第二十七章 リュックの苦悩

 翌日、ビルフランは何事もなかったかのように出社した。
 朝の役員会議の席でも、ビルフランは普段通り振る舞っていた。その目つきはいつもより多少厳しいものであったが、それを不審に思う者もいなかった。
 そして会議の最後にビルフランが口を開いたとき、その爆弾は落とされた。
「今度、近くの町に新しい工場を建設しようと思う。それで、その下準備として新たな幹部候補を集めることにした」
 あまりにも唐突なその宣言は、彼らの中に動揺を引き起こすのに十分であった。
「工場の建設など、必要あるんですか」
「どこから幹部候補を連れてくるんですか」
「私たちの立場はどうなるんですか」
 数名の者が疑問を投げかけてきたが、ビルフランは全員を見回しただけで、その場ではその質問に答えようとはしなかった。
「詳細は明日、説明する。だがこれは決定事項であることだけ言っておく。では今日は解散。各の仕事に戻るように」
 有無を言わさず会議を終わらせると、ビルフランはすぐに自分の部屋へと戻っていった。
 その後姿を、幹部たちの多くが冷ややかな目で見つめ、また互いに目配せをした。その様子に気付いたリュックは、まずいことになったと思ったが、今、社長のところへ行くべきか、また行っても何を話すべきかと悩んだ。
 そうして暫く逡巡してから、彼は意を決して社長室へと足を運んだ。彼がノックして中に入ると、ビルフランは仕事の手を止めて、何の用かと彼に問い質した。
「先ほどの話ですが、それほど急ぐ必要はないと思うのですが・・・」
 リュックは何か奥歯に挟まったような物言いで、ビルフランに思い直せないかを進言した。
 ビルフランは気付かれないように彼の様子を観察しながら、それに答えた。
「別に急いでいるわけではない。だがここの稼働率もそろそろ限界に近づいていることは、君も良く知っているだろう」
「確かにそうですが、生産量は常に余裕を持っていますから、たとえ事故で一日や二日、工場が止まったとしても問題はないと思いますが・・・」
「確かに今はそうだ。だが今後はどうだろう。余裕のあるうちに新しい工場を建てたほうがよい」
「では幹部候補は以前と同じように、募集されるのですか」
「募集する者もいる」
「も?」
「今回は工場で長く働いている者の中からも、その候補者を選ぼうと考えている」
 実際のところ、リュックは新しい工場を持つこと自体については、反対ではない。余力のあるうちに規模を拡大しようと言う社長の意気込みも良く分かる。
 しかし時期が悪い、と思った。なにしろ今いる幹部の多くがビルフランに不満を抱いている。明日、詳細を説明すると言うが、そのときに反対意見だろうと何だろうと、とにかく議論が行われるならよい。それは幹部たちがまだ話し合う余地を残していることを表しているからである。もしも口を閉ざしたままだとしたなら、ビルフランも不審に思うに違いない・・・。
「どうした、まだ聞きたいことはあるのか」
 ビルフランにそう問われて、リュックは我に返った。
「え、はい。今回の話をジュリアンは知っているのですか」
「昨日伺ったときに簡単に話はしてある。だが具体的な話としてはまだだ。そうそう、ジュリアン殿がいるうちに、君と一緒に来るよう言われている。今度の週末、空いているかな?」
「空いています」
「では、一緒にタランベール家へ行くことにしよう」
 そういうと、ビルフランは仕事をするといってリュックを部屋から追い出した。

