そら とぶ ゆめ Act.4  tears (I) / page2


 乾いた冬の空気にふと迷い込んだ、すん、と、した潮の香り。  それは、緩やかな山道を下っている旅人のもとまで流れついて、ふと、その足を止め させる。  さらさらと、旅路の向こうから流れてくる、潮風。  耳を澄ますと、その微かに湿った空気に乗って、遠く、遠く、海鳴りが聴こえる。  若い旅人は、そっと、その胸で揺れる水色の三日月に触れた。ひんやりと冷たい金属 の感触からは、何の音も届けてはこない。  と、いうことは。 「……やっと、着いた。」  何処かほっとした心持ちで、旅人は心の中で呟く。  もう、海は、近い。  『オルガン弾き』と別れてから数ヶ月間、ずっと海を目指して旅を続けてきた。  それまでは沈黙を続けていた水色の月の『機械』が、突然、前触れもなしに海の音を 伝えてきたから。  『機械技師』に出逢ったあの日、空を飛ぶ夢と一緒に『護り人』が渡してくれた、水 色の三日月、そしてもうひとつ。   ウタヲ ウタエルトコロヘ オカエリ。  『護り人』が眠りの淵へと還る前に、蒼い硝子の瞳を瞬きしながら、くれた、言葉。  『オルガン弾き』に、旅に出た日のはなしをしたのがきっかけで、この所ずっと、 『機械技師』と『護り人』のことを、想い出している。  彼女のように世界に眠り続ける『機械』達に逢うために、旅を始めて、もう随分にな る。  未だに、『護り人』の残した言葉の意味は、旅人にはわからない、ままで。  そうして、彼女と自分が世界に綴る足跡は、時折交差することはあっても、未だに交 わって再会することも、なく。  たった今、旅人の手のひらに残された手掛りは、水色の月が久遠から時折届ける、遠 い海の、波の調べだけ。  だから、それだけを頼りに、ずっと、海へと旅を急いできた。  山道は、まるで低きへと流れる雨水のように、なだらかな丘へと、丘の麓に寄り添う 小さな村の家々へと、そして、海岸へと続いてゆく。  その丘の頂で、旅人は背にした荷物を薄緑色の草々の上に置いた。  夕刻の、凪の空気の軽く胸に吸いこんで、大きく伸びを、ひとつ。    随分久しく見ていなかった、海の蒼色。  今は黄昏の名残を帯びて、その蒼の中に橙の色彩と、波間に反射して輝く光の粒を浮 かべている。  それも、空の薄い青色が、一足先に夜の藍色に染まり行くにつれて、少しずつ、薄れ てゆく。  その海と丘陵の境界に、暖かい夕餉の灯りが、ぽん、ぽんと燈っている。  ささやかな村の、一日の終わりを迎える、幸せな灯り達。  そんな風景をぼんやり眺めていた旅人は、ふと、村の外れの海岸近くに、奇妙な建物 を、見つけた。 「月帽子、織物店、か……。」  旅人は人づてに聞いた店の名前を、そっと唱えた。  ゆるやかな曲線を描いた、真白い半円球の、遠い昔に造られた建物。  それは、丘の頂から見ると、半分に欠けた月が、ぽっかりと浜辺に落ちて、埋まって いるように見える。  その半月の側面に、後から加えたらしき小さなひさしが、ちょこんと飛びだしている。 「本当、月の帽子みたいだ。」  若い旅人は、思わずくすっと微笑んだ。     *




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