第十二章 パンダボアヌ工場

 ビルフランはここ一週間ほど眠れない日が続いた。
 夢にまで見た自分の工場を、ついに持つことができるのである。紡績機械の設置後の調整のため、実際に稼動できるのは一週間後であったが、それでも気分の高揚は避けられなかった。
「あなた、あまり無理をされると体に毒ですよ」
 出産を間近に控えたオーレリーの方が、かえってビルフランを気遣った。
「もちろん、無理はしない。だが私は嬉しいのだよ。まるで明日にでもサーカスを観にいく子供のようにな。それよりオーレリー、君の方が大事な体なのだ。ゆっくりと休んでいなさい」
 最近、ビルフランはオーレリーの負担を軽くするために、コックと召使を一人ずつ雇っていた。工場を持つともなれば、それだけ付き合う人も増え、自宅に招待することもある。そうしたときに、身重なオーレリー一人では対応できない、という事情もあった。
 そのため一人でいるときの彼女には、子供の着る服を編むくらいのことしかなく、そのことを感謝しながらも、一抹の寂しさを感じていた。
「今日も遅くなるのですよね」
「ああ、申し訳ないが、そうなるだろう。夕食は先に取っていなさい」
 そう言い、オーレリーにキスをすると、ビルフランは彼女の部屋を出た。


「ごめんください」
 そう言って、事務所のドアの前に立った若者は、見るからにみすぼらしかった。
 どこからきたのか長旅をしたらしく、靴も服も汚れており、破れかけたかばんを背負った男は、背だけはひょろりと高かった。
「何だね、君は」
 机に向かって書類に目を通していたリュック・アヴリーンは、胡散臭そうにその男を見た。
 彼も一週間後に控えた、パンダボアヌ工場の稼動の準備のために、多忙であった。工場に入れる機械の手配や技術者との打ち合わせ、また雇った工員の教育など、人手がいくらあっても足りない状態である。
 邪魔をするなら出て行ってくれ、と言わんばかりの態度に、その若者は一瞬、躊躇したが、勇気を振り絞るように話し出した。
「こちらの工場で人を募集しておると聞いたもんで、雇ってもらえんかとパリから来たのですが」
 ひどいなまりで、若者はそういった。
 それを聞いて、リュックは改めて若者を見た。誰を雇うかについては、ビルフランから一任されている。つまりこういう男の対応も、リュックの仕事となるわけであった。
 リュックは若者に質問をした。
「ああそうか。それで君は何か、紡績関係の仕事をしたことはあるかい?」
「いいえ、ありません」
「それでは読み書きの方は?」
「勉強する機会がなかったもので」
 それを聞くと、リュックは軽くため息をついた。
「そうか。ではたいした仕事はできないな。安い賃金の仕事でもよければ、残っていないこともないが、それでも構わないかね」
「飯が食えるだけのお金がいただけるなら、何でもします」
 若者は、力強く、とはいえないがきっぱりと言い切った。
 少なくとも、嘘ではないだろう。リュックはそう考えた。
おそらくこの男は食うものにも事欠く生活を経験しているに違いない。そういう男は、多少のつぶしが利くものである。
そのように判断したリュックは、この若者を採用することに決めた。
「いいだろう。名前と年齢をいいたまえ」
「タルエルといいます。年は20」
 リュックはさらさらと書類をしたためると、それをタルエルと名乗った若者に手渡し、さらに工場のある場所を教えた。
「それではタルエル君、これをもってその工場に行きたまえ。監督のマルコという男がいるから、その男にこれを渡せば、君のする仕事を、彼が決めてくれる」
 書類を受け取ったタルエルは、それを眺めながら、少し考え込んだ。
「どうした、なにか疑問があるのかね」
「…やはり、読み書きができるほうが、仕事にはよいのでしょうか」
「読み書きができればよいと言う話でもないが、まあ、できる仕事が増えるのは確かだ。さあ、私も忙しいんだ。他に用がないなら、後のことはマルコに聞いてくれ」
 タルエルを追い払うかのようにそう言うと、リュックは再び自分の仕事に戻った。
 タルエルが事務所を出ようとすると、ちょうど事務所へ入ってきたビルフランとぶつかりそうになった。
「おお、すまん。・・・君は誰だったかな」
 ビルフランは、事務所から出てきた男に見覚えがなかったので、そう尋ねた。
「こちらの工場で、働かせていただこうと思いまして、今、来ました。タルエルといいます」
「そうか、タルエル君か。君がよい働きをしてくれることを期待するよ」
 ビルフランはそう言うと、ドアを押さえてタルエルが外に出られるようにした。タルエルは頭を下げて、工場へと向かった。
「リュック。今の男は何ができそうだ」
「たいしたことはできないでしょう。ですが、マルコのところで力仕事ができる男が欲しいと言っていたので、彼のところへやりました」
「そうか、ならばよい。それで、今日の作業だが・・・」
 ビルフランはすぐに仕事の話を始めた。