 リュックは一つの疑問を抱いた。
 社長の口ぶりからすると、昨日、ジュリアンの家に行ったときには、工場の拡張はあまり具体的な話ではなかったようである。それがなぜ、今日になって急に具体的な計画として取り上げる気になったのか?
 そう考えたとき、ビルフランが工場拡大に先立って、幹部候補を集めるといったことを思い出した。
 一口に工場の建築といってもそう簡単に出来るものではない。幹部候補を集めるのも、工場建設が始まってからでも遅くはないはずである。それなのに、すぐにでも幹部候補を集めようとするのは、なぜなのか?
 そのとき、リュックは一つの可能性に行き当たった。それはビルフランが今いる幹部たちが、自分に不満を抱いていることにすでに気付いており、先手を打って彼らを追い出すための準備ではないか、ということである。
 まさか、と思いながらも、今回の発言のタイミングが余りにも良すぎるようにも思えた。
「社長の意図がどこにあるのか、それ如何では私も自分の身の振り方を決めなければいけない・・・」
 リュックは苦悩の表情を浮かべつつ、自分の仕事へと戻っていった。
 一方のビルフランも、部屋を出るリュック・アヴリーンの後姿を複雑な表情で見ていた。
「リュックは恐らく迷っているのだな・・・」
 昨日の夜、タルエルから聞いた話でも、彼が積極的に自分を裏切ろうとしているのではなく、他の者から「社長になってくれ」と要請されているようである。
 それに対して、「一月待って欲しい」と彼が返事をしたのは、おかしな話だと思っていた。
 もしも彼らの話を頭から退ける気なら、そんな言葉は出ないであろう。
 しかし彼らの話を引き受ける気ならば、すぐに行動を起こすべきであり、一ヶ月も待たせるのはおかしい。
 そこでビルフランは工場拡張の話をあえて今朝行ったのである。それはもちろん、その話に対する彼らの反応を見るためであった。
 案の定、幹部たちの多くはビルフランの話を冷ややかな目で見ていただけである。しかしリュックは明らかに動揺しており、すぐにビルフランの元へ来た。そしてあまり要領を得ない質問をして立ち去った。
 彼が何かの行動を決断しているなら、もっと毅然とした態度で来るか、または来ることはないだろうと読んでいた。
 ところがそのどちらでもなく、いつものリュックとは全く違う様子だった。これは彼が何かを迷っている証拠であろう。
「独立か・・・」
 リュックとは、この会社を建てた時からの付き合いである。元軍人だった彼をビルフランに紹介したのはジュリアンであった。
 しかし彼ほどの才能があれば、最初から独立してもやっていけたはずである。それが彼の下で働くようになったのは、昔の上官であるジュリアンの勧めがあったからに他ならない。
 そしてここまで会社を育てる上で、彼の助けは確かに必要であった。しかし幹部たちの中に、自分よりも彼を信頼するようになっているということは、会社の経営上、問題がある。そのことはリュックも気付いているに違いなかった。
 ビルフランに不満のある者たちは、ビルフランに変わってリュックに社長になって欲しいのであろう。しかしこの会社の持ち主がビルフランである以上、それは認められるはずもない。
 そうなると、ビルフランとリュックのどちらが会社の主導権を握るか、ということになる。リュックがその気になれば、幹部たちを篭絡した上で、ビルフランを社長の地位に置いたまま実権を奪い、事実上の会社のトップに立つことも不可能ではないかもしれない。しかしビルフランの見るところ、リュックがそこまでして、強引に自分と取って代わろうとするとは思えなかった。
 とはいえ彼を担ぎ出そうとするものたちは、彼がこの会社にいる限り、おとなしくしていることはないだろう。強引に彼を巻き込んで、会社を分裂させ、経営を混乱に陥れる可能性もある。
 そんな不毛な争いをするくらいならと、リュックがここから独立して新しい会社を設立し、この会社に不満のあるものを引き受けることを考えるのは十分に考えられた。それでも混乱はあるだろうが、少なくとも不毛な権力争いをする必要はなくなる。
 しかし会社の混乱は同時にそこに働く大勢の工員の生活を脅かし、さらにはこの地方全体にも影響を及ぼすことになる。リュックが悩んでいるのは、そのことに違いなかった。
 一方ビルフランにとっては、単に会社に不満があるというなら、辞めてもらうだけの話である。しかし一度に辞められては仕事に支障を来たす。そのために工場の増設を口実に幹部候補となる人物を新たに雇い、会社に不満がある者達彼らが辞めた後の混乱を最小限にする。それがビルフランの当初考えていた対処であった。
 ただしリュックがこの会社に不満を抱いていないのであれば、残って今までと同じように自分を助けて欲しい、というのも本音であった。なにしろ幹部の多くが辞めてしまうなら、彼らに代わる者を雇ったとしても、今まで以上にビルフランの負担が大きくなることは目に見えているからである。
 ビルフランにとっても、リュックの去就は悩みの種となった。

