぞ。

 

 

 3、事実も統計も無視して清張「謀略説」を担ぐ奇妙な人たち

 

 ところがその後も、依然として謀略説は跡を絶たない。ドン・キホーテ志願者が溢れている。例えば鎌田慧、冤罪支援者が大騒ぎし、『週刊朝日』も古畑批判で下山事件を自殺と判断してから一五年も経った九五年になって『週刊金曜日』で、「四九年…(東芝)四六〇〇人の人員整理反対闘争……が、下山事件、三鷹事件、松川事件と松本清張描くところの『黒い霧事件』が発生、東芝労組は国労とともに大弾圧を受け、翌年のレッドパージによって、息の根を止められた」と書いている。

 

 なんとアホなこというのか、年表ぐらいみたらどうか、と怒鳴りたくなります。五〇年結成の総評時代になると、労闘スト(これは労働法規改正と破防法反対の政治闘争)、電産・炭労の無期限スト、一〇〇目を超える近江絹糸人権ストと目白押し。争議による損失労働日数(資料4)を見ても、四九年より後の方が増えている。取りも直さず労働運動が活発化したということだろう。事実、総同盟や社会党を経て信州大教授になった清水慎三は、『戦後革新の半日陰』で語っている。「定員法やレッドパージで共産党員が職場を追われ、前衛不在になっているのに、なぜ闘争が激しくなったのか不思議だ、と共産系の社会学者が聞きに来た」と。

 

 これ不思議でもなんでもない。共産党員が職場にいると、闘争や運動をすぐ政権闘争、即ち革命に結びつけようとする。スメルサー『集合行動の理論』が説く、「価値志向運動」。そして、闘争方針が革命的でないとか、改良的で妥協的だとかいって議論を複雑にし、面倒臭くする。だからなかなか纏まらず、やーめたということになる。

 

 そこへ行くと総評時代の高野実、この人いろいろ問題があるんだが、ともかくこの時期は革命だのなんだのといわず、「マーケット・バスケット方式」というのを持ち出し、賃金七倍が合理的という「賃金綱領」を作った。だが、すぐ七倍は無理なので当面二倍で行こうと煽って、電産や炭労が無期限ストに入っている。突入する方もどうかと思うのですが、労働者は欲が深いから喜んでやる。

 

 こういうことで、下山事件やレッドパージなどの大弾圧で組合が骨抜きにされ、闘えなくなったなんていうのは鎌田慧のデマ。読売争議で、労働者の信用を失い追い出された鈴木東民を、日本の最も優れた民主主義者などと持ち上げて『叛骨』なんて小説もどきも書いている。どうしてこうも事実から目を外すのか。

 

 では、鎌田慧にいわせれば労働者が息の根を止められていた五〇年代、共産党は何をやっていたのか、というと、ソヴェトや中国に煽られて、武装解放闘争に精を出していた。鉄砲と爆弾をもってアメリカ軍を追い出す、という奴です。なんだか恐いですね。それに平和憲法にも反するニオイがぷんぷんしますが、不思議なことに応援団が生まれました。当時最高の知識人といわれた人びとが、この日共武装闘争に理論的裏付けをし、支援の戦線を拡げようと起ち上がったのです。『日本資本主義講座』全一一巻を岩波書店から発刊(資料7)、共産党の宣伝煽動のお役に立っているのです。私は、戦後最大の謎と考えるのですが、そのことはまた後で触れることにして、共産党の武装闘争の行方を見ましょう。

 

 五三年にスターリンが死にますと、ソヴェトと中国が方針を変えます。すると、日本共産党は「六全協」となって終戦ラッパを吹き、打ち方止め(五五年七月)。同時に、『日本資本主義講座』も即絶版。絶版の辞も、監修者・編集者たちの反省の弁もないままです。共産党は一応自己批判したのですから、なんとかいったらいいんじゃないかと思いますがね。もちろん、共産党は自己批判しただけでなく、一五万人の党員を四年ほどの間に三万ちょっとに減らしたそうですから、災難だったようです。でも、同情しなくつたっていい。

 

 こうして、共産党は労働者からも国民からも冷たい目で見られ、党内では抗争と分裂が激しくなり、その後だいぶ沈滞した空気がつづきます。ですが、まもなく松川運動などがあって息を吹き返します。これは福島県の例ですが、六〇年代はじめ共産党入党者の六〇%が松川運動の活動家、という調査結果があります。戦後、松川運動ほど長期にわたる国民運動はなかったと思いますが、同時に共産党への同情心をかきたてて、共産党を大きくするのに役立っている。要反省ですね。

 

 

 4、われわれはこんな大事な「忘れもの」をしている。この責任追及を忘れてはならない!

