第二十二章 去りし人

 オーレリーは一人でガストンの元を訪ねると言ったが、フランソワーズが反対し、結局二人で行くことにした。寝ているエドモンをナタリーに任せ、すぐに二人はドミニクの下宿へと向かった。
 その間、二人は無言であった。
 オーレリーも訪ねると意気込んで出ては来たが、実際に彼に会ったとき、何を言うべきか考えてはいなかった。
 いきなり問い詰めるのか、それとも婉曲に尋ねるべきか。
 婉曲に尋ねると言っても、突然、息子の妻が来たなら、その時点で相手も目的は判るであろう。しかし偽名を使っている相手をいきなり問い詰めるのも変な気がする。
 そこまで考えたとき、改めて、なぜ偽名まで使って工場に潜り込んだのだろうか、という疑問がわいてきた。
 そしてその理由を考えているうちに、だんだんと最初の確信が弱まり、やはり別人だったのではないかと言う気がしてきた。
「オーレリー、顔色があまり良くないわよ。やはり今日はやめておいたほうが良いんじゃないかしら」
 それまで黙っていたフランソワーズが、心配そうにオーレリーに声を掛けた。
 しかしオーレリーは、フランソワーズに声を掛けられたことで、かえって勇気がわいた。
 別人かどうか、確認もしないで悩んだところで仕方がない。明日には再び工場も稼動するであろうから、今日を逃せば日曜まで待たねばならない。そしてそのときにはもう彼がいないような気がしたのである。
「いいえ、大丈夫よ。少し考え事をしていただけ。それよりも、とにかくもう一度会いたいのよ」
 そう、まずは会ってみよう。オーレリーはそう決意し、後のことは会ってから考えることにした。


 下宿の近くまで来た時点で、フランソワーズが、いきなり女性だけで押しかけるのはどうだろうかと言ったため、とりあえず二人はドミニクの家に寄ることにした。
「こんにちは、ドミニクさん」
「ああ、オーレリーじゃないか。こんなところまでどうしたんだい」
 一瞬、躊躇しながらもオーレリーは単刀直入に聞いた。
「実はドミニクさんの下宿にガストンさんという方が住んでおられると思うのですが、その方とお会いしたいと思ったのです。もしもよろしければ案内してもらえないでしょうか」
 それを聞いてドミニクは困った顔をした。
「構わない、と言いたい所だが、実はあの男は今朝、下宿を出てったよ」
 それを聞いてオーレリーは驚いた。
「別の下宿に引っ越したのですか?」
「いや、工場をやめてパリに帰ると言っていたな。なあオーレリー、俺はビルフランにあの男がお前の父親じゃないかと言ったんだが、やはりそうだったのかい」
「いえ・・・私にも分からないのです。それを確認したいと思って伺ったんですが・・・」
 オーレリーとフランソワーズは、これ以上ここにいても仕方がないと考え、ドミニクの家を出た。
「フランソワーズ、これから私、工場に行こうと思うのだけど」
 突然、真剣な顔でオーレリーがそう言い出した。
「なぜ?工場をやめてパリに帰ったとドミニクも言っていたじゃない」
「だけどまだ今日は週の半ばよ。昨日までのお給金を受け取りに行っているかもしれないわ」
 確かに給料は普通、週末に支払われる。工場に寄らずに帰っては、昨日までの仕事がただ働きになってしまうだろう。
「そうね。もしかしたら何か分かるかもしれないわ」
 フランソワーズも同意して、今度は工場へと向かった。


 工場の事務所に入ると、そこにはトマスが一人で仕事をしていた。彼はすぐにオーレリーが来たことに気付き、立ち上がって挨拶をした。
「こんにちはパンダボアヌ夫人。社長はまだお帰りになっておりませんが」
「知っていますわ。今日はあなたお一人?」
「他のものはマルコと工場の機械の整備に行っています。何の御用でしょうか」
「実はこの工場で働いていた人のことを知りたいのですが、ガストンさんという方、工場を辞めてパリに帰られたのは本当でしょうか」
「工場を辞めた?少しお待ちください」
 トマスはすぐに書類を調べ始めた。
「別に退社すると言う話は聞かされておりませんが」
「ですが、下宿のほうでは、今朝引き払ったと聞きましたが・・・」
「時々いるんですよね。仕事が辛くなって逃げ出す工員が。しかし週末まで待てば、少なくとも最後の賃金を受け取れたものを」
「それでは昨日までのお給金は受け取らずに辞めたのでしょうか」
「今日、立ち去ったのであれば、そういうことになります」
「彼がパリでどこに住んでいたかは分からないでしょうか」
 なぜ社長夫人が、たかが一工員のことをここまで気にするのかと不思議に思ったが、それでもトマスは工員名簿を取り出して調べた。
 オーレリーはその住所を聞くと、トマスに礼を言って事務所を出た。
「どうやら工場にも何も言わずに出て行ったようね」
 フランソワーズがそういうと、オーレリーはメモを見ながら答えた。
「ビルフランは数日帰ってこないと思うわ。私、ここへ行ってこようと思う」
「オーレリー!あんた・・・」
「本当ならビルフランに行ってもらいたいけど、忙しい人だし、頑固だから自分からは行かないと思うのよ。だけど私が行ったと知ったなら、追いかけてくるわ。明日の朝、出発します」
「私は反対よ、オーレリー。あなたがパリまで行ったら、エドモンはどうするの。それにまだ本当に父親かどうかも分からないじゃない」
 フランソワーズが必死になって止めたため、オーレリーもしぶしぶ、ビルフランが帰るまでは待つことにした。
 ビルフランは今朝、次の仕事を探すためにカレーへ行っており、二、三日は帰らないかもしれないと言っていた。そうなれば、パリへ行くのは早くても来週以降ということになるだろう。
 そんなことをオーレリーは考え、その間にまたどこかへ行ってしまうのではないかと不安を感じた。
 しかしその予想は半分外れた。ビルフランはその日の夜に帰ってきたのである。


