harvest rain


 暖かな夜風がたゆたう中、天幕までひとりで帰る道は、随分永く感じた。  とぼとぼと歩を進めてようやく天幕の灯りが見えた時は、また涙が出そうになった。  もう数週間もしたら、幻のようにこの谷間から消えてしまう、儚い風景に。 「お帰り。さっきいい物見つけてさ、ずっと待ってたんだよ。……どうしたんだい。」  天幕の入り口で待っていたトキが、娘の赤く泣き腫らした目に気づいて、尋ねる。 「トキばあさんとっておきの香草茶をいれてあげるからさ、ほら、話しておくれよ。」  無言でなんでもない、と首を横に振る娘の背を優しく叩いて、トキは娘を迎え入れた。  乾いた香ばしい穀物の風味がするお茶が、ほっと娘の気持ちを落ち着かせる。  そんなお茶の香りとトキの暖かさに押されて、娘は先程の事をぽつり、ぽつりと話した。  観測機の通信電波で、局長に緊急の降雨を依頼して、断られたことを。  そんな娘の話に、やがてトキは何処か懐かしそうに、くすくすと笑い出した。  訝しそうに見つめる気象官の娘に、自分もお茶を一口啜ってから、今度はトキが穏や かな口調で話し始めた。 「まだあたしが若い娘だった頃さ。その時も気象局から男の研究員さんが長期観測に来 てね。何でも、局への借金返済のためとかぶつぶつ言ってたけど。」  少し悪戯っぽく目を細めて、聴き入る娘の様子を確かめるように、ゆっくりと間を取る。 「その集落じゃ、この谷以上に水不足に見舞われてね、人の飲み水さえ足りなくなる有 様だったよ。それで、その研究員さんも局長に直訴したのさ。特別に降雨艇をよこせっ てね。」  驚きの表情を見せる娘に、トキは何処かとぼけた風で、こう言葉を継いだ。 「……確か、名前をヨシノさんって言ったかな。風の噂じゃ、今じゃ気象局の局長さん になったと聞いたけど。」  地面に水が染み込むような、静かな衝撃が娘の身体に走った。  その衝撃が波が引くようにゆっくりと溶けてゆくとともに、この長期観測の初めから 抱えていた疑問が、少し氷解した気が、した。  通信の中で「五月のお祭りが終わったら」と言っていた。それは、多分開拓の民の暮 らしを熟知していなければ出てくることのない言葉のはず。  あの人は、開拓の民との暮らしを全て知っていた上で、娘としての、そして気象官と しての私に、多分同じ経験を積んで欲しかったのかもしれない、と想う。  観測は根を詰めずに、休暇旅行のつもりでと、わざわざ通信で念を押しながら。 「……父の暮らした、その集落はどうなったんですか?」  やっとの思いで、ぽつりと娘が質問を返す。 「やっぱり降雨は断られて、結局私達はその集落を捨てたけど、その気象官さんには感 謝してるし、いい思い出になったさ。」  そんな風に答えて話を終えてから、ちょっと待っててねと娘に言い残して、トキは天 幕の奥へと引っ込んだ。しばらくして戻ってくると、淡い空色の布地を娘に手渡した。 「ほら、ひろげてみてよ。」  トキに促されて、娘は布地をそっと広げてみる。  それは、開拓の民の女性向けの服だった。  薄い水色に染めた布地に、群青色の糸で、通り過ぎる風のような模様の刺繍が描かれ ている。作業用に身体が動きやすい作りになっていても、袖口や腰の部分はささやかな 緑の飾り紐で留められていた。  一緒に畳まれた、持ち主を砂から護ってきた二枚のショールは夏の麦の色で、赤褐色 の砂の淡い汚れと溶け込んで、柔らかい色合いを宿している。 「あの子の母親、つまりあたしの娘がキャラバンに置いてった服なんだけどさ、ほら農 作業手伝ってくれたから、随分上着汚れちゃっただろう? ヨシノさんに似合うかなと 思ってね。」 「どうしてそんな、役に立たない私なんかに、みんな優しくしてくれるんですか……?」  私に、とぽつりと呟いてから、何処か弱々しく娘は問いかける。 「言ったろう、あたし達は気象官さんに感謝してるって。……それにあの子の恩もある。」  元気づけるように張りのある声で言ったあと、ふっと息をついてトキは付け加えた。  その言葉に、小さく首を傾げて、無言で娘は話を促した。 「数年前の集落のことだけどさ、初めは雨も降って順調に作物も育っていたのに、不意 に雨が一滴も降らなくなって、集落を捨てたことがあったのさ。……あの子は、何故だ か判らないけどそれを自分のせいだと思い込んでる。」  トキの話に、どうして、と無声で呟きながら、何故か少年とあの少女のことが頭をよ ぎった。  青い髪の少女に初めて出逢った時に言った、近寄らない方がいい、という言葉。  そして少女が消えたあの時に繰り返していた、おまえのせいじゃない、という言葉。   少年は、何故、どんな想いでそんな言葉を口に出していたのだろうと、想う。 「それ以来ずっと塞ぎ込んでしまって。去年母親が新しい集落に残った時も、結局母親 と別れてそのまま旅を続けてさ。」  誰にも判ることのない自らへの責めを負いながら、母親と離れて暮らす少年。  まるで、踏まれても天を目指して穂をのばす麦みたいに、何て強いのだろうと、自分 と比べ見て思う。 「でも、この谷に来てあの子は随分変わった。これもヨシノさんのおかげだよ。このく らいのお礼はさせておくれよ。」  そんな、とまた涙ぐみそうになる娘を抑えて、試しに着させてみておくれと、トキは 娘を立ち上がらせる。 「ヨシノさんはもう、立派な開拓の民さね。局長と喧嘩でもしたらいつでもあたしらの 集落に来るといいよ。昔、局長さんも農作業を手伝ってくれたけど、あんたのがずっと 筋がいいもの。」     *

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