ビルフランは、ロベール・レスコーについてジュリアンから聞いた話をすべて信じたわけではなかった。それでも、改めて彼と話をしてみようと思ったところに、彼自身の変化があったといえる。
しかし、すぐに彼のもとへ行くことはできなかった。翌日はセバスチャンと入れ替わるようにして、カレーへ商品を届け、そのときにアラン・ブルトヌーと打ち合わせをすることになっていたからである。
「麻の質が、余り良くないようだな」
ビルフランは、セバスチャンが受け取ってきた麻の苧を見て、そういった。
「どうやら、今年はインドの天候が不順で、どこも余りよくないと言っておりました」
「だがそれでよいと言うわけにはいかん。まあ、その辺りのことも今日、話し合ってくる」
セバスチャンは、個人的にアランから言われたことも、ビルフランに告げたほうが良いか迷ったが、自分としてはその気はないわけだし、敢えてそのことを言うのも変な気がして、結局、ビルフランには告げなかった。
「後のことは、リュックに伝えてある。それでは行ってくる」
そういい残して、ビルフランはマロクールを出発した。
ビルフランを見送ったセバスチャンが、倉庫脇の小さな事務所へ入ると、リュック・アヴリーンが机に向かって、なにやら仕事をしていた。
「おはようございます、アヴリーンさん」
「ああ、おはようセバスチャン」
リュックはセバスチャンが来たことに気付くと、ビルフランから言われていた、今日の仕事の内容を簡単に彼に説明した。
一通り話し終えたとき、リュックはセバスチャンのほうを見て、にやりと笑った。
「セバスチャン。昨日、社長がタランベール様の家に行ったのは知っているだろう」
「はい。存じていますが」
「どうやら、いよいよ来年には工場を持つことができそうだよ。昨日帰ってきたとき、そのような話をしていた」
「ああ、それは本当ですか」
それは、ビルフランが抱きつづけていた夢であり、それゆえにセバスチャンも喜んだ。
「まず間違いない。来年にはピキニに汽車も通るし、時期的にも文句なしだ。いよいよ本格的に忙しくなるぞ」
リュックも嬉しそうにそう言うと、再び自分の仕事を始めた。セバスチャンも自分がビルフランの工場で働く日を夢見て、自分の仕事をするために事務所を後にした。
ビルフランはカレーで商品の受け渡しを終えると、その足でアランの事務所へと向かった。
「こんにちは、義兄さん」
「やあ、ビルフラン、待っていたよ」
相変わらずアランは、機嫌よくビルフランを迎えた。
全く、このアラン・ブルトヌーという人物は、何が嬉しいのか、ビルフランと会うときは、いつも機嫌がよかった。
「先日頂いた麻ですが、あまり質が良くありませんでしたね」
「ああ、今年はインド産はあまりよくないな。だが、ぜんぜん使えないわけじゃないだろう」
「それはそうですが、質が落ちると、値段を下げないと売れません」
「まあそうだろうな」
当然だと言う顔で、アランはビルフランの話を聞いていた。
「ですから義兄さん、今までと同じ質の麻を卸していただけないのなら、卸値を下げてもらいたいですね」
ビルフランはすぐに値引きの話を持ち出した。こういう話は、下手に出るとかえって付けこまれるからである。
しかし、アランはビルフランの話にも、別に動じる気配はなかった。
「なるほどビルフラン、君の言う話も最もだ。だが、君は大切なことを忘れているよ」
「何をですか」
「つまりだ、麻の値段は、単に麻の質だけの問題じゃないと言うことだよ。インドからここまで運ぶ、輸送料も込みの価格だ。残念ながら、この輸送料と言う奴は、麻の質には全く関係ない。つまり、君が考えるように、簡単に値段を下げるわけにはいかないな」
確かにそれは正論であるかもしれないが、取り引きの上で一番問題になるのは、物の質であろう。ビルフランはそう言おうとしたが、その前にアランはさらに言葉を続けた。
「まあ、それでも質が落ちるものを同じ値段で、というのは確かにこちらに都合が良すぎるか」
そう言って、アランは多少の値引きに応じる構えを見せた。
たっぷり一時間の交渉の結果、結局ビルフランが折れる形で決着した。