 

 以上、大変と雑駁な話を申し上げました。ここで、「民主主義の忘れもの」について、少々説明しておきたいと思います。

 

 私は、民主主義の一番の基礎になるのは、相互の信頼感だと考えております。その信頼感を築く条件として、嘘をいわないということが極めて大切。もちろん、人はしばしば間違いを犯しますので、結果として嘘をついたことになることがあります。その場合は、間違いとわかったところで、その間違いを認め、訂正し、反省することが肝要。これなくしては、相互の信頼感は成立も育ちもせず、民主主義は機能しないと考えます。

 

 そこで、こうした観点からもう少し、『黒い霧』をめぐる社・共の認識や態度、それから『日本資本主義講座』に関係した人びとの置かれた条件などについて検討しておきたいと思います。

 

 A まず、『黒い霧』に関して社会党。この党は四七年四月選挙で第一党になり、六月一日社会党首班片山内閣を発足させます。そして秋の国会で、国家財政の破綻を救うため、戦時中に膨れあがった公務員の削減が必要と訴え、翌四八年一月、天引二割五分の人員整理を閣議決定しています。みなさんのお手許には、この関係の毎日新聞の記事や論説を集めたもの(資料5)を差し上げてありますが、他新聞も同様で、公務員削減が大きな関心を呼んでいたことがわかります。ですから、清張が、国鉄の首切りは朝鮮戦争に備え、占領軍の意にそってやられたと書いているのを見れば、すぐその間違いを指摘し、「違う、違う、計画したのはわれわれだ」と声を張り上げることができたはずです。

 

 次に、四九年一月選挙で敗退し、党再建ということで労働組合の民同派を大量に入党させ、四月の大会ではそのうちの国労幹部を中央委員に登用するなど、国鉄労組との関係を緊密化した。とすれば、清張が下山死体を一二〇一列車で運んだと書いているのを見たとき、素早くゴマ化しを指摘、大声を張り上げてその責任を追及できたはず。もし気づかなかったら、列車番号を一見して、その列車の性格をイメージしなければならないという、国鉄職員の最も基礎的知識を欠く、最低以下の職員のみを社会党が集めた、ということになる。

 

 もう一つ。事件当時、即ち一九四九年、社会党のスローガン、合い言葉は、「まず左を斬って、次に右を斬る」だった。真っ先に共産党を叩き潰し、その後で右の吉田茂と戦うという意味で、下山事件も共産党の仕業と大宣伝をし、鈴木茂三郎は大阪の講演会で伊井弥四郎が中心となってやったと喋っています。だから、占領軍謀略説を説く清張にはこの点からも「違う!」といえたはず。ところが社会党は、いつの間にか涼しい顔をして自分たちの言動に蓋をし、われわれも吉田と闘って弾圧を受けたと主張、清張説に乗っかって占領軍謀略説に態度を一変させます。

 

 B では、共産党はどうか――。事件から五年目、五四年三月発行の『日本資本主義講座』第七巻、「労働者と農民」でも謀略説は取っていない。志賀義雄は事情がよく判らなかったので、取り敢えず自殺説を唱えた、といっていますが、これは違います。彼らは、自殺を確信する根拠をもっていました。

 

 第一、国鉄本社労組書記長村木啓介(共産党員)が、七月五日、下山総裁が行方不明になった夜、本社の局長連中が集まって地方と連絡を取っているところに偶然同席、彼らの言動の終始を見聞した。そこで局長たちは、下山総裁の首切り発表までの態度から自殺に間違いなしと確信し(下山自殺の資料2の10P以下参照)、その立場で地方との連絡に当たっていたという。そこで村木は、翌朝早く壁新聞を書き、本社玄関に貼りだしている。

 

