第十五章 過去の残影

 幾つかの齟齬はあったとはいえ、ビルフラン・パンダボアヌ工場は順調に操業していた。しかしここ数日のビルフランは、鬱々として楽しまなかった。
 妻のオーレリーの容態が思わしくないのである。
 難産で消耗した体力は、一時は回復するかに見えた。しかし最近はまた、めまいなどで寝込むようになったのである。
 息子のエドモンの世話は、フランソワーズがほとんど住み込みで行っていた。オーレリーはそのことも彼女を見るたびに申し訳ないといった。
「オーレリー、そんなに謝らないでちょうだいな。私だって、ビルフラン様からお給金をもらって行っているんだから」
 そのたびにフランソワーズは明るい声で、そう返事をした。
 彼女が病気で気弱になっているのは、傍目にもよくわかった。彼女を診に来る医者も、最近は診察の後、ビルフランと二人で長時間話し合っていることが多い。もしかすると、自分が思っているよりも、オーレリーの体は悪くなっているのかもしれない。そう感じた。
 その一方で、本当に悪くなっているなら、自分やナタリーにもそのことを言うだろうとも思った。今、彼女の世話をしているのは私たちであり、必要な世話を行うためには、彼女の状態を知っていなければならないからである。
 そしてフランソワーズの疑問は、まもなくその答えが出ようとしていた。


「入院、ですか」
 ビルフランからその話を聞いたとき、フランソワーズは思わず聞き返した。
「そうだ。先生の話では、オーレリーを入院させて、病院で治療に専念すべきだと言うんだ。ここにいると、身の回りのことが気になって、身体的にも精神的にも休まらないだろう」
 それは確かにその通りであった。
 もともとオーレリーもそれほど裕福な家の出ではないから、少しでも体調がよくなると、すぐに自分でも働こうとする。しかしそうして動いた後は、たいてい前よりも体調を崩すのである。
 その点、入院するなら身の回りのことをあれこれ心配しなくてもすむであろう。
「奥様も納得されたのですか」
「説得した。エドモンをおいて入院することを最初は渋ったが、自分でも家にいては治らないと感じているのだろう」
 生まれたばかりの息子を残しての入院は、オーレリーにとっても辛いであろう。それだけに留守の間、エドモンの世話をすることになるフランソワーズの責任も重く感じられた。
「判りました。奥様がそのように決意されたのでしたら、私も奥様が入院されている間、エドモン様をしっかりお世話させていただきます」
「ありがとう、フランソワーズ」
 ビルフランは友人の言葉に心から感謝した。


 オーレリーはその二日後に入院した。
 丁度その同じ日に、ビルフランも兄のフレデリックの元へ、商品を届ける用事があり、パリに行くことになっていたが、その前にオーレリーを病院まで送ることになった。
「エドモン、すぐに体を治して帰ってきますからね」
 フランソワーズに抱かれたエドモンのほおにキスをして別れを告げると、オーレリーはビルフランに支えられて馬車に乗った。 「フランソワーズ、エドモンのこと、お願いしますね」
「いってらっしゃいまし。エドモン様のことは、わたしが責任を持って面倒を見ますので、安心してください」
 そのフランソワーズの言葉を心強く思いながらも、オーレリーは馬車が動き出してからも、いつまでもエドモンの顔を見ていた。
 やがて家も見えなくなると、オーレリーはビルフランに話しかけた。
「わたしの体は本当によくなるのかしら」
「何を言っている。よくなるための入院だ。もちろん、治るに決まっている」
 ビルフランは努めて明るく答えようとしたが、そううまくはいかなかった。
 しばらくの沈黙の後、再びオーレリーが口を開いた。
「もしも治る見込みがないのなら、少しでも長くエドモンの傍にいたいわ」
「そんなことを言うものではない。治る見込みのない患者に、入院するよう勧めるはずがないではないか。おまえは体を治して、また私やエドモンと共に暮らすことだけを考えればいいんだよ」
 ビルフランはオーレリーをやさしく励ました。
 しかしオーレリーの心配は、実のところビルフランの心配でもあった。医者は家にいたままでは治る見込みはないといった。しかし入院すれば治ると約束したわけでもなかった。ただ、その方がよい看護ができるし、治る可能性はあるかもしれない、と言っただけである。
 オーレリーの体はそれほど悪くなっていたのである。
 ビルフランも迷ったが、可能性があるなら、入院させたほうがよいと結論し、そう言ってオーレリーを説得したのである。


 オーレリーの入院手続きを終え、別れを告げるとビルフランは一路パリへと向かった。
 フレデリックもすでに数年前に独立し、自分で店を構えている。そこでビルフランは自分の工場で生産した商品をフレデリックの店にも卸すために、その取引についての打ち合わせも兼ねての訪問であった。


