第十一章 困惑と決意

 ロベール・レスコーは、自分がビルフランに嫌われていることも、その理由も知っていた。そして知った上で、それは仕方のないことだと考えていた。すべては彼の知らないところで起きたことである。自分の弁護のためにそのことを知らせて、彼を苦しめる必要はないと考えたのである。
 しかし今は、彼が事実を知りたがっている。今度はすべてを話さなければならない、そうロベールは考えた。
 ロベールはビルフランに促され、さらに話を進めた。


 私は、君の母親が借金取りに追われるのを見たくはなかった。だからそれら借金取りとも交渉した。しかし私にも、君の父親が残した借金を肩代わりできるほどの金はない。
 そこで私は、事情のすべてを彼女に話した。つまり、彼が莫大な借金を残しており、借金取りたちがその返却を求めていること、とりあえず私が交渉の窓口に立っていること、だが私も、それだけの借金を払うことはできないし、支払いが滞るなら、彼らが直接来ることもありえる、ということをだ。
 彼女も、それほどの多額の借金があったとは知らなかったそうだ。そこで私は、だらだらと返済を続けるより、一気に返済をして、彼らとの関係を絶ったほうがよいのではないかと提案し、彼女もそれを承諾したんだよ。
 私はそれから君たち家族に残された資産を計算し、できるだけ高い値段で買い取る相手を探し、すべての借金を返済できるようにしたんだ。おかげでなんとか、君たちが今、住んでいるマロクールの家だけは売らずにすんだ。
 借金取りどもにしてみれば、長く貸して利息を増やしてくれたほうが嬉しいからね。一度に返すと聞いて渋ったが、私は有無を言わさず彼らに金を渡して追い返したんだ。
 だが結果的には、彼女はほとんどの財産を失い、一人で三人の子供を育てる羽目になってしまった。私は援助を申し出た。−実を言えば、彼女に再婚の気はないかも聞いてみた。だが、どちらも私は断られたよ。
 しかし今考えるなら、それも当然だ。彼女の夫は行方不明とはいえ、まだどこかで生きているのかもしれないし、それにもしも私の申し出を彼女が受けたなら、世間は彼女が金のために私に嫁いだと言っただろう。彼女としても、それには耐えられないと思ったのではないだろうか。
 とにかく、わたしは援助を申し出たことで、かえって彼女を遠ざける結果になってしまったんだ。私ももう少し時期を見て申し出ればよかったと後悔したが、遅かったよ。お互いに気まずくなって、あまり会うこともなくなってしまった。
 そしてそのままの関係で、彼女は亡くなってしまったんだ。


 ロベールはそこまで話すと、手にもっていたお茶を飲み干した。それから改めてビルフランに話をした。
「結局、私は彼女に対して、自分の望むところを行えなかったというわけだ。だからこそ、彼女の息子である君に対しては、できるだけの応援をしてやりたいと思っている。君が信じる信じないは別として、これは私の本心だ」
 ビルフランはその言葉を聞いて、思わずロベールから目をそらし、下を向いてしまった。
 暫くその格好のまま固まっていたが、やっと振り絞るように話し出した。
「…今日はありがとうございました…。少し…二、三日、時間をください…。また、改めて伺いたいと思います…。考えを…頭の中を整理したいと思いますので…」
 やっとのことでビルフランはそれだけを言った。
 ロベールも、無理に彼を引きとめはしなかった。混乱するのも当然であろう。工場の件は、いつでも話はできる。
 ビルフランは簡単に礼をすると、放心状態でロベールの家を出た。


 すでに日は暮れており、ビルフランは夜道を一人で歩いていた。そして、歩きながら、今日聞いた話を考えていた。いや、考えているつもりであったが、実際にはほとんど考えることができずにいた。
 少し前までは、仇のように思っていた相手である。
 その相手が、実は影で自分をジュリアンに推薦してくれた、というだけであったなら、まださほどの衝撃を受けることもなかっただろう。
 問題はロベールを憎むこと自体が、全く見当違いであり、むしろ彼は最初から、自分たち家族の恩人であった、という事実である。
「そんなのはでたらめだ」
 話を聞きながら、何度、その言葉が出そうになったか、判らなかった。しかし彼が事実を話している、ということを、彼の理性が訴えつづけ、どうにか自分を抑えたのである。
 しかし彼の前では抑えることができたとはいえ、長年抱きつづけていた感情を、そう簡単に変えるのは難しい。ビルフランの中には、まだロベールに対するわだかまりがあった。
 そして同時に、感情的にはまだロベールを許せていない自分に対して、彼自身の理性がそれを咎め、ビルフランはますます苛立った。


