気が早い初夏の夜明けが、遠い東の夜空を薄い菫色へと溶かしてゆく。
そんな早朝に、少年はひとりで谷の奥へ、奥へと駆けていた。かつて、気象官の娘が
雨を観測した時に後を追いかけた赤褐色の谷間を、今度は姿を見せない少女を追いかけて。
急な斜面を越えながら、繰り返しあの少女の事を考える。考えてみても、おそらく開
拓の民が行き着く結末は変わらないように思えた。
それでも、少年の足は、青い髪の少女を探して駆け続ける。
−−せめて、自分のように辛い想いを残したままで、娘を都市に返したくはない。
心に燈った、そんな想いを導きの灯にして。
ようやく辿り着いた、あの小さな谷間にも、少女の姿は見えなかった。
あの雪のような小さな草花は、まだ半ばほど残っていた。散った花を惜しむように、
緩やかな風が微かに吹いて、小さな谷間を循環している。
「見えないけど、いるんだろう?」
その風の中に微かな戸惑いの気配を感じ取って、少年は腰を下ろしてから空気の中に
問いかけた。
「小さい頃、別の土地で、お前と同じ、青い髪の少年に逢ったことがあるんだ。」
返答のない風の中に、構わずに少年は話し続ける。
「ずっと仲が良かったのだけど、急にその少年は、僕達人間をその土地に受け入れるこ
とを拒絶した。……僕に会えなくなるのは嫌だ、と言って。」
谷間の空気に、僅かに、息を飲んだような緊張が走る。
数瞬後、花の群生を挟んで、何時の間にか少女が前に立っていた。
「私達は、一度受け入れた動物の前に姿を現したり、言葉を交わしたりすることは禁じ
られているの。短い生命の動物に、情を注ぎすぎてはいけないって、言われて。」
「ヨシノは初夏には帰るって知ってたから、どちらにしろ別れが来るって知ってたから、
だから近づいたのか?」
少年の質問に、こくりと頷いて、少女は言葉を継ぐ。
「人間達がこの谷間に来た時、怖かったけど、嬉しかった。この谷って乾いているから、
生き物達も少なくて淋しくって……。だから、もっと人のこと知りたいと思った。でも、
余計わからなくなっちゃって……。」
「……人を受け入れるかは、この谷が、お前が決めなくちゃいけないことだよ。でも、
これだけは伝えておきたくて。」
この谷に流れる砂と、同じ色の髪を持つ少女を励ますように微笑んでから、すっと少年は立ち上がった。
「僕は、この谷が好きだ。少なくとも今はこの谷に住みたいって、想ってる。」
少し照れくさそうな、真剣な表情になって、少年は言葉を少女に届けた。
幼かった頃、もうひとりの青い髪の少年に言えなかった、言葉を。
もっといろいろなことを学んでみたくなったから、大きくなったらどうするかわから
ないけどと、軽く微笑んで、少年は手を振りながら駆け出した。
「それから、ヨシノの、ヨシノさんの歌だけはちゃんと聴きに行ってやりな。ヨシノさ
ん、お前が楽しみにしてるから頑張るって、言ってたから。それだけだ。」
両手を小さな胸に重ねて、青い瞳を丸く見開いた少女を、白い花の谷に残して。
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