第二十六章 タルエルの決断

 夜の街を一人の男が歩いていた。
 急ぎ足で行くその男の顔を、明かりの中で誰かが見たなら、何かに取り憑かれていると思ったかもしれない。それほど男の顔は蒼ざめ、自分の思考に熱中していた。
 幸か不幸か、男に注意を払うものは居らず、誰にもとがめられることなく自分の下宿へと帰りついた。
 狭いながらも一人部屋に入った男は、震える手で灯りをつけると、大きな音を立ててベッドに腰掛けた。明りに照らされた男は、タルエルその人であった。
 彼はパンダボアヌ工場で、すでに一部門を任されるまでになっている。無学の工員としては異例のスピード出世といえた。
 とはいえ、彼がこのまま同じように仕事を続けたとしても、これまでと同じペースで出世ができるという見込みはなかった。いや、次の出世自体、あるかどうかも定かではなかった。
 すでに限界が見えてきたときに、彼は思わぬ話を耳にした。工場の幹部たちが社長への不満をアヴリーンにぶつけ、交代を迫ったのである。
 彼はその日、たまたま遅くまで仕事をし、その報告のために事務所に向かったのである。ドアをノックしようとしたとき、中から話し声が聞こえ、彼はそのままそこで立ち聞きをしたのであった。
「アヴリーンさんたちが社長を見限る・・・。この話をいち早く知ることができたのは、吉兆か凶兆か」
 タルエルはそう考えると身震いした。急いで自分の身の振り方を決めなければならない。彼は必死になって考えた。
 たとえばこの知らせを黙っているならばどうだろうか。
 それは論外である。それでは知らないことと何ら変わらないからである。
 ではいち早く彼らの意見に賛同するのはどうだろう。
 タルエルの予想では、社長の交代はありえない。そうすると彼らは独立するしかないだろう。アヴリーンに迫っていた幹部の一人であるマルコは、何かと自分に目をかけてくれていた。ここで自分が彼らに賛同するなら、新しい会社が出来たときも受け入れられる自信はあった。なにしろあのメンバーで新しく会社を作るとなれば、当然それも紡績会社であり、そうなれば熟練した働き手はただでさえ歓迎されるはずだからである。
 しかしその場合、発展はそこまでである。新しい会社はアヴリーンを筆頭にすでに数人の幹部がいることになる。自分は今と同じ程度の地位か、それより上の地位は得られるであろうが、やはり経営に参加できるだけの立場にまで出世するのは難しいだろう。
 一方、この話を社長に伝えるという選択をした場合、どうなるか。
 それはつまりアヴリーン達、幹部連中がいなくなったあとのパンダボアヌ工場に残るということである。そしてその時、パンダボアヌ工場の経営陣は一時的に空白になる。うまく立ち回れば、思わぬ出世も望めるかもしれない。
 問題は、まだアヴリーンが結論を出していないということであった。それはいち早く社長にこの知らせを伝えられるという反面、もしもアヴリーンが独立を思いとどまれば、結果として自分が嘘をついたことになる可能性も出てくるということである。
 しかしだからといって、アヴリーンが独立を決意してから社長に報告するのでは遅すぎる。なぜならこの話を聞いたのはあくまでも偶然であり、次にこの話を聞く時は、すでに表沙汰になったときだからである。
 タルエルはそう思考をめぐらした結果、現状を打破しようと思うなら、この話を社長にいち早く伝えることだと結論した。しかしそれはマルコやアヴリーンといった人々を敵に回すことにもなる。一つ間違えば、出世どころかこの工場に居られなくなるであろう。
「私は成功する。私は出世する。私は成功する・・・」
 タルエルは自分に暗示をかけるように、そうつぶやき続けた。

 ビルフランはタランベール家からの帰りの馬車の中でも上機嫌であった。
 そのため、馬車が屋敷に入る前に止まったときも、その原因となった人物に自分から声を掛けた。
「そこにいるのは、タルエルだな。こんな夜遅くにどうした」
 タルエルはすぐに馬車の横に回り、ビルフランに近づいた。
「実は会社でおきたことで、お耳に入れたい緊急の話がありまして、夜分に失礼とは思いながらも先ほどお屋敷に伺ったところ、ビルフラン様はまだお帰りになっていないとのことでしたので、ここでお待ちしておりました」
「ふうむ、こんな時間まで待たねばならないほど緊急の話なのか」
 タルエルはビルフランをすばやく観察し、こんな時間に待ち伏せしたことに腹を立ててはいないことを確認した。
「はい、実を言いますと、私も偶然耳に入っただけの話なのですが、事が事だけに私の胸に収めておくには荷が重いと思いまして、ビルフラン様に判断していただきたいと思ったのです」
「難しい話のようだが、明日では駄目なのか」
「この話は緊急にお耳に入れておいた方がよろしいと思います」
「そうか。ではこんなところで話すことはない。付いてきなさい。書斎で話を聞こう」
 そう言ってビルフランは、タルエルに屋敷の中へ入るよう指示した。