 タルエルは工場に到着すると、そこで働いていた人に、監督のマルコがどこにいるかを尋ねた。
 声をかけられた男は、別に仕事を中断されても嫌な顔するわけでもなく、気さくに答えてくれた。
「ああ、監督ならそちらで技術者と話しているよ」
 見ると、そこには体格のよい大男が、数人の男と話をしていた。
「マルコさん、リュックさんが新人を寄越しましたよ」
 タルエルが頼む前に、その男はマルコという男を大声で呼んだ。
「おお、そこに待たしておけ」
 そういうと、マルコは再び技術者たちと話し始めた。
 手持ち無沙汰になったタルエルは、どうしたらよいものか迷ったが、すぐに声をかけた男の方から話しかけてきた。
「君はなかなか見る目があるよ。この工場で働くことを選んだのだからね・・・。ええと、君はなんという名前だったかな」
 まだ名乗っていない名前を思い出そうとしている男に、タルエルは可笑しみを感じた。
「タルエルといいます」
「そうかタルエル君か。俺はクロードというんだ。よろしくな。この工場はなんと言っても、アヴリーンさんがしっかりしているからな。あの方に覚えてもらえるよう、努力することだ」
「アヴリーンさんという方が、ここの社長なのですか」
「いや、社長は別の人だ。だが、実質上の責任者はリュックさんだよ。君も事務所で会っただろう」
 タルエルは事務所で自分と話をした人物を思い出した。
「名前は聞きませんでしたが、多分会っているのだと思います」
「いい人だっただろう。あの人についていけば、間違いないぞ」
「はあ」
 どちらかといえばそっけない対応をされたという印象が強かったため、いい人かどうかの判断はつきかねた。むしろ彼は、入り口でであった人物のほうに興味があった。
「ところでタルエル君、君はこの辺では見ない顔のようだが、どこから来たんだい」
 突然、自分のことを聞かれ、タルエルは慌てた。
「あ、はい。わたしはパリから来ました」
 それを聞いて、クロードは少し驚いた。
「パリ?またずいぶんと遠いところから来たなあ。この辺に誰か知り合いでもいるのかい」
「いえ、パリで日雇いの仕事をしていたのですが、こちらに工場が出来ると聞いたので、雇ってもらおうと思い、歩いてきたんです」
「なかなか苦労しているな。それじゃあ、こちらで住む場所は決まったのかい」
「いいえ、まだです。これから探そうかと思っています」
「そうか。残念だが、このあたりじゃあ、パリとは違って、宿屋はあっても下宿をしている家はないな」
 それを聞いてタルエルは青ざめた。
「それじゃあ、私は今晩、どうしたらいいでしょうか」
 落ち込んでいるタルエルを見て、クロードは同情を覚えた。
「よし、俺のうちに泊まるといい。なあに、一人くらいどうってことはないさ」
 クロードの申し出に、タルエルは顔を明るくした。
「本当ですか!ありがとうございます!」
「困ったときはお互い様だ。ああ、監督の方の話が終わったようだ。挨拶してきな。仕事が終わったら出口のところでまっているといい」
 そういい残して、クロードは自分の仕事に戻っていった。
「おい、新入り。こっちにこい!」
 監督のマルコに呼ばれたタルエルは、急いで彼のところへと行った。
「名前はなんていうんだ?」
「タルエルといいます。この書類をマルコさんへ渡すよう、言われました」
 タルエルは手に持っていた書類をマルコに渡した。
 彼は書類に目を通すと、タルエルを品定めするように一瞥した。
「それじゃあタルエル、君は紡績のことは知らないようだから、とりあえずは荷物の搬入をやってもらおう」
 そういうとマルコはタルエルを倉庫へと連れて行った。
「まもなくここに麻の苧が到着する。俺が検品をしたものから、順番に倉庫に運ぶんだ」
 マルコの説明が終わらないうちに、荷馬車が倉庫の前に到着した。タルエルもすぐに目も回るほど忙しくなった。


