第十三章 乳母

 “パンダボアヌ工場”が正式に稼動を始めた翌日、ビルフランは父親になった。
 難産の末、オーレリーは男の子を産んだ。ビルフランは一晩、祈りながら過ごし、明け方に待望の自分の子供を抱いたのであった。
 ビルフランはその場でその子に名前をつけた。以前から男の子のときの名前と女の子のときの名前の両方を考えていたのである。
「この子の名前はエドモンだ」
「そうですか。おじいさまの名前をいただけるなんて、幸せな子ね」
 ビルフランの言葉に返事をするオーレリーは、明らかに衰弱していた。
 産婆のレベッカの話では、命に別状はないものの、出産で激しく消耗したオーレリーの体力では、生まれてきた子を養うだけの母乳はだせないだろうとのことであった。
 誰か乳母を雇わなければならない。
 幸い、ビルフランには一人、当てがあった。
「フランソワーズがいい。彼女は半年前に二人目を出産している。オーレリーとも親しいし、問題はないだろう」
 レベッカも、ビルフランの意見に同意した。
「では、私がフランソワーズさんをよんできましょうか」
 ナタリーがそう申し出たが、ビルフランが断った。
「私が自分で頼みに行く。ナタリーは会社に行って、私が少し遅くなるとアヴリーンに伝えてきてくれ」
「判りました」
 ビルフランはレベッカにオーレリーとエドモンのことを頼むと、自分はフランソワーズの店へと向かった。
「そういえば、しばらくフランソワーズとは話をしていなかったな」
 思い返してみると、結婚式のときに、お祝いの言葉をもらって以来、顔を見ることもなかったようである。まともに話したのは、母親が死んだ後、オーレリーのことで叱られたときが最後であった。
 お互い、違う仕事をしている以上、意識しなければ会うこともなくなるだろう。そう考えたビルフランは、暫く会っていないことも大きな問題とは考えなかった。


 ビルフランがフランソワーズの家の扉を叩くと、中から返事と共に彼女の夫が出てきた。
「ビルフランじゃないか。久しぶりだな」
「ああ。ロランも元気そうじゃないか。ところでフランソワーズはいるかな」
「今、下の娘に乳をやっているよ。何の用だい」
「実は今朝方、私も父親になったんだ」
「ほう、そりゃおめでたい話だ」
「だがレベッカに、出産で体力を消耗したオーレリーの体では、子供のために乳を出すことは出来ないだろうといわれたんだ。それで、フランソワーズに乳母になってもらえないかと思って、頼みに来たのだ」
 ビルフランの説明に、ロランは頷いた。
「なるほど、それは大変だな。だがうちの店も家内の手がないと大変だからな」
「もちろん、給料も払う。その金で人を雇うことも出来るだろう」
「判った。そこまで言われて断るわけにはいかないな。フランソワーズを連れてこよう」
 そう言って、ロランは奥へと入っていった。


「あなた、誰が来たの?」
 娘のゼノビに乳をやりながら、フランソワーズは夫のロランに尋ねた。
「ビルフランだよ。今朝方、オーレリーが赤ん坊を産んだそうなんだが、乳が出ないらしい。それで、お前を乳母に雇いたいそうだ」
 それを聞いて彼女は驚いた。
「オーレリーの具合が良くないの?」
「いや、詳しくは俺も聞いていない。だがビルフランがここに来ているという事は、そんなに酷くはないだろう」
 確かに、オーレリーの容態が悪ければ、ビルフランが彼女の傍を離れることはないだろう。
むしろ、彼自身が自分に乳母を頼みに来たということは、それだけ自分に期待し、頼りにしているということだろう。フランソワーズはそう考えた。
「それで、私がビルフランの子の乳母になるとして、その間の店の仕事はどうします?」
「ああ、それは問題ない。ビルフランがお前に賃金を払うといっている。その金で人を雇えばいい」
「そうですか。それなら私のほうも構いませんわ」
 夫の許可が出た以上、フランソワーズも断る理由はなかった。


