第二十章 父の影

 パンダボアヌ工場が稼動してから今日まで、別に手を抜いてやってきたつもりはなかった。しかしこのたびの仕事と比べれば、それまでの仕事は遊びのようなものであった。朝早くから夜遅くまで、文字通り休む間もなく働き続けた。
 ビルフランも毎日残業をし、相変わらず帰りは遅かった。
 その日もビルフランは夜遅くまで進捗状況のチェックをし、翌日の予定を練り直していた。
 そのとき、事務所の扉が開いた。彼はマルコか誰かが忘れ物を取りに帰ってきたのだろうと思い、顔も上げずに仕事を続けた。
「あなた」
 突然、呼びかけられて、驚いて顔を上げると、そこにはオーレリーが立っていた。
「オーレリー、こんな時間にどうしたんだ」
「あなた、毎日帰りが遅いじゃないですか。夕食も満足に食べていらっしゃらないようなので、届けに来ました」
 確かに彼女の手にはバスケットがぶら下げられていた。
「だがこんな遅くに一人で工場まで来るなんて」
「そんなに遠くありませんわ」
「それにしても、おまえの体のこともある。こんな無理をしては」
「ビルフラン」
 オーレリーはビルフランの言葉を遮り、少し強い口調で話し始めた。
「確かに私は出産と前後して体調を崩したので、あまり動いたりはできませんでした。ですが私も結婚するまでは普通に働いていたんですよ。あなたが私のことを心配してくれるのは嬉しいですが、同じように私もあなたのことが心配なんです。あなたが苦しんでいるときに、私は何もせずに休んでいるほうが、私にとっては辛いのです。確かに私には、あなたが工場でしている仕事のお手伝いをすることはできないかもしれませんが、今の私にできることで、あなたを助けるのが悪いことでしょうか」
 オーレリーは一気に捲し立てた。ビルフランは呆然と彼女を見つめていたが、やがて立ち上がり、彼女に近づいてその肩を抱いた。
「すまなかった。もちろん、お前が私のことを心配してくれるのは、私にとっても嬉しいことだし、私を助けてくれることが悪いはずがない。ただ、無理をしてまた倒れるようなことがあっては、という私の気持ちも分かって欲しい」
「私だって、無理をしてエドモンとまた離れなければならなくなるのは嫌よ。だから無理なんかはしないわ」
 オーレリーがエドモンのことを口にして、ビルフランも暫くエドモンの顔を見ていないことを思い出した。
「そうだ、エドモンは元気かい。私も父親として失格だな。エドモンの様子も知らないなんて」
「ええ、元気よ。今日はエドモンを寝かせてからこちらにきたの」
「そうか。もう少しで仕事が片付くから、それまで待ってくれ。終わったら一緒に帰ろう」
「その前に食事をしてはどうですか。折角持ってきましたから」
 結局、ビルフランはその場で食事をすることになった。


 翌日から、オーレリーは仕事の日は毎日、工場に来るようになった。
 休憩も取るのが難しいほどの忙しさの中、彼女が昼と夕方の二度、事務所にいる人数分だけ食事を届けてくれるのは、彼らにとっても大助かりであった。
「オーレリーさん、いつもありがとうございます」
「とんでもありませんわ。私にできることはこのくらいですから」
 オーレリーは生き生きと昼食を配った。もしも可能なら、工場で働く工員すべてに配りたいほどであったが、さすがにそこまではできなかった。
 ビルフランのほうも、彼女が無理をしているのではないかと内心では心配していたが、それでも彼女のやりたいようにやらせていた。なぜなら彼女の生き生きとした顔を見るのは久しぶりだったからである。
 仕事のほうも、工員たちが予定以上の働きをしたおかげで、期限一週間前の時点で、なんとか間に合う目処がたち、ビルフラン以下の幹部陣も、まだ終わっていないとはいえ、ほっと胸をなでおろした。
 もちろん、品物を納品するまでは油断はできない。改めて気合を入れながらも、この仕事が終わった後の仕事のことをビルフランは考え始めていた。
 実のところ、今の仕事が終わったあとの仕事が全くなかった。この仕事に全力を入れるために、他の仕事はすべて断っていたためである。今まで余りにも忙しくてその先のことを考える余裕がなく、ただパリに留まっているアヴリーンと、カレーに残っているニコラに対して、手紙で次の仕事を探すように指示を出しただけであった。
 しかしパンダボアヌ工場が無謀ともいえる仕事に手をつけている、という話は当然の如く広まっており、多くの会社が今の仕事の結果が出るまでは、仕事の依頼は見合わせようと考えていた。
 今の仕事の目処が立った今、ビルフラン自身が再び営業に動くことで、会社として余裕を見せる必要を感じていた。
 しかしこのとき、ビルフランの前に、別の問題が持ち上がろうとしていた。


