桜 / page4


 散歩と樹の様子見を兼ねて、桜の径を少し歩く。  はらはらと、風に舞う雪の粒子のように、細やかな花びらが少年の視界を流れてゆく。  強い風が花の音符を多重奏のように散らせると、一瞬景色は桜色の紗幕に覆われる。  その風景に、波のように、強く、弱く、うたい続ける桜の調べが重なる。  普段は淋しいこの庭園の径が、この僅かな季節の間だけに、垣間見せる桜色の幻。  少年も、何だかんだと言いながらも、この径の桜達が見せる幻が好きだった。  そんな桜の季節とあって、このささやかな庭園にもちらほらと見物客が歩いている。  尤も、ただでさえ街外れの上に、宴も禁じられているので、さほど人は多くはない。  でも、逆に枯れ枝を曝して寒さに耐える冬だろうと、訪れる人が絶えることは、ない。  齢を経た桜の樹が持つ務めには、季節に関わらず人を惹き付ける力があるのだ。  特に、ひそやかな想いを抱く人に、とっては。  そんな風にこの庭園の径を訪れる人々には、少年は全く興味がなかった。  ただ桜護として、桜の樹へと良からぬ想いを込めるものがいないか、見守るだけ。  もともと、少年は自分自身も含めて、あまり人間というものに興味がなかった。  だから少年がその娘を見つけたその時も、目を留めたのは娘自身ではなく、服だった。 (あの服、草木染め、だよなぁ……。ひねくれものの桜にしちゃ、珍しい……。)  少しだけ驚いて、少年は心の中で呟く。  その娘は、深みのある濃い桜色をした、草木染めのカーディガンを羽織っていた。  草木染めは、同じ素材でも、環境や触媒、加えて草木自身の気分で色が左右される。  とりわけ気分屋の桜を素材にした染めでは、思い通りの色を出すのは非常に難しい。  けれど、娘の桜染めのカーディガンは、何処か穏やかで優しさのこもった色をしていた。  その娘は、瞳を閉じて、片手で桜の幹にそっと触れていた。  もう片方の手に、ヴァイオリンの黒いケースを抱えたまま。  花を散らす春風に吹かれて、飾り紐で結わいた黒い髪が、さらりと揺れる。  その時は、ただそれだけで、少年はそれ以上気にも留めずに歩き去った。  その後も、娘は度々花に煙るこの径に訪れては、幾つかの桜の樹に触れていた。  瞳を閉じて、まるで桜護の少年が樹と言葉を交わす時のように。  草木染めのカーディガンがなかったら、少年はそのことすら気付かなかっただろう。  でも、桜色の服とヴァイオリンのケースが、人に興味を持たない少年の記憶の中に、 微かな記憶のシグナルを残していた。  何度目かに娘を見付けた時に、樹から手を離して瞳を開いた娘と、ふと目があった。  桜護の少年の視線に気付いた娘は、少し怯えたように肩をすぼめた。 「あ……、こんにちは、お邪魔してます。」  そう小声で呟いて、少年に軽い会釈を残すと、娘はやや足早に立ち去った。  その年の春、娘がこの庭園を訪れたのは、それが最後だった。  加えて、桜護の少年は、娘の言葉に気を取られて、気付かなかった。  桜の梢達が、少年と娘が逢った瞬間に、ひそやかに微かなざわめきを返したことに。  だから、春が終わってからもずっと、少年は気付きもしなかった。  まさかその娘こそが、桜達から春の生気を持ち去った主犯だった、とは。   *

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