 パリでの打ち合わせはさほど時間はかからなかった。
「次からは他のものを寄越す事にします」
 すでに何度かの打ち合わせで大筋は決まっており、今日もその確認の意味合いが強かった。もうビルフランが毎回パリまで出向く大きな理由はない。
「別に他のものを寄越すこともないだろう。お前もたまにはパリまで来て、都会の情報を自分で手に入れたほうがいいぞ」
 フレデリックは好意でそういったが、ビルフランは首を振った。
「実は妻の体調が思わしくなく、入院しているのです。退院するまではできるだけ近くにいてやろうと思いますし、仕事のほうもそう頻繁に空けるわけにはいきませんから。もちろん、何か新しいことがあれば、そのときはまたこちらに参りますよ」
 オーレリーが入院したと言う話を聞いて、フレデリックもそれ以上は勧めなかった。
「そうか。オーレリーが入院したのなら仕方がないな。だが今日くらいは泊まってゆくのだろう」
「はい、今の時間からではもう遅いので、兄さんのところへ泊めさせてもらいます。明日はヴィルヌーブさんのところによって、それから帰ります」
「そうか。それならもう暫く待っていてくれ。わたしもすぐに仕事は終わるから」
 そういってフレデリックは残っている仕事を片付け始めた。


 フレデリックの家に着くと、妻のスタニスラスが出迎えた。
「遠いところをようこそ。ゆっくりしていらしてね」
 言葉の内容とは裏腹に、その口調はどこかそっけないものであった。しかしビルフランはさほど気にしなかった。彼女はパリという都会に住んでいることに優越感を抱いており、以前から田舎に住む夫の親戚を見下していたからである。
 それでも当初のころに比べるとかなりましになったともいえる。ビルフランが工場経営を始めて、夫の取引先になったことで、相手をする価値を少しは認めてくれたのだろう。
 夕食を済ませた後、ビルフランは久しぶりにくつろいだ気分で兄と会話をした。
「兄さんは昔から慎重でしたよね」
「お前はどちらかというと冒険するほうだった」
「そうでしょうか?私は別に自分がそうだとは思いませんが」
 どういう意味で冒険しているだろうと思い、ビルフランは聞き返した。
「そうだろう。私はヴィルヌーブさんのところで何年か修行を積んでから独立したが、おまえはすべて独学で工場を持とうとした。冒険心がなければできないと思うがね」
 言われてみるとそうかもしれない。ビルフランが少し納得していると、フレデリックはさらに続けた。
「私は母さんの性格を濃く受け継いでいると思う。パトリシアの派手好きは親父譲りかもしれない。それでお前は、親父とお祖父様の双方の血を受け継いでいるようだ」
「私も親父の血を引いているって?」
「お前が親父のことを嫌っているのは知っている。私だって親父が好きだとは言えん。だがただ闇雲に毛嫌いするのもどうだろうと思うのだよ。何といっても実の父親だし、私たちは別に乱暴なことをされたわけじゃない。むしろ気前のいい親父だったと思う」
「確かにそれはそうだったな」
 酔って母親や子供を殴る人がいることは聞いたことがあるが、少なくともそういうことをする父親ではなかったのは事実だった。
「私は、親父は偉大なお祖父様と比較されることが、耐えられなかったのではないだろうかと思うんだ。自分にその力がないと判っているのに、周りからは勝手に期待される。そして期待通りの結果を出せないと、勝手に失望して陰口を叩かれる。そんな状態が嫌で、酒に逃げたんじゃないだろうか」
「しかし、だからといって親父のしたことを許せるわけじゃない」
「ああ、私もただ許そうと言っているんじゃない。ただ親父は親父なりにお祖父様を目指したが、それだけの能力がないことを悩んでいたのだろうということだ。私にはお祖父様のようになろうというほどの気概はないが、お前の目標はお祖父様なのだろう」
 確かにフレデリックの言うとおり、ビルフランが尊敬し、また目標としているのは祖父のエドモン老であった。だからこそ息子にエドモンの名をつけたのである。
「ビルフラン、つまりそこがお前と親父の共通点だ。そして親父と違うのは、お前はお祖父様の能力も受け継いでいるらしい、ということだ。だからこそお前は何物にも負けずに目標に向かって進めるんだよ」
「兄さんはそうではないんですか」
「私か。私だって、この会社を大きくしようとは思っているさ。だがお前が言うとおり、私は慎重な男だ。堅実に会社を維持していくことのほうを優先させてしまう」
 ビルフランは目の前で話している兄の言いたいことがよくわかった。
 堅実な経営が悪い訳ではない。しかし会社を大きく伸ばすためには、他に先駆けて新しい技術を積極的に導入するなど、時として冒険に近い投資をすることが必要になる。
 もちろん、新しい技術を導入すればすべてうまくいくとは限らない。しかし他が先にその技術を導入し、成功してからでは、自分の会社を大きく伸ばす機会を逸することになる。
 新しい技術を思い切って導入するかどうかは、一種の賭けに近い。そして兄の性格では、まずそうした賭けには乗らないであろう。しかし自分の場合はどうであろうか?
「なるほど、兄さんの言うとおり、私には親父の賭け好きな性格が混じっているようです」
 ビルフランもフレデリックの意見を認めた。
「結局、子供は親からの影響をすべて振り払うことなんてできないんだ。それならせめて、よい方向に向けようじゃないか」
「久しぶりに兄さんと親父の話をしたが、こう考えてみると親父も可哀想な人だったのかもしれないな」
「そうかもしれない。母さんは親父の悪口を一切言わなかったけど、母さんもそう思っていたんじゃないかな」
 ふとビルフランはロベールの話を思い出した。
 彼の話では、母はロベールよりも父を選んだという。もしかしたら、そのころの父はまだ祖父を目指す点で諦めていなかったのかもしれない。
「今頃、親父はどこで何をしているんだろう」
 どちらからともなく、その言葉が出た。以前なら憎しみがこもって吐かれたであろうその言葉も、その夜は二人の複雑な感情が込められていた。


