そら とぶ ゆめ Act.5  飛行夢(そらとぶゆめ) / page9


 やがて、薄く閉じた瞳を開いて、ふうとため息をついて、濡れた細やかなまつげの周 りを軽く手で拭って、彼女は呟いた。  そうして、そっと娘の背の高さまで屈み込んで、その首に水色の月を、優しくかける。 「はい、大事にしてね。……これは、私のおとぎ話なのだけど、聴いてくれる?」  自分の胸元に戻った、ひんやりとした月の感触。その感触をしっかりと握りしめて、 娘は軽く首を傾げる。 「この世界に、同じ水色の月を持った人が旅をしているの。……あなたを、捜して。」 「もしも、いつかその人に出逢えたら、きっとその人があなたの力になってくれる。だ から、あなたは、ひとりじゃない。」  雨に濡れて立ち尽くした娘の、不安そうに沈んだ漆黒の瞳へと、穏やかな声で励ます ように届ける、言葉。 「……きっと、いつか、空も飛べるようになる。」  謎めいた言葉で締めくくって、『機械技師』は立ちあがった。 「風読みに、伝えておいてね。『機械技師』と、『楡の護り人』が、よろしくって。」  ふわりと微笑んで最後にそう言うと、くるりと彼女は背を向けて歩き始めた。娘と別 れて、ひとりで旅を続けるために。  その、白い外套の背中が、水滴に霞んだ中を遠ざかろうとするのを、黙って見送るこ とが、できなくて。  だけど、他にどうしたらよいか、わからなくて。  娘は、駆け寄って『機械技師』を後ろから強く、抱きしめた。  月を拾って励ましてくれた感謝、雨降りが近づいているのに旅立つことへの心配、い ろいろな問い、そして、祈り。  そんな想い達を、言葉の代わりに、自分の細い腕とささやかな体温にこめて、濡れた 『機械技師』へと、届ける。  それが、声を出せない娘が想いを伝えるために、無意識に思い付いた、たったひとつ の方法だった。  濡れた外套の冷たさの奥から、微かに暖かい、彼女の体温。  それを身体に感じていると、まるで、海の浅瀬に沈んでたゆたっているように、少し だけ、心が落ち付く気が、する。 「……ありがとう。でも、もう行かなくちゃ。」  やがて、何かを断ち切るように、そっと身体を離して振り向いて彼女が言った。 「これで、うたが歌えるわ。……あなたや、風読みや、『機械』達の、ふたりの記憶 の、うた。」  嬉しそうにふんわりと微笑んで残した、最後の言葉。  次第に激しさを増す雨に煙っていたせいで見えた、錯覚だったのか。  娘には、『機械技師』が微笑みながら、涙を流していたように、見えた。     *




←Prev  →Next

ノートブックに戻る