そら とぶ ゆめ Act.3  Psi-trailing / page7


「外に出ると、まだ雨降りには遠かったけど、大粒の雨が静かに降り注いでいた。灰色 の空には相も変わらず、不思議な形の月が浮かんでいた。」 「雨が降っている中でまぶしく照っているのも不思議だけど、それ以上に不思議なのは、 少しずつ、満ち欠けの形が変わっているようにみえたんだ。そんな月明かりに、雨の滴 が水晶のようにちらちらと輝きを映して、まるで月がその輝きを水滴に換えて、泣いて いるような、不思議な光景だったよ。」  寝椅子にもたれたままで、自らの記憶の奥底へと降りていくように、時間の糸を手繰 るように、不思議な雨の月夜のことを語る、風読みの声。  いつもは、凪いだ夜明けの海のように静かで淡々としたその声が、少しずつではある が、熱を帯びてゆく。  風読みの、僅かだけどいつもとは違う声に、娘は、それまでは細めていた黒い瞳を、 軽く開いた。  まるで、暖かな寝床で安らいでいた猫が、ふと目を覚まして、闇夜の奥にさざめく何 かを、見つけようとするように。 「呼ぶ声は、その静かな雨の中を祈るように流れていた。聞き耳を立てると、その波は どうやら街の方角ではなくて、荒野の方へと続いていたんだ。」 「しばらくは、雨に打たれながらも、ただ必死に声の波を追いかけていた。だけど、そ のうちに、波が何処へ打ち寄せて、何処へ届いているのか、だいだい見当がついた。」   滴の、森?  語りを継ぐ僅かな呼吸の間に、娘が声のない相槌を返す。 「そのとおり。雨降りの滴を吸収し続けて、乾いた荒野にぽつりと在るあの森には、昔 からいろいろな不思議なことが起きるからね。それに、何より……。」 「幼い僕が村の人に拾われたのも、あの森だったから。」   そんなこと、はじめて聴いた。  ちいさくつぶやくように水色の月から届く、ひとりごとのような胸の奥の想い。 「僕が滴の森に着く頃には、もう、るなを呼ぶ声は、絶え間ない雨の調べに掻き消えて しまっていた。だけど、僕は必死に探した。あの、声が呼んでいた、誰かを。」  だが、そんな小さな娘のひとりごとには応えないまま、風読みはまるで街角で子供達 に物語を語る旅人のように、静かに熱く語り続ける。 「雨の日に森へ入ると、どうしてそこが滴の森と呼ばれるのか、わかる気がする。空か ら降り注ぐ無数の水滴が、鬱蒼と繁る緑の屋根に当たって、ひとつひとつが和音になっ て、樹々をあまねく包み込むように響き渡るんだ。」 「特にその夜は、何処からか葉の隙間を抜けて、ぼんやりと月の光が蒼く差しこんでい て、まるで、不思議な音楽会のさなかに迷いこんだような気分だった。そんな森の中を、 僕は滴に濡れるのも構わずに探し続けた。そしてついに、森の真ん中で、たった今墜ち てきた滴のように、うずくまって静かに眠っている女の子を、見つけた。」 「……そうして、僕は幼いるなに逢った、というわけなんだ。」  そこで息をついて、語り終えた風読みは、少し疲れたように寝椅子に深くもたれ直し、 毛布を軽く引き上げた。  それとともに、ひととき訪れた遠い雨の月夜の時間は、地面に水が吸収されるように 消え去り、後には雪の晩の静寂だけが、小さな部屋に戻ってくる。  だが、風読みが語り起こした時間は、その静寂に先程まではなかった、微かな揺らぎ と、緊張を、残していった。    じゃあ、「るな」と、私を呼んでいたのは、誰?  私に名前をつけたのは、誰?




←Prev  →Next

ノートブックに戻る