介護日誌
2002.10.16
介護(はじまり)
1.はじめに
現在90歳の母親の介護について述べたい。2年くらい前、私は会社勤めをしていた。当時の家族は、私、次女、母親
の3人暮らし。妻はその1年前に亡くなった(随録のページ1に記す)。長女は結婚して家を出ていた。
母は比較的元気で、気力も充実していて私はうらやましいと思うこともあった。
2.介護のはじまり
ある初冬の朝いつも通り、朝食を済ませ出勤の準備をしていた。いつもなら自室から出てくる母が出てこない。時々風邪を
ひいたと言って寝ていることがあるのでその日はそのまま出勤した。夕方も寝たままだった。
翌朝も同じ状態だったので、無理に目覚めさせ、お粥を作り食べさせた。その日は休暇を取り、起床させたり見守っているうち平常に戻った。
三四日後の休日、外出から戻ってみるといつもベッドで寝ているのが、畳の上でパジャマのまま寝ていた。
声をかけても会話にならなかった。「ごはん食べた?」「起きます。起きます」自力でベッドに上がれずよろよろと寝込んでしまった。
まず脳裏にかすめたのが、「痴呆」「介護」「出勤時の昼間どうしょう」「来年1月下旬の出張時どうしよう」。
いつかはこのような時が来ると思っていても準備は出来ないものである。
いつもこのような事態がこないでほしいと願望している。
我が家では介護についても何の知識はなく、その2年くらい前、健在だった妻と次女が会社の健保組合の介護教室に出席した程度の準備であった。
市役所の窓口で居宅介護支援センターを紹介してもらった。
センターから訪問調査に来られた。12月も下旬になっていた。
3.ショートステイ
2000年も終わり、新世紀の始まりである。高齢化社会を先取りしているような我が家では、母親の面倒を見ながら自分の会社勤めをどのよう
にこなしていけばよいのか不安の新年であった。
次女も勤めの間に母親の食事の準備をしてくれていた。ところが母親も「食事がまずい」だの次女のすることにいちいち「小言」を言うので、嫌われ始めた。
自分の現在の状況を受け入れるのではなく、自我を通すきらいがあった。
年始の休みは、なるべく「関わり」を持つようにし、近くの神社などに連れ出すようにした。
私としては、1月下旬の出張を何とか乗り切りたいと思っていた。年始の休み明けから
「ケアプラン」の作成契約、25日から30日までのショート・ステイの契約をして出張による留守も何とかしのげた。
しかしショートステイで受け入れてもらうにも、健康診断が必要でありかかりつけの医院で受診した。
受診の結果は「肺に陰影」、風邪回復後の「肺炎の症状」、「軽度の痴呆症」等々。
ショートステイの入所が出来るか心配であった。本人にしてみれば、なぜこのような検査するのかと言う気があったと思う。
4.要介護度 1
1月下旬に「要介護度1」と認定された。我が家の生活も以前と同じように戻った。介護認定を受けたが、特段のサービスも受けなかった。
3月22日突然事故が起きた。