桜 / page5


 娘は、ぽつぽつと事情を語った。  名を由布子といい、街外れの丘にある小さな神社で桜護を務めていること。  境内の中央には、墨染桜の神木があり、代々由布子の一族が護ってきたこと。  ところが去年まで優雅に咲いていた桜が、この春になって不意に途絶えてしまった。  桜自身が、この庭園の桜達ならばきっと協力してくれる、と教えてくれた。  由布子は、どうしても墨染桜に、うたをうたって欲しかった。  だから、春の間何度も通って、少年の桜達から春の生気を取っていたのだ、と。 「桜達は、特に怒っていなかった。だから、きっと桜も同意の上だったんだろう。」  だったら今更気にすることはない、とでも言うように、少年は竹箒の務めに戻る。  由布子の話に特に興味もなく、話は終わった、といった風情で。  そんな少年の背へと、由布子は、ぽつりと呟きを返した。 「……それでも、桜は、うたうことができなかった。もうこの冬は越えられない。」  少年は、箒の手を止めて、もう一度桜護の娘を振り返る。 「お願いします、貴方の力で、冬が来る前に桜を咲かせては頂けませんか。」 「……断る。」  短い、少年の拒絶の言葉。  その言葉に反応して、周囲の桜の枝が不意にざわめきを返した。  まるで、歳若い娘達が一斉に不平不満の言葉をぶつけるように。  ちょっと待ておまえら、といった風情で、わたわたと手を振って桜を鎮める少年。   「何故そんなことを僕に頼む? まさか姉上が教えたのか?」  少し恨めしそうな表情で、少年は娘をにらむ。  そんな、慌てて桜を押しとどめる少年の様子に、娘は微かに微笑んで、答えた。 「ここの桜達が、貴方なら晩秋でも桜をうたわせることができるって、教えてくれました。」 「春に咲けないほど老いて弱った桜を、こんな寒空にうたわせたら確実に力尽きる。」  未だざわめく桜の枝を見上げてから、少年は諭すように静かに言葉を継ぐ。  そっと並んで、由布子もふわりと手をかざして、桜の枝を見上げる。  瞳を微かに細めて、まるでこの夕暮の淋しい梢に、淡い色を染めて咲く一面の桜の幻 を見ているかのように。  そうして、何処かうたうようなリズムで、古の詩の言葉を紡いだ。   願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ  か細くもやわらかい、ささやかな音楽のように空気に流れた、桜護の娘の声。  一瞬その声に共鳴して、花びらの音符で輪唱しようとするように、桜達がさざめく。  さざめきは、枝にひとひらの花弁も無いことを思い出したように、すぐに引いた。  引き潮のように静まった桜達のさざめきの後に、詩の余韻にも似た沈黙が降りる。  そんな言葉の余韻が、静かに燃え出した燠のように、娘の胸のうちに火を燈す。

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