そら とぶ ゆめ Act.5  飛行夢(そらとぶゆめ) / page10


 ひやりと冷たくて、それでも何処か温かい、娘の白いつまさきを浸す、翠色の海水。  降りしきる雨を意に介することもなく、規則的なリズムで、黒く湿った砂を、くりか えし、くりかえし、洗う。  その度に、海と陸の境界線上を行き来する、小石や砂の粒子、砕けた貝殻が、しゃら しゃらと澄んだ音を奏でる。  東からの風にあおられたせいで、少しだけ波は高いけど、いつもと変わらない、同じ 海の色。  村から戻って、眠る風読みにスープを与えてから、娘は久しぶりに海岸へと、下りた。  あの雪の夜から、ずっと夢や記憶に迷ったり、回復しない風読みの世話をしたりで、 一度も海を見に来ていなかったから。  足に浸して、少しずつ翠色に遠く広がる海と同化してゆくと、本当に久しぶりに、心 が落ちついてゆく気が、する。  風読みの具合は、相変わらず良くはならなかった。  起こしてスープを匙で与えると、目を開いて飲みはするのだが、意識がまだ呼び戻さ れていない様子だった。  どうも、病で身体を蝕まれているというよりは、純粋に意思と、気を失ってしまって いるようにも、見える。  おそらく、娘を助けるために、あの空を飛ぶ『機械』の想いと真正面から対峙して、 それを拒絶するために、意思の力を使い果たして。  すう、と深く呼吸をして、滑るように海の中へと、潜る。  一瞬の水面の抵抗の後に、その視界が翠と蒼と、水面へと昇ってゆく真白い泡の粒子 とに、包まれる。  細い足で水を強く蹴ると、水流が吹きぬける風のように、身体を包んでその背後へと 流れてゆく。  何処までも続く海に同化して、波のかけらになったように、泳ぐ。   そらを飛ぶのも、こんな風だと、いいのに。  ぽつりと、水色の月へと想いのひとりごとを、つぶやく。  一瞬、同化した海から離れて、水面に浮かんで大きく息を吸って。 再び、浅い海の 底に潜って、今度はぼんやりと、水面を眺める。  雨の滴が絶え間無く水面に還って、幾つもの、幾つもの、綺麗な同心円を描く。まる で、春の夜明けに、樹々の花達が開いてゆくように。  空から墜ちてきた滴を、優しく抱きとめる、海の蒼。   そらから墜ちてくるなら、海へと墜ちるほうが、いいな。  まっすぐに海へと墜ちて、抱きとめられる水滴達。固い大地に墜ちて、樹々や土の隙 間をくぐりぬけて永い旅を経て、還ってくる水滴達。  自分も雨の滴と同じように、滴の森へと墜ちてきたのかもしれないと、ふと、想う。  そこから、想いはまた、あの空を飛ぶ夢へと、戻ってゆく。  滴の森で、風読みが自分を拾ってくれた時の、はなし。  塔の半円球の一室で、『機械』が見せた、夢。  そして、記憶の底から泡のように浮かび上がって、くりかえし、くりかえし見る、空 を飛ぶ、夢。   わたしは、いったい、誰なんだろう。  滴の森にいた自分に、るな、るな、と必死に呼びかけていた、声。  空を飛ぶ夢の中で、ひとりの自分を護るように、届いてくる、声。  『機械技師』が話してくれた、もうひとつの水色の月と、自分を捜している人がいる という、おとぎ話。   あなたは、誰? あなたは、今、何処にいるの?  そう、無意識に、水色の月へと呟いた、その数瞬後だった。   ……貴方は一体、どなたですか……?  水流に揺れていた、胸元の水色の月の『機械』から返ってきた、かすれるような、声。




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