 第二、毎日新聞が、轢断現場近くの末広旅館で五日午後、下山総裁が休憩をとった事実をスクープ、共産党もその後を追ってこの事実を確認し、自殺報道を続ける毎日本社に激励に行っている。毎日は困惑し、断っていたようだが……。

 

 第三、八月三〇日衆議院法務委員会は古畑、中舘、小宮の三人の法医学者を呼んで意見を聞いています。ここで東大鑑定が徹底的に批判され、古畑はたまらず、「われわれはいまだ自殺とも他殺ともいっていない」と、苦しい嘘のいい逃れをしています。もちろんここで、共産党議員、林、梨木の二人は自殺の立場を支持、その立場で質問をしている。この議事録は『資料・下山事件』に全文収録してありますが、これをよく読めば自殺説が極めて自然に理解されるはずです。

 

 第四、「新日本医師会」の公開状。新日本医師会というのは共産党と極めて密接な関係をもつ団体です。その「新日本医師会」の公開状全文をお手許に差し上げてありますが(資料6)、赤線で囲ってあるところを読みます。

 

 「法医学的出血とは血圧を伴う出血を一般に意味するが、下山氏の屍体は胸部附近に三カ所の重大な外傷があり、肺の一部は失われ、心臓は肩部の傷口から露出していた。かくの如く心臓に重大な外傷又は衝撃の与えられた場合には、血圧は瞬間的に零に近づき、通常の一部切断の屍体における如き血圧を有する出血は認められない」

 

 ちょっと解説をします。生きた人間に傷をつける、例えば腕を切ったとしますと、そこから出血します。心臓が働いているのですから、これは当然で、これを生活反応としての出血といいます。ところが、下山死体には、轢断創にこの出血がなかった。そこで、死体となってから轢断されたから血が出なかったのだ、ということで、東大法医は「死後轢断」という判断を下していました。ある意味では常識的判断といえたわけです。

 

 しかし、これは大正時代から注目されてきたのですが、時々、事故か自殺で、生きた人が機関車に轢かれた場合でも、傷口に全く出血を欠く、即ち血が流れて出ていないことがある。この現象は多くの法医学者の関心を呼び研究されてきていたのですが、ここからみると、下山死体に出血痕がなかったからといって、必ずしも死体となってから轢かれたとばかりいえず、生きた状態で轢かれて死に至ったとも考えられることになる。

 

 ここが法医学的論争のうえで重要な争点となり、「死後轢断」か「生体轢断」かで争われたわけですが、下山事件当時は仮説的ではありますが、しかし最も確からしい考え方として、御紹介しました「新日本医師会」公開状の主張するように、「重大な外傷などの衝撃で心臓が停止すれば、瞬間的に血圧は零となり、傷口に出血がないことはあり得る」、それは当然だというところに収斂してきておりました。即ち、下山総裁は生体のまま轢断されたと考えていい、ということであります。ですから、この公開状は極めて科学的で、信頼できるものであったわけです。

 

 そして、下山事件で大きな論争点となったため、さらに法医関係者の注目を引き、そのなかで三重の警察医松本俊二が近鉄線の線路に生きた兎を縛りつけて電車で轢く、という実験をして、生体にもかかわらず出血皆無が約六〇%という結果をえて、五五年五月の『日本法医学雑誌』に発表し、「新日本医師会」公開状の主張するところが定説となりました。下山事件のあと六年目であります。

 

 以上のように、共産党の自殺説主張は十分な科学的根拠を持っていて、彼らはそれを認識していました。にも拘わらず事件から一〇年日頃の『アカハタ』を見ると他殺説に変わっている。根拠としては古畑の“血抜き説”。ですが、この説は古畑自身が証明がない、といっている代物であります。

 

 さきに社会党が、清張の『日本の黒い霧』で一変し、占領軍謀略説を唱えだした、と申し上げましたが、共産党もこの社会党同様、理由を明らかにしないまま、客観的な資料や科学的根拠に背を向けて、最も非科学的な謀略説に豹変しました。社会党も共産党も仲良く、事件から遠ざかるに従って、何をいっても許される、と考えるようになったようです。何をいっても、のなかには荒唐無稽な嘘まで含まれています。

 

