第二十四章 二つの遺言

 父親の言い残した言葉。
 ビルフランは動揺した。ガストンが父親であったことは既に認めているし、オーレリーが何かを聞いたかもしれない、と考えていたのも事実である。
 しかし今のオーレリーの状態で長話をさせるわけにはいかないと思い、ビルフランは彼女を宥めてから医者を呼びに行こうとした。
「君は疲れている。その話は体力が戻ってから改めて聞こう」
「駄目よ。わたしにはもう時間がないわ」
「何を言っている。大丈夫、心配することはない」
「あなたのお父様は、後悔なさっていたわ」
 ビルフランが医者を呼びに出て行こうとする背中に向かい、オーレリーは渾身の力を込めてそう叫んだ。
 ビルフランはその言葉を聞いて、動きを止めた。
 彼の背中に、オーレリーはなおも話し続けた。
「お父様は・・・あなたがたにそれを伝えたかったのだけど、伝えられなかったと言っていたわ」
「いまさらそんなことを。後悔していたのなら、会いに来て謝ればよかったのだ。伝えたかったのなら、伝えに来ればよかったのだ。会いにも来ずに、わたしたちに何が伝わると言うのだ」
 ビルフランは後ろを向いたまま低く震える声でつぶやいた。
「もちろん、あなたのいうとおりだわ。ですが家族を捨てて家を出た人の気持ちが、わたしたちにどこまで分かるでしょうか。詳しい話は聞けませんでしたが、お父様はきっと苦労なさったのだと思います。家に戻りたいと思ったこともあったでしょう。ですが家に戻ったときに、妻や子供たちに何と言って謝ればよいか悩んだのではないでしょうか。そして謝っても許してもらえず、追い返されたときのことを考えないとどうしていえましょうか」
 オーレリーはそこまで一気にいうと、苦しそうに深呼吸を始めた。
 その様子を耳で聞き取り、ビルフランは振り返ってオーレリーのベッドの横に座り、彼女の手を握った。
「分かった。だが今はそれより、おまえのことが大事なんだ。今夜が大事だと医者も言っていた。無理をせずにゆっくり休んでくれ」
「いいえ、今、言わないといけないわ。私はあなたの助けになりたいといって結婚したのに、実際にはこんな体になってあなたを助けるどころか、あなたに助けられてばかりだったのが辛かったのよ。だからあなたとお父様が仲直りする手助けをしたかったの」
「そんなことを!気にすることなどなかったのだ。わたしはおまえを愛していた。おまえがいてくれただけで、私はよかったのだ。いつもそういっただろう」
「ええ、あなたはいつもそう言ってくれたわ。その言葉のおかげで、どれだけわたしが救われたか、あなたには分からないでしょう。だからこそ、わたしに出来ることがあるなら、それをあなたのためにやりたかったのよ」
 オーレリーはそういって微笑んだ。
 ビルフランはその微笑みにある種の恐れを感じた。あまりにも透き通った微笑みだったからである。
「オーレリー、おまえはまだ生きるんだ。おまえがわたしのために何かをしたいというのなら、まず元気になってくれ。それ以上のことをわたしは望まない」
 しかしオーレリーはビルフランの言葉には答えず、話を続けた。
「お父様はわたしに手紙を渡しました。いつ書いたのかは分かりませんが、もしかすると工場で働いていたときに、機会を見つけてあなたに渡そうと考えながら果たせなかったのかもしれません。それをあなたに渡して欲しいと頼まれました。その手紙はわたしのかばんの中に入っています」
 そういってオーレリーはベッドの横の台の上においてあるかばんを指差した。
「手紙が・・・」
 ビルフランはかばんを手に取り、その中にある封筒を取り出した。そこにはまさしく父親の筆跡で”子供たちへ”という文字と、”オーギュスト・パンダボアヌ”という署名がなされていた。
「ビルフラン、その手紙に何が書いてあるか、わたしは知りませんが、お父様を許してあげてください。きっとあの方は長く後悔されていたのだと思います。あなたの工場で働いていたのも、少しでも罪滅ぼしをしたいと思ったからではないでしょうか」
「・・・手紙を渡したかったのなら、自分で持ってきたなら良かったのだ」
 手紙を手にしたまま呟いたビルフランを、オーレリーはさらに説得した。
「あなたを責めるわけではありませんが、あなたの家族の方はお父様を探し続けましたか」
 それを言われてビルフランはどきりとした。
「いや・・・最初こそ探したが、やがて諦めていないものと考えるようにした」
「お父様も、家の者が誰も自分を探していないことをご存知だったのではないでしょうか。探していない、自分は家族に必要とされていない、そう考えたときに、その家族の前に出る勇気は持てるでしょうか」
 オーレリーの言葉をビルフランは黙って聞いていた。
 もちろん父親にも問題はあった。しかしその父親が帰ってきたときにそれを受け入れようとしなかった自分にも問題があったと彼女は訴えているのである。
 今まで彼女とはこういう話をすることはなかった。もともと父親の話自体がタブーとは言わないまでも、あえて持ち出すことはなかったからである。
 それがなぜ、今なのか?
 ビルフランにはその答えが出せなかった。いや分かっていたが、出したくないというほうが正しかった。
「過ぎたことを言っても仕方がありませんが、せめてお父様の葬儀はわたしといっしょに・・・」
「何を馬鹿な話を!いや、親父の葬儀の話ではない。なぜおまえの葬儀の話をしなければならない」
 ビルフランは本気で怒った。
「エドモンのことをよろしくお願いします。あなたには最後まで迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありません」
「本当に申し訳ないと思うなら、これからも私に迷惑をかけてみろ!」
 段々と小さくなるオーレリーの声に対して、ビルフランは大声で叫んだ。
「あなたと過ごせた日々は、わたしにとって幸せでした。ビルフラン、あなたはきっと成功します。その成功を・・・」
 オーレリーは小声でそこまで言うと、眠るように押し黙った。
 ビルフランは大声でオーレリーを呼んだが、返事はなかった。
 今更のように、夜間の見回りをしていた看護婦がビルフランの声を聞きつけて駆けつけた。
 ビルフランを押しのけてオーレリーの様子を診ると、すぐに医者を呼ぶために部屋を出ていく。その間、ビルフランはベッドの傍らで呆然としていた。