いつもアランのペースに乗せられるので、今回こそ自分の意見を通そうと意気込んできたのだが、散々粘った挙句に、わずかばかりの値下げで妥協することになったため、ビルフランは気落ちした。
一方のアランは、あいかわらず機嫌がよく、その様子が余計にビルフランの癪に障った。
「さて、これからどうするんだい。うちに来て、パトリシアに会って行くだろう。そうそう、言い忘れていた。実はこの間、セバスチャンに、私のところで働かないか、声をかけたんだ。それとも、セバスチャンから何か聞いているかい」
初耳である。ビルフランは驚き、その感情をそのまま顔に出した。
「そうか、聞いていないようだな。セバスチャンは君がいいといえば、私のところで働いてもよいといってくれたんだが、やはりお前とは長い付き合いだから、言い出しにくかったのかな」
「セバスチャンが…義兄さんのところで？」
「お前のところで、新しく人を雇っただろう。ほら、アヴリーンとかいう男。君がその男を信頼して、そいつとばかり相談するだろう。それで少し疎外感を感じているんじゃないかな。いや、これはセバスチャンが自分で言ったわけではないがね」
確かに思い返してみると、最近はセバスチャンよりも、アヴリーンと仕事をする時間のほうが圧倒的に長い。しかしビルフランが見たところ、セバスチャンがそのことで不満を感じているようには思えなかった。
「私には、セバスチャンがそう感じているようには思えませんが」
「まあ、表向きはね。ただ昔から、そういうことは良くある話だし、セバスチャンも自分ではあまりそういう気持ちを表に出さない男だろう。私のほうから少し声をかけてみたんだ」
「それで、義兄さんのところで働きたいと？」
「まあ、そこまではっきりとは言わなかったがな。君の許可があれば、ということだった。ちょうどうちでも最近、人が何人か抜けてね。人手が足りなかったんだ。彼に来てもらえると助かるんだよ。君のところは、彼一人抜けたところで、大きな問題はないだろう」
問題がないわけではない。しかし確かに、セバスチャンがいましている仕事は、他の者でもできないこともなかった。
「即答はしかねます。次にこちらへ来るときまでに、返事を考えておきます」
「いい返事を期待しているよ。私にも、セバスチャンにとってもね」
ビルフランがマロクールへ戻ったとき、セバスチャンは仕事で近隣の村へ行っており、留守だった。
「二日ほどは戻りませんね」
リュックがビルフランにそう答えた。
「そうか…。ところでリュック、最近、セバスチャンの様子で何か気付いたことがあるかい」
「セバスチャンのですか？別にこれといってありませんが、なにかありましたか」
「いや、彼が仕事を変えたがっている、という噂を聞いたもので、そんな素振りがあっただろうかと思ったんだ」
それを聞いて、リュックは暫く考え込んだ。
「そうですね…。私が見る限りでは、あなたが工場を持てるだろうと言う話にも喜んでいたようですし、辞めようとか、そういう風には見えませんでした。ただ…」
「ただ、なんだ？」
「彼は自分の感情を積極的に面に表すことはしません。動揺したり、不満を感じたりしても、巧みにそれを隠して、何事もないように仕事ができる男です。こういうタイプは秘書や執事として有能ですが、本人の意思を傍目から確認するのは難しいと思います」
リュックは冷静にセバスチャンの性格を分析した。それは何の悪気もなかったが、ビルフランの考えに、微妙に影響した。
「そうか…。まあ、それはそれでいい。今日はこれから、レスコー家に行ってくる。後のことはよろしく頼む」
「そうですか、判りました」
結局その日、レスコー家へ行く際に、ビルフランはオーレリーを連れては行かなかった。彼女の体調が思わしくなかったことと、なんとなく、他人を交えずにロベールと二人で話したほうが良いように思われたからである。
ビルフランが一人でロベール・レスコーの屋敷を訪れると、彼は非常に驚いた顔をした。
「ビルフランじゃないか。今日はどうしたんだい、私のところへ来るなんて」
「突然すみません。お話したいことがありましたので」
ビルフランがそう言うと、ロベールは少し不審そうな顔をしながらも、彼を中に招き入れた。
「そうかい。まあ、立ち話もなんだ、入りなさい」
