第二十三章 パリの夜

 オーレリーはすぐにでもパリへ行って、ガストンを探すつもりであったが、そうも行かなかった。次の日の朝、エドモンが熱を出したのである。
 フランソワーズがいるとはいえ、さすがに病気の息子を放っておいて探しに行くことはできなかった。
 結局、一週間過ぎてエドモンが良くなってから、オーレリーはパリへと出発した。ビルフランは彼女の出発を止めなかったが、見送りもしなかった。
「結構、二人とも頑固だから」
 エドモンと共にオーレリーを見送ったフランソワーズは、そうつぶやいた。


 不景気にもかかわらず、パンダボアヌ工場には順調に仕事が舞い込んでいた。
 他の工場が尻込みしたディシャン商会の仕事を納期までに全て納めた、という評判が広まったことに加え、ゼーゼマン商会との取引のときに、相手の足元を見ずに適正な価格で麻を買い取ったという話も広まり、「パンダボアヌ工場は信頼できる」という評価に繋がったのである。
 当然、ビルフランも忙しかった。
「ガストンのことなど構っている暇はないのだ」
 彼はそう考えていた。いや、考え込もうとしていた。
 もしも本当にビルフランがガストンのことなど構っている暇はない、と考えていたなら、オーレリーを一人でパリにやることなどはなかったであろう。
 たとえ彼にそう聞いたところで、彼は認めようとはしないであろうが、彼の心の中ではガストンが父親のオーギュストであることは、疑う余地のない事実であった。
 だからこそガストンが黙って工場で仕事をしていたのは不本意であったし、さらには何も言わずに工場を去ったことに不満を感じていたのである。
 もしも父親が自分のところに現れたらどうしたであろうか?
 これは昔から考えてきたことであった。
 以前は話も聞かずに追い出すことを考えたこともある。
 しかし今となってはそこまで強硬な態度をとるつもりはなかった。少なくとも話は聞くつもりであったし、悔恨の情があるなら、自宅に引き取ることについてもやぶさかではなかった。
 それだけに今回のことは不可解であり、彼を余計に苦しませるものであった。
 父親はなぜ何も言わずにやってきて、何も言わずに去ったのか?息子に合わせる顔がないと思ったのか、それとも他に、言い出せない理由があったのだろうか。
 ビルフランはそのように考えることもあったが、しかし自分から会いに行くという気にはなれなかった。出て行ったのは向こうであり、先に向こうからこちらに近づいて来るべきだ、というのがその理由であった。
 そしてビルフランは当然、彼が自分に話しかけてくるだろうと考えていた。ところが最後まで一言も会話をせずに立ち去ったと言う。
 話し合いもせずに立ち去った父親に対して、ビルフランは苛立ちを感じた。息子の様子を見に来るだけの感情があるなら、なぜ名乗り出ないのか。遠目で見た限りでは、楽な暮らしをしているとは思えなかった。たとえ金をせびりに来たのだとしても、それが父親の生活に必要な金であれば、追い返すことはないつもりである。
 そしてその不満と苛立ちと疑問が、オーレリーが一人でパリに行くのを許したのである。
 普段の彼であれば、オーレリーが一人旅をすることなど絶対に許しはしなかったであろう。しかし父親に対する感情が、ビルフランの判断を鈍らせたと言える。
 ビルフランにとって父親のことは、出来るなら触れたくない事柄であった。しかし本人が出てきた以上、何もせずにいることもできなかった。せめて彼が何を考えているかだけでも知りたかった。
 そうした葛藤の中にいたとき、オーレリーがガストンの話を聞きつけ、ビルフランに彼のことを粘り強く訴えてきたのである。その話を聞いているうちに、オーレリーならば父親の本心を聞きだせるのではないか、という思いが心をよぎったのも無理はなかった。
 そしてオーレリーは一人でパリへと向かった。
 リュックのいるパリの事務所には、すでにオーレリーが行くことを伝えてある。だから向こうでの宿泊先などは心配要らない。ビルフランは父親のことは忘れて仕事に没頭できるはずであった。
 しかし実際にオーレリーが立ち去ってみると、彼女を一人でパリに行かせるべきではなかったという後悔が頭を離れなかった。
 パリに迎えに行くべきか、もう少し待つべきか。
 珍しくビルフランは迷い続けた。
 その迷いを打ち破ったのはパリからの急報であった。
”ガストンと言う人物は亡くなり、パンダボアヌ夫人も入院している”
 その知らせを聞いたビルフランは仕事のすべてを放り出してパリへと急いだ。


