第十九章 ぎりぎりの選択

「社長からもアヴリーンさんからも、まだ知らせはないのか」
 工場の留守を任されたマルコは焦っていた。すでに明日の仕事を行うための麻がない。この事態をどう乗り切ればよいのか、彼には全くわからなかった。
「マルコさん、社長から手紙が来ました」
 トマスがそう言って入ってくると、すぐにマルコは飛びついて手紙をひったくるように奪った。
 貪るように手紙を読んだマルコは、そこに書いてあることを見て大声を上げた。
「麻が入るまで、工場を休みにするなんて無茶だ!いったい、いつ麻が入ると言うんだ!」
 しかしそこには麻の入荷予定は記されていない。ただ、工員に対してどのように説明すべきかと、新しく入った工員たちへの教育をその間にするように記されているだけである。
 結局マルコは、ビルフランの言うとおりに事を運ぶしかなかった。


 あと二日、その間に必要な麻を揃えられるか?今までの様子では不可能に近いだろう。だが最初に事業を拡大すると決めたときから、困難な道を選んだことは分かっていた話である。
 諦めなければ、きっと道が開ける。ビルフランはそう考えていた。しかし一日が過ぎ、次の日も何ら収穫がないままに過ぎると、さすがのビルフランも落ち込んだ。
「もう仕方がない。明日、クロードの事務所へ行って、納期を延ばしてもらおう。来週に入荷する分なら、なんとか間に合うはずだ」
 肩を落としてそう語るビルフランを、ニコラは慰めた。
「私たちは全力を尽くしたわけですし、私たちが出来なかった仕事を他の工場が出来たとも思えません。クロードさんも分かってくれますよ」
 確かにその通りである。しかしビルフランとしては、他が出来ないことをやり遂げることで、パンダボアヌ工場の名を広めたいと考えていた。納期を延ばすことは、彼にとっては賭けに負けたのと同じであった。
「賭けに負ける、か」
 兄から自分の性格が父親に似ている、と言われたことを思い出した。確かにこういう傍目には無謀に見える賭けに出たことなどは、その通りだと思った。
 しかしだからといって、すべてを放り出して逃げ出すところまで似るつもりはない。明日一番に、責任を持ってクロードに謝りに行くことにして、その日は休むことにした。


 翌日の朝、ビルフランがクロードの元へいくための準備をしているとき、泊まっていた部屋の扉を叩く音がした。
「何のようだ」
「パンダボアヌさんにお会いしたいと言う方が、ロビーで待っています。仕事の話をしたいということです」
 何の話だろうと思い、ロビーへ出ると、そこに身なりの良い一人の女性が待っていた。
「始めまして、パンダボアヌさん。私、マリア・ゼーゼマンと申します」
 マリア・ゼーゼマンと名乗った女性は、にこやかにビルフランに近づいてきだ。
 ビルフランのほうは、仕事の話と聞いていたのに、女性がいることに戸惑った。
「始めまして、ゼーゼマンさん。お仕事の話をしたいとのことでしたが・・・」
「はい、私の夫がドイツで貿易会社を経営しておりまして、私も多少、手伝いをしているのです。ところであなたが麻を大量に探している、という話を伺ったのですが、本当でしょうか」
「ええ、昨日まで探しておりました。しかしもう期日に間に合いそうにないので、あきらめたところです」
 それを聞いて、マリアは少し残念そうな顔をした。
「ああ、そうでしたか。実は身内の恥をさらすようで申し訳ないのですが、私どもの会社で契約上のミスがありまして、まあ具体的に申しましたら仕入れ数の0を一つ多く書いたのに気付かないまま契約書を交わしてしまい、大変なことになっているのです」
 それを聞いてビルフランは勢い込んだ。
「品物は、もうこちらにあるのですか?」
「実を言うと、あなたのお話を聞きまして、当てにさせてもらいました。もう港に入っております」
 少なくとも来週まで待たずに必要数が手に入るのは大歓迎である。当然、取引する気であったが、彼の頭の中には、もっと違う思考が巡っていた。
 今から引き取ってマロクールまで運ぶとなれば、結局のところ丸一日潰れることになる。おそらく工場のほうでも今日は準備が出来ていないだろうから、実際の稼動再開は明日からとなり、四日間のロスになる。三日のロスなら、ぎりぎり遅れを取り返せると考えていたが、四日となると、どうだろうか?
「どうでしょう。お取引はやはりできませんか?」
 その言葉に現実に引き戻されたビルフランは、すぐに返事をした。
「え、ああ、もちろん、大歓迎です。すぐに商品を見せていただけますでしょうか」
 その言葉を聞いて、マリアも安堵した。
「無理を聞いていただいてありがとうございます。それではすぐにご案内しますわ」
「こちらこそ、もう諦めていたところでしたから、助かりました。準備をして、すぐに伺いますので、少しお待ちいただけますか」
「ええ、構いませんとも。こちらでお待ちしております」
 ビルフランはマリアをロビーに待たせると、すぐにニコラの部屋へ向かった。
「ニコラ、起きているか」
「ええ、もう出る準備は出来ていますよ」
 その声を聞くと、すぐに彼の部屋に入った。
「麻が手に入った!」
「え?」
「麻が手に入ったんだ!これから商品を見に行く。お前も一緒に来てくれ!」
「しかし、クロードさんのところはどうしますか」
「ぎりぎりだが、今手に入れば、まだ納期に間に合うかもしれない。クロードのところへ行くのは後だ。今は先に商品を見に行く。私もすぐに出る準備をするから、先にロビーへ行って、待っていてくれ。そこにマリア・ゼーゼマンという女性がいる。彼女が案内してくれることになっている」
 ビルフランはそう捲し立てると、すぐに自分の部屋に戻っていった。