応接室に通されると、ロベールは自ら彼にお茶を入れた。
椅子に座り、向かい合いながら、しばらく無言の時が流れた。
ロベールが言葉を出そうとしたとき、意を決したように、ビルフランが話を切り出した。
「ロベールさん、あの…ジュリアン様に私のことを話してくださったのは、なぜですか」
その質問を聞いて、ロベールは再び驚いた。てっきり彼が尋ねてきたのは、工場の件だと思っていたからである。
「それは…ジュリアンさんに聞いたのか」
「はい、あの方があなたのことを庇われるので、問い詰めました」
「そうか、話してしまったか…。それで彼は、他に何か言っていたかい」
あきらめた様子でロベールが尋ねると、ビルフランはジュリアンが自分に話してくれたことを細大漏らさずに話した。
「そうか、ジュリアンさんはそう言っていたか」
「それでロベールさん、私はあなたの本心を聞きたいと思ったんです。本当にジュリアン様の言われるとおりなのですか」
「君は、私がそうだといったなら、信じるかね」
ビルフランは返答に詰まった。確かに信じたい気持ちもあるが、まだ信じられない気持ちのほうが強かった。
「私は…よくわかりません」
再び二人の間に沈黙があった。
やがてロベールが口を開いた。
「君が私を信じられないと言う気持ちは、私もわからないでもない。だから、これから話すことを信じるかどうかは、君自身で判断してもらいたい」
そう前置きしてから、ロベールは昔話を始めた。
君の母上は、若い頃からそれは美しかった。この辺りの年頃の若者で、彼女に恋をしなかったものは一人もいなかったといっても大げさではないほどだ。そしてもちろん、わたしと君の父親も、その一人だったわけだ。
そして最終的に、彼女を巡る争いは、わたしと彼の競争となった。わたしは彼に勝つ自信があった。なんと言っても、私は彼女の父親から信頼されていたからな。だが君も知っているとおり、私は負けた。
彼女がなぜ君の父親を選んだか、正確なところは私にはわからない。だが当時の彼は確かに美男子で明るく、また気前も良かった。私はといえば、自分を人に売り込むのは苦手だったし、話もさほどうまくはなかったからな。気が付いたときには、君の父親は、すっかり彼女の心をつかんでしまっていたんだ。
私はがっかりしたよ。だがそのときはもう遅かった。彼女は彼と婚約し、私は引き下がらざるを得なかった。
君のお祖父さんのエドモン老が生きているうちは、それでもまだ良かった。
私は彼女を巡る戦いを除けば、彼とは親しい友人であったし、よく彼のところへも遊びに行ったんだ。実を言えば、その頃から彼は私に時々、金を借りに来ていた。それで私も多少の金を彼に貸したが、それはあくまでも彼が返せるであろう額だった。これは誓ってもいいが、彼が財産を失うほどの金を、私は貸しはしなかったし、彼が賭博に手を出していることを知ってからは、一切貸すのを止めたんだ。
だがエドモン老が亡くなられると、彼を止めるものは何もなくなった。君も聞いて知っているだろうが、彼は酒と賭博に溺れてた挙句に、酒場の女と逐電してしまった。そしてそのとき、彼の残した借金の額が明らかになった。彼は私が金を貸さなくなった後も、あちこちから、それもかなりたちの悪い連中からも、金を借りていたんだ。
そこまで話したとき、ビルフランは思わず声をあげた。
「ちょっと待ってください！借金はすべて、あなたが受け取ったのではないのですか！父は、あなたからだけ金を借りたのではなかったのですか」
「違ったんだよ、ビルフラン。君の父親は、あちこちから借りていたんだ。もし放っておいたなら、何人もの借金取りが、君の家を訪れたことだろう」
「しかし、現にあなたしか…」
「そう、私がそれらの借金取りと交渉して、私が代表して取り立てを行うという約束を取り付けたんだ」
「そんなこと…」
ビルフランは、言葉が続かなかった。
「先ほども言ったが、信じるか信じないかは君の自由だ。もしこれ以上、私の話を聞きたくないのならそれでも構わないが、どうする？」
「…続けてください」
とにかく、今はロベールの話すことをすべて聞かなければならない、そう考えたビルフランは、覚悟を決めて、ロベールに話を続けるよう、促した。