東京の空の下 / page2

 時計と反対まわりの緑色の電車に乗って、踏み切りを通りすぎたら次の駅。  それが、叔父さんが幼い僕達に教えた言葉だった。  今考えると、はじめてこの街に来る子供に降りる駅を教える言葉にしては、いささか 乱暴な教え方だったよなぁ、とぼんやり想う。  まがりなりにも大人になってしまった今では、そんな憶え方をしなくとも幾つ目の駅 で降りればよいか判ってしまっている。  だから、あの時みたいに、迷ってしまうことも、不思議な子供に出逢うことも、ない。  電車は時計の二時の針のあたりで、大きな曲線を描いて、それまでずっと寄り添って いた青い電車のレールと別れてゆく。  まもなく、特急電車の終着駅からいつつ目の駅。  僕は僅かな荷物を肩に電車の扉へと近づく。  かん、かん、かん、かん。  耳の奥に、微かな切なさを残して響く踏み切りの調べに、僕はそっと目を閉じた。  叔父さんの写真屋は、駅から少し離れた坂の途中にある。  坂道を挟んだ右側は、昔は幼稚園と小学校の裏庭になっていて、この街には珍しく鬱 蒼とした雑木林が広がっていたのを憶えている。  その風景は、十数年を経た現在となっては既に失く、代わりに薄い黄色の外壁を持つ 四階建てのマンションが、この場所の空を少しだけ切りとりつつ、たたずんでいた。  坂道の左側は幼い日の記憶と変わらないままだった。道端に、いびつな形の枝を空に 向かって伸ばす、古い椎の大樹。その大樹の木陰に護られて、ささやかに掲げられた、 『夕暮堂』の看板。お客の姿の見えない店先には、やはり聴き憶えのある、高い澄んだ 歌声のレコードが聴こえてくる。  変わっていったものと、変わらないままのもの。  この坂道を川のように流れていった時間が刻んだその隔たりが、針のように僕の胸を ちくりと刺した。  昔と変わらない小さなお店の扉を、軽く開く。からん、からんと、喫茶店みたいなノ ッカーの音。 「久しぶり。おかえり、くうちゃん。」  ノッカーの鐘の音を聞きつけて、客のいない店の奥から叔父さんがひょこひょこと現 れる。黒いふちの丸眼鏡に、少し目尻の下がった優しい瞳。なで肩のほっそりとした身 体にグレーのセーター。この人も幼い日の記憶とほとんど変わっていない。  風景が瞬く間に変わってゆく街にあって、変わらずに残っている椎の大樹のように。   「二十四歳の青年捕まえて『くうちゃん』もないでしょう。それにここは僕の家じゃな いでしょうに。」 「僕のなかじゃ、今でもくうちゃんはくうちゃんだよ。」  思わずこぼれた僕の苦笑いも意に介せず、ふんわりとした微笑を見せる叔父さん。 「幼稚園の雑木林、無くなっちゃったんですね……。」  坂道の方を見つめて、そんな叔父さんののんきそうな表情に向けて僕はぽろりと呟き をこぼす。 「うん……、でもね、変わってゆかない風景なんて、ないんだよ。」




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