東京の空の下 / page15

 『夕暮堂』の暮らしの中で、ずっと過ぎてゆく時間のことを、考えていた。  どんなにかなしかったことでも、どんなに大切な思い出でも、全てを過去に変えて流 れてゆく、時間のこと。  そうして、おかあさんのことも、僕のことも、何時かは忘れられて、消えて行く。  そんなことを考えると、まるで胸を冷たい風が吹きぬけてゆくようで、怖くて。  だから、せめて少しでも忘れないように、おかあさんと暮らした風景を、心に焼き付 けておきたかった。  おじさんが、大切なことを忘れないために、この街の空を写真に切り取るように。 「わたし、帰らないから。」  ゆうちゃんは、背を向けたままで、ぽつりと拒絶の呟きを、返した。 「ゆうちゃんは、忘れちゃってもいいの?」  かん、かん、かん、かん。  警鐘のように、時の巡りを継げる時報のように。  シグナルの燈を、交互に灯して紅色の光を夕方の空気に溶かして。  高く、切ない和音を奏でて、踏切が鳴る。 「ずるいよ、くうちゃん。ひとりで閉じこもって、さみしがって。この街に来てから、 くうちゃんは全然一緒に歩いてくれないし、わたしだって、さみしかったんだから!」  ゆうちゃんは、一度だけくるりと振り向いて、僕に想いをぶつけた。  見開いた黒い瞳から、ぱたぱたとこぼれ落ちる、大粒の涙。  直後、ぱしっと僕の手から、切符の入った茶封筒を取り上げる。 「わたし、絶対帰らない! この街でやりたいことが、できたんだもん!」  黄色と黒の遮断機が緩やかに下りて、扉を閉ざしてゆく。  その扉の隙間をくぐって、ゆうちゃんは夢中で向こうへと、駆けた。  その手の封筒から、ぱらぱらとセピア色の紙片がこぼれた。  線路の枕木の隙間へと、まるで涙のように。 「ゆうちゃん!」  僕の叫び声は、こぼれ落ちた切符のようで、もうゆうちゃんの元へは届かない。 「わたし、大きくなったら、緑色の電車の運転手になるんだから!」  二対の線路を隔てて別れた、ゆうちゃんの叫び声。  その声の響きは、踏切を駆け抜ける電車の轟音に、一瞬のうちにかき消えた。  かたこと、かたこと、かたこと。  かん、かん、かん、かん。  十一の車両が境界点を渡り切るまでの間、電車と踏切の奏でる響きを聴きながら、僕 は、右手にほのかに残ったゆうちゃんのぬくもりを、強く握り締めていた。  ひとりでさみしくても、決して忘れないように。




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