 C 『日本資本主義講座』の問題。皆さんのお手許にこの『講座』の「序」と「出発のために」のところのコピーが差し上げてあります(資料7)。その下に名を並べている監修者と編集者を眺めますと、これらの人たちは世の中を客観的に眺め、憲法をはじめ諸規範に慎重な考慮を払って、人の動きも冷静に判断することが求められている立場だと思います。それが、憲法に反して鉄砲と爆弾で占領軍を追い出そうとしている連中、仮にもその連中を応援しようと考えたら、少なくとも戦後の彼ら、即ち共産党の言動の跡を追ってみなければならない。

 

 その共産党は、敗戦直後に中国から帰ってきた野坂を迎え、「愛される共産党」などといいながら、理屈に合わぬ言動を繰り返し、大衆から爪弾きにされ、最も頼りとしなければならぬ大衆団体の産別会議一六三万(46年8月結成時)を四年間でほとんど零に減らしている。それでも四九年一月選挙では、社会党を非難攻撃して大敗させ、かわりに三五議席を獲得した。すると調子に乗って六月には、「九月革命説」を打ち出す。共産党が中心となって九月までに革命政権を打ち建てるんだという宣言ですよ(資料4)。

 

 だから若い党員は昂奮した。議会には三五名の議員しかいないんだから、これは平和革命じゃない。党中央は武装蜂起を考えている、ということで張り切っちゃった。国労熱海中央委員会の議事録をみると、地方には闘争戦術として汽車をひっくり返せという議論がある、と紹介されている。全逓の秋田大会では、「階級的立場から武器の使用を躊躇うべきではない」という勇ましい発言が飛びだしている。

 

 こううい事態に、党中央は慌てたのではないか、それでストライキを抑えにかかる。国鉄労組のストライキ決議に、『アカハタ』はすぐ、「革命の時代にストじやなくて宣伝戦だ!」なんてわけのわからぬ解説記事を出して、党員グループをびっくりさせる。そして、その極めつきが七月五日の『アカハタ』主張。「狂大吉田がストライキをやらせようとしている。社会党と民同派がストを煽っているのは、その吉田の戦術の一環だ。その手に乗るな。ストライキ反対」と叫んでいる(資料8)。よくもこんな嘘がいえたもんだと呆れかえるばかりですが、ともかくこんなことでストを抑えたから、大量の首切りがあったにも拘わらず四九年度は、労働争議による損失日数が前年と後年に較べて少ない。

 

 こういう状態ですから労働戦線は火が消えたようになる。そこで、九月になる前の八月二二日、共産党は一六回中央委員会を開いて、「九月革命説」の看板を下ろした。二カ月前には、「革命だ」「革命だ」と煽っていた野坂は、「自分は革命なんていったことはない」というんだから、詐欺師だってペテン師だって、顔真っ赤にして逃げ出しますよ。

 

 こういう共産党が、武器を以て、アメリカ占領軍を追い出す、という解放闘争に乗りだした姿を見て、どうして応援団として乗りだす気になれたのか。憲法のことなどもどう考えていたのか。私は不思議でたまらない。

 

 それに応援に乗りだす時期も問題――。五〇年に入ると早々、鉄鋼、自動車、繊維などの大資本家が生産設備の新設、大改変を実施、生産拡大に熱意を燃し、朝鮮特需もあって日本国内は「糸へん景気」、「金へん景気」にわき、鉱工業生産指数が戦前を超えた五二年を、経済白書は「消費景気」の年と謳っています。

 

 これに対して、五三年九月に第一巻発行の『日本資本主義講座』の方はこういっている。「占領『制度』の生みだすもの―国民の貧困、経済的没落、国土の荒廃、社会の頽廃などによって、国民は事態の本質をさとりはじめている」。そこで共産党の解放運動には、「労働者階級をはじめ、農民、インテリゲンチア、小市民、民族資本家など広く参加、今後は大資本家や中小地主の一部までが、反民族的解放運動の側につくことが予想される」。これが、『日本資本主義講座』の状況判断、社会学的にいえば、状況規定、あるいは状況の定義でしょうか。

 