 フランソワーズはゼノビを抱えたまま、家を出てきた。
「久しぶりだな、フランソワーズ」
「お久しぶりです。ビルフラン様」
 堅苦しくお辞儀をするフランソワーズを見て、ビルフランは笑った。
「なにを今更、そんな堅苦しく振舞うんだ」
 しかし、フランソワーズは真顔だった。
「私も雇われる以上、あなたは仕事上の主人になります。たとえ幼馴染であっても、礼儀正しく振舞うのは当然でございましょう」
 確かにそのとおりであるが、これまで普通に接していた相手に、突然畏まられるのも、居心地が悪いものである。
「雇うなどと、そんな大袈裟な話だと思わないで欲しい。もちろん、金を払うとは言ったが、それは君が家の仕事を出来なくなることへの補償のつもりだ」
 ビルフランは、フランソワーズが雇われるということに対して敏感に反応しているのだろうと考えて、そう弁解した。
 しかしフランソワーズは態度を崩さなかった。
「大袈裟ではありません。仕事をしてお金をいただく以上、そこにはそういう関係がうまれるのですよ」
 口調は柔らかかったが、そこには決して妥協しないという意思が感じ取れた。フランソワーズはさらに話を続けた。
「あなたもすでに数十人の人を雇う事業主なのですよ。その中には、わたしたちの関係を知らないものも多くいるでしょう。村の店のおかみから、対等に話されるような人では、従業員からも軽んじられますよ」
「そんなことで私を軽んじるような男など、私には必要ない」
 ビルフランは不機嫌にそういったが、同時にフランソワーズの心遣いに感謝もした。
「まあ、フランソワーズがそれで納得しているなら、私もこれ以上、言うのはよそう」
 フランソワーズが微笑むと、ビルフランは自宅にレベッカがいるので、彼女に詳しい話を聞いてくれといい、そのまま自分の会社へと向かっていった。


 時間は少し戻る。
 ビルフランがフランソワーズの家に到着したころ、ナタリーは工場の事務所へ入って、リュックと話をしていた。
「・・・ですから、社長は少し遅れてこちらに来ると言っておりました」
「そうか、判った。社長がこちらに来られるまでのことは、私のほうで対応しておこう。君もはやく帰りなさい」
 ナタリーは一礼して事務所を後にし、ビルフランの屋敷へと戻っていった。
「社長は来ないのですか」
 隣の部屋で話を聞いていたのか、監督のマルコは事務所に入ってくるなり、リュックにそう尋ねた。
「そのようだ。初めての子供が生まれたのだ。仕方がないだろう」
「しかし、操業二日目にして、仕事を放り出すなど、私は感心しませんな」
 露骨に不満な顔をしてマルコがそういうと、アヴリーンは彼を窘めた。
「仕えている相手を、そのように軽々しく非難するのはよろしくないな。君だって、妻が出産するとなれば、仕事の休みをもらうのではないかな」
「それはそうですが・・・」
 尊敬している相手から注意を受けて、マルコもそれ以上は何も言わなかった。
「それでは、今日の仕事の内容だが」
 リュックはマルコに作業ノルマなどについて、指示を出し始めた。マルコはメモを取りながら、時々質問を返して詳細を確認した。
「こんなところで、今日の予定は達成できそうかな」
「まあ、大丈夫でしょう。それでは工場のほうへ行ってきます」
「ああ、そちらのことは任せるよ。私は午前中は事務所にいるから、わからない事があれば聞きに来るがいい」
 マルコは事務所を出ると、工場へと向かった。すでに工員たちは出社しており、仕事の準備にかかっていた。
「さあ、仕事の開始だ。今日も一日、忙しくなるぞ!」
 マルコが声をかけると、工員たちは自分の持ち場へ就いて仕事を始めた。
 タルエルも自分の仕事に就こうとしたとき、マルコが彼を呼び止めた。
「タルエル、君はトロッコに麻糸がたまるまでの間、時間があるだろう。その間、麻の苧をここまで運ぶのを手伝ってくれ」
「判りました」
 タルエルはすぐに言われた仕事をし始めた。
 すぐに工場内は騒音と熱気に包まれていった。