 話は数日前に遡る。
 パリに到着したオーレリーは、すぐにガストンが以前に住んでいたという下宿を探すつもりであった。
 しかし始めてくる大都市で思い通りの場所に行くのは、そう簡単なことではない。そのことを知っていたビルフランは工場のパリ事務所に連絡を入れてあり、そこからの迎えが駅まで来ていた。結局、その日は探しに行くのを諦めて、予約されたホテルに泊まることにした。
 翌日、オーレリーは改めてホテルの従業員にメモにある住所がどこなのかを聞き、一人でその場所へと向かった。
 到着したその場所は古い長屋で、いかにも貧しい者のための住居であった。
 オーレリーは躊躇することなく敷地に入り、入り口付近で作業をしていた男性に声をかけた。その男はこの長屋の大家であるという。ガストンと言う人物が住んでいるか尋ねると、一ヶ月ほど留守にしていたが先日帰ってきた、今は部屋にいるはずだ、という返事が帰ってきた。
 大家に案内されてガストンの部屋に向かい、扉を叩いたが返事はなかった。
 出かけたのだろうかとオーレリーが問うと、自分に気付かれずに長屋を出て行けはしないと大家が主張し、勝手に扉を開いた。
 そこには粗末なベッドの上に横たわるガストンの姿があった。
 彼はマロクールからパリまで歩いて帰ってきて、そのまま疲労のために寝込んでいたのである。しかも風邪を引いたのか、熱も出していた。
 オーレリーはすぐに病院に連絡を取り、ガストンを入院させるよう、大家に頼んだ。大家はすぐに他の住人に声をかけて医者に走ったが、しかし貧乏長屋の住人が医者に掛け合ったところで、簡単に動いてくれるほど世の中は甘くない。結局オーレリーが一晩看護した後、彼女自身が医者に掛け合うことになった。
 身なりの良い夫人が治療費を前払いするとなれば、話は変わってくる。医者はすぐに往診に来て、入念な診察の後、ガストンの入院を決めた。
 馬車で病院に運ばれたガストンに、オーレリーは付き添った。
 この間、ガストンはどうしていたかというと、最初にオーレリーが大家と一緒に部屋に入ってきたときは意識を失っていた。彼女に気付いたのは、彼女が寝ずの看病をしていたときである。彼女を見て驚きの表情を見せたが、しかし何も言わずに彼女の看病を受け入れた。
 その後、入院してからもほとんど何も話はしなかった。
 一方のオーレリーも、ガストンに対して何も聞こうとはしなかった。彼が自分の世話を黙って受け入れている、そのことが何よりも事実を雄弁に語っていたのである。
 しかしガストンの病状は良いものではなかった。実際のところオーレリーが訪れたとき、すでに手遅れだったのである。入院は気休めと言ってよかった。
 それでもオーレリーは献身的に介護をしたが、もともとがあまり強い体ではない。ガストンが亡くなったときに緊張の糸が切れ、そのまま彼女が倒れたのである。
 倒れた彼女の持ち物の中に宿泊していたホテルの住所とパンダボアヌ工場のパリ事務所の住所のメモがあり、それで病院からリュック・アヴリーンに連絡が入ったのであった。


 パリのリュックからの知らせは、大体このようなものであった。
 どうやらオーレリーが入院していると言う連絡が入り、それが事実であると確認した時点で、それまでの経緯を医者や長屋の住人に確認したようで、かなり詳しいものであった。
 パリに到着したビルフランはまず事務所に寄り、リュックの案内でオーレリーが入院しているという病院へ向かった。
 病院のベッドで横たわるオーレリーは、ぞっとするほど顔色が悪かった。まだ暫く意識は戻らないだろうと看護婦は言った。
 ビルフランはオーレリーの傍を離れたくなかったが、看護婦は医者から説明があるといって、退室を促した。
 医者の元へと案内されたビルフランは、すぐに彼女の容態について質問した。
「先生、オーレリーは、わたしの妻はどうなんでしょうか」
 その質問に医者は難しい顔をした。
「疲労が重なったためと思われますが、体力を激しく消耗しており、その状態で風邪を引いています」
「風邪ですか」
 ビルフランはほっとした表情をしたが、医者はそれをたしなめた。
「風邪を馬鹿にしてはいけませんよ。奥さんの今の体力では、その風邪が命取りになろうとしているのですから。今晩がヤマですな。しかしなんでまたあなたの奥さんは、あんな貧乏長屋の老人のところにいたのですか」
「あの男は行方不明になっていたわたしの父親です」
 ビルフランが苦しそうにそういうと、医者は意外そうな顔をした。
「そうでしたか。そのガストンと言う老人ですが、彼の直接の死因も疲労とそれに伴う衰弱です。しかし以前からかなり体は蝕まれていたようですね。おそらくその状態で、かなりきつい仕事でもしたのでしょう。あなたのお父上だったとは。奥さんもそのことは言っていませんでしたが」
「きっと動転していたのでしょう。ガストンは・・・父は何か言っていませんでしたか」
「入院してからもずっと黙ったままだったねえ。奥さんはずっと付きっ切りだったから、もしかしたら何か話をしているかもしれないが、今の状態ではね」


 ビルフランは病室に戻り、オーレリーのベッドの横に置いてある椅子に腰掛け、そのまま黙り込んだ。
 父親が亡くなった。何も言い残しもせずに。しかも今、目の前では妻が生死の境をさまよっている。
 頭の中を様々な思いが駆け巡り、統一した思考が出来なかった。
 ただいえるのは、目の前で寝ているオーレリーが目を覚まし、元気になって欲しいと言うことである。
 沈黙したまま微動だにせず、その場に座り続けた。
 ときどき、看護婦が様子を見に来ては、ビルフランにも話しかけたが、ビルフランの耳には届かなかった。
 やがて日が暮れ、部屋の中も暗くなった。看護婦の一人が気を利かせてランプをつけていった。
「今晩がヤマですな」
 医者の声が耳の奥で響いたが、ビルフランはその言葉を打ち消すように頭を振った。
 まだ若いオーレリーが、死ぬはずがない。いままでも危険だと言われながら持ちこたえてきたのだから、今回だって大丈夫なはずだ。
 自分にそう言い聞かせながら、オーレリーの意識が戻るのを待った。
 病院内を歩きまわる看護婦の足音もまばらになり、夜は少しずつ更けていく。どのくらい待ったか、自分でも分からなかったが、不思議と眠気に襲われることはなかった。
 そのとき、自分を呼ぶ声が聞こえ、目をオーレリーのほうへ向けた。
 寝ていたはずのオーレリーの目が開き、こちらを見つめているではないか!
「オーレリー、もう大丈夫だ。すぐに医者を呼んでくる」
 しかし、部屋を出ようとするビルフランを、オーレリーは止めた。
「あなたに伝えないといけないことがあるのよ。だから行かないで。あなたのお父様からが最後に言い残した言葉、それをわたしは伝えないといけないわ」

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