第二十五章 確執

 一台の馬車がゴトゴトと音を立てながら、マロクールへの道を歩いていた。
 御者台に座っている人物は帽子をかぶっているため顔がよく見えない。女性のようにも見えるが、ズボンをはいているので男性のようにも見えた。パイプをくゆらしながら、急ぐでもなく馬の歩くペースに任せている。
 やがてマロクールの街中に入ると、パイプを口から離して、大声で口上を述べた
「いらなくなったウサギの毛皮、古着、鉄屑はありませんかぁ」
 顔を上げて叫ぶそのはりのある声は、御者台の人物が女性であることを明らかにしており、またその口上は彼女の仕事がくずやであることを明らかにしていた。
 それまで以上にゆっくりと馬車を動かしながら、くずやはしばらく叫び続けた。
 やがてその声に答えるかの様に、一軒の家から手に古着を持った女性が顔を出した。
「くずやさん、これを引き取ってもらえるかしら」
「はいよっ」
 くずやの女性はすぐに馬車を止めて、彼女から古着の束を受け取った。
 くずやが世間話をしながら品定めをしていると、やがてそこここから同じように古着や鉄屑を持った人が顔を出してきた。
「くずやさん。こちらにもきてくださいな」
「そっちが終わったら、こっちもお願いね」
「ありがとうござい」
 今日は商売大繁盛だ。くずやはそう思いながら上機嫌で返事をした。

 くずやはマロクールの街中で暫く商売を続けた。
 やがて太陽が頭上を過ぎたころにやっと一段落したため、昼食を取ることにした。広場の近くにちょうど食堂があったのを見ていたので、そこまで戻って馬車を止めると、その食堂に入った。
 くずやの女性は帽子を取って昼食を注文した。顔は日に焼けているが、意外と美人である。彼女は遅い昼食を取ると、食堂のおかみに話しかけた。
「この街は始めてきたけど、ずいぶんと活気があるねえ」
 声を掛けられた食堂のおかみは、ちょうど昼の忙しい時間も過ぎていたので、くずやの近くの椅子に座って返事をした。
「ええ。ビルフラン様が紡績工場を始めて、それが成功したのでずいぶんと人が集まったのですよ。おかげで家もずいぶん助かっております」
「そうなのかい。わたしも普段はこっちにはこないんだけど、今回はやっぱりどこも不景気なんだねえ。くずも碌に出しやしない。ぜんぜん仕事にならなくてさ。結局ここまで来ちまったよ」
 くずやは大袈裟に肩をすくめると、さらに続けた。
「その点、この街の連中はくずを一杯出してくれたよ。わたしもおかげで助かったと言うもんさ」
 そういってくずやは笑った。
「そうでしたか。景気が悪いとは聞きますが、この辺りはパンダボアヌ工場のおかげで、他の地方ほど苦しくはないようですからね」
 それを聞いてくずやの女性は感心した。
「そりゃたいしたもんだ。パリは失業者で一杯さ。問題が起きなきゃいいがねえ」
「本当に。くずやさんはこれからもこちらまで足を運びますか」
「いや、普段はこっちに寄る余裕はないねえ。だけど時間があるときはまた寄らせてもらうかもしれないね」
 そういうと、くずやは食事の代金を払い、食堂を後にした。

 ビルフランはその日、会社を留守にしていた。ジュリアン・タランベールがアフリカから帰ってきたという知らせを聞いたので、挨拶がてら会社の状況について報告に行っていたのである。
 ビルフランが客間に案内されると、すぐにジュリアンが娘を連れて出てきた。
「お久しぶりです。あちらは大変だったでしょう」
「まあ、こちらと同じ生活ができるわけではないからな。それより、君の方こそ不景気で大変だっただろう」
「まあ、苦労はしましたがおかげさまでなんとかやっています」
「お父様、ビルフラン様は不景気にも恐れることなく進む将軍のようだと人々は噂していますわ」
 今年十八になる末娘のベローム嬢が口を挟んだ。
「ありがとうございます。ベロームさんも学校では大変優秀な成績だとか。うちの息子にも見習ってもらいたいものです」
 ベローム・タランベール嬢はそう言われてはにかんだ。
 彼女は背が高く、ビルフランと肩を並べるほどであった。外見はまさに名前どおりと言えたが、心の中は女性そのものであった。
「ベロームは確か、学校の教師になるのが子供のころからの夢だったな」
「いまでもそのとおりですわ、お父様」
「ベロームさんなら良い教師になれるでしょう」