 ほとんど夢遊病者のような状態でビルフランがふらふらと歩いていると、突然、後ろから声をかけられた。
 ビルフランが振り向くと、そこにはセバスチャンがいた。
「ビルフラン様、どういたしましたか」
「セバスチャンか。こんな時間に何をしている」
「仕事が遅くなったのす。今、やっと帰るところです」
 普段のビルフランなら、彼の労をねぎらったであろう。しかしこのときのビルフランは、自分の行ってきたことに対する疑問から、完全に思考が混乱していた。
 セバスチャンに声をかけられたときから、彼の頭の中にはアランの言葉が鳴り響いていた。そして、仕事が遅くなったと言う彼の言葉が、何か自分に対する非難のように聞こえたのである。
「遅くまでかかるような仕事をやらせて悪かったな」
「は?いえ、そんなことは…」
 いつもよりきついビルフランの口調に、セバスチャンも彼が何かのことで苛立っていることを察した。
 二人は暫く黙ったまま歩いていた。やがてセバスチャンが自分の家へ曲がる路地が近づいて来たとき、再びビルフランが口を開いた。
「私のような者よりも、義兄さんの方がいいのか?」
 突然の問いに、セバスチャンは何のことか、理解できなかった。
 そして彼が戸惑って返事が遅れたのを、ビルフランは是正の意思表示と解釈した。
「話は聞いている。セバスチャン、義兄さんのところで働きたいのなら、そうするがいい。私のように、人の心もわからない男より、よほどいいだろう」
 セバスチャンはやっと、先日アランから仕事に誘われたことを思い出した。しかし彼自身は、その話は断ったつもりだった。なぜ自分が彼のところに行くことになっているのか、判らなかった。 「私は別に、アラン様のところへ行こうとは思っておりませんが」
「まだ私についてきてくれるというのか。だが、無理することはない。いままで私についてきてくれただけで十分だ」
 ビルフラン様はアラン様から、何か事実と違うことを教えられて、それを間に受けておられる−セバスチャンはそう考えた。それが事実ではないことを言おうと思ったが、もしも自分がそういうなら、二人の関係を悪くするのではないか、とも考えた。
 たぶん、何かのことで苛立って、弱気になっておられるのだろう。明日になれば、もう少し違うことを言われるかもしれない。
 そう考えたセバスチャンは、それ以上は弁解をせずに、ビルフランに別れを告げて家路についた。


 ビルフランが家に着くと、オーレリーが心配顔で出迎えた。
「ずいぶん遅かったんですね」
「ああ」
 普段以上の口数の少なさに、オーレリーにも何か夫が悩みを抱えていることがわかった。
「夕食はどうされますか」
「あまり食欲がない。スープだけもらうよ」
 オーレリーは彼と自分の分のスープを用意し、テーブルに並べた。
 しかしビルフランは、スプーンを手にしたまま、なかなか食べようとはしなかった。
 いつもはオーレリーも、仕事のことをビルフランに聞くことはなかった。しかし今日の彼の様子がいつもと違うため、思い切ってビルフランに尋ねた。
「何か悩み事があるのですか」
「悩み…というよりも、自分の愚かしさに呆れているんだよ。私はロベールを目の敵にしていた。だがロベールは最初から私たち家族のために動いてくれていたんだ」
 そう言うと、ビルフランはロベールから聞いた話を簡単に話して聞かせた。
「こんな人を見る目もない馬鹿な男が、人を雇って大きな仕事をしようなんて、それこそ笑いものだ」
 話し終えると、最後にそう、付け加え、そのまま頭を抱えこんだ。
「まあ」
 オーレリーは驚いた。ロベールのこともそうだが、それよりもビルフランがこれほど弱気になっている事にである。
「だれでも間違えたり、勘違いすることはありますわ。そんなに落ち込まれなくてもよいのではないでしょうか」
「他の者ならそれでもいいかもしれん。だが私は、自分では人を見る眼があると思っていたのだ。だがそれも私の思い過ごしだったと言うことだ」
 ビルフランはすっかり自信を失った様子で、そう答えた。
 その様子を見ると、オーレリーはビルフランの横に移動して、肩を抱いて励ました。
「なかったのなら、また学びなおせばよろしいでしょう。学ぶことは幾つになってもできますよ。それにあなたはまだ30前ではありませんか」
「学びなおすか…。確かにお前の言うとおりだ。だが今の私には、その気力が沸かないのだ。自分のやってきたことが全て無駄だったように思えてな…」
「無駄なことなんてありませんよ。人は失敗からも学ぶことができるのですし。それにあなたはこれまで、その仕事で多くの人の生活を支えてきたのでしょう。現に今だって、私を養っているではありませんか。そして、これから産まれてくる子供の生活も」
 オーレリーの言葉の意味を把握できず、最初は生返事をしたビルフランだったが、次の瞬間、椅子を倒して立ち上がり、オーレリーの肩をつかんだ。
「生まれてくる子供って、まさかおまえ…」
 ビルフランの叫びに、オーレリーは少し顔を赤らめて答えた。
「今日、お医者様に行ってきたのよ。そうしたら、妊娠しているって」
 その言葉を聞いたとき、それまで沈んでいたビルフランの顔色が、見る間に明るくなった。
「そうか、そうか!子供が!」
 文字通りビルフランは小躍りした。オーレリーを労わるように抱え挙げて、くるくると回った。
「そうよ。来年にもあなたと私の子供が生まれるわ。その子のためにも、あなたには元気を出してもらいたいのよ」
「そうだな。一度や二度の失敗で、子供に迷惑をかけるわけにはいかん。オーレリー、ありがとう。やはりお前は私にとって欠かせない、最愛の妻だ」
 ビルフランはオーレリーを床に降ろすと、彼女をしっかりと抱きしめた。


