harvest rain


 早朝の風は、荒地の蛍石質の砂を連れて、北側の丘陵を越えて吹いてくる。  夜気を残して谷間へと降りてくるその風は、春とは言え冷たく頬をかすめる。  おそらくこの北風は、昼夜の温度差から生まれた、砂の荒地を行き来する近場の風だ ろうと、思う。少なくとも、遠く旅を続け、大きな天候の変化をもたらす季節の循環風 ではない。  澄んだ空気の冷たさに、白衣をはおった両肩を少し縮めながら、そう娘は分析した。   「ヨシノさん、その格好で作業したら、せっかくの綺麗な白衣が汚れちゃうよ。」 「……実は、これしか外着を持ってこなかったんです。」  トキの驚きの声に、少し恥ずかしそうに俯きながら、娘は応えた。 「あの子の言うことなんて、真に受ける必要はないんだからね。無理はいけないよ。」  そんな気遣いの言葉に軽く微笑んで、気象官の娘は弱い北風がさざめく、淡い色の空 を見上げた。早朝の無垢で冷たい空気のおかげか、昨日よりも気分は落ち着いている。 「でも、この地のことを自分の身体で調査して学ぶのが、私の任務ですから。」  そう言い残して、両手に錆びた鉄の容器をさげて、少年とふたり井戸に向かう後ろ姿 を見送りながら、トキは懐かしそうに少し目を細めて、呟いた。 「やっぱり、局長さんの娘さんだねぇ。」  縄に結わいた容器を、開拓の民が掘り起こした井戸の底へと落としてゆく。  乾ききった大地の深みを、血液のようにさらさらと流れてゆく、細い水脈。  遠い何処かで天から大地へと墜ちて、暗い大地の懐を旅して海へと還りゆく水の流れ を、鉄の容器で掬いあげる。循環を妨げられ抵抗する水の重みが、両手にずっしりと伝 わる。  水を湛えた鉄の容器を、両手にひとつずつ持つと、重みで思わずよろけそうになる。  こんな風にして、娘と少年は、集落の井戸で水を掬っては、外れにある畑まで何度も 水を運んだ。  白の上着をはおって水を運ぶ研究員の娘の姿に、井戸に集った開拓の民の物珍しげな 視線が突き刺さる。最初はその視線が少し気になったが、何度も重い水を運んで往復す るうちに、気にする余裕すら娘にはなくなっていた。  ようやく畑を潤すために必要な水を運び終えた頃には、娘の手のひらは赤く痛み、両 腕は水の重みを支え続けた疲労で、じんじんとうずいていた。  ひび割れた褐色の土のたもとから、花や実を結ぶために、弱々しくもその緑の葉を空 へ向かって広げる畑の作物達。  そんな作物達に、散水機が高い噴出音を奏でて、僅かばかりの水滴を降り注がせる。 育とうとするその根や葉を、そっと元気づけるように。 「気象局が、もっと雨を降らせてくれれば、こんな苦労も要らないんだがな。」  しゃがみこんだ娘の隣で、疲れも見せず立ったまま散水を眺めていた少年が言った。 「降雨艇の派遣は、どの土地も平等に一、二ヶ月に一回という規則があるから。」  土がつかないように裾をたくしこんでしゃがんだ娘が、ぽつりと応える。 「乾いた辺境で、水が足りなくて苦しんだあげく、土地を捨てる民がいても?」 「……たとえ、この土地で水が足りなくなったとしても、特例を作る訳にはいかないわ。」  そう答えながらも、もしも自分がいるこの地に水が足りなくなったと知ったら、あの 局長は雨を降らせるのだろうかと、一瞬娘は心の中で考えてしまう。 「それに、雨を少し降らせるだけでも、膨大が資源がいる。気象局だって万能じゃないわ。」  棘のある少年の言葉に、少し言葉を詰まらせつつも応えて、娘は作物の葉にそっと触 れてみる。緑色の薄い葉の表面に、ちいさな滴が転がって、地面に落ちた。 「この葉は、どんな作物を実らせるの? 花は咲かせるの?」  ふと、このちいさな葉のことを知りたくなって、娘は尋ねた。 「この畑は全部ジャガイモだ。夏になれば白と薄紫の花をつける……育てばだけどな。」 「夏じゃ、私は見れないなぁ……。じゃあジャガイモは花が落ちた後の、実なんだ。」 「……ジャガイモは実じゃない。根だ。」  少しあきれたように気象官の娘の横顔を見て、少年は訂正した。  耕されて空気を含んだ、裸の畑に入る。靴の底にきゅっと、ふくらんだ土を踏みしめ る感触。  波穂のようにでこぼこにうねる畦の上に、少年と娘に両端を握られたロープが、真っ 直ぐな直線を刻む。等しい間隔を保って、ひとすじ、またひとすじ。  一通り畑に直線の模様を描いたところで、少年は気象官の娘に、黄色く丸い種子の詰 まった袋を差し出した。 「これは、何の種なの?」 「春蒔き小麦だ。収穫までの期間が短くて繊細な品種だが、うまく育てば美味しいパン の原料になる。」 「……パンって、こんな種から育った植物で作られてるの?」 「おまえ、何にも知らないんだな、本当に。」  少年の馬鹿にしたような口ぶりに一瞬むっとしそうになっだが、ふと気が変わって、 気象官の娘はふわりと微笑んだ。 「じゃあ貴方は、上昇気流と下降気流の違いや、何故上昇気流が雨を呼び出すかって、 知ってる?」  小首を傾げて、まっすぐに見つめて訊いてくる娘に、少年はぷいと横を向く。 「それに、空と海がどうして青いかも、知ってる?」 「……おまえは、そんなこと本当に知ってるのかよ。」  くるりと振り向いた少年の問いに、娘は悪びれた風もなく首を横に振った。 「ううん、私も知らない。だからこの星について、誰もがみんな知らないことばっかり なんだ、ってこと。」  娘の言葉に背を向けて、少年は刻んだ溝に春蒔き小麦の種を植え始めた。  その背中に、もうひとこと、娘は付け加える。 「ついでに、私には『ヨシノ』っていうちゃんとした名前があることも知ってる?」

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