第十四章 タルエルの居眠り

 パンダボアヌ工場が動き始めてから一週間が過ぎた。
 ビルフランにとって、この一週間は非常に充実していた。
 この間、問題がなかったわけではない。むしろ幾つもの問題が発生した。
 もちろんビルフランは、アヴリーンを始めとする、幾人かの仕事上の仲間と共に、綿密に計画を立てて、この工場を稼動までこぎつけている。この時点でさしたる問題はないはずであった。
 しかしどんなに洗い出したつもりでも、得てして幾つかの潜在的な問題が残るものであり、そのようにして残っている問題のほとんどは、大抵の場合、物事が動き出した直後に、明るみに出るものである。
 しかし翻って考えれば、早期に問題が明らかになることで、大事に至る前に対処できるともいえる。ビルフランもそう考えて、精力的にそうした問題に取り組んでいた。
 そしてその小さな事件も、そうした日の夕方に発生したのであった。


 この一週間というもの、タルエルの役割はほとんど雑用係であった。本来のトロッコの方は、生産量の関係もあり、それほど忙しくはなく、他のところで人手が足りなければ、すぐに彼が回されたのである。
 そのため彼が持ち場にいなくても、誰も何とも思わなかった。またどこかで何かを手伝わされているのだろう、その程度の認識であった。
 そして夕方、工場の様子を見に来たビルフランは、倉庫の片隅の、陰になっている場所から見える、足の先に気付いた。
 一緒に回っていた工場長のマルコも気づいたが、そのときにはすでにビルフランが寝ている男のほうへ近づいていった。
 寝ていた男のほうも、人が近づいてくる気配に目が覚め、自分がどこにいるかを思い出して跳ね起きた。
「おはよう、タルエル君」
 ビルフランのその言葉は、明らかに怒りを含んでいた。
「あ、あの、申し訳ありません。寝るつもりはなかったのですが・・・」
 そういって起き上がった彼の脇に、一冊の本が落ちた。
 ビルフランはその落ちた本を、タルエルよりも先に拾い、パラパラと中身を見た。
「お前は、仕事中にこういう本を読んでいたのか?」
「いえ、その・・・」
 返事に詰まったタルエルに、ビルフランは冷たく言った。
「仕事が終わったら、事務所の方へ来るがいい。そのとき、この本を返してやろう」
 立ち尽くしたタルエルを残して、ビルフランはその場を去った。
 後を追おうとした工場長のマルコは、最後にはき捨てるように言った。
「お前はなかなか働き者だったんで気に入っていたんだがな」


 終業のベルが鳴り、工員たちが仕事の手を止めて帰宅の準備を始めたとき、タルエルもまた、自分の持ち場の周りを掃除しながら考え事をしていた。
 確かに仕事中に本を読み、そのまま眠ってしまったことについては弁解の余地はない。しかし少なくとも、まだ首を言い渡されたわけではない。何といっても、寝ていただけであるし、叱られて給料を減らされる程度で済むのではないか。
 そう考えたタルエルは意を決して事務所のほうへ向かった。


 事務所にはまだビルフランは戻っていなかった。そこにいたのはリュックであった。
「君か。作業中に寝ていたというのは。名前は何という?」
「タルエルです」
「そうか。それで君の処遇だが、工場長のマルコによれば、怠け癖のある男は使えないといっている。私としては、まあ最初ということもあるから、今日の分の給料から引くだけで済まそうと思っている。だが次にまた同じことをするようなら、そのときは覚悟をしてもらわないといけないよ」
 叱られるのを覚悟していただけに、リュックのやわらかい態度に、タルエルはかえって拍子抜けした。
「申し訳ありませんでした・・・。ビルフラン様は私のことを何か言っておられましたか?」
「いや、当然怒ってはいたがね。そうそう、事は私に一任すると言われたが、君にまだ何か話があると言っていた。もう少しで戻られるだろうから、ここで待っていなさい」
 リュックはそれだけいうと、再び自分の仕事を始めた。
 部屋には椅子も置いてあったが、勧められもせずに勝手に座るのは躊躇われたので、タルエルはビルフランが戻ってくるまで、立ったままで待つことにした。


