そら とぶ ゆめ Act.6  tears (II) / page6


 それまでは、永遠に続くかのように思える雨雲達を緩やかに運んでいた南からの風 が、不意に、遠い、微かな音を届けた。  普通の人の耳には届かない、風に隠れた密やかな気配と、さざめき。  だが、娘はそのさざめきを、この瞬間、はっきりと聴きとった。  それは、海鳴り、だった。遠く、水平線の彼方まで広がる蒼が、南の風に乗せた、低 く渦巻くような、呼び声。  その海の蒼の声が、天空の蒼に溶け込んだ滴や、暖かい地表に溶け込んだ水流に、呼 びかけていた。  絶え間無くさざめいて満ちては引いてゆく波間に、緩やかに生命が循環する深い海の 底に、還ってこい、墜ちてこい、と。  永い旅の循環を繰り返す、水の粒子達を、受け止めて護る、雄々しくて優しい、海の 呼び声。  その声が届いた灰色の空から、その声に歓喜のうちに応えるように、雨がほんの一瞬 だけ、強まった。  その一瞬で、娘は無意識の内に、確信した。  これは、徴、だと。この雨の中、何度の徴を聴き逃したのか、この瞬間が最後の徴な のかは、わからない、けれど。      旅人さん、『あかり』から離れて、瞳をそらして! 今、確かに感じたの。   雨が、降ってくる!     娘が、声のない叫びを旅人に投げる。その真剣味を帯びて凛とした叫びに、驚いて娘 を見ながらも、旅人は『機械』から離れる。  それを見届けると、娘は、素早い動作で『あかり』と言う名前の『機械』の台座に、 すっと白い膝をつく。  そして、何度か過去に見た、風読みが光を燈す時のことを想い出しながら、『機械』 を操作し、最後に名前を呼んで、祈る。   『あかり』、光を燈して。村の人々に、雨降りを伝える光を、差し伸べて。  娘の呼びかけに応えて、『あかり』のふたつの硝子板に、まばゆい光が溢れだした。  雨に閉ざされた暗い夜空に生を受けたばかりの、双子の恒星のような、暖かな光。  そのふたつの光を燈して、ゆるやかに天球を巡らせるように、観測所の塔の最上階で 『あかり』が円を描く。  雨の紗幕の中に、塔の高みにかがり火のように燈ったその輝きで、人々に雨降りの予 兆を伝えて不安を鎮めるのと、同時に。  『あかり』という名前を与えられた自分が、ここにいるよ、と呼びかけるように、ゆ るやかに、光を廻す。  廻るふたつの硝子板から離れて、南側の柱にもたれて、黒い瞳で強く睨むように、そ れでいて微かに不安そうに空を見上げる、娘。 「……あなたも、充分一人前の、風読みだったのですね。」    そんな娘の姿に、少しでも力づけるようにと、旅人が称える。  だが、そんな旅人の言葉に、娘は強くかぶりを振った。   でも、わたしには風読みみたいに『らじお』は扱えない。   うたが、歌えないから……。もしも村の外に出ている人がいたら……。  緩やかな軌道を描いて、規則的な間隔を置いて、『あかり』が娘の白い顔を照らし、 その姿を黒い影に形に切り取る。  今までには見せなかった、強い力を宿した、瞳。まばゆい灯りに照らされたその黒い 真剣な瞳が、不意に、大きく見開かれた。   『機械技師』が! あのひと、さっき村から旅立ったんだ。   雨降りのこと、伝えないと! 




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