harvest rain


 五月の祭りは、まだ日も明けやらぬ早朝から準備が始まった。  いつも水を汲みに来た井戸の広場には、何時の間にか周囲に沢山の卓が置かれ、各自 のキャラバンに蓄えられた酒や食べ物が並べ始められていた。  その広場の中央には、古い遊牧民の文様を土に刻んだ、円形の陣が設えられている。 夜明けと一ノ月の双つの光に晒されたその陣には、何処か厳かな雰囲気が張り詰めてい て、それが娘の胸を高鳴らせる。 「せいぜい恥をかかない程度に頑張ってな。あいつも、きっと来るから。」  女性達に付き添われて、衣装の準備をしに行く直前に、少年が逢いにきてくれて、少 しだけ気持ちを落ち着かせて、くれた。  髪をふたつにおさげのように結って、銀色の飾り紐で留める。  白と淡い水の色で織られた裾の長い衣を纏って、裸足の足首に同じく銀色の輪を、ふ たつ。手首にも、ふたつ。  鮮やかな群青色の帯で衣を止めて、揃いの色の透き通るように薄いショールを緩やか に肩に羽織る。袖と帯留めを小さな鈴がついた飾り紐で軽くゆわく。  そして、胸元に旧くからの祈りを込めた宝石を、ひとつ。  遠い過去から旅する民の巫女が纏った衣装は、質素な作りながらも、清楚で厳かな美 しさが込められていた。練習の時には、わいわいと嬌声をあげていた娘達も、この朝は 何処か厳かな心持ちになって、淡々と気象官の娘の着付けを手伝っていた。  しゃん、しゃんと、ふたつずつの銀色の輪が奏でる音を聴きながら、開拓の民達が周 囲に集った円形の陣へと歩を進める。  巫女の衣装を纏った時から、不思議なことに緊張感は何処かへ消え去っていた。  まるで、気象官の娘が巫女を演じるのではなく、巫女の衣装が娘を操るかのように。  そっと、周囲の民の中に少女の姿を探してみたが、何処にも見えなかった。  それでも、と、ふと父の言葉を想い出して、心の中で呟いた。  あの青い髪の娘を、そしてこの大地自身を、励ますために、と。  そうして、気象官の娘は、一ノ月の月明かりを受けて、舞い、歌った。  遠い昔から、この民族の娘達が込めたのと、変わらない祈りを込めて。    南の風が谷を 越えてふいたら    女はまた今年も 種を蒔くだろう    夏の日 光浴びて そよぐ麦草    それだけ 思いながら 種を蒔くだろう    harvest rain 音もなく降りそそげ    harvest rain 傷ついたこの土地(つち)に    明日目覚めた いのちにも    同じ岸辺を つくるように    緑のなかで さざめいた    娘の歌が 絶えぬよう  緊張と疲労は、歌い終わった後になって、身体に降り注ぐように襲ってきた。  その後自分がどうしたのかは、開拓の民達の喝采に包まれたり、きゃあきゃあ喜ぶ娘 達に衣装を脱がせてもらった朧げな記憶の他は、あまり憶えていない。  我に返ったのは、既に祭りの喧騒に沸く井戸の広場を、少年とふたりで抜け出した時 だった。糸が切れたように力が抜けた身体を支えてもらって、何とか天幕へと戻った。  そこへ、初めて歌を聴かせた夕暮れ時と同じ杭に座って、青い髪の少女が待っていた。  驚いて近寄ろうとしたふたりを手で制して、遠巻きにすっくと立ち上がる。  いつもと同じたゆたう波のようなこの谷の風に、青い髪をさらさらと揺らせて。   「ヨシノさんのうた、聴こえた。……ほっとして、心の底から嬉しくなった。」  少し大人びた穏やかな表情で、少女はふたりへと言葉を紡ぐ。 「わたし、ヨシノさんも開拓の民も麦の畑も、みんな好き。だから、育てなくっちゃ!」  そう叫ぶと、少女はぱっと駆け出した。  月の淡い明りの下で、駆けて行く少女の姿は少しずつ成長していくように、見えた。  短かった髪がさらさらと伸びて、艶やかな蒼の黒髪が流れる。  背も遠ざかる度に少しずつ、気象官の娘と同じくらいまで伸びてゆく。  そうして綺麗な娘に成長した少女は、最後にふわりと振り向いて、あの変わらない青 い瞳でふたりに微笑んで、そのまま月明かりの中に溶けて、消えた。  まるで、あの真白い花が咲く谷に降り注いだ雨から、ずっと続いてきた幻だったかの ように。  それが、気象官の娘と少年が、この谷の少女を見た最後の瞬間だった。     *

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