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濡れた肩に降りたふわりと冷たい感触に、娘はふと崖道を駆ける足を、止めた。
外の冷気よりずっと暖かい海水に娘が包まれていた時は、無数の波紋を描いていた雨
の滴たち。
それが今は、白い氷の衣服を纏って、春を呼ぶ雪のかけらになって降りてくる。
見上げると、まるで涙を流していた空を慰めるように、ひとひら、ひとひらが、優しい。
そして、その優しさはやがて、春の雨降りという、より大きな涙を呼び起こす。
見上げながら観測所まで帰ってきた娘の、白い粒子が舞う視界の中に、ふとひときわ
大きな白いかけらが目に留まった。
錆びた手紙受けに、真白く薄い矩形。それは、もちろん雪ではなかった。
娘は、珍しそうに軽く首を傾げてから、その手紙を取って、暖かい扉の中に駆け込む。
そらに一番近い屋根で、ある夏の日に目に留まった、風見鶏ならぬ風を見る『機械』
が、ゆっくりと廻っていた。
「おかえり、るな。海のなか、寒かったろう?」
暖炉の傍らの、寝椅子に横になったまま、風読みは娘を迎えた。
娘は、軽く首を横に振りながらも、夜露に濡れた猫のように、慌てて暖かい火のそば
に駆け寄る。
「今夜は、積もりそうだね。」
窓硝子を隔てた向こうで、雪は音のない音を奏でて、風景の色をその白で包んでゆく。
温暖なこの土地では、真冬にはただ、土地を枯らす乾いた北風しか吹いてこない。
雪は、冬の乾いた北風が、湿り気を含んだ東の風に変わるその瞬間に、一度だけ降り
てくる。
やがてこの地に至って、大地を潤して春をもたらす、雨降りの前触れとして。
「るな、好きなのはわかるけど、もう雨降りが終わるまでは、あまり海に行っちゃだめ
だよ。」
風読みは、窓の外を眺めて諭すようにそう言ってから、苦しそうに乾いた咳をした。
「今年は僕もこの調子だから、どうなるやらわからない。さすがに、僕も歳だよ。」
もし雨降りが来たら、雨が引くまで、ずっと海のなかに潜ってるよ。
橙色の暖かさが、身体を満たしていくのを感じながら、娘は水色の月に伝える。
風読みのうた、海のなかまで聴こえるもの。大丈夫。
そう伝えて、力づけるように、きゅっと風読みの腕をつかむ。
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