harvest rain


「……人の忠告、全然聞いていなかったのかよ。」  土汚れで煤けた白衣を着た娘の傍らに、ちょこんとくっついていた小さな人影を見つ けて、少年は軽くこめかみを押さえた。 「いいじゃない、農作業を手伝ってくれるって言ってるんだから。ねぇ。」  少年に言い返して、娘は青い瞳の少女と目で頷きあう。 「……どうなっても、知らないからな。」  ぶつぶつ言いながらさっさと麦畑に向かう少年の後を、気象官の娘と少女がのんびり 歩いてゆく。  この集落に『燈火』で降りてから半月経って、娘はようやく集落の暮らしに慣れつつ あった。  気象局の研究員という娘の立場に、何処か敬遠していた開拓の民達も、毎朝井戸に水 を汲みにくるその娘の姿に慣れたのか、次第に打ち解けて親しげに話しかけてくれるよ うになった。  ただ一人、相変わらずそっけない物言いの、少年を除いて。  農作業をしながら、娘は時折空を見上げて、空気の流れを調べる。  いつもと同じ、この谷間を洗うように行き来する、荒野の緩やかな風。  蛍石質の砂を、まるで凪いだ波打ち際のようにゆっくりと流しては吹き戻すこの風が、 何処かこの谷間をさらさらと洗うようで、娘は気に入っていた。  だけどこの風が吹いている間は天候が変化することはまずない、ということもまた気 象官の娘は冷静に分析していた。  天候が変わる可能性があるとすれば、南に連なる峰を越えて、遠い風が湿った空気を 連れて吹き降ろしてくる場合だろう、と思う。  この数日、そんな期待を持たせる南風も、あの幻のような雨も現れはしなかった。  雪のような白い谷で出会った少女は、あの時以来、娘のもとに現れるようになった。 不思議と、できるだけ他の開拓の民がいない時を見計らっているかのように。 「せっかく育ってきたのに、本当に踏んじゃっていいの?」  少年から、今日は『麦踏み』をやるとは聞いていたが、実際に麦の穂を目の前にする とやっぱり躊躇する。 「踏むことで穂分かれして、沢山実を付けるようになる。穂自身が強くもなるしな。」  そんな少年の言葉を確認して、靴を脱いで裸足で畑に入る。日に乾いた土のざらざら した温かさが伝わってくる。そのまま、思い切って育ち始めたばかりの、薄緑の苗をき ゅっと踏みつける。  その踏まれた小麦の若い苗の弱々しい感触に、一歩踏む度に、強く育つように、と心 の中で願いをかけたくなる。  青い髪の少女は、随分長い間、麦の苗に同情するような表情を浮かべて迷っていたが、 気象官の娘の姿を見て、おそるおそる小さな足で麦を踏み始めた。 「大丈夫かな、この草達……。この草も、育つと白い花を咲かせるの?」  やがて全て踏まれて地面に横たわった麦を眺めて、上目遣いで少女は娘に尋ねた。 「ううん、この辺は小麦畑だから、夏の終わりには穂が実って一面黄金色に染まるわよ、 きっと。」 「人間ってすごいんだね……。こんな広い土地に草を育てて黄金色に染めて……。」  凪のように緩やかな谷間の風に、肩までの青い髪を揺らせて、ぽつりと少女が呟く。 「育てば、だがな。……このまま雨が降らなければ枯れるかもしれない。」  そんな少女の感嘆の言葉に、冷たい少年の一言が釘を刺した。 「この子たちにも、雨が必要なんだ……。」  南の空を見上げて、青い瞳に微かに心細そうに不安の色を浮かべて、少女は呟いた。     *

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