そら とぶ ゆめ Act.6  tears (II) / page13


  ……よかった。ありがとう、旅人さん。ずっと手を、繋いでいてくれて。    背後に遠ざかる、彼女が肩にまとった星の織物の微かな輝き。その輝きが、滴の森の 方へと駆けてゆくのを見届けて、ふうと娘は息をついた。  滴の森の上空へと旋回しながら、緩やかに上昇する。遠くにほのかに映る河の、海へ と還りゆく水の流れは、いまにも荒野へと溢れんばかりに、見える。  ほっと、緊張を少し解いた、その時だった。  不意に、機体が大きく右へと、傾いだ。その直後、操作板に幾つもの紅色の灯火が明 滅する。  目の前に現れる、『機械』からの発せられる、赤く燈った、いにしえの文字。だが、 その文字で現された言葉は、娘には届かない。    ……どうしたの? 大丈夫、『翼』……?  娘の心配そうな呟きが、こぼれた、その直後。  突然、右の翼から、雨音を切り裂いて大きな爆発音が、響き渡った。  円弧を描いていた螺旋十字の付け根から、かがり火のように、灰色の空気へと炎が立 ち昇る。  突然生まれた、橙色の光源と熱気に、娘と旅人の横顔が照らされる。  ぐらりと、片方の翼が傷ついた『機械』が、空中で傾いだ。  途端に、緊張と、『機械技師』に雨降りを伝えたい想いでいっぱいで、忘れていた記 憶が娘の脳裏に浮かび上がった。  あの雪の夜に見た、そして遠い記憶の片隅で憶えている、空から、たったひとりで墜 ちてゆく、夢。    ”please tell me your name, master.”  『機械』の操作板に、今度は赤い光で、呼びかけの言葉が、浮かぶ。  思わず声にならない叫びをあげそうになった娘を、旅人が鎮めるように、護るよう に、強く抱きとめる。  何とか叫びを飲みこんだ娘の身体は、冷たい雨に濡れて地面に墜ちた小鳥のように、 震えていた。  時の流れが緩やかになったように、ゆっくりと橙色の炎が『機械』の翼を焦がし、少 しずつ、空から降りてきた雨の滴と同化して、墜ち始める。  炎に照らされた幾つもの水の粒子が、ちらちらと、橙に輝きを映す。    ”please tell me your name, master.”  娘を、るなを護らねばという旅人の想いに、『機械』が呼びかける言葉が交差して、 心の一番奥底に大切に納められた、記憶の箱に手が届く。  もつれた糸が解けてゆくように想い出してゆく、墜ちてゆく『機械』の核の中で、旅 人を、最後の鍵へと、導く。  たしか、遠い昔も、雨の滴と一緒に、空から墜ちていったことが、ある。幼い頃、 『護り人』の傍らで眠っていて見た、夢のように。  私は、娘の名前が、知りたかった。燃えてゆく私の身体から脱出させて、あの人を、 護りたかったから。  だけど、あの人は、たったひとりで墜ちるのは嫌だと、言って、名前を教えなかった。  そして、代わりに、空を飛ぶ『機械』だった私に、名前を付けた。  だから、私も、娘に、名前を付けた。    ”please tell me your name, master.”  この『機械』も、きっと娘の名前を知りたいのだ。娘を護るために、娘のことを、ず っと、ずっと、忘れないために。  そうして、ついに、全てを想い出した。  ふたりの記憶の鍵を開く、名前という一番大切な、言葉を。 「『翼』、彼女の名前は、リトル・ルナ、『小さな月』だ! 『小さな月』は、今度こ そ、この私が護る。決して手を離さないと約束する!」  旅人は、記憶の箱からあふれる言葉のままに、『機械』へと叫ぶ。 「彼女にもらった、『休まない翼』の、名にかけて!」




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