第二十一章 オーレリーとガストン

 クロード・ディシャンから受注した仕事は、納入期限の前日の夜、無事に全てを作り上げることができた。これまでに出来上がった分は既にカレーへと送っているため、あとは今できた分を梱包し、明日の朝一番でカレーへと送るだけである。
 一時は諦めかけていた分、達成感は大きかった。工員たちも皆が喜んだが、一人ビルフランは笑顔と裏腹に、暗い気持ちが心を占めていた。
 ドミニクから聞いた話を自分では信じないと決めていた。だからいつもの工場巡回時間をずらしたのも、仕事の関係で仕方がなかったことであるし、そのときにガストンと言う人物の顔を遠目で確認したのも、工場で働く全ての工員を把握するという、以前から自分に課している方針に沿ったに過ぎないことである。
 しかし当人を目にしたときに、「ああ、ずいぶん老けた」と思ってしまったことは、自分が実際にはドミニクの話を信じていたことを意味している。ビルフランはそう思った自分に苛立ち、また戸惑った。
 それでもドミニクにも言ったとおり、ビルフランはガストンと言う父親に似た人物を、ただ自分の工場で働いている工員として扱い続けた。少なくとも、ビルフランのほうからガストンが本当に自分の父親かどうかを確認する気はなかった。彼に対する感情を全て押し殺したのである。


 翌日の早朝、ビルフランは荷馬車を駆ってカレーへと向かった。クロードに最後の品を引き渡すためである。
 カレーに到着したビルフランを、クロードは諸手を上げて歓迎した。
「いや私の方から頼んでおいてこんなことを言うのも失礼ですが、よく間に合わせてくれました」
「実を言えば私も思うように麻が手に入らなくて、諦めかけたときがあったんですよ」
「ええ噂は聞いていました。パンダボアヌさんがあちこちに声をかけて麻を買いあさっていると言う噂をね」
「本当に運がよかったんですよ。実際」
 ビルフランは謙遜したが、クロードはそれを否定した。
「確かに運の一言で片付けてしまうことも出来ますが、私はあなたが最後まで諦めずに遣り通そうと努力してくれた結果だと思っています。だからこそその噂が伝わり、あなたのところに必要な材料が集まってきたんです。とにかく、ありがとうございました。契約の通り代金の半額は今日、お渡しできますので、事務所によってください」
 ビルフランは品物をディシャン商会の社員に引渡し、彼の事務所へと向かった。


 これまでの忙しさと対照的に、一時的に仕事が切れたパンダボアヌ工場は、幹部や事務員と一部の工員を除いて臨時の休日となった。
 それまで仕事の日は毎日、事務所まで昼食を届けていたオーレリーも、その日は工場へは出かけず、家の近くをエドモンと一緒に散歩していた。
 そのとき、向こうから老人が一人で歩いてくるのが見えた。何か考え事をしている様子であったが、彼女たちに気付いた瞬間、うろたえたような態度を見せた。
 それは本当に一瞬のことであり、互いに何事もなくすれ違ったが、彼女はその老人がビルフランの父親であると直感した。
 フランソワーズからは工場にそれらしい人がいる、という話しか聞いていないし、顔も分からないので、その老人がフランソワーズの言う人物かどうかも分からなかった。しかしこの人物は間違いなくビルフランの父親に違いない、となぜか確信した。
 オーレリーはすれ違って二、三歩過ぎてから振り返り、この老人に声をかけた。
「あの、工場で働いている方ですよね」
 後ろから声をかけられた老人は、驚いた様子で、恐る恐る振り向いて返事をした。
「ええ、少し前からここの工場で働いていますが」
「そうですか。先日まで忙しかったので大変だったでしょう。お名前は何というのですか」
「・・・ガストンと言います」
 ああ、やっぱり。少なくとも、村人たちはこの人の顔が義父と似ていると認めているんだ。
 オーレリーは彼に直接問い質そうかと考えたが、さすがにそれは思いとどまった。彼女自身は確信しているとはいえ、万が一、間違っていたらという思いがなかったわけではない。しかしそれよりも、エドモンと一緒にいることが最大の理由であった。子供の前でこの老人を問い質すことはしたくなかったのである。
「・・・これからもお願いしますね」
 少しの間があったが、ガストンは再び口を開いた。
「その・・・その子の名前は何というんで?」
「エドモンといいます。さ、エドモン。ガストンさんに挨拶なさい」
「こんにちは、ガストンさん」
 母親に促され、エドモンはそう挨拶した。
 するとガストンはゆっくり近づいてきて、彼の頭を撫でた。
「いい子だね。お母さんの言うことをよく聞くんだよ。さ、このキャンディーをあげよう」
 そう言ってポケットから出したキャンディーは、包み紙の様子からすると、暫くの間そこに入ったままだったようである。
 エドモンは母親の顔を見てから、ガストンの差し出したキャンディーを受け取った。
「ありがとうございます」
 オーレリーが礼を言うと、ガストンはそれ以上何もしゃべらずにその場を立ち去った。
 確かフランソワーズの話では、彼はドミニクの下宿に住んでいるはずである。後でもう一度会いに行こう。そしてビルフランが何といおうと、家に連れて帰ろう。彼女はそう決心した。


 クロードはビルフランに小切手を切ると、すぐに次の仕事の話を持ち出した。
「今度はこんなに急でもないし、大量でもないが、また仕事を頼みたいんです。引き受けてもらえるでしょうか」
 その言い方を聞いて、ビルフランは笑った。
「今度、あんな仕事が来たなら、こっちから断りますよ。それでどんな仕事でしょう」
 二人はそのまますぐにその取引の打ち合わせに入った。