「ビルフラン、ちょっといいかい」
 村で下宿屋を開いたドミニクと言う男が、会社の昼休みに訪ねてきた。
「なんでしょう」
 ビルフランは事務所に通して聞こうとしたが、他のものに聞かれたくない様子なので、結局、彼と一緒に外へと出た。
 ちょうど事務所に来ていたオーレリーも、そのときに一緒に外に出、外で別れを告げて家へと帰っていった。
 ビルフランと二人になるとドミニクは話を始めた。
「実はお前に言うべきか悩んだんだが、やはり言ったほうが良いと思ってな。おそらくお前は気付いていないだろうから」
 言い出しにくそうにしているドミニクに対し、ビルフランはすべて話すように促した。
「実は俺のところにガストンという男が下宿しているんだ。もちろん、お前の工場で働いている男なんだが・・・」
 ビルフランはガストンと言う男を思い出そうとしたが、思い出せなかった。この一ヶ月で人がかなり増えた上に、そのほとんどがビルフランの留守にしている間のことだったため、まだすべての工員を覚え切れていないのである。
「それでその男がどうかしましたか。何か迷惑をかけたでしょうか」
「いや、迷惑とかそんなことはないんだがね、どうも以前に見たことがあるような気がしていたんだ。それが誰なのか、思い出せないでいたんだが、今朝、やっと思い出したんだ」
 ビルフランの胸中を嫌な予感が走った。
「誰なんですか」
 ビルフランが不安を隠して尋ねると、ドミニクはビルフランの顔をじっと見つめながら答えた。
「お前の親父さんだよ。オーギュストに似ているんだ」
 ああやっぱり、と思いながらも、ビルフランは努めて冷静に返事をした。
「似ているといっても、他人の空似ということもあります。それに名前も違うじゃあないですか」
「だが声も似ているし、この辺りの訛りがある。あまりしゃべりはしないが、この村のことに妙に詳しいんだ。それに名前を変える理由は、俺たちよりもお前のほうが良く知っているんじゃないのか」
 実際、その通りである。だがそれでも認めたくはなかった。
「少なくとも、名乗り出ない以上は父親ではありませんし、一工員にすぎません。ドミニクさんもそのつもりでお願いします」
 ビルフランは冷めた声でそう言った。
 ドミニクにもビルフランの気持ちは分かった。借金を残し、家族を捨てて逃げた男を簡単に許すことはできないであろう。
 それでも彼は言わずにいられなかった。
「なあビルフラン、お前が父親のことを良く思っていないのは分かるし、実際のところ、この村のものでオーギュストに同情するものなどいないのも事実だ。だが彼が私のところに下宿している以上、そのうちに村でも噂になるのは目に見えている。お前はそのときどうするつもりだ」
 しかしビルフランはその問いに答えず、事務所へと戻っていった。


「マルコ、今月に入ってから工場で働きだした工員の名簿はどこにある」
 事務所に入ったビルフランは、感情を出さずに尋ねた。
「工員名簿なら、そこの棚に入っていますよ」
 すぐに言われた棚に近づき、工員名簿を取り出した。
 パラパラとめくってゆき、目的の人物をそこに見つけた。
『ガストン。ピカルディー出身。年齢六十一才』
 そこにはその程度の事しか記されていなかった。これだけではこの人物が本当に父親かどうかは分からなかった。
 ビルフラン自身、工場に戻ってから何度か朝礼を開いているし、工場の見回りもしている。もしも父親らしき人物がいれば、気付くのではないだろうか。
 しかし、もしも相手がビルフランに見つからないようにしていたなら、人も多くなったことだし気付かないかもしれない。
 そんなことを考えている自分が、その人物を父親と決め付けていることに気付き、無性に腹が立った。
「社長・・・」
「なんだっ!」
 思わず声を荒げてしまい、声をかけたトマスは驚いて首をすくめた。
「あ、いや、すまなかった。少し考え事をしていたものでな。何の用事だ」
「午後の会議がもう始まりますが・・・」
「ああ、そうだったな。すぐに行く」
 ビルフランは名簿を閉じて席を立った。


 そのころオーレリーは工場に昼食を届けて、ちょうど家に着いたときであった。
 家の庭でフランソワーズとエドモンが遊んでいた。
「おかえりなさい、おかあさま」
「ただいま、エドモン」
「おかえりオーレリー」
 駆け寄ってきたエドモンは、オーレリーに小さな花束を差し出した。
「おかあさまのためにつんだんですよ」
「まあ、ありがとう」
 エドモンから花束を受け取ったオーレリーは、花の匂いをかいだ。
「ああ、いい香りね」
 その様子をエドモンは嬉しそうに眺めていたが、なぜかフランソワーズは浮かない顔をしていた。
 オーレリーもすぐにそのことに気付き、彼女に話しかけた。
「フランソワーズ、なにかあったの」
「たいしたことじゃないんだけどね」
 そう言いながら、エドモンのほうを見た。エドモンの前では話しにくいのだろうと考え、オーレリーはエドモンに向こうで遊んでいるように行った。
 エドモンがいなくなると、フランソワーズは口を開いた。
「実は今日、村で買い物をしていたときに耳にした話なんだけど、パンダボアヌ工場にオーギュストさんに似た人がいるっていうんだよ」
「お義父さんに?」
 フランソワーズもオーレリーも、オーギュストが村を出て行ったときは、まだ小さかったので、他人の親の顔などほとんど覚えてはいない。だから彼女たちが自分で本人かどうかを確認することはできなかった。
「他人の空似かもしれないけど、一応、あなたにも知らせておいたほうがいいかと思ってね。もしかしたらビルフランからも話があるかもしれないし。ただ、あなたからは話さない方がいいかもしれないわね」
 確かにオーレリーは、ビルフランと義父の話をあまりしたことがない。とはいえオーレリーも、義父がどういう人物だったかについては、多少は聞いている。ビルフランが話し出さない限り、その話ができるとは思えなかった。
「そうね、とりあえず暫くは黙っていることにするわ。教えてくれてありがとう」
 オーレリーはフランソワーズに礼を言った。
 時間がすべてを解決するわけではないが、何事にも時がある。まずはその義父に似ているという人が、本当にその人なのかどうかがはっきり分かるまでは、黙っていよう。
 心の中でオーレリーはそう考えていた。

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