東京の空の下 / page12

   ***  おじさんの『夕暮堂』で、三人で一ヶ月ほど暮らした。  巨大な街の片隅で、大きな椎の樹に護られてたたずむ写真屋では、穏やかでのんびり とした時間が流れた。  まるで、白く渦を引いて、急いで流れてゆく川のようなこの街の時間の中で、ぽつん と取り残された小さな砂洲のように。  幼稚園の雑木林と椎の大樹に囲まれたこの土地が、住まう人にも影響を与えたのか、 おじさんもまたおおらかで穏やかな人だった。  少々変わってて、のんきすぎる所はあったけど、何より、僕達を特別扱いしたりせず、 ずっと昔からここに住んでいたみたいに、自然に接してくれた。  それが、ふたりきりで不安定になっていた僕達を、随分癒してくれたと、思う。  だから、『夕暮堂』での暮らしは、傷ついた鳥が羽を休めて眠る、大樹の枝ようなも のだったのかも、しれない。  そうして、鳥達はやがて、別々の空へとひとりで羽ばたいてゆく。  ゆうちゃんは、あれから何度も電車に乗りに行った。  始めの頃は、ぐいぐいと僕の袖を引っ張って、一緒に行こうよとさんざん誘って。  だけど、僕はゆうちゃんの誘いを断って、いつもぼんやりと考えごとをしていた。  『夕暮堂』のリビングや、隣の幼稚園の、深い緑と黒の影を落とす雑木林の中で。  おかあさんのこと、ゆうちゃんのこと、失われた時間のこと、かなしみのこと。  もたれた背中に感じる、ごつごつとして乾いた、樹の体温。  お客さんのいない午後の時間と、ほのかに甘いお茶の香り。  少年のように高く澄んだ声を幾重にも重ねて歌う、繰り返し流れるレコードの歌声。  そして、壁にかけられた、この街の空の写真達。  そんな幾つかの記憶のかけらだけが、僕のなかの『夕暮堂』の日々を形作っている。  やがて、ゆうちゃんも何かを諦めたのか、ひとりで電車に乗りに行くようになった。  この街を廻る電車の中で、あの不思議な少年と逢えたのか、僕は尋ねはしなかったし、 ゆうちゃんもまた、取り立てて教えてはくれなかった。  僕達が、それぞれの空にで飛び立つことを決めたのは、ある夕暮れ時のことだった。  はじめは、いつも通りお客さんの来ない午後に、三人でお茶を飲んでいた。  レコードプレーヤから流れていたのは、この場所でいつも聴いていた、あの少年のよ うな澄んだ歌声。そのレコードの、一番最後の曲。  この円盤に納められた音楽は、風の中を駆けてゆく子供達や、ゆるやかな調べの森の 曲、無限に広がる空の歌と、明るい曲が多かったけど、この最後の曲だけは、静かなピ アノの伴奏が、何処か淋しく響いて。   もう帰ろう 日暮れてゆくよ   何度も呼んでみたけど 返事がない   十数えて 目を開いたら   知らない景色の中で 風が前髪を巻き上げた 「この街の空のうた、なんだね。おじさんの写真みたい。」  ゆうちゃんがレコードのジャケットに銀色の文字で書かれた曲目を読んで、嬉しそう に顔をあげる。 「どうして、おじさんは空の写真ばかり撮ってるの?」  リビングの壁に掛けられた、四角い額縁に納められたこの街の空を見ながら、僕はふ と、おじさんに尋ねた。  おじさんの撮ったこの街の空は、たくさんの人が呼吸しているからか、北の町の空よ りも何処かくすんでいて、窮屈に感じる。 「大切なことを、思い出せるように、だよ。」  言葉を探すように、少しマグカップのお茶をすすってから、ゆっくりとおじさんは答 えた。 「人のすごいところはね、忘れたり、思い出したりして、時間を遡ることができること、 だと思うんだ。」




←Prev  →Next

ノートブックに戻る