 書斎に通されたタルエルは、心の中で自分に落ち着くように念じた。
 ここまできた以上、失敗は許されない。なんとしても自分の社長に対する忠誠心を強く印象付ける必要がある。
 しかし迂闊な言い方をして、他人を中傷していると思われては逆効果となる。
 何を話し、何を言わないか、ここに来るまでの間ずっと考えていた。後はそれを口にするだけである。
 彼は深呼吸をすると、最初に断りを入れた。
「お話する前に、これだけは信じてほしいのですが、私は決して誰かを裏切ろうとか、悪口を言おうとか、そのような考えはもっておりません。ただ私が耳にした話をビルフラン様にお伝えしたいと思っただけですので、そのことをお忘れなきよう、お願いします」
 そう言ってタルエルはビルフランの返事を待った。
 これは彼の本心でもあった。事実に基づいて、自分が聞いた話を伝えるだけの方が、下手に主観を含めて話すより、効果的であると考えたのである。
 そしてタルエルの考えは確かに正しかった。ビルフランはタルエルの態度を見て、その言葉に嘘はないだろうと判断したからである。
「わかった。話すがいい」
 ビルフランがそう促すと、タルエルはその日の夕方にあった出来事を話し始めた。
「今日の夕方のことですが、私は少し遅くまで仕事の片付けがかかり、それが終わってから事務所に寄ろうと近づいたのでございます。すると、事務所の中から話し声が聞こえてきましたので、ドアをノックしようとその前に立ったとき、話の中身が私の耳に入ってきたのです」
「どんな話をしていたのだ」
「そのとき私の耳に入ったのは『社長になってください』というマルコさんの言葉でした」
「なに?」
「どうやら、マルコさん他、数名の方がアヴリーンさんに社長になるよう、要請していたようなのです」
「それで、アヴリーンはなんと答えたのだ」
 タルエルはアヴリーンが社長になる気はない、といったのを知っている。しかしあえてその事実は伏せた。
「なにやらいろいろと話していたようですが、ドアの外から聞いておりましたので、よく聞き取れませんでした。ただアヴリーン様は最後に『一月待ってほしい』と言っていたようです」
 それを聞いてビルフランは唸り声をあげた。
「それから皆様が出てくる様子がありましたので、私は慌ててその場を離れたのでございます。わたしもこのことをどうしたらよいか迷ったのですが、まずはビルフラン様のお耳にお入れしたほうが良いかと思い、夜分に失礼とは思いながらも駆けつけた次第でございます」
 ビルフランは頭を抱えつつも、タルエルに感謝した。
「そうか。君が私にすぐに伝えてくれたのは正しかった。だがこの後、他の者に言ってはならん。君の聞き間違いの可能性もあるからな」
「もちろんです。ご安心ください」
 タルエルは力をこめていった。
 ビルフランは疲れた顔のまま押し黙った。
「あの・・・私の用件は済みましたので、失礼してもよろしいでしょうか」
「ああ、そうだったな。今日はご苦労だった。気をつけて帰るがいい」
「・・・わたしは何があっても社長についていきます。それでは失礼します」
 そういい残して、タルエルは書斎を後にした。
 一人書斎に残ったビルフランは、タルエルから聞いた話を頭の中で反芻した。
 彼にとってはあまりにも唐突な話だったため、すぐに頭の整理がつかなかったのである。それほどその話は彼にとって衝撃的であった。
 タルエルの前では自分を抑えていたが、実際にはそれこそ腸が煮えくり返るほどの怒りを感じていたのである。
 そもそも、この工場の持ち主はビルフラン自身である。確かにタランベール家からの資金援助を受けてはいるが、それでもこの工場のために身を粉にして働いたのがビルフランであることに変わりはない。
 また、会社の責任を放棄して遊蕩に耽っていたとか、経営者にあるまじき失敗を重ねたなど、社長としての資質を疑われかねない行動を取ったというなら、話はわからないでもない。そうだとしたなら、ビルフランが彼らの立場でも、他の者に社長になって欲しいと思ったであろう。
 しかし自分はパンダボアヌ工場をフランスでも有数の会社に育て上げ、また少なくとも彼らの誰にも負けないほど勤勉に働いている。ビルフランはそう思っていた。
 その自分を追い落とそうと画策する彼らは、明らかに野心家であり、信頼できる者ではない。自分のほうが先手を打って、明日にでも彼らを放逐しようとまで考えた。
 しかし時間がたって少しずつ冷静さを取り戻してくると、先ほど聞いたジュリアンの言葉が思い出されてきた。
「時間があるときは、その時間を十分に活用する・・・」
 タルエルの話では、アヴリーンは一月待つように言ったという。なぜ彼が一ヶ月という期間を置いたかはビルフランにはわからなかった。しかしアヴリーンに社長就任を薦めた幹部に誰が含まれるかわからない今、その一ヶ月は貴重である。なぜなら、たとえ彼ら全てを明日、首にできたとしても、その後任をすぐにそろえることは出来ないからである。
 しかし一ヶ月の期間があれば、誰が自分を裏切ろうとしているかを調べるくらいはできるだろう。
 少なくとも、自分に楯突こうと画策する者達のために、工場の業務が滞らせることがあっては本末転倒である。そのためにも信頼できる者を選別し、その者たちを急いで鍛えなければならない。
 そのとき、ビルフランの頭に浮かんだのは今しがたこの話を持ってきたタルエルであった。
「タルエルか・・・。あ奴はなかなか使えるかもしれん」
 タルエルはまともな教育を受けてはいないが、それはビルフラン自身もたいして変わらない。むしろその彼の働きはビルフランも一目置いていた。
 そして今回、ビルフランは改めてタルエルという人物に関心を向けたのである。

 その頃、帰路を急いでいたタルエルも、今日の社長との会見で一定の成果があったと感じていた。
 話自体に嘘はない。社長がこの話の裏をとっても、自分に火の粉はかからないだろう。また自分を売り込めたわけではないが、普段の自分の働きを社長は知っているはずだから、むしろ誠実さと忠誠心を印象付けることができたはずである。
 そして恐らく、これからの一ヶ月が本当の勝負になる、と踏んでいた。
「自分こそ、社長の歩む成功の階段の後に続くものになる」
 タルエルは心の中で、そう自分に誓った。

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