 数日後、マロクールで二人の葬式が同時に行われた。
 村の住人や工場で働いている人も大勢出席する、大規模なものである。
 村人たちはいろいろと噂をしあったが、さすがにパンダボアヌ家の人々が顔を見せると、噂話をするのを辞めた。
 パリからはフレデリックと妻のスタニスラス、カレーからはパトリシアと夫のアランがそれぞれ駆けつけた。彼らも自分の父親がつい先日まで生きており、そして亡くなったという話に少なからずショックを受けていた。
 しかし一番のショックを受けていたのはビルフランであろう。
 彼の場合、父親だけでなく、最愛の妻も同時に亡くなったのである。ショックを受けないほうがおかしいかもしれない。
 身内を続けてなくしたとはいえ、社長である彼は仕事もしなければいけなかったし、弔問に訪れる人の対応もしなければいけない。多少、無口になったとはいえ、傍目にはそれほどショックを受けているようには見えなかった。
 それでもフランソワーズには、彼の辛さが良く分かった。彼女自身、まさか自分が送り出した時には、オーレリーが戻らないなどと思いもしなかっただけに、ショックも大きかったからである。最愛の女性を目の前で失ったビルフランの悲しみは、家に帰ってきたときに無言のまま部屋にこもることに良く現れていた。
 エドモンは起きていることが良く分かっていなかった。ただ母親が帰ってこないということだけである。
「おかあさまはいつかえってくるの?」
 一度、エドモンが食卓でビルフランにそう尋ねたことがある。ビルフランは答えにつまり、そばにいたフランソワーズがお母様はもう帰っては来ないと説明した。
 ビルフランはそのまま食事を辞めて部屋へと戻ってしまい、エドモンは帰ってこないという答えに泣き出した。その一事をもってしても、ビルフランの受けた心痛がよくわかった。


 葬式が終わり、弔問客も帰った後、ビルフランの家に兄弟三人がそろった。
 ビルフランから父オーギュストの残した手紙があると聞いていたからである。子供宛てになっているので、三人が揃うときに読むことにしていた。葬式の前はいろいろと忙しいので、終わった今、三人だけで見ることにしたのであった。
 ビルフランは手紙を取り出すと兄のフレデリックに渡した。彼は封を切り、中身を取り出すとそれを読み始めた。