 ビルフランが帰ってきたのは、タルエルが事務所に入って十分ほど経過してからであった。
 彼はしかし、入ってきた時もタルエルには一瞥もくれず、すぐにリュックとの打ち合わせを始めた。
「それでは、麻の入荷は予定通りでよいのだな」
「はい。それから、製品のほうの引き取りですが、フレデリック様から、明日は難しいとの連絡がありました。明後日の午後なら、空いているそうです」
「明後日か。倉庫のスペースに余裕はあるな」
「大丈夫です。ですがこの先、いつも余裕があるとは限りません。直前になっての予定の変更は、最小限にしていただくよう、フレデリック様にお伝えしたほうがよろしいかと思います」
 二人はそんなやり取りをさらに十五分ほど続けた。
 タルエルは二人が打ち合わせをしている間、立ったままの姿勢で、二人の話を、耳を澄ませて聞いていた。そこには判る話もあったが、よくわからない部分も多かった。
 やがて打ち合わせが終わると、リュックは部屋を退き、ビルフランとタルエルの二人だけがその場に残る形となった。
 いよいよ自分が叱られるときだ、とタルエルは思ったが、ビルフランは席に座ったまま、相変わらずタルエルのほうを見ることもなく、仕事を続けた。
 しばらくはビルフランが書類をめくり、ペンを走らせる音だけが部屋を支配した。
 叱られるために長時間待たされるのは、精神的な苦痛が伴う。タルエルもだんだんと腹が立ってきた。叱るなら、さっさと叱って欲しい。仕事などそれからでも十分できるではないか。
 とうとう、我慢できなくなってタルエルのほうからビルフランに声をかけた。
「あの、いつまで待っていればよろしいのでしょうか」
 ビルフランはそれを聞くと、じろりとタルエルを睨んだ。
「私の仕事が終わるまで、待つことは出来ないのか」
「仕事中に寝てしまったのは、言い訳の出来ることではありませんから、そのことについてお叱りを受けるのは当然だと思いますが、そのためにビルフラン様の仕事が終わるまで待たなければならないのは、納得できません」
 タルエルが下宿させてもらっているクロードは、リュックのことを褒める一方で、ビルフランについては貶しこそしないが、あまり良くも言わなかった。そのため彼自身も、ビルフランに対して良い印象を持っておらず、その感情がそのまま口に出た。
 ビルフランも、タルエルが自分を良く思っていないことをすぐに察したが、そのことは追求せずに、別の質問をした。
「そうか。なぜ私が君を待たせているか、その理由を考えたかね」
「自分の仕事を、早く終わらせたいからではないでしょうか」
「言っておくが、仕事を終わらせる前であろうと、終わらせた後であろうと、君に言うことは同じだ。時間に変わりはない。むしろ、仕事を終わらせる前に済ませたほうが、私としては楽なのだよ」
 そう言われてみると、そんな気もする。実を言えば、タルエルもなぜ自分がここまで待たされているのか、深く考えていたわけではない。
 訳が判らないと言う顔でタルエルが黙ると、ビルフランは机の上に一冊の本を置いた。
「あ、その本は・・・」
 それはタルエルが起きたときに、床に落とした本であった。
「タルエル。君はこれを読んでいて、それで眠ってしまったのだろう」
「あ、いえ・・・はい。その通りです」
「私が聞いた話では、君は読み書きが出来ないということだったな」
「そうです。それで・・・」
「それで君は、読み書きの勉強を始めたのだろう。違うかね」
 確かにその通りであった。昼間に読んでいた本も、子供が文字を覚えるための本だったのである。そのため、取り上げられた本の中身をビルフランが見るなら、さほど考えなくてもタルエルの目的はすぐに判るはずである。
 しかしなぜビルフランが、自分が勉強していることに興味を持つのか、そのことをタルエルは訝しんだが、やがてひとつの結論を導き出した。
「その通りです。ビルフラン様は私がそんなことをしているから、仕事中に寝るのだと言いたいのでしょう。私のようなものに、学問は要らない、そう言いたいのでしょう」
 憤りを隠さずにそう捲し立てたので、ビルフランは一瞬、唖然としたが、すぐに笑い出した。
「タルエル。どうやら君は私のことを誤解しているようだな」
「何をですか」
「私は別に、君が勉強していることをとやかく言おうとは思わない。むしろ、君のような若者が自らの向上を目指して勉強するのは、喜ばしいことだと思っている」
 叱られるつもりで待っていて、突然自分を褒める言葉を耳にして、タルエルは我が耳を疑った。
「私も君くらいのころは、この工場を持つために、寝る間も惜しんで勉強したものだ。君は何のために、字を覚えようと思ったのかね」
「もちろん、もっと良い仕事をするためです」
 タルエルがきっぱりと言い切ると、ビルフランは再び笑った。
「なるほど。だが君の望むような仕事には、それなりの責任が伴うことは判っているかな」
「責任・・・ですか」
「そう。例えば、皆が仕事を終えた後でも、このように残って仕事をせねばならん。君の言う良い仕事は、別に楽な仕事ではないのだよ」
 すると、ビルフランは自分にそのことを見せるつもりだったのだろうか。タルエルはそのことに気付いた。
「私やリュックがこうした仕事をこなさねば、この工場で働いている工員たちの賃金を払うこともできなくなる。だが私は、仕事をサボって居眠りするような男のために、こうして働いているわけではないのだ」
 少し口調を強めてビルフランが話したため、タルエルは首をすくめた。
 しかしビルフランは、タルエルが反省している様子を見ると、ふと話題を変えた。
「私は、この工場をまだまだ大きくするつもりだ。将来はフランス一、いや世界一の工場にしてみせる。そのためには、さらに多くの者を雇わねばならん。そして、多くの者を雇えば、それらの者を監督する人物もまた必要になる」
 ビルフランはそこで言葉を切ると、タルエルの顔を凝視した。
「君はその一人になれるかね」
「なります。いや、なって見せます」
 タルエルは勢い込んで答えた。
「期待したいところだ。だが仕事中にほかのことをしたり、居眠りをするようなものには任せられんぞ」
「もちろん、わかっています」
「よろしい。今日はもう帰っていいぞ」
 少し興奮気味でタルエルが部屋を出ようとすると、ビルフランが呼び止めた。
「本を忘れているぞ」
「ああっ、すみません」
 タルエルが本をとりに戻ると、さらにビルフランが話しかけた。
「文字が流暢に読めるようになったら、私の家に来るがいい。他の本を貸してやろう。ただし、仕事中に読むんじゃないぞ」
 その提案に、タルエルは感激した。
「ありがとうございます!二度と仕事中には読みません!」


 タルエルは帰りの道すがら、ビルフランのことを考えた。
 自分はあの方のことを誤解していた。これからは何があってもあの方についていく。あの方と一緒に、工場を大きくしてゆくのだ。
 タルエルの中に、明確な目標ができた瞬間であった。

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