 ビルフランはお世辞ではなくそういった。彼自身は独学でここまできたが、それだけに学校教育には関心があった。
 しばらくそのような歓談をした後、ジュリアンは娘を下がらせた。これからは仕事の話となる。ビルフランはジュリアンに会社の経営状態について詳しく説明した。
 一通り説明を聞き終わると、ジュリアンはおもむろに口を開いた。
「報告からは問題はないようだし、引き続きこの調子でがんばってもらいたい」
「ありがとうございます」
 それから一呼吸置いて、さらにジュリアンは話を続けた。
「この十五年、きみは会社をずいぶんと大きくしたものだな。一口に十五年と言うが、長いようで短いものだ」
「はい」
「私は昔、君にこのフランスの工業発展のために尽くしてほしいと言ったが、十分にその約束は果たしてくれたと思う。むしろ私が予想した以上といっても良い」
「恐れ入ります」
 そうビルフランは恐縮したが、ジュリアンの顔はなぜか晴れなかった。ビルフランは不審に思ったが、すぐにジュリアンはその理由を話し始めた。
「だが実はそのことで、わたしはむしろ不安を感じているんだよ。いや、別に君に問題があると言っているわけではない。ただどんなものでも急成長したものは、一つ間違えると瞬く間に崩壊する危険をはらんでいるものだ。まあ君の会社に限ってそのようなことはないと思うがね」
 ジュリアンはビルフランに出資している者として、当然の心配を口にした。
「わたしもそのことは判っているつもりです。心配は無用ですよ」
 ビルフランとしてはそのような心配をされること自体が心外だったが、それでもジュリアンの忠告には感謝した。
「もしも問題が起きたなら、すぐに対策を講じるべきだが、かといって焦ってはいけないよ。拙速よりも巧遅の方が良い場合もある。その逆も然りだ。どちらが正しいかは後になって見なければ判断はできないが、時間に余裕があるなら、その時間を十分活用することも忘れないで欲しい」
 ジュリアンとしては、ビルフランの会社の成長の早さゆえに、この辺で少しゆとりを持って、周囲を見回してみるよう勧めたつもりであった。実際、余りにも一つのことに没頭しすぎると、思わぬ落とし穴に落ちることがある。
 しかし当のビルフランのほうは、その言葉をジュリアンの取り越し苦労と考えていた。もちろん頭から無視することはしなかったが、心の隅に留めて置くという程度にしか受けとめていなかった。それはこれまでの彼の体験から導き出した結論ゆえである。
 ジュリアンが指摘したとおり、ビルフラン・パンダボアヌ氏がマロクールの紡績工場を稼動させてから十五年が過ぎようとしていた。
 この間、ヨーロッパは幾度かの不況に見舞われた。しかしパンダボアヌ工場はそのつど苦境を乗り切り、むしろ工場を大きくしていった。
 実際、前の年にもヨーロッパ全土を経済恐慌が襲い、パンダボアヌ工場も少なからぬ影響を受けてはいたが、他の多くの会社が食らったダメージに比べると、些細とも言える程度のものであった。むしろフレデリックやアランの会社が倒産しそうになった時に行った資金援助の方が、ビルフランにとっては痛手であったほどである。
 どちらにしろ、ビルフラン・パンダボアヌという人物が、その工場を稼動させて以来、常に成功者の側にいたことは、紛れもない事実であり、フランス工業界においても彼の存在は無視できないものとなっていた。
 これらの事実は、ビルフランにひとつの結論を導き出させた。それは自分は選ばれた者であり、常に自分の前に道は開かれている、ということである。
 他の者が同じことを考えたなら、いい笑いものになったであろう。
 もちろんビルフランはそのことを他人に話したことはなかった。しかしたとえ彼がそれを口にしたとしても、聞くものは彼を笑いものにはできなかったであろう。ビルフランの成功はそれほど奇跡的であり、同業者の多くも、彼の成り上がりぶりを不思議に思っていたほどだからである。
 とはいえ、そのためにビルフランが努力を怠ったり、享楽に走ったりするということはなかった。自分が選ばれたのは、相応の努力の賜物であり、かつ身を慎んできた結果であると考えていたからである。歳を重ねるごとにビルフランはむしろ厳格になり、また他の人々に対しても同じような厳格さを求めた。
 例えばそれは一人息子であるエドモンに対しても現れた。
