東京の空の下 / page13

「忘れることが、すごいことなの?」  僕は、何処か納得できなくて、さらに尋ねる。  『夕暮堂』のゆるやかな暮らしの中で、僕の中で少しずつ、想いが育っていたから。  どんなにかなしくても、おかあさんのことを、忘れたくない、と。 「忘れないと、過ぎた時間が雪のように降り積もって、明日に行けなくなっちゃうと、 思う。たぶん、思い出すことは、忘れないとできないんだよ。」   遠いビルの窓が 明り灯してる   人の欲望(ゆめ)が 高く高く 空を突き上げる 「写真は、時間を遡ることはできないけど、その瞬間を切り取ることができる。切り取 った時間だけはずっと忘れない。そう、兄さんは、くうちゃんの親父さんは、言ってた。」  僕は言い返す言葉を見つけられず、リビングにほんのひとときの沈黙が訪れる。  その沈黙の時間を、優しく、切なく流れる、この街の空のうた。  その歌声が、すうと息を継ぐのを待ってから、おじさんは、静かに言った。 「この街の空はね、ずいぶんといろいろな表情を見せてくれる。だから、ずっと憶えて おきたいことがある時に、僕は空の写真を撮るんだ。その空を見て、忘れてしまった大 切な時間へと遡れるように、ね。」  それは、僕の問いに答えるというより、半ば、独り言をつぶやくようだった。  やがて、音楽はまるで夕日が沈んだ後の、橙を薄く残した空のようなピアノの響きを 残して、終わった。  無数の円を描いていたレコードが、緩やかにその回転を止め、深く息をつくように、 すうっと音を刻む針が円盤から離れる。 「ねえ、くうちゃん、ちょっとおもてに散歩しに行かない?」  うたと、僕達の会話をじっと聴いていたゆうちゃんが、ぴょこんと椅子から立ち上が って、僕を誘った。 「わたし、くうちゃんに見せてあげたい空が、あるんだ。」  幼稚園の脇の坂道を下って、線路の方に曲がる。  下り坂の向こうに、尖った家々の屋根にぎざぎざに切り取られた空の青に、ほんのり と橙色が溶けこんでいるのが垣間見える。  最初、僕は電車に乗りに行くのかと思っていたけど、ゆうちゃんは僕の手を引っ張っ て、駅とは別の方向へと歩いて行く。  何処に行くの、と訊いても、着いてからのお楽しみ、と微笑んで、ゆうちゃんは教え てくれない。  繋いだ手のひらに、ふんわりと暖かい、ゆうちゃんの温度。  この街にふたりで来るまでは、当たり前のようにずっと繋いで、感じていた。  それが、『夕暮堂』での暮らしの中で、何時の間にか随分遠いものになってしまった ように思えて、この手を包むささやかな暖かさが、何だかかなしい。




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