桜
さら、さら、さら。
枝を揺らして渡る風に促されて、幾つもの淡い白の音符がさらさらと空気に漂う。
楽譜を指で追うように、くるくると舞う花弁へと、少年はそっと手を差し伸べた。
手のひらに舞い降りる頃には、その花びらは既に音の抜け殻となっている。
でも、耳をすませば、心の内に硝子の結晶が零れるような歌声が聴こえてくる。
さら、さら、さら。
聴こえない人には、花のかたちをしたその白い音符の欠片で。
聴こえる人には、春風にざわめく梢の調べを伴奏にして。
桜の樹は、短い春の間、人へとうたを届ける。
そのまま、暫くの間うたを聴いていた少年は、ふと眉をひそめた。
何だか今年の春は、桜達の歌声が妙に小さい気が、する。
少し訝しく思いながら、少年はちいさな庭園を包む桜の梢を見上げる。
桜の樹は繊細で、それでいて花の儚さとはうらはらに、気分屋で我侭な面がある。
だから、樹を取り巻く空気が悪ければ、すぐに花のうたは、乱れる。
加えて桜は影響を受けやすい上に、年を経た大樹は逆に人間に影響を及ぼす力を持つ。
人が桜に悪しき影響を及ぼし、その桜が人に悪しき影響を及ぼす。
その循環が断ち切れないまま廻り続けると、いずれはその桜は妖しと化す。
例えば、その花の美しさで人を死に誘う桜などは、その代表的な例だ。
だから、旧い桜の大樹や群生には、常に世話をする庭師がついていることも多い。
桜を安らかに保ち、桜の本来持つ大切な務めを果たさせるように。
その桜の樹を護る庭師、それを桜護という。
「どうした、元気がないな、何かあったのか?」
桜護の少年は、静かに白い音楽を奏で続ける桜の幹に、訊ねるようにそっと触れた。
ごつごつとした温かい感触から、桜の応える言葉を読み取ろうとする。
だけど、返ってくるのは、くす、くすと、鈴を転がすような笑い声だけ。
何処となく密やかで悪戯っぽい笑みを返すだけで、桜護に言葉を伝えない桜達。
そこには、少年に何かを隠しているような感はあったが、邪気は感じられない。
「全く、うちの桜は相変わらず姉上譲りのいい性格してるよ。」
以前は、このささやかな庭園の桜は、少年の姉が永い間桜護として務めていた。
もともと、少年は強引な姉に引っ張られた、単なる手伝いに過ぎなかったのだ。
それが、数年前姉が嫁いだ際に、なし崩し的に桜護を引き継ぐ羽目になっていた。
少年にしてみれば、何故自分が桜護なんかに、という思いだった。
でも、実際の所、桜達は桜護の弟を気に入っており、それが重要だったのだ。
もっとも姉の影響を受けた桜達は、専ら少年を遊び道具と見てる感もあったが。
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