 次の日の朝早く、セバスチャンが会社へ出てくると、そこにはすでにビルフランがいた。
「おはよう、セバスチャン」
「おはようございます、ビルフラン様」
 昨日とは打って変わったビルフランの明るい笑顔に、セバスチャンは安堵した。
「セバスチャン、昨日の夜に話した件だが、もう一度確認したいと思ったのだ。君は、義兄のところで働きたいと思っているのかね」
 その質問は、まさにセバスチャンが答えたいと思っていたものであった。
「私は一度もビルフラン様の元を去りたいと思ったことはございません。実は先日、私もアラン様から、自分のところで働かないかと聞かれたのですが、私は断ったのでございます」
 それを聞いて、ビルフランは驚いた。彼としては、昨夜はセバスチャンを去らせるようなことを言ったが、なんとか引き止めることはできないかと思っていたのである。
「私は義兄から、君が働きたいと思っている、という話を聞いたのだが?なんと言って断ったのだ?」
「確か…あなた様の断りなしに職は変えられないとか、そういう返事をしたような気がします」
 それを聞いて、ビルフランはアランが巧みにセバスチャンの言葉尻を捕らえて、さも辞めたがっているように自分に吹き込んだのだと知った。
「そうか。だからアランは、私が許可すればおまえが彼の元へ行くといったのだな」
 だが、なぜそこまでしてセバスチャンを引き抜こうとしたのだろうか?
「あの男は、どうやらおまえを私の元から引き抜きたいと思っているようだ。だが、あまり強引に引き抜くと、私に対する立場が弱まると考えたのだろう」
 それを聞いて、セバスチャンも納得した。
「では私はビルフラン様の元を去らなくてもよろしいのですね」
 しかし、ビルフランは難しい顔をして何か考え事をしており、セバスチャンの問いにはすぐに答えようとはしなかった。
「…アランのところでは最近、何人か人が辞めたはずだ。だから、手っ取り早く即戦力が欲しかったのだろう。私としては、セバスチャン、おまえを手放すのは非常に痛い。だが今、アランから恨まれるのも厳しいところなのだ。なにしろ私の会社はあの男から麻のほとんどを仕入れているからな」
 ビルフランはそんな話をおもむろに始めた。セバスチャンも、黙ってそれを聞いていた。
「アランは私に、おまえが自分のところで働くのを許可するよう、求めたのだ。もしもセバスチャン、君が彼のところへ行かなかったなら、彼は私がその許可を出さなかったと考えるだろう」
 その話を聞いて、セバスチャンもアランの意図がやっと理解できた。最初から彼は騙して自分を雇おうとしたのではなく、こういう結論に達するだろうと予想したに違いない。つまり、表向きはあくまでも、こちらの事情でセバスチャンがアランの元で働く、という形にして、アランのビルフランに対する優位性が失われないようにしたのである。
 そしてもしもそれを拒むなら、アランは麻の卸値の値上げ、という切り札を出してくるだろう。
 そこまでを理解したセバスチャンが次に発する言葉は、すでに決まっていた。
「判りました。では、私はアラン様の下で働きたいと思います」
「すまない、セバスチャン…。わたしはおまえと、仕事の成功の喜びを分かち合いたかった。いつか必ず、アランよりも会社を大きくして、おまえを呼び戻そう」
 その言葉を聞いて、セバスチャンは微笑んだ。
「そのときを心待ちにしております」
 そこまで話したとき、ビルフランは一つ、セバスチャンに言い忘れた話があったことを思い出した。
「そうだ、セバスチャン。おまえには真っ先に伝えたいと思った話があったのだ。実は今度、私は父親になるんだ」
 それを聞いたセバスチャンは、目を大きく見開くと、ビルフランの手を掴んで喜んだ。
「それはおめでとうございます。お子様が生まれたなら、必ずお祝いに伺います」
「ありがとうセバスチャン。君ならきっと喜んでくれると思ったよ」
 そう言って、ビルフランは顔をそむけた。セバスチャンの顔を見たなら、涙が流れそうだったからである。


 それからの半年は、瞬く間に過ぎ去った。ビルフランはロベールと和解し、彼の工場をジュリアンを後見人として借りることにしたのである。
 工場に入れる機械の仕入れや人員の準備など、目の回る忙しさであった。
 そしてついに、工場を動かす日は一週間後に迫ったのであった。

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