 一週間は瞬く間に過ぎ、いよいよ工場が本格的に稼動させるという当日がきた。
 操業開始といっても、大きな祝典をできるわけではない。せいぜい身内や取引先の人を呼んで、工場のお披露目をする程度である。
 しかも、恩人であるジュリアンは海外に出て留守であったし、ロベールは体調を崩しており、出席は難しい様子であった。
 さらにビルフランにはひとつの懸念があった。それは妻のオーレリーの出産がいつになるかわからない、ということである。もういつ生んでもおかしくない時期であり、本当なら付きっ切りになりたいくらいであった。
 しかし今、仕事を放り出すわけにも行かない。ビルフランは召使として雇っているナタリーに、何かあったらすぐに産婆を呼び、それから自分に知らせるように言いつけた。
「こんなときに出産なんて、ビルフランも落ち着かないわねえ」
 久しぶりに家に泊まりに来ていた姉のパトリシアが、ビルフランにそういった。なにかオーレリーが非難されているように聞こえ、あまり良い気持ちはしなかったが、昔からそういう物の言い方をする女性だったと知っているので、特に反論もしなかった。
「ビルフラン、もう行くのだろう。皆を待たせるのはよくないぞ」
 兄のフレデリックが時計を見ながら出発を促した。兄弟三人がそろうのは、ビルフランとオーレリーの結婚式以来である。本当なら、もう少し頻繁に会いたいと思っていたが、それぞれ忙しい生活をしており、なかなか難しかった。
 ビルフランは出発の前に、もう一度オーレリーの顔を見に行った。
「あなた、まだでなくてもよろしいのですか」
 ベッドに横になったオーレリーは、心配そうにそう尋ねた。
「今出るところだ。後のことはナタリーに言いつけてある。何かあったら、すぐに私も戻るから、おまえは安心していなさい」
 ビルフランはそういい、オーレリーにキスをしてから部屋を出た。


 工場でも、雇われた工員たちが集められて、各人がどこの持ち場を受け持つかの説明がなされていた。
 といっても、さほど大きな工場でもないため、すでに皆、自分がどこで仕事をするかは、見当がついていた。確認のため、といった意味合いのほうが強かった。
 監督のマルコが一人一人の名前を読み上げ、受け持ちを伝え、仕事の内容を説明している。
 自分が何をするのか知っているとはいえ、やはり緊張するひと時であった。
「タルエル」
 自分の名前を呼ばれ、タルエルはどきどきしながら返事をした。
「君にはトロッコについてもらう。出来上がった麻糸を集めてトロッコに乗せ、織物機の方へ運ぶ仕事だ」
 トロッコ係、これが俺のこの工場での正式な第一歩なのか。
 タルエルは返事をしつつ、そのように考えた。その程度の仕事しか与えられないことは判っていたとはいえ、改めて正式に伝えられると多少の失望を覚えた。しかし今は仕方がないことである。いつかきっと、もっと上の仕事についてみせる。
 タルエルは心の中でそう誓った。


 工場の横の空き地にいすを並べ、“パンダボアヌ工場”の開業式が行われた。ビルフランの親戚のほか、取引先の人々や、地元の名士が呼ばれ、それぞれがビルフランに祝いの言葉を述べた。
 続いてビルフランが抱負を語り、その後、工場の機械に火が入れられ、無事に式典は終了した。後は工場内のお披露目だけであった。
ビルフランが案内しようとした矢先、脇で小さなざわめきが起こり、リュックが彼の元へ近づいてきた。
「社長、奥方が急に産気づかれたようです」
 ざわめきが起きたときから、ビルフランはひとつの予感がしていたが、その予感は的中した。
「リュック、あとは工場内の案内くらいだ。後のことを頼まれてくれるか」
「わかりました。後のことはお任せください」
 リュックにそう確認すると、ビルフランは立ち上がって招待されている人に話し始めた。
「これから工場の中をご案内する予定でしたが、今、私の妻が産気づいていると知らせが入りました。大変申し訳ありませんが、わたしはこれで失礼させていただきます。後のことはこちらのアヴリーンに任せてありますので、皆さんはごゆっくりされてください」
 それだけ言うと、ビルフランはすぐに工場を後にした。

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