 翌日ビルフランは、クリストフ・ヴィルヌーブ氏に挨拶するためにヴィルヌーブ商会に寄った。
「ビルフランか。元気だったかね。暫くこちらにはいるのかな」
「いえ、今日の昼にはこちらを発つ予定です。そうしたら暫くはパリに来られなくなりますので、挨拶に参りました」
「そうか。仕事のほうは順調なのかね」
「はい。おかげさまで工場は順調に動いております」
「よいことだ。わしはお前のためには何もしてやれなかったが、エドモンの孫たちが立派に育ってくれて、これほどうれしいことはない。オーギュストももう少し肩の力を抜いてくれたら、お前たちのような息子の姿を見られただろうに」
 クリストフが突然、父親の名前を出したので、昨日の夜の事もあり、ビルフランは彼に父親のことを聞いてみたくなった。
「クリストフさんは父のことをご存知なのですよね。クリストフさんから見て、父はどういう人だったのですか」
「オーギュストかい。まあ派手好きなところは確かにあったけど、根は真面目な男だったよ。だが商才はからっきしだ。でもそれを認めたくないもんで、あちこちから所謂”儲け話”を仕入れてきては、それに投資して失敗していたようだな」
「投資、ですか?」
 その話は初耳であった。ただ賭け事が好きだったという話しか聞いたことがない。
「そうだよ。知らなかったか?」
「知りません。私は父が賭け事にのめり込んでいたという話しか聞いたことがありません」
 それを聞くと、クリストフは少しの間考え込み、それから自分の考えを述べた。
「田舎の連中には、オーギュストの話す投資話も、賭け事に打ち興じているようにしか聞こえなかったのかもしれないな。あるいは、私もすべてを知っているわけではないから、本当に賭け事にも手を出していたのかもしれない。そうだったとしても、少なくとも最初のうちは、真面目に投資を考えていたのは事実だよ」
 クリストフはパリという離れた場所から見ているので、詳しい経緯はしらないかもしれない。しかし離れているからこそ判ることもある。ビルフランは彼の話をすべて鵜呑みにはしなかったが、その話を退けることもしなかった。
 結局のところすべては過ぎた話であり、今更、父親がどういう人物だったかを調べたところで、どうなるものでもない。それでも今日、クリストフの話を聞けたことで、ビルフランは長年胸の奥につかえていたものが取れたような気分になった。


「今日はありがとうございました。次にパリに来るときも、必ずお伺いします」
「ああ、待っているよ」
 ビルフランはクリストフに別れを告げてパリを後にした。
 その後姿を見ながら、クリストフは考え事をしていた。
 実を言えば、先日、パリの街中でオーギュストらしき人物を見かけたのである。ただそれは一瞬のことであり、本当に彼かどうかを確かめたわけではない。そしてビルフランから父親の話を聞かれたとき、そのことも話そうかと迷ったのである。
 しかし不確かな情報を伝えても、ビルフランを惑わすだけだと思い直し、結局はその話はしなかった。
「もしも本当にあいつが帰ってきて、彼らに謝る気があるのなら、自分から顔を出すだろう。私が口をだすことではない」
 クリストフはそう独り言をいい、事務所の中へと入っていった。

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