東京の空の下 / page17

 店を出ると、ひんやりと冷たい空気が髪を揺らせた。  秋も終わりに近いこの季節の大気は、日が落ち始めると急激に街の温度を奪ってゆく。  生まれたばかりの夜風が椎の大樹の梢を揺らして、まるで坂道を下ってゆく僕を見送 るように、深緑色の葉がさらさらと音を奏でる。  坂道のむこうに広がる空は、薄い雲に半ば覆われて、ぼんやりとした灰色が風にさら されている。  坂道を下って、幼い日の記憶に任せて、徒然に歩を進める。  紺色の制服を着た小学校の子供達が、陽気に笑いながら僕の脇を駆けてゆく。  未だかなしみを知らぬように、ぱたぱたと弾んで遠ざかってゆくその背中を見送りな がら、僕はふと言葉にならぬ想いを、胸のうちに浮かべる。  あの子達にも、僕達にも、この街に暮らす無数の人達にも、それぞれたったひとつの 時間は流れていって、止まらない。  時折迷いながら路地を選んでゆくと、やがて線路に沿った小道へと出た。  遠く、踏切の調べが、聴こえる。  しばらくして、金網を隔てて緑色の電車が軽快な音を立ててすれ違った。  緑色の電車の円い線路の中で、たったひとつの踏切。  それは十数年の時間を経た今でも、僕の記憶のままにこの街の風景に溶け込んでいた。  あの日にゆうちゃんと僕を隔てた紅いシグナルは、今は静かに眠っている。  時計廻り、反時計廻り、上下の貨物線と、二対の線路を歩いて、その先の空へと踏切 を越えてゆく。  ゆうちゃんが僕に見せたかった、あの絵葉書の空へと。  踏切から先は、緩やかに曲線を描いてゆく線路に沿って、青色の電車と合流する地点 まで丘を上ってゆく。  子供の足では随分遠かっただろうな、と思う距離を歩いて、僕の息が少し切れてきた 、その時だった。  低みをくるりと廻る線路と、交差して伸びる車道の、小さな橋のずっと先に。  写真で見覚えのある、この街の空が、広がっていた。 「ここだぁ……。」  丘と下町の境界を削って、ふたつの電車が視界を横切っている。  ひとつは、カーブを描いてこの橋の下を潜り抜ける、緑色の電車。  もうひとつは、ずっと遠くを真横に通りぬけてゆく、線路。  その線路を、小さくかたことと音を鳴らして、暖かな我が家へと帰ってゆく人達をた くさん乗せた、青い帯を纏った電車が駆け抜けてゆく。  そして、叔父さんの写真と絵葉書にはなかったもうひとつの線路が、風景に加わって いた。  青い電車と平行に空と地上を分けて横切る高架。その高架を、僕の住む北の町へと向 けて、流線型の特急電車が時を切り裂くように轟音をあげて走り抜ける。  淡い、まるで絵の具を何倍にも水滴で薄めたような淡い菫色の空を、細かくちりぢり になった薄雲が風に流れている。  僅かに灰色がかったその雲の底辺を、やわらかな橙色が照らす。  さらさらと、音を聴こえそうな、菫色と、橙色。 「……ゆうちゃんは、この空にかなしみを洗い流して、いたんだ。」




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