 突然、玄関の扉を叩く音がして、何事かとナタリーが玄関へ向かうと、外からビルフランの声が聞こえた。
 慌てて玄関の鍵を外すと、ビルフラン本人が中へ入ってきた。
「あの、お戻りは二、三日後と伺っておりましたが」
「予定が変わって、すぐに戻らねばならなかったのだ。何でもいい。食べるものはあるか」
「すぐにご用意します」
 急いでナタリーが台所へ向かうと、今度はオーレリーが出てきた。彼女もビルフランが突然帰ってきたことに驚いたと同時に、また不安も感じた。
「あなた、何かあったのですか」
 しかしビルフランは機嫌良く彼女に答えた。
「次の仕事が、昼前にもう四件も入ったのだ。明日からすぐに取り掛からないといけないからな。急いで帰ってきた」
 それを聞いてオーレリーも安心した。
「そうでしたか。それは良かったですね」
「ああ、明日からまた忙しくなる」
 ビルフランの機嫌が良いことを確認したオーレリーは、それでもすぐにはガストンの件を持ち出すことはしなかった。
 突然の帰宅であったため、ビルフランの分の食事は用意されていなかった。オーレリーはナタリーを手伝い、急いで食事の準備をすると、彼の前に座った。
「急いだのでたいしたものはありませんけど」
「構わないさ。私も突然帰ってきたのだから仕方がない」
 ビルフランはそういうと、祈りを捧げてから食事を取り始めた。
 その様子をオーレリーは暫く黙って見つめていたが、おもむろに話を切り出した。
「今日、散歩をしていたら工員の方にエドモンがキャンディーをもらったんですよ」
「ほう、そんなことがあったのか」
 さほど興味がない様子だったが、オーレリーは構わずに話しを続けた。
「それでお礼をしようと思って、後で下宿を伺ったのだけど、立ち去った後だったのよ」
「留守にしていただけじゃないのか」
「いいえ。大家のドミニクがパリに帰ったといっていたので、間違いじゃないわ」
 ドミニクの名前が出てきて、ビルフランはどきりとした。
「ドミニクの下宿の男なのか」
「ええ。ガストンさんという方よ」
 オーレリーはさりげなく名前を出したが、ビルフランは明らかに動揺していた。
「その男はパリに帰ったと、ドミニクが言ったのか」
「ええ。それで週中に帰るなんてと思って事務所で確認したら、退社の届出もしていないし、当然今週の賃金も支払っていないといっていたわ」
 そこで言葉を切って、オーレリーはビルフランを見つめた。ビルフランのほうもオーレリーを見つめていた。
 暫くの沈黙の後、ビルフランが先に口を開いた。
「あの男の噂を聞いたのか」
「ええ。そして今朝会ったとき、その噂は本当に違いないと思ったわ」
「証拠がない。本人ならこそこそと戻ってこないで、きちんと出てくればいい」
「出たいと思っても、出ることが出来なかったのではないかしら。あなたから声を掛けてもらいたかったのではないかしら」
 必死の思いでオーレリーは訴えたが、ビルフランはその言葉を退けた。
「私から声を掛ける気はない。親父が何かを伝えたかったのなら、自分のほうから言いに来るべきだ」
 しかしその言葉をオーレリーは聞き逃さなかった。
「あの人が父親であることは認めるのね」
 その質問に、ビルフランは無言で答えた。
「あなたが行かないのでしたら、私があの人をパリまで探しに行きます」
「その必要はない」
 その声はオーレリーもぞっとするほど冷たかった。しかし彼女はここで負けてはいけないと考え、さらに自分の考えを訴えた。
「あなたのお義父さまに対する感情は分かります。ですが、お義父さまはあなたの工場の危機を聞いて、手伝いたいと思ったのではないでしょうか。そしてその仕事が終わったので、身を引いたのではないですか。あなたはその方を無視できるのですか」
「この話はもう終わりだ。あの男の事は、私とは関係ない」
 ビルフランはそう言って話を打ち切ろうとしたが、オーレリーはさらに食い下がった。
「あなたがそこまで強情を張るのでしたら、せめて私があの人に残りの賃金を支払いに行くことを許してください」
「なぜその必要がある。仕事を途中で辞めて勝手に帰ったのは、あの男自身だ。こちらから探して渡しに行くことなどない」
「それは工場の方針でしょう。このことは私の勝手です。賃金も私の財布からお支払いします」
 ビルフランはこれ以上、ガストンに関する話をオーレリーと続けたいとは思わなかった。しかしオーレリーの様子では、簡単には話をやめそうに思えない。
「勝手にするがいい」
 ぶっきらぼうに言ったその言葉は、ビルフランの根負けを意味していた。

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