 彼はエドモンを目に入れても痛くないほど可愛がったが、しかし決して甘やかすことはしなかった。自分の傍を離したくないと思いながら、パリにある寄宿学校に入れたのも、自分の息子がしっかりとした教養を身につけて欲しいと願ったからである。
 ビルフランはジュリアンに、自分の考えを詳しく語ることはしなかったが、それでも自分が常に自己抑制していることを伝えた。
「私は今でも学ぶべきことを学んでおりますし、また会社にいる工員すべての名前も覚えております。時間の余裕などそうはありませんよ」
 ビルフランは自信を持ってそういった。ジュリアンもそれ以上は何も言わなかった。
 その日、ビルフランはタランベール家で夕食を頂いてから家路に着いた。
 帰りの折、ジュリアンはビルフランに、もう一度家に来るよう招待した。
「今度はリュックと一緒に来るといい。彼とも暫く会っていないからね」
「わかりました。リュックにもそのように伝えておきます」

 ビルフランはジュリアンに対する返事からも分かるとおり、自分は会社のことを完全に把握している、と考えていた。しかし実際のところは、彼が考えているほど、会社の者達は彼を信頼してはいなかった。
 特に自分を選ばれた者と考えたビルフランの態度は、幹部の中に不満を生じさせる結果となった。
 ビルフランは自分の会社の経営方針を、自分が決めるのは当然と考えていた。しかし設立当時から共に働いてきた幹部たちはそうは考えなかった。自分たちにも当然、その権利があると考えたのである。
 もちろん、ビルフランもすべてを自分で考えてきたわけではない。会議を行い、その場で出席者全員に、議題について自分の思うところを述べさせ、その上で最終的な決定を行ってきた。
 しかし会議の席でビルフランが下した決定に対して、さらに議論を重ねようとする者がたびたびいたのである。これはビルフランにとって不愉快なことであり、大抵の場合は有無を言わさずに会議を終わらせた。
 そうなると自分の発言を封じられたと考えた者の側に不満が生じ、彼は他の手段を使ってビルフランに意見を述べようとした。
 そしてそうした時に白羽の矢が立つのが、リュック・アヴリーンであった。
 彼は一番早くからビルフランと共に仕事をしている上、出資者のジュリアン・タランベールとも親しい。そのためビルフランに不満を抱くものが自然と彼の周りに集まってきたのである。
 リュックとしてはビルフランに対して含むところはないため、多くの場合は彼らをなだめ、不満を押さえるよう努力した。
 彼としてはビルフランのやり方に大きな不満があるわけではない。確かにワンマンなところもあるが、人の話を聞かないわけではないし、間違っていたことが分かった場合には、すぐに軌道修正ができる人物だと思っていた。少なくとも優柔不断で社員を困らせるような社長よりは、よほどいい。そのためリュックはそれら不満を抱く人物の話を聞いてやり、そのはけ口になることも自分の役割だと考えていたのである。
 しかしある日の終業時間後、一人事務所に残っていたリュックのところへ幹部連中が顔をそろえてきたときは、さすがに彼も何事かと首をかしげた。
「アヴリーンさん、お話があるんですが・・・」
「どうしたんだい。みんなそろって。何か問題でもあったのか」
 言い難そうに互いに顔を見合わせると、思い切ったようにマルコが口を開いた。
「この会社の経営方針についてなのですが・・・」
 それを聞いて、またいつもの愚痴を言いに来たのだろうと思ったが、それにしても何時もなら一人か二人で来るのに、なぜ今日に限って大勢で来たのか、それが不審であった。
 マルコは思いつめた様子で一気に話し出した。
「以前からわたしらの意見を、もっと社長に聞いて欲しいと言って来ましたが、全然変わる気配がありません」
「君達の言いたい事はわかる。私からも機会あるごとに君達の気持ちは伝えている」
「ですがアヴリーンさんがいくら言っても聞く耳を持たないじゃあないですか」
「そんなこともないさ。ただ、言われたことをなんでも『はいそうですか』と受け入れるような人物でも困るだろう。社長だって、私の意見を無視しているわけじゃあない。すぐ採用するか、今後の参考にするかということだ」
「いったい、何の参考にするってんですか。結局全部、社長が決めるじゃあないですか。俺たちだって、この工場を開いたときからいるんですぜ。ただ社長の言いなりのままに働くのはもう飽き飽きなんです」