 ビルフランとニコラがマリアに連れられて港まで行くと、そこには数人の男が待っていた。
「奥様、いかがでしたか?」
「パンダボアヌさんは取引に応じられますか」
「旦那様が病気でなければ、奥様にこのような事をお願いすることはなかったのですが」
 男たちは次々に口を開き、不安そうな顔で彼女に声をかけ、後ろにいるビルフランたちには気付かない様子であった。
「ええ、大丈夫ですとも。パンダボアヌ氏はもう私と一緒に来ております。商品を見たいそうですので、お見せしてから改めて商談に入ります」
 宥めるようそういって、マリアはビルフランとニコラを彼らに紹介した。とたんに彼らの顔は晴れやかになった。その中の一人が前に進み出て自己紹介した。
「お初にお目にかかります、私、ゼーゼマン商会のオットーと申します。このたびはご無理を聞いていただきまして、大変ありがとうございます。私どものほうでも、まさかこのような失態をしでかすなど考えられないことではあるのですが・・・」
「オットーさん、挨拶よりも、パンダボアヌ氏も早く品を見たいようですから、案内してあげてくださいな」
 マリアはオットーの挨拶を遮り、実務を急ぐよう促した。
「これは申し訳ありませんでした。商品はこちらにございます」
 オットーはすぐに二人を船の中に案内した。
 船倉で麻の質を確認したビルフランは、すぐに甲板に戻りマリアと商談に入った。
「よい麻です。よろしければこちらにある品すべてを引き取らせて頂きます」
「ええ、そうしていただけると、こちらも助かります。それでお値段ですが、そうですね、わたしどもの勝手で取引をお願いしましたので・・・」
 そう言ってマリアが持ち出した卸価格は、ビルフランの予想よりもかなり低かった。
「それではあまりにも低くありませんか?」
 思わずビルフランのほうが声を上げた。
「確かに今の相場よりはかなり低いですが、私どものほうでも、これを急いで捌かなければ、倉庫の保管料などでかなりの損害になるのです。こちらから持ち出したお話ですから、パンダボアヌさんのほうにご迷惑をかけるわけにはいきませんわ」
「しかし、私どものほうでも今、手に入らなければ仕事が間に合わないところだったのです。こちらとしてもありがたい申し出ですが、やはりもう少し上げていただいてもかまいませんよ」
 なにやら、売るほうが値段を下げ、買うほうが値段を上げるというおかしな具合になった。やがてビルフランが言った。
「ゼーゼマン夫人、私としましては、そちらとの取引を今回限りにしたいとは思っておりません。そのためにも今回は正規の価格で取引いたしましょう」
 ビルフランの言葉を聞いて、マリアも納得した。
「パンダボアヌさん、あなたとは長くお付き合いができそうですわ」
 そう言ってマリアは微笑んだ。


「社長、なぜ夫人が最初に言われた価格で取引をされなかったのですか」
 ニコラはビルフランと二人になったとき、小声でそう尋ねた。
「もしも相手がアランだったなら、二つ返事で応じたよ。だがゼーゼマン夫人は信頼できる方のようだ。もし私が今回の取引を安い値段で応じたなら、形はどうであれ、ゼーゼマン商会の弱みに付け込んだことになり、次の取引の時の印象が悪くなる。だが正規の値段で取引することで、いわば私は彼女に恩を売ることが出来たのだ。次からもゼーゼマン商会はうちとの取引を望むだろう」
 自分の会社が危ないときに、そこまで計算して取引することにニコラは驚いた。
「ニコラはとりあえず、こちらに残って、麻をマロクールへ運ぶ手はずを整えてくれ。私は荷馬車に詰めるだけつんで、今日のうちにマロクールへ戻ることにする」
「わかりました」
「実際に動くのは明日からだが、私が今日持ち帰る分はすぐになくなるだろう。明日の午前中には、品物の一部が届くように頼む」
「船から降ろした品をすべて一時に運ぶのは無理ですから、こちらにも倉庫を借りることになりますが」
「構わない。どうせ長くても半月だ。工場の在庫が足りなくなると困るから、むしろ急いで欲しい」
 細かい指示をニコラに出した後、ビルフランはマリア・ゼーゼマンに改めて礼を伝えるために会いにいった。
「わたしはこれで工場に帰りますが、このたびは本当にありがとうございました」
「いえいえ。私としても、夫が病気の間に会社が大損を出すところでしたから、パンダボアヌさんに品物をすべて引き取ってもらえて、本当に助かりましたわ」
「しかしご主人の代わりにお仕事をなさるとは、たいしたものですね」
「そんなことはありませんわ。夫が大変なときに夫を助けるのも、妻の役目だと思いますから」
 マリア・ゼーゼマンはにこやかに応えた。


 荷馬車に山ほど麻の苧を積んだビルフランは、夕方にマロクールに到着した。
 彼はすぐにマルコ以下の管理職を集め、明日以降の予定について話をした。
「みんなに心配させて悪かった。だが必要な麻は手に入った。今日持ってきた分の他は、順次カレーから送られてくるから、明日からフル稼働で働いてもらう。この仕事の成否に我が社と皆の命運が掛かっていると思い、どうかがんばって欲しい」
 ビルフランの激励に、皆もやる気になった。確かに出来るかどうかわからないが、少なくとも社長は仕事に必要な材料を手に入れてきたのである。こんどは自分たちの番である。
 彼らはすぐに工員たちに連絡をいれ、明日から工場が再開することを伝えた。いよいよ明日から仕事に戻れると言うことで、不安な数日を過ごした工員たちもやっと安心し、ますますきつい予定になったと言う話にも、やってやるという決意を漲らせるのであった。

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