桜 / page2


  桜  さら、さら、さら。  枝を揺らして渡る風に促されて、幾つもの淡い白の音符がさらさらと空気に漂う。  楽譜を指で追うように、くるくると舞う花弁へと、少年はそっと手を差し伸べた。  手のひらに舞い降りる頃には、その花びらは既に音の抜け殻となっている。  でも、耳をすませば、心の内に硝子の結晶が零れるような歌声が聴こえてくる。  さら、さら、さら。  聴こえない人には、花のかたちをしたその白い音符の欠片で。  聴こえる人には、春風にざわめく梢の調べを伴奏にして。  桜の樹は、短い春の間、人へとうたを届ける。  そのまま、暫くの間うたを聴いていた少年は、ふと眉をひそめた。  何だか今年の春は、桜達の歌声が妙に小さい気が、する。  少し訝しく思いながら、少年はちいさな庭園を包む桜の梢を見上げる。  桜の樹は繊細で、それでいて花の儚さとはうらはらに、気分屋で我侭な面がある。  だから、樹を取り巻く空気が悪ければ、すぐに花のうたは、乱れる。  加えて桜は影響を受けやすい上に、年を経た大樹は逆に人間に影響を及ぼす力を持つ。  人が桜に悪しき影響を及ぼし、その桜が人に悪しき影響を及ぼす。  その循環が断ち切れないまま廻り続けると、いずれはその桜は妖しと化す。  例えば、その花の美しさで人を死に誘う桜などは、その代表的な例だ。  だから、旧い桜の大樹や群生には、常に世話をする庭師がついていることも多い。  桜を安らかに保ち、桜の本来持つ大切な務めを果たさせるように。  その桜の樹を護る庭師、それを桜護という。 「どうした、元気がないな、何かあったのか?」  桜護の少年は、静かに白い音楽を奏で続ける桜の幹に、訊ねるようにそっと触れた。  ごつごつとした温かい感触から、桜の応える言葉を読み取ろうとする。  だけど、返ってくるのは、くす、くすと、鈴を転がすような笑い声だけ。  何処となく密やかで悪戯っぽい笑みを返すだけで、桜護に言葉を伝えない桜達。  そこには、少年に何かを隠しているような感はあったが、邪気は感じられない。 「全く、うちの桜は相変わらず姉上譲りのいい性格してるよ。」  以前は、このささやかな庭園の桜は、少年の姉が永い間桜護として務めていた。  もともと、少年は強引な姉に引っ張られた、単なる手伝いに過ぎなかったのだ。  それが、数年前姉が嫁いだ際に、なし崩し的に桜護を引き継ぐ羽目になっていた。  少年にしてみれば、何故自分が桜護なんかに、という思いだった。  でも、実際の所、桜達は桜護の弟を気に入っており、それが重要だったのだ。  もっとも姉の影響を受けた桜達は、専ら少年を遊び道具と見てる感もあったが。

←Prev  →Next

ノートブックに戻る