第十六章 不況

 ビルフラン・パンダボアヌの工場について、マロクール周辺に住む、一部の口さがない者たちは、一月と持たないであろう、あるいは半年もすればやっていけなくなるだろう、と噂していた。しかし一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年を経ても、そのような気配は微塵もなかった。
 ビルフランはこの三年間というもの、精力的に働き、着実に会社を大きくしていた。彼にとって、仕事に没頭する時間は充実した、何物にも変えがたい時間であった。
 しかしその彼にとっても、妻のオーレリーの体調は、変わらぬ心配の種であった。
 約一年に渡る入院生活で、ある程度体力も回復した時点で一応退院はしていた。但し、医師からは家に帰っても決して無理をしないように念を押されての退院であった。
 この無理をしない、という条件もあり、フランソワーズも引き続きエドモンの乳母を続けた。
 オーレリーも再び入院してエドモンと離れて暮らすことになりたくないと思い、無理をしないよう心がけてはいたが、それでも度々寝込むことがあった。そのたびにビルフランは以前のように起き上がれなくなるのではないかと心配したのである。
 そうは言っても、入院したころに比べるならずっと良くはなっていた。手放しで安心はできないとはいっても、オーレリーの元気な姿を見られるのは、ビルフランにとっても喜びであった。
 しかしさらに大きな試練が、ビルフランの前に立ちふさがっていた。


 その年、農作物の不作から、物価はどんどん値を上げていた。フランス全土に不況の波が押し寄せてきたのである。


 作っても売れない、という状況は、操業を開始してから数年しかたたないビルフランの会社にとって、致命的とも言えた。
 このままでは工員に払う給料もままならなくなる。
「商品の質を落としてでも、思い切って価格を下げるのはどうでしょう」
「いや、一度質が悪いと言う評判が広まると、余計に売れなくなる。質は下げるべきではない。それよりも生産量を減らして生き残りを考えるべきだ」
「私も同じ考えです。そのためには、工員の数も減らすべきでしょう」
「しかしそうしますと、景気が戻ったときに出遅れる可能性があります。この工場はまだ知名度が高くないことを考えますと、その出遅れは尾を引くことになりかねません」
「ではどうすればよいというのか」
「生産量も品質も落とさず、むしろ生産量を増やして、他国に売るルートを作るのです。他の会社は生産量を減らすでしょうから、その間に、わが社はシェアを広げることが出来ます」
 ビルフランは、リュック・アヴリーンを始めとする工場の主な監督や責任者を集めて、不況にどう対処していくべきか、意見を述べさせた。
 彼らが意見を出す間、ビルフランはそれを黙って聞いていた。やがて意見が出尽くし、彼らの目がビルフランの方へと注がれたとき、ビルフランは決断の言葉を発した。
「工場の生産は減らさず、質も落とさない。この不況を脱するとき、わが社は一回り大きくなっていることだろう」
 そのビルフランの言葉に一同は驚いた。彼らは社長がアヴリーンの言葉を取り上げるに違いないと考えていたからである。しかし実際にはトマスという男の語った拡大策を取り上げたのであった。
 そこにいた者たちには不満もあったが、アヴリーンがビルフランの決定を受け入れる姿勢を示したため、そこでは何も言わなかった。


「アヴリーンさん、あんな無茶な決定に従うんですか」
「この会社の社長はビルフランだ。それに必ずしも無茶な決定ともいえない」
 現場監督のマルコの疑問に、リュックはそう答えた。
 この工場がビルフラン・パンダボアヌ工場である以上、彼の決定に従うべきだと言うのが彼の立場であった。もちろん、本当に無謀な計画が遂行されようとしているなら、リュックも強硬に反対したであろう。しかし今回の方針は、彼の考えとは違うとはいえ、必ずしも無謀なものとは思っていなかった。
 少なくともリュック自身は、自分の意見をあの場ですでに口にしているし、また会社としての方針が定まったのなら、それに合わせて自分の行うべきことも見えてくる。
 さしあたり、彼は決定したことに関連して、一つだけビルフランに確認したいことがあった。
 リュックはマルコと別れてビルフランに近づくと、自分の考えを話した。
「今度の決定については、出資者でもあるタランベール氏にも伝えたほうがよろしいのではないですか」
 ビルフランはそれを聞いて、少し考えた。
「君はそうしたほうが良いと考えるのかね」
「この時期に工場を拡大するなら、タランベールの人々も不安に思われるでしょう。その理由を説明すべきだと思います。場合によっては追加の投資をお願いするかもしれないのですから」
「なるほど。では具体的な計画が完成次第、タランベール家に説明しに行くことにしよう」