 これは、経済白書の「消費景気」という判断から一年後の見方としては、少々狂ってはいないでしょうか。それに五二年、即ち『講座』を出す前の年には総選挙があって、共産党は議席を零にしている。国民の信頼を全く失ってしまったといってもいい。その共産党に、どうして大資本家までがのこのこついていくでしょうか。想像力の豊かさには驚かされるばかりです。その想像力で、憲法を破棄して日本はソヴェト式強力国家になれるなどと想像してたのでしょうか。頭のいい知識人や文化人ほど恐い人たちはいません。

 

 といいましても、当時これは学生層など若い人には人気があり、だいぶ読まれたようです(実は私も当時購入した全一一巻を所有していて、別巻の『年表』などはいまなお使わせてもらっています。が、解説のところどころに大きな嘘があって閉口しています)。ソフトカバーなので寝っ転がって読むのに都合がよかったせいもあるのでしょうか。家屋が狭く人が多い時代ですから勉強机なんて夢のようなもの。寝っ転がって読めるのは重宝でございました。東北大の学生寮などを訪ねてみると、このスタイルで読んでいて、「やりますよ!」なんて腕をさそっていましたね。

 

 そういう人たちが共産党の活動家になって、五四年です。五三年松川二審の有罪判決の翌年ですからよく覚えているのですが、私の入院した坂病院に来て、「入院患者のなかに中核自衛隊を作れ」と要求した。これが「解放闘争の現段階での緊急課題だ」という。従業員ではなく、結核で寝ている結核患者のなかにです。

 

 もちろん、この『講座』だけで若者が狂ったとはいいません。ですが、責任の一端はある。僅か二年足らずの間に一一冊出し、すぐ間違いということで絶版した経過、間違ったところ、その責任などを明らかにして、反省しておくべきだったと考えます。だが、それがなかった。そのことが、その後の日本の言論のいい加減さと、無責任さに道を開き、何をいっても責任を取らなくていい、という気風を蔓延させた。それこそその「起点」になっていると考えます。

 

 そして、この「起点」があったればこそ、共産党が科学的根拠を無視して「謀略説」に転じ、松本清張が、「一等資料」に基づくドキュメンタリーだと偽って、『日本の黒い霧』を書くことになったのではないでしょうか。とすれば、『日本資本主義講座』の監修者、編集者の責任は厳しく追及されるべきだと、私は固く信じております。

 

 5、一九四九年を如何に眺め、どう捉えるか

 

 この年はこれまで、平和を叫ぶ自由もなく、民主的権利も奪われ、国民は暗黒の世界に閉じこめられた状態だった、というイメージで語られてきました。私は、このイメージは清張『日本の黒い霧』の影響によるものと考えております。ですが、『黒い霧』は虚偽架空の物語。そこで、この清張が掛けたヴェールを取り払って、生(なま)の一九四九年を眺めてみたら、どんな姿が現れるのか。当年一〇歳の至らざる知恵を絞ってその姿を描き、諸先生の御批判と御意見をいただきたいと考えます。

 

 確かに、四九年には幾つかの問題点があります。横浜から福島県松川の東芝工場にオルグに行っただけで、列車転覆事件の犯人とされ、二度の死刑判決を受けたような愚か者もいました。東京都で公安条例が作られ、反対闘争で橋本金二が犠牲ともなっています。

 

 ですが、警察署の占領までは禁じていません。常磐地帯の労鉱労働者が共産党に煽られ、一日、平市署を占領しました。平事件ですね。玄関に赤旗が掲げられ、署長以下幹部は一室に閉じこめられて震えていたそうであります。もちろん、福島の警察は怒り狂って、松川で起きた列車転覆事件で復讐にでた。誰がやったかわからないのに、共産党員らの仕業として事件を造ってしまった。

 

 ですが、全国の警察が怒り狂ったわけではありません。熱海の警察などは国労の中央委員会に最大のサービスをしています。会場では吉田内閣打倒、革命政権樹立の大激論をしているのを知りつつ、会場使用延長願いを次々と認め、終わったら夜が明けていた。結局連続一昼夜、二四時間の市公会堂の使用を許可したわけです。こんな自由を与えるところが、世界のどこにありましょう。

 

 東京では警視庁下山事件捜査本部、政府と占領軍は共産党や労組対策のため、他殺の結論を求めていたのに、坂元刑事部長以下全刑事が一致して事実追求の捜査に徹し、下山総裁自殺の結論をだしています。彼らは、自分たちの意志を通す自由な空間を持っていた。

