きいき
1999.10
随録のページ 1
(身の回りで起きたことから生と死を考える。)

1.はじめに
私が「生と死」について考えるようになったのは、昨年の秋妻が癌に冒され余命6ヶ月と宣告されて以来である。 (妻には告知しなかったが、告知については後で述べてみたいと思う。) それまでは、自分自身の加齢とともにいつかそんなに遠くない将来に訪れるであろう位にしか考えていなかった。

今年7月、今まで四半世紀を一緒に生活してきた妻が突然この世からいなくなったことをどのように受け止めてよいのか。 考えたくなくても考えてしまう。
妻の死の2ヶ月前、拙宅の近くの奥さんが突然−他人にとっては本当に突然であるー 亡くなられた。私もお葬式のお手伝いをしたが、このとき、既に妻は最初の宣告「余命6ヶ月」の時期をとうに過ぎて、 二回目の宣告「あと一ヶ月」も半ばを過ぎていた。このような状況下で「死」は私にとって非常に身近な事象であった。

また、妻の死と同じ時期に文芸評論家の江藤淳氏が自裁した。同じように妻を癌で亡くされた。 雑誌などによれば孤独感と病気による自身の活動の形骸化によるらしい。
身近なものからかけ離れたものも含め、私のまわりで起きている「生と死」があまりにも生々しいものであり,考えざるを得ない状況にあった。
いろいろな思いをこんな考えでいいのかと、随録として記してみる気になった。



2.妻の死
昨年10月に膵臓癌に冒されているとわかった。その時の動揺を思い出す度に胸が締め付けられる。
 検査入院している病院の看護婦から夜「医師が家族に話したいことがある。xx日に来てほしい」と電話があった。 事態は推察できた。もしかしたら重大な病気かも、もしかしたら癌かも・・・。私はとりとめもなく落ち着きをなくし気は動転した。 いろんなことが脳裏を去来した。家族にいつ話そうか、本人にはどうしょうか。まだ癌と決まったわけではない。妻は、最近咳をしていたが もしかして、胸の病気なのだろうか。その程度であってほしい。もしそうだとしたら、本人に告げるはずだ。わざわざ家族に話したいというのは、やはり悪質の癌かもしれない。

下の娘は、部屋で勉強中であった。 声をかけたが気づかず応答しなかった。その時以降「とりあえず、私だけの胸にしまっておこう」と考えた。その夜以来,なかなか寝付かれないことが多くなった。

医師は私の心を絶望のどん底に突き落とした。 痛みをコントロールして死を待つしかないというものであった。
今後の治療方法を考える上で(実際は治療する訳ではないのだが・・・) 告知するかしないかの選択をしなければならなかった。考える余裕はなかった。私は告知しない方向を選んだ。無知な私は無知であることの方が幸せだと考えた。

検査入院する前月、私は妻と二人で軽井沢に一泊の旅行した。嘘のような話だが、二人きりの旅行なんて新婚旅行以来であった。その時もおそらく妻の体の中は、癌がむしばみつつあった のであろう。少し背中、腰を痛がっていた。膝痛の持病も持っていたので加齢によるものだろうと気にしなかった。 とにかくその時は、重大な病気のことは知らない訳でそれなりに旅行を楽しんだ。

私が告知しなかったのは、このように「知らないことは幸せである」という発想にある。それと告げることが怖かったのかもしれない。
告知する、しないと二つの選択肢があったときどちらがよいか比較することがある。後に看病する中で比較することが多々あった。 別の機会に記すが、人間は往々にして比較したがるが、比較すべきでないこともある。その事態しかない,選べないということである。

3.江藤淳氏の死
7月21日午後7時頃、江藤淳氏が自裁した。結果としてわかったのであるが、午後7時頃自宅の風呂場で亡くなったそうだ。
このニュースを新聞で知ったとき、ことさら深い感慨もなく、私の妻が病で亡くなったのに、自分で死を選ぶ人もいるのだとその程度のことを思ったことを記憶している。
後で雑誌などにより死に至る経緯を知り、ある感慨を持ち共感を覚えることになった。
7月21日といえば妻の通夜の式を行った日であり、午後7時は式を終えた時間である。
雑誌の記述によれば、文芸雑誌の編集長がこの日、鎌倉の江藤邸に原稿を取り に行っている。
午後4時頃、雷鳴が轟き大雨となった。この雷がそれを好ましく思わない江藤氏を死への決断に誘ったのではとも言われている。
私はこの雷鳴轟く突然の大雨に見舞われたとき、妻の遺体を自宅から通夜の式場に運ぶべく出棺していたのである。私はこの雷雨は「家にいたい。式なんかに行きたくない」という妻が叫んでいるのではないかと思った。

同じ雷雨に接し江藤氏の心が揺れていたと思うとある種の感慨が押し寄せてくる。
江藤氏の死が自分に身近なものに思えてくるのである。更に江藤氏の自裁の要因のひとつが愛妻を癌で亡くされ、「看取り後、燃えつきた・・・」と週刊誌は見出しをつけている。
勿論、江藤氏にとって私など何の関係もない人間であるが・・・。

その後、私は文芸誌に記載されている江藤氏の追悼特集「妻と私」などを読み氏の考えであろうと思われることに共感を覚える。 自分の生に関する裁決は「人にゆだねず自分できめる」[ 自分の一生の幕引きは自分で行う。
私も妻の看病中いつも思ったことは生きているということは、命とは何であろうかと乏しい知恵をしぼって考えることの毎日であった。
夫婦の、親子の絆ってなんだろうと思ったものである。 達した結論が自分のことは、出来ないかもしれないが自分で処遇するしかない。最終的には、「個」しかない。悲しい考えかもしれないが・・・。

別の機会に述べたいが、どう死すべきか今のうちから考えておくべきと思った。 参考になる本を見つけることができた。カール・ベッカー、坂田昌彦氏の共著による「死が教えてくれるもの」という本である。
4.生きかた
結論から記そう。 死を考えることがすなわち生を考えることであり、いかに自分の人生を生きるべきかを考えることである。
別項で述べた本「死が教えてくれるもの」のなかでアーネスト・ベッカーという哲学者の「死の拒否」という本を引用している。 ”現代人の多忙は、お金、買い物、名声などの追求により「自分も遠からず死ぬ者である」という認知からの逃避である。ときどきでも いのちの意味をじっくり考える余裕を持てば、死は人生にピリオドを打ち裁いてくれるのだということが見えてくるはず。”さらに”臨死体験者や末期患者が実証している 「自分の価値観の反省」をそれまで待たなくても人生の価値基準を見直すべき。それは人を外見や肩書きで評価せず、ひとを見る真の目を育てたい・・・” といっている。

人生の価値基準を変えることにより、どのように生きていくいくべきか自ずと答えが出てくる。江藤淳氏の死に方<すなわち、生き方>と何か共通するのではないかと感じられる。


髄録