 現時点では、ビルフランにとっても、この決定が正しい、という絶対の確信があるわけではなかった。ただ彼は常々この工場を、フランス一の工場にしたいと考えている。そのためには周囲が守りに入っているこの時期に、攻撃に出るべきだと判断したのである。
 この決定をジュリアンに伝えることについては、実を言えばリュックから言われるまで、まったく気付かなかった。しかし言われてみるとそれは当然であるし、また彼に伝えることで自分には気付かない点に気付かされるかもしれないとも考え、すぐにその手はずを整えたのである。


 そのジュリアン・タランベールは、丁度三ヶ月ほど前にフランスに戻っており、そのまま国内に留まっていた。
 ビルフランは彼の都合を確認した上で、改めてリュックと共に、今回の方針について説明するために、彼の屋敷を訪れた。
「なるほど、この不況時にそれだけの拡大策を取るのは、冒険だな。勝算はあるのかい」
 ジュリアンは話を聞き終わると、ビルフランに改めて尋ねた。
「もちろん成功させる自信はあります」
 確信をこめてビルフランは答えた。絶対に成功するとは断言できないが、自信がなければこの場に来てこの説明はしていないのである。
 しかしその答えに対しても、ジュリアンはさしたる感動を見せなかった。
「当然、自信はあるだろう。私は細かい口出しをするつもりはないが、一つだけ私の意見を言わせてもらおう。それを受け入れるなら、君たちの好きなようにするといい」
 これまで、ジュリアンが工場の経営や方針に対して、積極的に意見を述べたことはほとんどなかった。それだけに今回の申し出は異例と言えた。
「どんなことでしょうか」
「君の会社は、ブルトヌー氏やお兄さんの会社との取引が中心だ。これからはもっと積極的に、他の会社とも取引してもらいたい」
「それでしたら先ほど説明した計画の中にも・・・」
「いや、あれでは不十分だな。親族だからといって優遇したり、されたりしていては、会社を大きくすることなどできないよ。国際的な競争力を付けるためには、そうした甘えを許さず、他の取引先と同等に扱うべきだ。そうしないと、広い視野で物事を観る事ができなくなるしね」
 その言葉は、ビルフランにとっては厳しいものに聞こえた。
「工場のために親戚を切り捨てろとおっしゃるのですか」
「別に私もそこまでは言わないよ。ただ、君は会社を大きくする道を選んだ。そうするためには、親類だろうと何だろうと、取引する相手も選ばなければならないと言うことだ」
「それでは結果的に切り捨てることにはなりませんか」
「相手が君の計画に応じなければ、結果的にはそうなるかもしれない。だがそれは君のせいではないし、ましてや私のせいでもない。君が彼らを切り捨てたいと思わないのであれば、そうならないように説得するのも、君の仕事になるだろう」
 ビルフランはジュリアンの意見をもっともだと思いながらも、自分が果たしてそこまで徹することが出来るだろうかと不安になった。
 しかし一度工場を大きくすると決めてここに来た以上、それは受け入れるべき意見ではないだろうか。
 そう決心したビルフランは、ジュリアンに改めて礼を言った。
「分かりました。兄とアランには私から説明します」
「そうするのがいいだろう」
 ジュリアンは彼の決心を見て取ると、満足したように微笑んだ。
 実際のところ、彼が求めていたのは、その決意だった。いくら綿密に計画を立てたところで、失敗するときは失敗するのである。そのような失敗の可能性など、大きな問題とは考えなかった。
 計画を聞いたとき、ジュリアンが問題だと思ったのは、ビルフランに自分の会社だけでなく、親戚の経営している会社も一緒に成長させようという意図が感じられたことである。自分の会社の成功も定かではないのに、他人の会社のことまで考えるのは、それこそ差し出がましい行為であり、ビルフランが会社の経営に対してまだ甘い見方をしている証拠と考えたのである。
 まず自分の会社を固めること、他の会社の事を考えるのはそれからでも遅くはないはずであった。そしてその決意を求めたわけである。
 ジュリアンはさらに別の申し出をした。
「ビルフラン、君が取引先を増やしたいというのなら、私の知り合いを何人か紹介してあげよう」
 しかしその申し出に、今度はビルフランが難色を示した。
「ジュリアン様の紹介ということになれば、どうしても扱いが特別になってしまいますし、できれば自分の力で取引先を増やしたいのです」
「なるほど、それも一理あるかもしれないな。しかしこう考えてはどうだろう。君が私と知り合いなのも、君の力の一部なのだとね」
「そうでしょうか」
「そうだよ。例えば君が努力して、ある大きな会社と取引を開始したとする、そしてその会社が別な会社を紹介してくれたとして、君はそれを簡単に退けるかい」
「・・・いいえ、そうはしないと思います」
「そうだろう。他の人との関係というのは、良きにつけ悪しきにつけ、一つの財産だ。せっかくの財産を使わないというのは、もったいないだろう」
「そうかもしれません」
「それに私の紹介だからといって、相手が無条件で受け入れてくれるとは限らない。だがそうやって君が会う人を増やしていけば、そこからさらに新しい人間関係を築くこともできるだろう」
 そのように説明されては、断ることも出来ない。結局ビルフランは、ジュリアンからも紹介してもらうことにした。