 

 恐らく、こういう自由な空気に目が眩み、何を叫んでもいいんだ、といった安易な気持で、共産党は「九月革命説」を唱えたのでしょう。そこで跳ね上がった若者が、社会党員や民同派と激しくぶつかり合う。この動きに慌てて、共産党本部は複雑な動きを示し、ストライキなどを抑えにかかります。これが下部組織では極めて評判が悪かった。八月末の一六回中央委員会で徳田書記長は弁明をしている。『アカハタ』八月二四日の徳田報告ですが、その一部を読みますよ(資料8)。

 

 「党は現在の情勢においてストライキを拒否しているのではない。無論これは重要なる武器である。しかしながら現在では単純な一経営におけるストライキは重要度が少なくなっている。それは人民闘争の一部分でなければならない」。

 これわかりますか。わかる人は日本語わからない人ですね。

 

 「人民闘争」なんて、どこにあります。徳田の頭のなかにはあるかも知れないが、現実にはどこにもない。存在しなかった。存在しないものの一部分にどうしてなれます? 「一経営におけるストライキは重要度が少ない」なんていったって、ストライキやらないで首切り止めてくれる経営者いますか。こんなの戯言でしょう。この他に、「産業防衛闘争」、「民族資本との共同闘争」などなど、下部では一日討論しても、二日討論しても、よく理解できぬ方針が乱発され、なにがなんだかわからず駆けずりまわっているうち八月末となり、「九月革命説」は店仕舞い。

 

 このように、下部機関や党員さえもよくわからぬ共産党の動きは、「まず左を斬って、次に右を斬る」を合い言葉としていた社会党にとっては、さらに不可解なものと映り、彼らの猜疑心を刺激します。そして、この動きにはなにか不穏な企みがかくされていて、暴力革命に繋ぐものという理解を生みます。そのうえで、共産党は「原因不明の事件を起こし、社会を攪乱して革命につなげよ」という秘密指令をナガしていると想定し、その秘密指令なるものを民同派が印刷してばら撒いています。

 

 これ私は、ヤクザ同士の争いといいたいのですが、しかし、ピストルが乱射されたり、ドスを使った刃傷沙汰があるわけではありません。どんなに激しくっても、デマか悪口の投げ合いで、社会の平穏もあまり乱されていない。ですからこれは、やはり紳士の争いというべきでしょう。従って吉田首相などは少しばかり渋い顔はしたが、葉巻をくわえてニコニコ眺めていられた。

 

 では、この紳士の争いを別として、日本の上空をどんな風が吹いていたのか。占領軍とアメリカ本国との遣り取りは、双方の意見が合わずなかなか激しいものがあったようです。ですが、それを一応度外視して、ともかく日本国民が目にし、耳にしたものをアトランダムに挙げていきますと、次のようになる。

 

 まず、前年まで実施されていた大都市への転入抑制策が解除されています。生活物資も不足、輸送手段も回復不十分、こういうときに大都市に多くの人が集まると養うのに大変。そこで戦争中疎開した人たちもなかなか帰せなかった。その制限が解除され、野菜の統制も撤廃されています。生産も増え、交通手段も改善されて、物を動かし易くなったのでしょう。国鉄東海道線の食堂車も復活しています。

 

 さらに、全国に一挙六九の新制大学の開設が決まり、若者に希望を与え、通商産業省も設置されます。ソヴェトにおける抑留者も帰ってきました。そして、ハワイでは日本の「飛び魚」という人が、パイナップルの大食い競争で世界新記録を樹立。明るいニュースでした。街々には、「銀座カンカン娘」や「青い山脈」の歌声が流れ、映画館には二週間で五〇〇万人が訪れています。

 

 こうしてみますと、日本国民の受けた感じは結構明るく、希望に胸がふくらむものがあったのではないか。決して暗くはなかった、と私はそう考えております。諸先生の御意見をいただければ幸であります。

 

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 (関連ファイル)

   佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』

   佐藤一『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』9月革命説と人民政府の幻想

 

   高野和基『戦後史検証―一九四九年「謀略」の夏』書評

   無限回廊『下山事件』  浦本誉至史『松川事件』

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