 ビルフランは一時間ほど遅れて事務所へと顔を出した。
「すまなかったな、リュック。まさか二日目から遅刻をすることになるとは思わなかったよ」
 そういいながら、ビルフランの顔は笑っていた。リュックもそれを見て、笑った。
「ご子息のお誕生、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。名前はエドモンと名づけたよ」
「ああ、それはよいお名前です。それで、奥様のほうは大丈夫なのですか」
「レベッカに頼んであるし、フランソワーズも行ってくれる事になっている。私がつきっきりになるほど悪くはないよ」
「そうですか」
「それよりも、私は昨日、自分の工場が動いているところを、まともに見ることも出来なかったのだ。息子は無事生まれたし、今日こそは、工場を自分の目で見なくてはな」
「それでは、仕事の報告と打ち合わせは戻られてからにいたしますか」
 リュックに聞かれ、一瞬考えてから返事をした。
「いや、先に報告を聞こう。君の仕事が進まないだろうからな」
 ビルフランは自分の机に向かい、リュックからの報告を聞いた。


「悪いわね、フランソワーズ」
 ベッドに横たわったまま、弱々しい声でオーレリーが詫びると、フランソワーズはエドモンに乳をやりながら首を振った。
「何を言っているの。私たちは友達じゃない」
「だけど、私はあなたにいつも甘えてばかりだわ」
「そんなことを言ってはだめよ。人にはそれぞれ、出来ることと出来ないことがあるのだから」
 フランソワーズの言葉に、オーレリーはしばらくの間、黙っていたが、やがて再び話し始めた。
「フランソワーズ、私はずっとあなたに謝りたいと思っていたのよ」
「誤る?何を?」
「そう、お義母さまが亡くなられた後、あなたが慰めてくれたとき、私はあなたに言ってはいけないことを言ってしまったわ。それなのにあなたは、私のためにビルフランを説得してくれたのよ」
「そんなこと。わたしは気にしてないわよ」
 軽く聞き流そうとしたが、オーレリーはさらに言葉を続けた。
「あれ以来、あなたはわたしとビルフランを避けていたわ」
「それは・・・気のせいよ。私も忙しくて、なかなか会いにこられなかったから」
 フランソワーズはそう言って否定した。実際、さほど裕福でもないフランソワーズが、仕事を休んで、そう頻繁に彼女に会いに来ることは難しかった。しかし、二人を避けていたのも事実であった。
 あの時、オーレリーに自分の本心を言い当てられて以来、フランソワーズは誤解を招かないために、ビルフランと会うのを避け、結果的にオーレリーと会うこともなくなっていたのである。
 そして今回、出産を控えたオーレリーの体調があまりよくないらしい、という噂を聞いたとき、ビルフランが自分に乳母を頼むかもしれない、という予感、いやむしろ確信があった。
 もちろん、それを断る理由は彼女にはない。しかしそのときには、ビルフランと昔のように馴れ馴れしくは話すまい、と心に決めたのである。その理由についてビルフランには、従業員の手前、と説明した。
 しかしそれも嘘ではなかったが、彼女の本心は、彼に対する思いをオーレリーに知られているから、ということであった。彼女を不安にさせるような言動は極力避ける、ということであった。
「そのことであなたが気にすることは、何もないのよ。私はただ、自分の思ったとおりに行動しただけなのだから」
 フランソワーズがやさしくそういうと、オーレリーは涙を流した。
「ごめんなさい、フランソワーズ。あなたにはいつも気を使わせて。本当にごめんなさい」
「あやまるくらいなら、エドモンのためにも、ゆっくり養生して、はやく元気におなりなさい。本当に泣き虫なのだから」
 冗談めかしてそういうと、オーレリーは涙を流しながらも、やっと笑顔を見せた。
「本当。あなたには最近、泣き顔ばかり見られるわ」
 それから一呼吸おいて、オーレリーは付け加えた。
「フランソワーズ、本当にありがとう。これからも迷惑をかけると思うけど、あなたが近くにいてくれると、私は安心できるのよ。エドモンのこと、よろしくお願いします」
「そんな改めて言われなくても、きちんと面倒を見るわよ」
 この子は私の親友と、私が昔、好きだった人の間に生まれた子なのだから。
 フランソワーズは心の中で付け加えた。

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