そら とぶ ゆめ Act.3  Psi-trailing / page11


    *  夜空へと手を伸ばすように建つ、観測所の旧い塔。その塔をめぐって、ゆるやかな螺 旋を描いて、石の階段が続いている。  遥か昔に造られた、鉱石の階段は、永い時を経たにも関わらず驚くほど滑らかだった。 娘が空へ向かって歩む度に、その螺旋の階段は裸足のつま先にひんやりと冷たい感触を 残してゆく。  ひとつ、ひとつ、戸惑いつつも、娘はゆっくりと螺旋の石段を、上る。  海の傍らに切り立つ崖にそびえる、観測所。その最も高い塔を円を描いて上ってゆく と、低く遠く広がる風景が、規則的に開いた窓の外から、視界に映る。  観測所とは崖で隔てられた低み、細い河が海へと広がる源に、眠る小さな街。  河は遠い視界の果てから続いている。それに寄り添うように伸びるはずの街道は、今 は一面の銀の下に閉ざされている。  この夜だけ、雪原と化した荒野は、雨降りが至れば、細い河から溢れた水で一面の海 のように姿を変える。  そうして、大地からその水が乾いて、はじめて春が訪れ、人々に緑と豊かな実りをも たらす。  その視界に、街道からだいぶ離れて、ちいさな森がぽつりと雪原に影を落とす。  水源もなしに、ただ独り在る、滴の森。  ひとつ、ひとつ、胸のうちに波のように寄せる何かにせきたてられて、歩調を早めて、 石段を上る。  窓の開いた壁面を過ぎる度に、淡い光が横切る。  何時の間にか、雪をもたらした灰色の雲の隙間から、月が現れていた。   ……るな。  ちいさく、自分の名前を呟く。遥か昔、「月」を表す言葉だった、自分の名前を。  旅人は、月は、もうひとつの世界に繋がる扉だと、言ったという。  風読みは、月の扉を抜けて、もうひとつの世界から滴の森に降りてきたのかもしれな いと、言った。  でも、風読みも、幼い頃滴の森で拾われたと、言っていた。  ひとつ、ひとつ、渡り鳥が本能のうちに、知らない遠い国の空に引き寄せられるよう に、石段を上る。  空に近づく度に、まるで水面を揺り動かす風が強くなったかのように、胸の内の波は 打ち寄せる。   そらを、飛ぶ、夢。   その波の源に、あの旅人の手紙の言葉があるのを、無意識に、娘は感じ取った。  忘れてしまった記憶の片隅にひっかかる、言葉。それが、娘を何かへと駆り立てる。  先程の風読みも、きっとおんなじだったのだろうという確信が、理由もなく脳裏をよ ぎっていった。  やがて、螺旋を描く石段は、小さな踊り場で終わりを告げた。  雨降りの際に光を灯す際には、ここよりさらに梯子を伝って、塔の最上階に上らねば ならない。  娘が、梯子の金属に裸足の指先をかけようとしたその時、梯子の傍らに、小さな扉が あるのに気づいた。  何度かここに上ってきた時には気づきもしなかった、開くためのノブすらない、金属 の扉。  その扉も、まるで娘を招き入れるかのように、音もなく、開いた。




←Prev  →Next

ノートブックに戻る