harvest rain


 息を弾ませながら、赤褐色の谷間の奥へ、奥へと駆けてゆく。  ひとつ、またひとつ、斜面を越えて谷間の奥に行くにつれて、しっとりとしたほのか な靄のような空気が、辺りを取り巻きはじめる。  そうして、息が切れそうになりながら、ひときわ大きな岩場を越えた、その奥に。  細やかな、塵のように細やかな雨の粒子が、小さな谷間に降り注いでいた。  狭い谷間の斜面を覆う、真白い綿毛のような草花を、音もなく静かに包むように。  突然目の前に開けた、幻のような風景に一瞬目を奪われながら、気象官の勤めを思い 出して娘は端末を開いて、雨と空気の流れをトレースして記録する。  それはあまりにも不思議な雨だった。遠い南の山脈の向こうから、まるで迷い子のよ うにこの谷まで舞い込んできた、湿った季節風のひとかけ。それが、此処の上空で憩う ようにふわりと舞い上がり、ごく小さな霞のような雨雲を作っていた。  まるで、誰かがこの谷間に咲く白い花のために、雨を呼び寄せたかのように。  記録を端末に任せて、身体に墜ちた感触さえ微かな雨粒に濡れながら、娘は雨の降り 注ぐ白い谷を見つめた。 「雪じゃなくて、花、だったんだ。」  観測艇からほんの一瞬見えて脳裏に焼きついた、慎ましく白く輝く谷の光景を想い起 こして、娘は軽く微笑んで呟いた。  水滴に揺れる花弁にそっと触れようと、花の傍でしゃがんで手を伸ばした、その時。 「花、食べちゃだめっ!」  不意に響いた高く鋭い声が、花弁に触れようとした娘の指を止めさせた。  はっとして顔を上げると、細やかな霧雨に煙る花の群生の向こうに、何時から居たの か一人の少女が立っていた。    肩のあたりで切り揃えられた髪は、まるでこの地方の鉱石質の砂のように、微かに青 みがかっている。そして、半ば怯えたような怒りの表情を浮かべた瞳も、同じ深い青を 帯びている。  肩に羽織った幾何学形の模様のショールは、見慣れた開拓の民のものと一緒だったが、 何処か巻き方に違和感を感じた。 「食べたりなんかしないから、大丈夫。ちょっと触ってみたかっただけだから。」  開拓の民の子供だろうかと思いつつ、安心させるように娘は軽く微笑んだ。 「本当に? すなねずみや山鳥は、すぐ花や茎を食べちゃうから……。」 「今みたいに貴方が大声で護ってあげれば、みんな逃げちゃうでしょうに。」  警戒しつつも近づいてきた少女の言葉に、娘は思わずくすっと笑って言い返す。 「だって、すなねずみ達には、きまりがあるからできないもの……。」  意味の通らない少女の言葉に会話は途絶え、しんとした霧雨の気配だけが周囲を包む。  谷間の奥に隠れた、白の草花が群生する何処か聖域めいたこの場所だけに、音もなく 降り注ぐ、細やかな雨。  額に、頬にさらりと触れても濡らすわけではなく、ただひんやりとした感触だけを残 して溶け去る滴は、何だか幻のように不確かで、優しい感じがする。 「はじめて空から此処を見た時、雪みたいだなぁって思ったの。」  そんな感覚に身を任せながら、半ば独り言のように、娘は傍らの少女に話しかけた。 「ゆきって……なあに?」  不思議そうに深い青の瞳を瞬かせる少女。この少女もまた、娘には不確かな幻のよう な錯覚を与えた。その錯覚が何故か心地よくて、娘に言葉を紡がせる。 「雨の粒が、上空で凍って白い氷の結晶になってね、綿みたいにふわり、ふわりと舞い 降りてくるの。降り積もると、この花みたいに大地を白く包むのよ。」 「ふうん……。私、見たことない。ここにも、ゆき、降らないかなぁ。」  白い花弁を潤わせる淡い雨雲を見上げて、少女は手を広げる。少しずつ細やかな水の 粒子は朝の空気に溶け込み、消え去りつつあった。 「この星は暖かいから、自然の雪は降らないみたい。私の父がね、はじめてこの星に人 工の雪を降らせたのよ。無理言って降雨艇を出させて、母のためにって。」 「誰かのために、ゆきを呼んで降らせたの?」 「そうよ、冬至祭の夜に母のためにって。公私混同して、馬鹿みたいよね。」  首を傾げて尋ねる少女に、少し苦笑いして応える。何故こんなことまで話しているん だろうと思いつつも、不思議と悪い気分はしなかった。 「ふうん……、人間って優しいんだね。この雨と、おんなじ。」  そんな気象官の娘に、少し緊張を解いて、少女はふわりと笑った。 「この雨も花のためにここに降ってくれてるのよ。この子達には、水が必要だから。」

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