 ビルフランはクロードの元を出てから、ニコラのいる事務所へと向かった。
 するとそこには既に客が来ており、ニコラが取引の話をまとめているところであった。
 その場はニコラに任せ、客が帰ってからビルフランはニコラに尋ねた。
「なかなか仕事がないという話だったが、今日は仕事が来たようだな」
「仕事が来たどころじゃありませんよ。これでもう三件目です」
 ニコラは笑いが止まらない、という様子で語りだした。
 どうやらパンダボアヌ工場が、とんでもない量の仕事を納期までに完成させた、という話がすでに港に広まっているようで、それまで仕事の発注を控えていた幾つかの会社が、仕事を持ってきてくれたと言うのである。
 ビルフランはすぐにその契約書全てに目を通した。どれも大きな仕事ではないが、確実に仕事が入ってくることは、何よりも大切である。
「こちらも、ディシャン商会から次の仕事をもらったよ。これはまた忙しくなりそうだ。本当は今日はこちらに残って営業に回ろうと思っていたが、この仕事をすぐに持ち帰ったほうがよさそうだ」
「そうですね。ところで今日は向こうから来てくれた方がいましたが、やはり営業にも回らなければいけませんし、事務所に残って、来客者に対応する者も必要です。こちらの事務所で働くものをあと二、三人増やしたいのですが」
 それまではニコラ一人でカレーの事務所を切り盛りしていたのである。ビルフランはすぐにニコラの話を取り上げた。
「一人はマロクールからこちらに来させよう。後の人員は君に任せる。雇った者の名簿は後でマロクールに届けばそれで構わない」
 そう答えながら、ビルフランは全身に力が漲る思いであった。いよいよパンダボアヌ工場が躍進するときが来た。そう感じたからである。
 ビルフランはニコラに二、三の指示を出した後、事務所を出た。
 彼はそのまますぐにマロクールに戻るつもりであった。しかし彼を呼び止める声が聞こえたので、馬車を出すのをやめて振り返ると、向こうからアラン・ブルトヌーが走ってくるのが見えた。
「ビルフラン、カレーまで来てうちの事務所によっていかないなんて水臭いじゃないか」
 息を弾ませながらやってきたアランに対して、ビルフランは極力丁寧に答えた。
「すみません、義兄さん。すぐに次の仕事に入らないといけないものですから」
 それを聞くと、アランは妙に愛想のいい笑顔を見せた。
「ずいぶんとこの不況のときに、景気のいい話をしているじゃないか。ところで麻は足りているのかい。うちのところから買いたいなら、何時でも言ってくれよ」
「ありがとうございます。ですが今のところ私のところに麻を卸してくれる業者が何社か見つかっていますので、大丈夫ですよ。それでは急いで工場へ帰らなければいけないので失礼します」
 しかしアランはビルフランの馬車に強引に乗り込んできた。
「まあ、そんなに急ぐなよ。お前がディシャン商会から引き受けた仕事を立派にやり遂げた話は俺も聞いたよ。たいしたもんだ。俺も兄として鼻が高い。だがいつまでもその景気が続くとは考えないほうがいいぞ。俺の経験からすると、大きな仕事の後は大抵、仕事が来なくなるもんだ。そうしたときにやはり頼りになるのは身内だぞ」
 恐らく、ビルフランの成功を聞いて、自分もその分け前に預かりたいと考えているのだろう。
 そう思うと少し嫌な気持ちになったが、その感情は表に出さず、アランの話を聞き続けた。
「お前が他の会社との取引をするのも構わないさ。だがやはり俺との取引も、これまでどおり続けたほうがいいと思うね。これは俺の忠告だよ。いざと言うときは、いろいろと助けにもなれるしな」
 もちろん今となっては、ビルフランのほうからアランと付き合う必要はなかった。彼との取引をしなくても十分商売をやっていく自信があった。
 しかし何といっても、彼は姉の夫である。商売上の付き合いをなくしたところで、兄弟間の付き合いまでなくなるわけではないだろうが、それでもどこかよそよそしくなるのは明らかである。
 結局、ビルフランはこれからもブルトヌー商会とも付き合うことを約束した。工場の経営的には付き合う必要はなかったが、身内的にその理由があったからである。


 オーレリーは家に帰るとすぐにエドモンを寝かしつけ、フランソワーズを呼んだ。
「ねえ、私さっきエドモンと散歩をしていたとき、あなたが話していたガストンと言う人と道で話したのよ」
 それを聞いてフランソワーズは驚いた。オーレリーはさらに話を続けた。
「そのときはただ挨拶と差しさわりのない会話をしただけなんだけど、私はやっぱり、あの人はビルフランのお義父様だと思う」
「何か理由があるの」
「うまく説明できないんだけど、あの人が私たちを見たときの反応が、普通じゃないようだったのよ」
「息子の嫁を前にして、驚いたのかしらね」
「それから、エドモンにキャンディーをくれたのだけど、それもポケットに入れっぱなしになっていたようなのよ」
「それがどうかしたの」
「多分、エドモンに会う機会があったら渡したいと前から用意していたんじゃないかと思うのよ。だけどその機会がなくて、ポケットに入れっぱなしになっていたんだわ。そうでなければ、自分ですぐに食べてしまうか、もっと早くに他の人にあげてしまうわよ」
 そう聞くと、確かにその通りである。
「だけど、もしそうだとしたらどうするつもりなの。あなた、この間は静観すると言っていたけど」
「あの時は疑っていたけど、今は疑っていないもの。今から訪ねて、本心を聞いてくるわ」
 それを聞いて、フランソワーズは絶句した。

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