そら とぶ ゆめ Act.5  飛行夢(そらとぶゆめ) / page5


 『観測所』の建つ海沿いの崖を、東側に下ると、いつも娘が泳いでいる海岸に出る。  だが、娘は見知った東側へは下らずに、一向に止む気配を見せない雨の中を、崖の西 側へと下ってゆく。  西側に下る時は、風読みが一緒でも、何処か不安で心細かった。だから、いつもしっ かりと風読みの手を握っていた。  その風読みさえ、今は傍らにはいない。だから、娘は代わりに、しっかりと握りしめ たままで、湿った岩の道を少しずつ降りてゆく。  風読みにもらった、大切な、水色の月の『機械』を。  空から降り注いで、大地へ、そして海へと還りゆく水滴が、濡れた岩の隙間に集まっ て小さな流れとなって、娘の足元を横切ってゆく。  そっちは、海じゃないよ、とその流れに呼びかけながら、娘も、海の反対側へと降り てゆく。  時が刻まれる度に、僅かながらその勢いを強めてゆく雨の紗幕に煙って、崖のたもと はぼんやりとしか視界に映らない。  見えるのは、ただ、真下に幾つか灯る村の明かりと、微かに深緑の影のように、遥か 遠くに浮かぶ、滴の森だけ。  そのぼやけた風景を見やって、しっかりと水色の月を握りしめて、娘は村へと降りて ゆく。  村は、静かな不安と畏れの入り混じった、ちょうど空を覆う厚い雲のような空気に満 ちていて、通りに歩く人影は、ほんの僅かだった。  雨よけの外套に身を包んで、足早に通り過ぎる人々も、ひとり歩く娘の姿を見ると、 不安そうに暗い目を伏せた。  ひとりで村を歩いている娘は、村人にとっては、雨降りの兆しを村に知らせる風読み が倒れたという噂を、何よりも裏付ける証拠だったから。  言葉を届けることのできない、伏せた瞳の人々の間を歩いていると、まるで見知らぬ 異国に、たったひとり迷いこんだような、不安を覚えた。  そんな村人の瞳に出逢う度に、娘はその右手の月を強く握りしめる。  自分がたったひとりだという不安に、何とか、負けないように。  ようやく、村のはずれにある一軒の宿屋にたどり着いて、娘は無意識に吐息をつく。  濡れた白の外套が、身体に重い。水滴は黒い前髪をも濡らして、ちいさな額にはりつ かせている。海で濡れた時よりも、何処か気持ちが悪い。  その水滴を、猫のように軽く払って、娘は宿屋の長い梯子を、二階へと上がってゆく。  いつも人々が集っている食堂のある一階は、既に雨降りに備えて、その扉を閉じていた。  扉を開けると、ふんわりと暖かな空気と、通りとはうってかわった賑やかな話し声が あふれてきた。  二階の一番大きな客室から、ベットを取り払って造られた、冬の終わりだけの簡易的 な食堂。  そこには、家の一番高い部屋でひっそりと息を潜めて、雨が通り過ぎるのを待つのを 嫌った人々が集って、永かった冬の想い出話や来たるべき新しい春の話に花を咲かせて いる。  その食堂の賑わいをこっそりすり抜けるようにして、娘はカウンターにいる宿屋の女 主人のもとへ赴く。  風読みは、この宿屋のスープが一番美味しいと言って、いつもここに買い出しに来て いるのだ。 「風読みさん、調子はどうだい? まだ具合悪いのかい?」  女主人が心配そうに、銀貨を差しだした娘にそっと尋ねる。  言葉を声に出せない娘は、どう反応して良いかわからずに、ただ、小さく肯いた。 「……スープとワインだね。ちょっと待ってな、もうちょっとで出来たてができるから。」  厨房へと下りていった女主人に少しほっとしながら、小さな食堂を見まわしてみる と、暖炉のすぐ傍で、子供達の人だかりができているのに、気づいた。  語り部か、雨降りに足止めを余儀なくされた旅人が、暖かい食事代と引き換えに、童 話や遠い国のはなしを語っているのだろうか。  語り手は、どうやら床にそのまましゃがんでいるらしく、周りを囲む子供達に阻まれ て、その姿は見えなかった。  ふと気になって、娘は少し近づいて、その声に耳を澄ませた。




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