散歩と樹の様子見を兼ねて、桜の径を少し歩く。
はらはらと、風に舞う雪の粒子のように、細やかな花びらが少年の視界を流れてゆく。
強い風が花の音符を多重奏のように散らせると、一瞬景色は桜色の紗幕に覆われる。
その風景に、波のように、強く、弱く、うたい続ける桜の調べが重なる。
普段は淋しいこの庭園の径が、この僅かな季節の間だけに、垣間見せる桜色の幻。
少年も、何だかんだと言いながらも、この径の桜達が見せる幻が好きだった。
そんな桜の季節とあって、このささやかな庭園にもちらほらと見物客が歩いている。
尤も、ただでさえ街外れの上に、宴も禁じられているので、さほど人は多くはない。
でも、逆に枯れ枝を曝して寒さに耐える冬だろうと、訪れる人が絶えることは、ない。
齢を経た桜の樹が持つ務めには、季節に関わらず人を惹き付ける力があるのだ。
特に、ひそやかな想いを抱く人に、とっては。
そんな風にこの庭園の径を訪れる人々には、少年は全く興味がなかった。
ただ桜護として、桜の樹へと良からぬ想いを込めるものがいないか、見守るだけ。
もともと、少年は自分自身も含めて、あまり人間というものに興味がなかった。
だから少年がその娘を見つけたその時も、目を留めたのは娘自身ではなく、服だった。
(あの服、草木染め、だよなぁ……。ひねくれものの桜にしちゃ、珍しい……。)
少しだけ驚いて、少年は心の中で呟く。
その娘は、深みのある濃い桜色をした、草木染めのカーディガンを羽織っていた。
草木染めは、同じ素材でも、環境や触媒、加えて草木自身の気分で色が左右される。
とりわけ気分屋の桜を素材にした染めでは、思い通りの色を出すのは非常に難しい。
けれど、娘の桜染めのカーディガンは、何処か穏やかで優しさのこもった色をしていた。
その娘は、瞳を閉じて、片手で桜の幹にそっと触れていた。
もう片方の手に、ヴァイオリンの黒いケースを抱えたまま。
花を散らす春風に吹かれて、飾り紐で結わいた黒い髪が、さらりと揺れる。
その時は、ただそれだけで、少年はそれ以上気にも留めずに歩き去った。
その後も、娘は度々花に煙るこの径に訪れては、幾つかの桜の樹に触れていた。
瞳を閉じて、まるで桜護の少年が樹と言葉を交わす時のように。
草木染めのカーディガンがなかったら、少年はそのことすら気付かなかっただろう。
でも、桜色の服とヴァイオリンのケースが、人に興味を持たない少年の記憶の中に、
微かな記憶のシグナルを残していた。
何度目かに娘を見付けた時に、樹から手を離して瞳を開いた娘と、ふと目があった。
桜護の少年の視線に気付いた娘は、少し怯えたように肩をすぼめた。
「あ……、こんにちは、お邪魔してます。」
そう小声で呟いて、少年に軽い会釈を残すと、娘はやや足早に立ち去った。
その年の春、娘がこの庭園を訪れたのは、それが最後だった。
加えて、桜護の少年は、娘の言葉に気を取られて、気付かなかった。
桜の梢達が、少年と娘が逢った瞬間に、ひそやかに微かなざわめきを返したことに。
だから、春が終わってからもずっと、少年は気付きもしなかった。
まさかその娘こそが、桜達から春の生気を持ち去った主犯だった、とは。
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