harvest rain


 待望の雨は、さらに数日してから、ようやく谷間へと降りてきた。  定期的に巡回する気象局の降雨艇が、開拓の民の谷間の上空へと差し掛かったのだ。  その気象局の降雨を、降り始めから見てみたいと言い出したのは、意外にも開拓の民 の少年の方だった。  麦畑の傍で、少年と少女を連れて三人で降雨が始まるのを待つ。  水滴が落ちてくるはずの天空を見上げても、薄い雲の欠片も見えない。ただ、低層の 空気を伝わって、ごうん、ごうんと鈍く響く降雨艇のエンジン音だけが届いてくる。 「……雲もないのに、降雨艇はどうやって雨を降らせるんだ?」  何処かぎこちなく、ぼそりと少年が気象官の娘に尋ねる。 「方法は二つあるわ。一つは、上空の空気に、温度が全く異なる空気を吹き付けて気流 を創りだすの。空気中に水分があれば、それで雨雲の発生が促進されるわ。」  少年の問いに、娘は解かり易い言葉を選びつつ答える。きっと、少年が自分に農作業 を教える時も、こんな感じだったんだろうなと、思いつつ。 「もう一つは、雲を作らないで、化学変化で直接水滴を創る方法。ちょっと強引な方法 だけど、ここの大気みたいに雲を作れるほどの水分すらない場合に使うの。」 「雨を降らせる手助けをするか、空で絞り出すかの、二つだな。」  少年が自分の言葉に置き換えて、納得する。  砂絵のような淡い水色の空に、低く唸るように響く降雨艇の飛行音。  その低い調べに、ぱちん、ぱりんと、まるで炭酸水の泡が弾けるような音が加わった。  ぱりん、ぱちん、乾いた低層の空で、なにかが生まれて弾ける微かな音。  そんな繊細な音の泡が谷間の上に広がり、幾重にも重なった、その時。  ぽつりと、降雨の最初の水滴が、娘の腕に落ちた。  それを合図に、次々とやや大粒の滴が落ちては、大地に跳ねて音を奏でだす。 「そう言えば私、降雨艇の雨を直に見るのって、はじめて……。」  それは雪のような花が咲く谷で見た、あの幻のような雨とはまた違う意味で、不思議 な雨だった。  相変わらずの凪いだ波のような風が流れる空を伝わって、湿った雨の匂いもない乾い た空気の中を降り注ぐ、人工の雨。  ひとつひとつの粒子は大きいけれど、代わりに本来の雲が生む雨よりも、何処かまば らで密度が薄い。  水滴が地面に落ちる調べ、泡が弾けるような空の化学変化の音、そして降雨艇の低い 響きが音楽を奏でるなかを、少しでも大地が潤うようにと儚い願いを乗せて、雨は落ち てくる。 「人って、雨も降らせるんだ……。」  その雨の滴に、この大地の砂と同じ青の髪を濡らして、微かに怯えた風で、ぽつりと 少女が呟いた。  畑のひび割れた褐色の土に落ちた水滴が、何事も無かったかのように吸い込まれる。  開拓の民が訪れるまで、永ら、十分な草も育てることを忘れるほど乾いていた、この 谷間の土に。 −−こんな降雨くらいじゃ、足りないかもしれない。  気象官の娘の心の何処かで、そんな不安の呟きがよぎる。  一度根付いた不安は、胸の中で少しずつ、自らの無力さに変化しながら膨らんでくる。  開拓の民とともにこの地に在る気象官としての、自らの無力さに。  炭酸水のような音が上空から消えた数瞬の後に、潮が引くように降雨は止まった。  何も変わっていない淡い空に、ただ降雨艇の名残の低い響きだけを後に残して。 「この降雨のおかげで何とか、麦もしばらくは元気になる。ほら。」  雨が止んでからも黙ったままの娘と少女に、少年がぼそっと言って、畑を指差した。  相変わらず小さなひびが入ったままの土に根を張った、まだ若い麦の畑。  何時の間にか、生まれたばかりの小さな穂を、空へと立てていた。  まるで手を伸ばすように、空の高みに在る自らの実りへと届くように。 「……わたしも、がんばらなきゃ。」  か細い茎を真っ直ぐに立てた麦畑を見て、ほっとしたように少女が呟いた。  そんな少女の傍らで、気象官の娘は、少し縮こまってそっと麦畑に背を向けた。  少年の素朴な声と少女の何処かほっとした声に、何故だか、涙がこぼれそうになって。     *

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