「おいおい、そんなことを言ったら、社長に辞めてもらうか、会社を辞めるしかないだろう」
 リュックは軽い調子でそう言ったが、彼らは真剣な面持ちで頷いた。
「アヴリーンさんがこの会社の社長になってください。そうでなければ、わしらは辞めさせていただきます」
 それを聞いて彼は仰天した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。本気で言っているんじゃないだろうな」
「いいえ、ここにいる全員、本気です。もうあの社長の下では働きたくないんです」
 これは自分が思っているよりも事態は深刻なところまでいっていると、リュックもやっと理解した。
「私はこの会社の社長になる気はない。それに君たちはここを辞めて、どうするつもりだ。そう簡単に次の仕事は見つからないぞ」
 その言葉に、一同は沈黙した。
「君たちの思いはひとまず私の胸にしまっておく。今はまだ自重してもらいたい」
「今は自重しろといっても、わしらはもう・・・」
「今まで我慢したのだろう。私のほうでも急の話なので、すぐにどうという約束は出来ないが、君たちを路頭に迷わせるようなことはしたくない。悪いことは言わん。せめて一ヶ月は待ってもらいたい」
 なぜ一ヶ月なのか、言っているリュック自身、その根拠はなかった。とにかく時間が欲しいと思い、咄嗟に口から出たのである。
 しかし彼らも期限を付けられたことでとりあえず納得し、リュックに礼を言って帰っていった。
 リュックは一人事務所に残ると、今の話について考え込んだ。
 実際、彼自身もビルフランの経営方針に疑問を抱くこともあった。それでも彼は社長であるビルフランを立てることを忘れず、陰日向に助けてきた。この会社をここまで大きくできたのは、自分の手腕によるところが大きいという自負もある。
 もしも自分が社長なら、と考えなかったわけでもない。自由に采配を揮えるなら、やってみたいことは多かった。
 とはいえ、彼らにも言ったとおり、この会社をビルフランから奪うような形で社長につく気にはなれなかった。リュックの見る限りビルフランは公正な男であり、発想と決断に富む男である。自分をここまで信用して使ってくれた人物を裏切るような真似はしたくはなかった。
 しかし一方で、ビルフランにここまで不信感を抱いている者達から、自分がこうした相談を受けるほど信頼されているということは、この会社において自分が微妙な立場に立っていることを物語っている。
 実を言えば、彼自身も最近、独立を考えていたのである。もともと、彼がビルフランの元で働くことになったのは、ジュリアン・タランベールの紹介があったからである。それからすでに十八年も経とうとしている。自分の役割は十分果たしたと言うべきであろう。
 しかし今、彼が独立を口にすれば、どうなるかは目に見えている。今日来た者たちは、ビルフランの会社を辞めて、彼の会社へ移ると騒ぐであろう。そうなると結果としてこの会社に大きな損害を出すことになりかねない。
 といって、彼が辞めるのを諦めれば済む問題でもない。第一、ビルフランが自ら社長を退くなど考えられない。この会社を興したのはビルフランであり、またここまで大きくしたのも、ビルフランの力によるところが大きい。つまりビルフランが辞める理由はどこにもないのである。
 幹部連中がビルフランに不満をぶつけたとしても、むしろ辞めたければ辞めるが良いという態度を取るに違いない。そうなれば結局、この会社は大きく混乱することになる。
 暫く考え続けたが、良いアイディアは浮かばなかった。
 結局、リュックはその日はそれ以上考えるのを諦めた。
 もともと、簡単に結論を出せる問題ではないのである。誰か、相応しい人と相談したほうが良いであろう。ビルフランにはまだ話さないほうが良い。少なくともある程度は自分の意見をまとめてからでないと、かえって問題を複雑にしてしまう。
 リュックはそのように思い、残った仕事を片付けると家路についた。
 しかし一人の男が彼と幹部たちの会話を立ち聞きしていたことには、さすがのリュックも気付きはしなかった。

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