東京の空の下 / page3

 客の居ないお店のカウンターを抜けて、白い壁紙のこじんまりとしたリビングに入る。  お茶を淹れてくる、と何処か嬉しそうな足取りで台所へ向かった叔父さんを見送りつ つ、僕はリビングの壁に掛けられた幾つかの写真達を、見つめた。  細い褐色の矩形に切り取られた、この街の、空の風景達。一枚の写真には、その場所 の構成する空間と、一瞬の時間が捕らわれて映し出される。だから、写真を撮るという ことは、四次元の事象を二次元の紗幕に切り出す行為、とも言える。  このリビングの紗幕の空達は、叔父さんの手によって矩形に切り出される前に、既に 様々な人造物によっていびつに刻まれている。  天へ向けて、高く高く手を伸ばす、高層ビル。無数に飛来する電波を受けとめる円形 のアンテナ。送電線。家々の屋根。  そんな様々な形に空間を刻まれて、狭い平面に圧縮された空の色は、縮んでより濃い 蒼色になるのではなく、むしろ、拡散するように淡く広がる。  とりわけ、叔父さんが映すこの街の空の色は、まるでさらさらと洗いさらしたように、 淡い水色や、灰色に拡散している。  その薄く流れた空を、溶かされたように風に流れる、微かな雲。  この街の空は、澄んだ蒼色よりも、叔父さんが切り取るような淡い色の方が良いなと、 ぼんやりと思う。 「相変わらず、空を撮るのが好きなんですね。」  ほんのりと湯気をたてたマグカップをふたつ、木彫りのちいさなお盆に乗せて戻って きた叔父さんへと、僕は写真を見つめたままで言葉をかける。 「若手の写真家さんから見て、僕の撮った空はどんなものだね?」  琥珀色のストレート・ティを美味しそうに一口すすって、テーブルについた叔父さん が尋ねる。 「はじめてここに来た時から、この街の空はあまり好きじゃなかったんです。人があま りにも多くて、何処か息苦しくて、空の蒼が霞んでいる気がして……。」  まだ熱い紅茶にふうと息を吹きかけながら、うん、とうなずく叔父さん。そののんき そうな表情に、少し力を抜いて、僕は想ったことをそのまま言葉に変換する。 「……でも、叔父さんが撮った空は、色は淡いけど、何処か優しい気がします。」 「ありがとう。くうちゃんにそう言ってもらえると、ちょっと嬉しい。」  そのまま、穏やかな沈黙の時間がひととき流れて、僕は写真をひとつずつ眺めて歩き ながら、マグカップの紅茶をすうっと飲む。ほんのりと若い香味と、甘み。  レコードプレーヤから、少年のソプラノのように高く澄んだ歌声が流れる。この部屋 で、幼い日もよく聴いていた懐かしい歌声。  そんな音楽に包まれて、くつろいてぼんやりし始めていた僕の意識を、壁の端に掛け られていた空の写真が、吸い寄せるように引き戻した。  遠く続く下町へと望む丘からの、夕暮の風景。  丘と低地の境界線を、ふたつの線路が別れて走ってゆく。  真横へと街を離れて遠ざかる青色の電車と、くるりと曲線を描いて街を巡る緑色の電 車の、ふたつの線路。  他の写真達よりは比較的広い空には、さらさらと音が聴こえそうに流れる、淡い橙色。 「ゆうちゃんの、絵葉書の写真だ。」  僕は、思わずぽつりと呟く。僕の住む北の田舎町に、遠い巨大な街から届く姉の絵葉 書には、いつもこの夕空が添えられていた。  まるで、いつも文字には書けない言葉を、その橙に溶かし込んで託すように。 「その写真、ゆうちゃんにその場所で撮ってくれって頼まれたんだよ。」  夕空の写真に惹きつけられた僕の呟きを聞きつけて、叔父さんが応える。




←Prev  →Next

ノートブックに戻る