 結局ビルフランとリュックは、互いの本音を隠したまま、週末を迎えた。二人は揃ってタランベール家の門をくぐったが、ここに至る馬車の中でも、ほとんど口を聞くことはなかった。
 二人が応接間に案内されると、そこにはすでにジュリアンが待っていた。
 挨拶を済ますと、すぐにビルフランはジュリアンに工場増設とそれに伴う幹部候補の募集の話を持ち出した。
 ジュリアンは黙ってビルフランの話を聞いていた。やがて彼の話が一通り終わるとおもむろに口を開いた。
「ビルフラン、何かあったのかい」
 内心でどきりとしたが、辛うじて感情を表に出すことはしなかった。冷静を装って、なにもありません、とだけ答えた。
 しかしジュリアンは小さく溜息を吐くと、ビルフランに問い質した。
「先日の話では、ただ近いうちに工場の増設をするかもしれない、という話だった。それが今日は、もう明日にでも動き出すという話になっている。それで何もないと言うことはないだろう」
 再びジュリアンは何があったのかとビルフランに尋ねたが、ビルフランは口を閉ざし、目を伏せて答えようとはしなかった。
 実際のところ、ビルフランは答えられなかった。今日、この場で工場増設の話を持ち出したなら、ジュリアンがその理由を聞いてくるだろうことは予想していた。しかしその理由を考えることが出来なかった。幹部たちが自分に不満を抱いているから、彼らの首を切っても問題を最小限に抑えるため。本当の理由はそれである。しかしそのようなことを言えば、まるで自分の社長としての能力が疑われていることを認めるようである。
 そのため、ビルフランはジュリアンが聞かないでくれればいい、というありえない願いを抱いてここに座っていたのである。
 ビルフランが口を開かないのを見て、ジュリアンは次にリュックの方を向いた。
「リュック、君はなぜ、急にこういう話になったのか、知っているのか」
 それに対して、リュックも話すのを躊躇するそぶりを見せた。
「どういうことなんだ。二人して私に何か隠し事をしているのだろう。工場の増設そのものに反対する気はないが、二人を見ていると何か後ろめたい事情があるように見えるな。わたしとしては、今のままでは工場の増設に賛成はできない」
 ビルフランはやはり全てを話すべきだと思い直した。結局、ジュリアンの賛同を得られなければ、新しい幹部を雇うことは出来ないし、そうなれば早晩、工場は存続の危機に立たされることになるのである。
「実は、幹部たちの中に私が社長であることに不満を感じているものがいる、という話を聞きました。彼らはどうやら、わたしの元で働くことが耐えられないとかんがえているようなので、先手を打って彼らに代わるものを雇いたいと考えました」
 一気にそこまでいうと、ビルフランはまっすぐにジュリアンを見つめた。
 ジュリアンは驚いた顔をしたが、それ以上にリュックも驚いていた。
「・・・なるほど、つまり工場の増設という話は、そのためのカモフラージュということか」
「その通りです」
 ジュリアンがビルフランを見ると、今度は目を逸らそうとはしなかった。
 彼は小さくため息をつくと、今度はリュックの方を向いた。
「では君もこの話を知っているのかね」
「・・・社長には黙っていましたが、私は彼らに誘われました」
 社長が事実を語った以上、自分も語るべきである、リュックはそう考えた。
「彼らは私が社長になるか、それとも独立して別の会社を建てて欲しいといってきました。わたしは即答も出来ず、悩んでおりました」
 沈黙がその場を覆った。
 やがて、最初に口を開いたのはジュリアンだった。
「では、パンダボアヌ工場の今の問題が明らかになったわけだな。ビルフランはどうしたらいいと思う」
 発言を求められたビルフランは、以前から考えていたことをそのままジュリアンに話した。
「わたしは、彼らが私と別の意見を持つこと自体は構いません。しかし、それを私に言わず、リュックをかわりに担ぎ出そうとしたことは許せません。彼らは会社から出て行ってもらいます。ただ、リュックには出来れば工場に残ってもらいたい、それが本音です」
 ふむ、と頷いたジュリアンは、今度はリュックに聞いた。
「そうか。リュックはどうなんだ」
「・・・私としては、実際のところ近いうちに社長から暇を貰い、自分の会社を持ちたい、と考えていました。ですが、工場やそこで働く工員たちに迷惑をかけるのは本意ではありません。今、私が独立したなら、彼らも打ち揃って会社を辞めるでしょう。それで悩んでおりました」
 ジュリアンは二人の話を聞くと、くっくと笑い始めた。
「ふたりの考えはそれほど離れているわけじゃあない。二人でもう一度話し合うことだ」
 しかしビルフランはその必要はない、と言った。
「リュックが独立したい、というのであれば、わたしはそれでも構わない。そしてわたしが首にした者たちをリュックが雇うかどうかは、わたしとは関係のない問題だ。ただ、今すぐと言うわけには行かない。せめて三ヶ月の猶予が欲しい。リュック、それでどうだろう」
 ビルフランがそう言い切ると、ジュリアンもリュックも驚いて、本当にそれでいいのか、改めて彼に確認した。しかしビルフランは言葉を翻しはしなかった。

 結局、ビルフランのこの日の言葉どおり、リュックはその三ヵ月後に退職し、他の者達も時を同じくしてパンダボアヌ工場を去っていった。しかしその間に新たに幹部となる者達をやとったビルフランは、再び工場の危機を乗り切ることに成功した。
 しかし一方で、片腕とも言えるリュックを失ったビルフランは、仕事の上での無理が祟り、この頃から著しく健康を害するようにもなったのである。

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