 ジュリアン・タランベールの家を訪れた翌日から、ビルフランとリュックはこれまで以上に忙しくなった。新たな取引先を模索しなければならないし、そのために人を雇う必要もあった。
 とりあえず英語を扱える人が必要であり、ジュリアンの紹介でニコラ・フォーレという男を雇った。そしてリュックに工場を任せると、ビルフランはニコラと共に、幾つかの貿易商と交渉し、麻の仕入れや商品の買い上げについての交渉をした。
 その合間を縫って、ビルフランは兄とアラン・ブルトヌーの元へ、自分の会社の方針を説明しに行った。
 兄のフレデリックはその話を聞いて驚きの表情をした。
「ビルフラン、お前は多くの工員を養っている、ということを忘れてはいけないよ。もしもそれが失敗したら、彼らは路頭に迷うことになるんだ」
「もちろんわかっています。しかしもうそのために動き出していますから、今から変更はできません」
 その決心を聞いて、フレデリックはため息をついた。
「それなら仕方がないが、私を巻き込まないでくれよ。こっちも大変なんだ。お前の面倒までは見切れないからな」
 その言葉を聴いて、ビルフランは用件が言い易くなった。
「分かっています。今度からは兄さんの会社以外の会社とも積極的に取引することにしましたから、兄さんに迷惑はかからないと思います」
「そうか、ならいいがね」
 フレデリックはそれを聞いて、安心したような顔になった。


 一方、アランの元に伺ったときは、案の定いい顔をしなかった。
「つまりビルフラン、君はもう私の貿易会社から独占的に買い付けることはしないというんだね」
「そういうことになります」
 アランはせせら笑った。
「そうかい。じゃあ今日からは、君のところに卸す価格も値上げさせてもらう。うちだって苦しいんだ。これまでの2倍の値段にするよ」
 アランはこれまでの経験から、そう言えばビルフランが折れるだろうと考えていた。しかしビルフランはあっさりとその値段を引き受けた。
「そのかわり、次からは義兄さんのところより安い会社がありましたら、そちらから仕入れることにします」
 あまりにも呆気なくビルフランが引いたので、アランはかえって面白くなかった。それでも一気に売り上げが二倍になるのである。結局、彼はビルフランの申し出を渋々ながら受け入れることにした。


「いきなり二倍ですか」
 事務所に戻ってきたビルフランから話を聞いたリュックは、そういって驚いた。
「ああ、だが今回だけだろう。他の貿易商とも話をしたが、うちとの取引に興味をもってくれたところが幾つかある。アランもどうせ、いつか近いうちに値上げするつもりだっただろうから、いい機会だと思う」
 ビルフランは不満そうなアランの顔を見ることができただけでも、胸がすっとしていた。
 そしてリュックも二倍という価格には驚いたが、これもアランの会社を特別扱いしなくても良いという代償だと考え、それ以上は何も言わなかった。

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