きいき
2007. 9. 26
随録(彼岸)
川を渡って彼の岸へ

九月も下旬になると、セミの鳴き声が少なくなった。彼岸の入りには一日早い19日、お墓参りに出かけた。
お墓参りの人が多くなるのを想定してお寺の境内では、駐車禁止場所を定めたりしていた。
いつもの月より墓参する人も多い、私と同じように混雑を避けたいためだろう。
墓石に前回供えた花の枯れ茎がこびりついている。ひと通り掃除をし、スーパーでお彼岸用に売っていたオハギを供え満足感を得ながら帰った。
帰宅後、ひと仕事終えたという 気分で座椅子に横たわり新聞を広げる。少しずつ腰が前にずれていき、いつの間にか前に掲げた新聞が重く感じられてきた。


お盆の送りの日、家内が「こんどいらっしゃい」と言ってたが、この日彼郷(ひのさと)から迎えの乗り物が来た。
透明のプラスティックのようなもので出来ていて形はバスタブのようなものだ、体をすっぽり中に身を沈めた。
上からカバーが閉まる。内部には何も無いのだが微かに香が漂っている、暗い闇を走っているようだった。しばらくすると眠くなってきた。
どのくらい眠っていただろうか。
一瞬だったような気もするが、目が覚めてみると上部のカバーが開く。
乗り物から下りてあたりを見まわすとドームのようなところだった。
後ろを振り向くと懐かしい顔が見えた。

家内のKの顔であった、8年振りである。
私は「元気そうだね」と言った。
「あなたもすっかり歳をとったね。頭は真っ白になったわ」
そこで見たKは平成10年、こちらに来る1年前の姿だった。
その頃は体も元気だった。少なくとも表面上は。
「ほんと、久しぶりだ。いろいろ話したいことがあるが、何から・・・」そこまで言って私は急にこみ上げてくるものがあった。
Kの話によればここは此岸から来た者が落ち着くまで、しばらくここにとどまる所だそうだ。
およそ一ヶ月近く経ち、それぞれの住まいに移動する。
いわゆる往生際の悪いものもここにとどまり、また此岸に送り返されることもあるという。

私が見る限り、人影も見えない。
「ふーん、でキミの住まいはどこなの?」
「あちらの方」
「ばあちゃんもいるの?」
「いるよ。相変わらずですよ」
「あなたは体は大丈夫?」
「あちこち、歳相応なのかおかしなとこが少しづつ出てきたよ」
と言って私は体で異常が表面化しているところを上から順に「ここ、ここ、ここ・・・」と指差す。
「ちゃんと診てもらいなさいよ」言うことは前と変わらない。

「YやRも元気だよ。キミが抱き上げたことがあるNちゃんも小学2年生だよ。
それにRの子供も3歳になったし・・キミが気がかりに思う子供たちもちゃんとやってるよ」
「・・・・。そう、こちらからも見えてるのよ」
「エッ、わかるのかい」
「こちらからは、あなたたちのやっていること全部、お見通しヨ」
「じゃ、お義父さんのことも?」
「そう、よく頑張ってるね。あなたも見習って!」

「いろんなこと話したいが、時間はあるの?」といって私は腕時計を見た。
こちらに着いたときにおかしくなったのかもしれない。すべてゼロを表示していた。あれっと言いながらスタートボタンを押したが動こうとしなかった。
「ここは 時計はないのよ。だから、今日も、明日もないの。わたしの時計は平成11年7月19日の朝6時で止ってしまった」
「じゃ、時間を気にせず話してもいいんだね」

「ボクはキミに謝らなければいけない。ある時からキミを騙し続けていたんだから・・・」
「分かってるわよ。」
「エッ、じゃ自分の病気のこと知っていたの?」
「自分の体がだんだんおかしくなっていくから・・・、でもあなたたちが心配するだろうと思って」
「今だから言うけど、検査入院しているときキミが『T先生がご主人にも話したいことがある』って言ったよね。これを聞いたとき、もしやと思った。」
「・・・・」
「そして平成10年10月17日、お呼びがあった。会社から真っ直ぐ病院に向い、キミと一緒に先生の話を聞いた。そのあとキミが病室にかえった後、先生から『あと半年のいのち』と告知された。」
「・・・・」
「さらにキミに告知するかしないか30分くらいで決めてくれと言われた。それによって治療の方法が変わるんだそうだ。」
「・・・・」
「気が動転したボクは落ち着きをなくし、病院のダイニングルームを歩きまわった、ほんと世の中が真っ暗になった。」
「この時は奈落の底に突き落とされ、見放されてしまったような気がした。」
「そして、告知しない方を選んだ。」
「きっと、キミの落ち込む姿を見たくなかったからだろう・・・」

「永六輔さん、もう古希を過ぎていると思うが、奥さんを亡くして『悲しいことや寂しいことは我慢できるが、空しいことは我慢できない』という意味のことを本に書いている。」
「いまなんでもひとりでしているだろ。ほんとに空しいネ。」
「・・・・」
「何ごとも相談することもできず、ひとりで考え、ひとりでやって、ひとりで”こんなものか”と納得するこんな空しいことないよ」
「・・・・」
「もう、いいや。としょっちゅう思う。ほんとにもう面倒だなぁと思う。」
「たぶん歳をとると、みんなこんな気持ちになるのかな?」
「キミがいない生活ももう8年にもなる。信じられないけどそれが日常の生活になってしまった。あの日までずっと、何十年間もいっしょに生活していたのに・・・」

しばらく黙って聞いていたKは「でもね、自由気ままに暮らしていられるから幸せだと思わなくっちゃ。あまりくよくよしたり、いろんなこと考えたりしないで、今を楽しみなさいよ」
「そう思うんだけど、何かしようと思っても、いつも結局ひとりだろ。」

「これからどうするの?」
「最近思うことは、お義父さんのような生き方がいいかなと・・・。」
「もうあれこれしたいと思わないね。欲を言えば限がないし、ボクよりずーっと年上の人でも海外や国内旅行にいく人が大勢いるが、そういう意欲はなくなった。『色即是空』だよ。」
と言いながら、日頃の思いを一気にしゃべってしまった。
なるべくひとに迷惑をかけないことを願っている。
そんな中でもコロリ、ポックリというのがいいな。苦しまなくていいから。
そうだろう、キミだってずいぶん苦しかったと思うよ。
どうしても人の世話にならなければならないのは骨の始末だよ。もっとも骨がなければいいだろうけど。
自分ひとりで生活できなくなったら、老人ホームに入らねばならないだろう。
そこで世話をする人にいろいろやって貰うのってイヤだね。
ばあちゃんのとき、見てて思ったよ、あれは人間の尊厳なんてないような気がした。

Kは黙って聞いている。 「そういえば向うにいるときはあまり、こんな話はしなかったね」
当時は言わなくてもわかってくれると思っていた。

「今日は、日ごろ思っていることを聞いてくれてありがとう」
「そろそろ、帰ろうかな、また来られるのかな」


目が覚めたとき、時計は正午少し前をさしていた。
ちょっとの時間、居眠りをしたようだったが、長い間どこかを旅したようでもあった。


随録