「今も愛する子供たちへ

 わたしのしたことをおまえたちが許してはいないだろうこと、そして許されないだろうことは分かっている。わたしもおまえたちに今更、許して欲しいとは言わない。
 わたしがおまえたちを捨てて村を出た、あのときのわたしの気持ちをここで説明しようとも思わない。説明できるものではないし、たとえ説明できたとしても分かってはもらえまい。
 だがやはり、わたしとしてはおまえたちとおまえたちの母親に謝らずにはいられない。
 わたしが行ったことはどんなに言い訳しようと、おまえたちに対する裏切りに代わりはないし、そのためにおまえたちを苦しめる結果になった。
 しかし本当ならおまえたちに合わせる顔はない私だ。贖罪をしようにも、今の私には何もない。むしろ顔を合わせるのが怖いといったほうが良いかもしれない。
 それでもわたしの気持ちをおまえたちに伝えたいと思い、この手紙を書いている。
 いつかおまえたちの前に、もう一度出られることを望んでいるが、何時その日が来ることだろう。
 最後に、おまえたちはわたしと同じ轍を踏まないように伝えておく。父親としてできる数少ない忠告だ。なによりも肉親を大切にして欲しい。

不肖の父 オーギュスト・Pより」


「これだけだ」
 フレデリックは少し肩透かしを食ったかのような顔で読み終えた。
「他には何もないの?」
 パトリシアが聞いたが、フレデリックは手紙を裏返したり、封筒の中を確認したりしながら、他にはないと繰り返した。
「おそらくかなり以前に書いたんじゃないかな。便箋や封筒はかなりくたびれている」
「それなら、何でもっと早くわたしたち三人の誰かに送らなかったのかしら」
 パトリシアが独り言のように質問を口にした。
 暫くの間、三人の中に沈黙があった。
 彼らが知りたいと思っていた、失踪の真実について書かれていると思っていたのに、ただひたすら謝るだけの手紙だったことが三人の心をむしろ重くした。
 特にビルフランは、父親が近くにいたのを知っていながら無視していたという事実があり、そのことで余計に罪悪感を抱いた。
「ビルフラン、親父はなぜおまえのところで仕事をしていたのだろうか?」
 突然、フレデリックがビルフランに問いかけてきた。
「わたしのところに来た理由・・・」
「そう。親父はパリにいたのだよ。私がパリにいることを知らなかった可能性もあるが、もし知っていたなら、この手紙を私の家か事務所に入れればよかったはずだ。それなのにわざわざマロクールまできたのはなぜかと言うことだ」
 フレデリックの問いにビルフランが答えようとする前に、パトリシアが口を出した。
「それは当然だと思うわ、兄さん。マロクールは父さんの育った土地だし、母さんの墓もここにあるもの。父さんは、きっとこの地をもう一度踏むための隠れ蓑に、ビルフランの会社を使ったのよ」
 その答えはビルフランも同じであった。しかしフレデリックはもう少し違う答えも出していた。
「それもあるだろうが、むしろこの手紙にある、”贖罪”をしようと思ったのじゃあないかな。三人の誰かが困っているときに、その援助をしたいと思っていたのではないだろうか。たまたま、ビルフランが工場を拡大するために工員をパリで募集したので、少しでもおまえの役に立ちたいと思って、おまえの工場で働いた、と考えられないだろうか」
 それはビルフランにとって思いがけない答えであった。
 さらにフレデリックは続けた。
「パトリシアは母さんの墓のことを言ったが、母さんが亡くなっていることを親父が知っていたか、私は疑問に思う。この手紙には亡くなった母さんのことが何も触れられていない。恐らく、この手紙を書いた時点では知らなくて、母さん宛に別の手紙を書いていたのではないだろうか。それでビルフランの工場で働くためにマロクールに来て、始めてそのことを知ったとは考えられないだろうか」
 そんなことをフレデリックは言ったが、父親が亡くなった今となっては、すべては闇の中である。
 この会話も、何かを突き止めようというよりも、三人の中の喪失感を埋め合わせようとするためのものであった。
 結局のところ、父親が生きていたと言うこと自体が、彼らにとっては幻想のように思えた。
 ただビルフランにとっては父親の死がオーレリーの死に結びついている点で異なっていた。彼にとって父親に対する感情はより複雑なものが出来上がっていたが、しかし相手は既に亡くなっている上に、オーレリーの死に際の言葉があり、その感情は胸の奥底にしまいこむことにした。
 翌日、フレデリックとパトリシアはそれぞれ自分の配偶者と家路につき、ビルフランも仕事へと戻っていった。


 オーレリーの死はビルフランにとって大きな痛手であった。しかしビルフランはその痛手に沈み込むことなく、むしろ仕事に没頭し、家ではエドモンを可愛がることでその悲しみを忘れようと努めた。
 鬼のように仕事を推し進めるビルフランは、それから数年のうちにパンダボアヌ工場をフランスでも有数の織物工場へとのし上げていったのである。

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